義経拝賀御禊供奉 附 実平西海より飛脚の事
十月十一日、義経、拝賀を申す。拝賀とは、使の宣を蒙りて、従五位下に叙しける御悦び申しなり{*1}。
その夜、内の昇殿をゆるさる。火長{*2}、前を追ふべしや否やの事、内々、大蔵卿泰経卿に尋ね申しければ、「希代の例なれば、身には存ぜず。」とて、梅小路中納言長方卿に問はれければ、「殿上の六位の検非違使、前を追へり。五位尉として、相並びて雲上に在り。前を追はざるは、すこぶる光花なきか。」と申されければ、前を追へり。すべてその作法、佐{*3}に違ふ事なかりけり。
院の御所にては、御前へ召されけり。伴には、布衣の郎等三人を召し具す。左衛門尉時成、右兵衛尉義門、左馬允有経なり。この外、武士三百余人、路次にまじはれり。「用心のためにや。」とおぼえたり。
同じき二十五日に、大嘗会の御禊あり。源九郎大夫判官義経、本陣に供奉す。色白うして、たけ短し。容貌優美にして、進退優なり。木曽などが有様には似ず、ことの外に京馴れて見えしかども、平家の中に、えりくづ{*4}と云ひし人にだにも及ばねば、心ある者は皆、昔を忍びて袖を絞る。
豊の御会、今年ぞせさせ給ひける。節下{*5}は、後徳大寺内大臣実定公ぞ勤め給ひける。敷政門を入りて、著陣せられけるありさま、いとゆゑゆゑしくぞ見え給ひける。「去々年、先帝{*6}の御禊には、節下は、前内大臣宗盛、勤め給ひき。作法進退、優美に見え給ひしに、今は、公庭にて再び見奉るべきに非ず。」と申し出して、涙を流す者、多かりけり。平家一族の人々、公事の庭には、取り取りに華やかにのみ見え給ひしに、今日は一人も見え給はず。移り行く世の有様、幾程を経ざれども、替はり果てにけりと哀れなり。
土肥次郎実平がもとより飛脚を立てて、九郎判官に申し送りけるは、「前平中納言知盛卿、既に文字関{*7}に攻め入り、安芸、周防已下、皆平氏に従ふ。その勢、甚だ多し。兵船は、百余艘を以て、毎度に襲ひ来る。船中には、大楯を組みて、その身を顕はさず。陸地より馳せ向ふ時は、矢間を開けて馬の腹を射る。乗る人、馬より落つる時は、歩兵の輩数百人、舟より下り降りて打ち取る間、度々の合戦に、官兵、皆敗れ畢んぬ。親類の者どもも、多く討ち捕られ畢んぬ。実平、老体の上、重病を受く。当時の如くは、敵対に叶はず。急ぎ軍兵を相副へらるべし。」と申し上せたり。
平家は、児島の軍に打ち負けて、屋島の館へ漕ぎ戻す。屋島には、大臣殿を大将軍として、城郭を構へて待ち懸けたり。新中納言知盛は、長門国彦島と云ふ所に城を構へたり。これをば引島とも名付けたり。源氏、この事を聞きて、備前、備中、備後、安芸、周防を馳せ越えて、長門国にぞ著きにける。
当国の国府には、三つの御所あり。浜御所、黒戸御所、上箭御所と云ふ。参河守は、「この御所御所を見ん。」とて、今夜はこゝにひかへたり。蒼海漫々として、磯越す波、旅の眠りを驚かし、夜の月明々として、水に移る影、鎧の袖を照らしけり。同じく征馬の旅なれども、殊に興ありてぞおぼえける。
「明けなば、引島城を攻むべし。」と議定ありけるに、「門司、赤間の案内知らでは叶はじ。」とて、「豊後の地へ渡り、尾形三郎を先として攻むべし。」とて、まづ使を維能がもとへ遣はしけり。維能、五百余艘の兵船をそろへて、参河守を迎へ奉りければ、範頼、これに乗りて豊後の地へ渡りにけり。
さる程に、十月の末にもなりしかば、屋島には、浦吹く風も烈しく、磯を越す浪も高ければ、船の行き通ひも、まれなり。空かきくもり、うちしぐれつゝ、日数経る儘には、都のみ思ひ出でて恋しかりければ、新中納言知盛、
住み馴れし都の方はよそながら袖に波こす磯の松風
と口ずさみ給ひて、脆きは、只涙なり。「参河守範頼、追討使として既に発向す。」と聞こえければ、いとゞ心を迷はしあへり。
大嘗会を行なはる 附 頼朝條々奏聞の事
