義経院参西国発向 附 三社諸寺祈祷の事

 元暦二年正月十日、九郎大夫判官義経は、平家追討のために西国へ発向す。まづ院の御所に参り、大蔵卿康経朝臣を以て奏聞しけるは、「平家は、栄華身に極まり、宿報、忽ちに尽きて、神明にも{*1}放たれ奉り、君にも捨てられまゐらせて、西国に漂ひ、この三箇年が間、多くの国々を塞ぎ、正税官物を押領し、人民百姓を悩乱す。これ、西戎の賊徒にあらずや。今度罷り下りなば、人をば知らず、義経においては、かの輩を悉く討ち捕らずんば、王城へは帰り上るべからず。鬼界、高麗、新羅、百済までも、命を限りに攻むべき。」の由を申す。ゆゝしくぞ聞こえし。
 院の御所を出でて、西国へ下りけるにも、国々の兵どもに向つて、「後ろ足をも踏み、命をも惜しと思はん人々は、これより返り下り給へ。打ちつれては、中々源氏の名折れなり。義経は、鎌倉殿の御代官なる上、忝く勅宣をうけたまはりたれば、かくは申すなり。」とぞ宣ひける。
 同じき十三日、九郎大夫判官、淀を立ちて、渡部へ向ふ。相従ふ輩には佐渡守義定、大内太郎維義、田代冠者信綱、畠山荘司次郎重忠、佐々木四郎高綱、平山武者所季重、三浦十郎能連、和田小太郎義盛、同三郎宗実、同四郎能胤、多々良五郎能春、梶原平三景時、子息源太景季、同平次景高、同三郎景能{*2}、比良左古太郎為重、伊勢三郎義盛、荘太郎家長、同五郎弘方、椎名六郎胤平、横山太郎時兼、片岡八郎為春、鎌田藤次光政、武蔵坊弁慶等を始めとして、その勢、十万余騎なり。
 同じき十四日、伊勢、石清水、賀茂三社へ奉幣使を立てられ、平家追討の御祈りの上、三種の神器、事ゆゑなく返し入れ給ふべきのよし、宣命{*3}に載せられけり{*4}。上卿{*5}は、堀河大納言忠親卿なり。また、今日より神祇官人、並びに諸社の司等、本宮本社にして追討のこと祈り申すべきのよし、院より仰せ下されけり。また、延暦、園城寺、東寺、仁和寺にして、七仏薬師、五壇法、大元、延命、熾盛光等の秘法、数をつくし、調伏の法も行なはれけり。

