屋島の八月十五夜 附 範頼西海道下向の事

 同じき十五日、屋島には、秋も既に半ばになりにけりと哀れなり。いつしか稲葉の露も置きまさりつゝ、荻吹く風も身にしむに、海士の燃く藻の夕煙、尾上の鹿の暁の声、哀れを催す便りなり。さらぬだに秋の空は物憂きに、宿定まらぬ旅なれば、何事に付きても心を{*1}傷ましめずと云ふ事なし。
 この春より後は、越前三位の北の方の様に、波の底に身を沈むるまでこそなけれども、女房達の、明けても暮れてもふし沈み、泣き給ふもいとほし。{*2}故郷を万里の雲外に顧み、旧儀{*3}を九重の月前に忍ぶ{~*2}。今夜は名を得たる月なれば、人々、隈なき空をながめけるに、左馬頭行盛、かくぞ読み給ひける。
  君すめばこれも雲居の月なれど猶恋しきは都なりけり
と。これを聞きける{*4}人々、皆涙を流しけり。
 九月二日、参河守範頼、平氏追討のために西海道に下向す。相従ふ輩には、足利蔵人義兼、武田兵衛有義、板垣冠者兼信、斎院次官親義、佐々木三郎盛綱、北條四郎時政、土肥次郎実平父子、千葉介常胤、その孫境平次経秀、三浦介義澄、子息平六能村、土屋三郎宗遠、渋谷荘司重国、長野三郎重清、稲毛三郎重成、弟に榛谷四郎重朝、葛西三郎重清、宇都宮四郎武者所茂家、子息太郎朝重、小山小四郎朝政、同七郎朝光、中沼五郎宗正、比企藤内朝宗、同藤四郎能員、大多和次郎義成、安西三郎秋益、同小次郎秋景、公藤一郎祐経、同三郎秋茂、宇佐美三郎祐能、天野藤内遠景、大野太郎実秀、小栗十郎重成、伊佐小次郎友政、浅沼四郎弘綱、安田三郎能貞、大河戸太郎弘行、同三郎弘政、中條藤次家長、一法房昌寛、土佐房昌俊、小野寺禅師太郎通綱等を始めとして、その勢十万余騎、軍船千余艘にて室泊に著く。されども十二月二十日の頃までは、室、高砂に逗留して、遊君に遊宴して、国には正税官物を費し、所には人民百姓を煩はしけり。上下、これを甘心せず、「大名も小名も、いそぎ四国に渡つて、敵を攻められよかし。」と思ひけれども、大将軍の下知による事なれば、力及ばず。

盛綱藤戸を渡す児島合戦 附 海佐介海を渡す事

 同じき十八日に、九郎判官義経、従五位下に叙す。検非違使、元の如し。
 平家は、讃岐の屋島にありながら、山陽道を打ち靡かして、左馬頭行盛を大将軍として、飛騨守景家以下の侍を相具して、二千余艘にて備前国児島に著く。参河守範頼も、室泊にありけるが、舟より上り、同国西河尻、藤戸渡に押し寄せて陣を取る。源平、海を隔てて控へたり。海上四、五町には過ぎざりけり。
 同じき二十五日に、平家、海を隔てて、扇をあげて源氏を招く。源氏、これを見て、「海を渡せと云ふにこそ。」船なくして叶ふべきならねば、これも、扇を以て招き合ふ。源平、遥かに見渡して、その日もいたづらにくれにけり。
 こゝに佐々木三郎盛綱、夜に入りて案じけるは、「渡すべき便りのあればこそ平家も招くらめ。遠さは遠し、淵瀬は知らず。如何はせん。」と思ひけるが、その辺を走り廻りて、浦人を一人語らひ寄せて、白鞘巻を取らせて、「や、殿。向うの島へ渡る瀬は無きか。教へ給へ。悦びは、猶も申さん{*5}。」と云へば、浦人、答へて云く、「瀬は、二つ候。月頭には東が瀬になり候。これをば大根渡と申す。月尻には西が瀬になり候。これをば藤戸渡と申す。当時は、西こそ瀬にて候へ。東西の瀬の間は二町ばかり、その瀬の広さは、二段は侍らん。その内、一所は深く候。」と云ひければ、佐々木、重ねて、「浅さ深さをば、いかでか知るべき。」と問へば、浦人、「浅き所は、浪の音高く侍る。」と申す。「さらば、和殿{*6}を深く憑むなり。盛綱を具して、瀬踏みして見せ給へ。」と、ねんごろに語らひければ、かの男、裸になり、先に立ちて、佐々木を具して渡りけり。膝に立つ所もあり、腰に立つ所もあり、脇に立つ所もあり。深き所とおぼゆるは、鬢鬚をぬらす。誠に中二段ばかりぞ深かりける。「向うの島へは浅く候なり。」と申して、それより返る。