十一月十八日には、大嘗会、遂げ行なはれけり。大極殿、焼失しにければ、去々年は、紫宸殿にして行なはれたりけるが、先帝、西国へ落ち下らせ給ひたれば、今度、不吉の例を去られんがために、治暦の嘉例に任せて、太政官の庁にして行なはれけり。
去んぬる治承四年より以来、諸国七道の人民百姓、あるいは平家のために追捕せられ、あるいは源氏のために劫略せられければ、家煙を捨てて山林に交じはり、妻子に別れて道路にさまよひて、春は東作の企てを忘れ、秋は西収{*8}の営みを棄ててければ、国衙も荘園も、正税官物の所済なければ、如何にしてかかやうの大礼も行なはるべきなれども、さて又、もだすべき事にあらざれば、形の如く遂げ行なはれけり。
平家は、西海の波に漂ひて、死生、いまだ定まらず。東国、北国は{*9}鎮まりたれども、花洛の上下、西国の人民、是非に迷ひて安堵せず。これによつて、兵衛佐より條々奏聞あり。その状に云く、
{*10}源頼朝謹みて奏聞する條々の事
一、朝務以下除目等の事
右、先規を守り、殊に徳政を施さるべし。但し、諸国の受領等、尤も計らひ御沙汰有るべく候か。東国、北国、両道の国々、謀叛の輩を追討するの間、土民、安堵せず。今においては、浪人は、元の如く旧里に帰住せしむべく候。しからば来秋の時、国司に仰せ含められ、吏務を行なはれば、宜しかるべく候。
一、平家追討の事
右、畿内近国、源氏、平氏と号し、弓箭を携ふるの輩、並びに住人等は、早く義経の下知に任せ、引率すべきの由、仰せ下さるべく候。海路、ちかゝらずといへども、殊に急ぎ追討すべきの旨、義経に仰せ付けらるべく候なり。勲功の賞においては、逐つて計らひ申し上ぐべく候。
一、諸社の事
我が朝は、神国なり。往古の神領、相違有るべからず候。その外、今度又、始めて諸社神明において、新たに所領を加へらるべく候か。なかんづく去んぬる頃、鹿島大明神、御上洛の由、風聞出来の後、賊徒追討。神戮、むなしからざるものか。兼ねて又、諸社、破壊顛倒の事有るがごときは、破損の分限に随ひて、受領の功を召し付けらるべく候。その後、裁許せらるべく候。
一、恒例の神事
式目を守り、懈怠無く勤行すべきの由、尋ね、沙汰せらるべく候。
一、仏寺の事
諸山御領、旧例の如く勤め行なひ、退転すべからず。近年の如きは、僧家、皆武勇を存じ、仏法を忘るゝの間、堅く修学の枢を閉ぢ、併せて行徳の誉れを失ふ。尤も禁制せらるべく候。兼ねて又、濫行不信の僧においては、公請に用ゐるべからず。僧家の武具に至つては、自今以後、頼朝の沙汰として、法に任せて奪ひ取り、朝敵追討の官兵等に与へ賜ふべきの由、思ひ給ふる所に候なり。前の條々を以て言上、件の如し。
元暦元年十一月日 正四位下源頼朝{~*10}
とぞ申されたる。大膳大夫成忠卿、この旨を奏聞せらる。法皇、叡覧ありて、「頼朝は、賢人なりけるにや。」とぞ仰せける。
校訂者注
1:底本は、「御悦び申すなり。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
2:底本は、「火長(くわちやう)」。底本頭注に、「兵士十人を一火とするので検非違使配下の役。」とある。
3:底本頭注に、「検非違使佐に。」とある。
4:底本頭注に、「選り屑」とある。
5:底本は、「節下(せちげ)」。底本頭注に、「御禊の時、宮城内に建てる節旗の下に立つ大臣。」とある。
6:底本頭注に、「安徳天皇。」とある。
7:底本は、「文字関(もじのせき)」。底本頭注に、「今の門司」とある。
8:底本は、「春は東作の企(くはだ)てを忘れ、秋は西収(せいしう)の営(いとな)みを棄ててければ、」。底本頭注に、「〇東作 春の耕作。」「〇西収 秋の収穫。」とある。
9:底本は、「北国鎮(しづ)まりたれども、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
10:底本、この間は漢文。
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