平家の人々の歎き 附 梶原逆櫓の事

 屋島には、隙行く駒の足早く、とまらぬ月日明けくれて、春は賤が軒端に匂ふ梅、庭の桜も散りぬれば、夏にもなりぬ。垣根つゞきの卯の花、五月の空の郭公、啼くかとすれば程もなく、秋の色に移りて、稲葉に結ぶ露深く、野辺の虫の音よわりつゝ、冷しき頃も過ぎ暮れて、冬の景気ぞすさまじき。麓の里に時雨して、尾上は雪も積もりけり。かくて春を送り、春を迎へて、既に三年にもなりぬ。「また東国の兵の攻め来る。」と聞こえければ、越前三位の北の方の様に、身を投ぐるまでこそ無けれども、有る空もおぼえねば、女房達はさしつどひつつ、唯泣くより外の事ぞなき。
 内大臣、宣ひけるは、「都を出でて、既に三年になりぬ。浦伝ひ島伝ひして明かしくらすは、ことの数ならず。入道の、世を譲りて福原へ下り給ひたりしその跡に、高倉宮とり逃し奉りたりし程、心憂かりし事はなし。」と仰せられければ、新中納言は、「都を出でし日より、少しも後ろ足を引くべきとは思はず。東国、北国の奴原も、随分に重恩をこそ蒙りたりしかども、今は恩を忘れ、契りを変じて、悉くに頼朝に随ひ附きぬ。西国とても、憑もしからず。さこそはあらんずらんと思ひしかば、唯都にて、弓矢太刀刀の続かん程は、禦ぎ戦ひて、討死、射死をもして、名を後の世に留め{*6}、家々に火をも懸けて、塵灰とも成らんと思ひしを、身一人の事ならねばとて、人なみなみに都をあくがれ出でて、終に遁るまじきもの故に、かかる憂目を見るこそ口惜しけれ。」とて、大臣殿{*7}の方をつたなげに見給ひて、涙ぐみ給ひけるぞ哀れなる。
 同じき十五日に、源氏は、西国へ発向す。日頃、渡部、神崎両所にて舟ぞろへしけるが、今日、既に纜を解いて、参河守範頼は、神崎を出でて、山陽道より長門国へ赴き、大夫判官義経は、「南海道より四国へ渡るべし。」とて、大物浜にあり。
 平家はまた、屋島を以て城郭とし、彦島を以て軍の陣とす。前中納言知盛卿、九国の兵を率して門司関を固めたり。
 大夫判官は、大物浦にて、大淀の江内忠俊をもつて船揃ひして、軍の談議ありけるに、梶原平三景時、申しけるは、「船に逆櫓と申す物を立て候ひて、軍の自在を得る様にし候はばや。」と申しけり。判官、「逆櫓とは、何と云ふ事ぞ。」と問ひ給へば、梶原は、「逆櫓とは、船の舳に、艫へ向け櫓を立て候。その故は、陸地の軍は、進退逸物の馬に乗りて、心に任せて、かゝるべき処をばかけ、引くべき折は引くも、やすき事にて侍り。船軍は、押し早めつる後、押し戻すは、ゆゝしき大事にて侍るべし。敵強らば{*8}、舳の方の櫓を以て押し戻し、敵よわらば、元の如く、艫の櫓を以て押し渡し侍らばや。」と申したりければ、判官、「軍と云ふは、大将軍が後ろにて、『かけよ、攻めよ。』と云ふだにも、引き退くは、軍兵の習ひなり。いはんや、かねて逃げ支度したらんに、軍に勝ちなんや。」と宣へば、梶原、「大将軍の謀りごとの能しと申すは、身を全うして敵を亡ぼす。前後をかへりみず、向ふ敵ばかりを打ち取らんとて、あたりを知らぬ{*9}をば、猪武者とて、あぶなき事にて候。君は、なほ若気にて、かやうには仰せらるゝにこそ。」と申す。
 判官、少し色損じて、「いさとよ。猪、鹿は知らず。義経は、只敵に打ち勝ちたるぞ、心地はよき。軍と云ふは、家を出でし日より、敵に組みて死なんとこそ存ずる事なれ。身を全うせん、命を死なじと思はんには、もとより軍場に出でぬには如かず。敵に組んで死するは、武者の本なり。命を惜しみて逃ぐるは、人ならず。されば、和殿{*10}が大将軍承りたらん時は、逃げ儲けして、百挺千挺の逆櫓をも立てたまへ。義経が舟には、いまいましければ、逆櫓と云ふ事、聞くとも聞かじ。」と宣へば、あたり近き兵ども、これを聞きて、一度にどと笑ふ。梶原、「よしなき事、申し出してけり。」と赤面せり。判官は、「そもそも景時が、義経を向う様に、猪にたとふる條こそ希怪なれ。若党ども、景時取つて引き落とせ。」と宣へば、伊勢三郎義盛、片岡八郎、武蔵坊弁慶等、判官の前に進み出でて、既に取つて引つ張るべき気色なり。景時、これを見て、「軍談議に兵どもが所存をのぶるは常の習ひ。よき義には同じ、悪しきをば棄つ{*11}。如何にも身を全うして、平家を亡ぼすべき謀りごとを申す景時に、恥を与へんと宣へば、かへつて殿は、鎌倉殿の御ためには、不忠の人や。但し、年頃は、主は一人。今日は又、主の出で来ける不思議さよ。」とて、矢さしくはせて{*12}、判官に向ふ。子息景季、景高、景茂等、つゞきて進む。
 判官、腹を立てて、喬刀を取り、向ふ処を、三浦別当義澄、判官をいだき止む。畠山荘司次郎重忠、梶原を抱きてはたらかさず。土肥次郎実平は、源太を抱く。多々良五郎能春は、平次を抱く。各、申しけるは、「この條、互に穏便ならず。友あらそひ、その詮なし。平家の漏れ聞かんも、をこがましし。又、鎌倉殿の聞こし召されんも、その憚りあるべし。当座の興言、くるしみあるべからず。」と申しければ、判官、「誠に。」と思ひてしづまれば、梶原も、勝つに乗るに及ばず。この意趣を結びてぞ、判官、終に梶原には、いよいよ讒せられける。
 判官は、「都を出でし時も申しし様に、少しも命惜しと思はん人々は、これより返り上り給へ。敵に組んで死なんと思はん{*13}人々は、義経に附け。」と宣へば、畠山荘司次郎重忠、和田小太郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、渋谷荘司重国、子息右馬允重助、土肥次郎実平、子息弥太郎遠平、佐々木四郎高綱、金子十郎家忠、伊勢三郎義盛、渡部源五馬允眤、鎌田藤次光政、奥州の佐藤三郎兵衛継信、その弟に四郎兵衛忠信、片岡八郎為春、武蔵坊弁慶等は、判官に附く。梶原は、逆櫓の事に恨みを含み、「判官につき、軍せん事、面目なし。」と思ひければ、引き分かれて参河守範頼に附き、長門国へ向ふ。

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校訂者注
 1:底本は、「神明に放たれ」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 2:底本は、「景高、三郎景能、同比良佐古太郎」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「今の詔勅。」とある。
 4:底本は、「載せられたり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 5:底本は、「上卿(じやうけい)」。底本頭注に、「公事の奉行」とある。
 6:底本は、「名を後に留(とゞ)め、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 7:底本頭注に、「平宗盛。」とある。
 8:底本頭注に、「強くならば。」とある。
 9:底本頭注に、「向ふ所を知らぬ。」とある。
 10:底本は、「和殿(わどの)」。底本頭注に、「そなた。」とある。
 11:底本は、「棄て、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「矢を弓につがへる。」とある。
 13:底本は、「死なん人々は」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。