 佐々木、陸に上りて申しけるは、「や、殿。暗さは闇し、海の中にてはあり。明日、先陣を懸けばやと思ふに、如何して只今のとほりをば知るべき。しかるべくは、和殿、人にあやめられぬ程に、澪注{*7}を立てて得させよ。」とて、又直垂を一具{*8}、賜びたりければ、浦人、「かかる幸ひにあはず。」と悦びて、小竹を切り集めて、水の面よりちと引き入れて、立てて帰つて、かくと申す。佐々木、悦んで、「明くるを遅し。」と待つ。平家、これをばいかでか知るべきなれば、二十六日の辰の刻に、平家の陣より又、扇を挙げてぞ招きたる。
 佐々木三郎盛綱は、黄生絹の直垂に、緋縅の鎧、白星の兜、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍置きてぞ乗りたりける。家子に和比八郎、小林三郎、郎等に黒田源太を始めとして十五騎、轡を並べて、海へさと打ち入れてぞ{*9}渡しける。参河守、「馬にて海を渡す事やはある。佐々木、制せよ。」と宣ひければ、土肥、梶原、千葉、畠山、承り継ぎて、「誤りし給ふな。返せ、返せ。」と声々に制しけれども、かねて瀬踏みして澪注を立てたれば、耳にも聞き入れず、渡しけり。馬の烏頭、草脇、胸帯尽{*10}に立つ所もあり。深き所をば、手綱をくれ游がせて、浅くなれば、物具の水はしらかし、弓取り直し、向うの岸へさと上る。鐙踏ん張り、弓杖にすがりて名乗りけるは、「今日、海を渡し、敵陣にすゝむ大将軍をば誰とか見る。宇多天皇の王子、一品式部卿敦実親王より九代の孫、近江国の住人佐々木源三秀義が三男に三郎盛綱なり。平家の方に、我と思はん者は、大将も侍も落ち合ひて、組めや、組めや。」と喚きてかけ入り、散々にかく。
 源氏の兵、これを見て、「海は、浅かりけり。佐々木討たすな。渡せ、者ども。」とて{*11}、土肥、梶原、千葉、畠山、「我先、我先。」と、打ち入り打ち入り五千余騎、向うの岸へさと上る。
 平家は、扇を以て度々に招きけれども、「さすが海なれば、いかでか渡すべき。」と、思ひ延びてありけるに、かく押し寄せ、鬨を造りければ、互に鬨を合はせ、喚き叫びて戦ひけり。遠きをば弓にて射、近きをば熊手にかけて取り、あるいは射殺され、切り殺され、源平、互に乱れ合ひて、隙をあらせず息を継がず、討つもあり、討たるるもあり、取るもあり、取らるゝもありければ、しばしと思ふ時の間に、両方、八百余騎こそ亡びにけれ{*12}。
 佐々木三郎の家子に上総国の住人和比八郎と、平家の侍、讃岐国の住人加部源次と組み合ひて、馬より落つ。上になり下になり、弓手にころび馬手に転び、からかひけるが、源次は遥かに力勝りにて、和比八郎を取つて押さへて、頚をかく。源平、目をすましてぞ見たりける。八郎が従兄弟に小林二郎重隆と云ふもの、加部源次に落ち合ひて、引き組んで、これも上に成り下に成り転びけるが、海の中へぞころび入りにける。郎等に黒田源太、続きたりけれども、共に海へ入りたりければ、水の底へ続くに及ばず。汀に立つて、「今やあがる、今やあがる。」と待ちけれども、この者どもは、なほ水底にて上になり下になり転びければ、波の荒き所へ弓のほこ{*13}をさし入れて、あなたこなたを捜りければ、敵の源次、弓の筈に取り付きたり。引き上げ見れば、敵なり。主の小林も、源次が腰に抱き付きて上りければ、敵の源次をば頚を切り、主をばとり上げ助けてけり。
 平家、これを見て、「今は、叶はじ。」とやおもひけん、舟にとり乗り漕ぎ退き、矢鋒をそろへて、差し詰め差し詰め散々に射る。源氏は、勝つに乗り、汀をまはりて、これも散々に射ければ、平家は、児島城を落ちて、讃岐の屋島へ漕ぎかへれば、源氏は、馬を游がせて、藤戸の陣へ帰りにけり。
 「佐々木四郎高綱が、宇治川の先陣を渡したりをこそ、高名と云ひたりしに、同じく三郎盛綱が、馬にて海を渡すこと、漢家、本朝、ためし無し。」とぞ、源平、共に感じける。誠にゆゝしくぞ見えたりき。
 (ある説に云く、平家、備前国児島に楯篭るの時、盛綱、遥かに海上を渡し、先陣をかけて群敵を攻め落とし畢んぬ。これによつて右大将{*14}家、御自筆の御下し文に云く、「{*15}古より、河を渡るは先例有りといへども、未だ遥かに海を渡るの例を聞かず{~*15}。」と。即ち、かの島を賜ふの上、伊予、讃岐両国を賜ひ畢んぬ。
 (昔、備前国に海佐介と云ひけるこそ、兵の聞こえありければ、西戎を鎮められんがために、官兵をさし副へられたりけるに、官軍は、船に乗りけれども、佐介は、馬に乗りながら先陣に進みて、海上を渡る。程なく賊徒を攻め随へて、又馬に乗りながら、海の面を歩ませて本国に帰りけるが、備前の内海にて、海鹿{*16}と云ふ魚に馬を誤たれたりけれども、馬、少しもひるまずして、佐介を陸地に著けて後に、馬は死にけり。その処に堂を立てて、孝養しけり。馬塚とて今にあり。時の人云く、「馬は、竜なり。佐介、たゞ人に非ず。」とぞ申しける。
 (佐介は、波の上を歩ませて西戎を従へ、盛綱は、水底を渡して平家を落とす。)

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校訂者注
 1:底本は、「心傷ましめず」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 2・15:底本、この間は漢文。
 3:底本頭注に、「宮中にて行ひたる月見の宴など」とある。
 4:底本は、「聞ける」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「礼はあとでも言はう。」とある。
 6:底本は、「和殿(わどの)」。底本頭注に、「そなた。」とある。
 7:底本は、「澪注(みをじるし)」。底本頭注に、「海の水脈を示すため処々に立てて置く標。」とある。
 8:底本は、「直垂(ひたゝれ)を一具(ぐ)」。底本頭注に、「直垂に袴を添へたのを一具といふ。」とある。
 9:底本は、「打入りて」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 10:底本は、「馬の烏頭(うづ)、草脇(くさわき)、胸帯尽(むねかひづくし)」。底本頭注に、「〇烏頭 後脚の外部」「〇草脇 胸先。」「〇胸帯尽 鞅の端の所で鞍のとつつけの辺をいふ。」とある。
 11:底本は、「と土肥、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 12:底本は、「亡びにけり。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 13:底本頭注に、「弓の幹。」とある。
 14:底本頭注に、「源頼朝。」とある。
 16:底本は、「海鹿(いるか)」。底本頭注に、「海豚。」とある。