資巻 第四十二

義経纜を解き四国に渡る 附 資盛清経の首京都に上すべき由の事

 十六日の午の刻に、判官、既に纜を解きて、船を出す。南風、俄に吹き来つて、兵船、渚々に吹きあげて、七、八十艘打ち破る。それを、「繕はん。」とて、今日は逗留。「今や、今や。」と待ちけれども、風いよいよ烈しうして、二日二夜ぞ吹きたりける。
 十七日の夜の寅の時に、空かきくもり、急雨して、南の風は静まりて、北風烈しく吹き出したり。木折れ、砂を揚ぐ。判官は、「風、既に直れり。急ぎ舟ども出せ。」と宣ふ。水手楫取等、申しけるは、「これ程の大風には、いかでか出し候べき。風少し弱り候ひてこそ。」と申す。判官、大きにいかつて、「向うたる風に出せといはばこそ、ひが事ならめ。かやうの順風は、願ふ処なり。日並もよく、海上も静かならば、『今日こそ源氏は渡らめ。』とて、平家、用心きびしくして、浦々島々に大勢さし向ひさし向ひ、待たん所へ、僅かの勢が寄せたらば、物の用にや叶ふべき。『かかる大風なれば、よも渡らじ。船も通はじ。』なんど思ひて、打ち解けあはけたらん所{*1}へ、するりと渡りてこそ、敵をば誅たんずれ。疾く疾くこの船ども出せ。出さざるものならば、己等こそ朝敵なれ。射殺せ、斬り殺せ。」と下知しければ、伊勢三郎、大の中指{*2}打ちくはせて、「射殺さん。」と馳せ廻りければ、水手楫取ども、「如何はせん。これ程の風に船出したる事、未だなし。船を出しぬるものならば、一定、水の底に沈まんず。出さずんば、箭に中つて死なんず。死はいづれも同じ事。さらば、出して馳せ死にせよ。」とて、寅卯の間に、判官の船を出す。
 兵船は、数千艘ありけれども、もとよりおびたゞしき大風なれば、船を出す者なかりけるに、只五艘を出す。一番、判官の船。二番、畠山が船。三番、土肥次郎の船。四番、和田小太郎の船。五番、佐々木四郎の船なり。五艘の船に、馬乗せ、兵粮米を積む。それに随ふ下部、かち走りなんど乗りければ、一百余騎には過ぎず。これ等は、上下皆、一人当千の兵なり。判官は、「義経が船ばかりに、篝をともすべし。それを本船として、各馳せよ。自余の舟に篝ともすべからず。敵に船の数を見せじためなり。」と下知して、渡辺福島より船を出す。
 吹く風、木の枝を折り、立つ波、蓬莱を上ぐ。水手楫取、吹き倒されて、足を踏み立つるに及ばざりけれども、究竟の者どもにて、舟を乗り直し乗り直し、帆柱を立て、帆を引く事高からず。手打ち懸くるばかりなり。風、いよいよ強く当てければ、帆のすそを切つて結び分け、風を通す。纜{*3}三筋、十丈ばかりによりさげて、いかり綱あまた下して、脇梶、面梶を以て、船をちやうと挟み立て、傍風来れば、風面に乗り懸かり、しりゐになれば、中に乗り、隙なく湯を取らす。舳へ打つ波、くだけて艫を洗ひ、艫をすくふ波、いかにも叶ひ難けれども、究竟の楫取なり。浪の手、風の手を作りて、大きなる波をば、ついくゞり、小浪をば、飛び越え飛び越え、「馳せよ、者ども。漕げや、者ども。」とて、えい声を出して馳せければ、押して三日に漕ぐ所を、只三時に、阿波国はちま、あまこの浦にぞ馳せ著きたる。五艘の船、一艘も誤ちなく、皆一所に漕ぎ並べたり。
 汀より五、六町ばかり上つて、岡の上に、赤旗あまた立ち並びて、「敵、篭れり。」と見ゆ。判官、宣ひけるは、「平家、この浦を固めたり。各、物具し給へ。船にゆられて、立ちすくみたる馬どもなり。左右なく下して誤ちすな。沖より追ひ下して、船に付きて游がせよ。馬の足届かば、船より鞍を置くべし。その間に、鎧物具取り付けて、船より馬には乗りうつれ。敵寄すると見るならば、平家は汀に下り立ちて、水より上げじと射んずらん。波の上にて相引きして、脇壺、内兜射さすな。射向の袖{*4}をまつかうにあてて、急ぎ汀へ馳せ寄せよ。敵近づかばとて、騒ぐ事なかれ。今日の矢一つは、敵百人禦ぐべし。透間をかずへて弓を引け。あだ矢射な。」とぞ下知し給ふ。
 軍兵、軍将の下知に随ひ、磯五、六町より沖にて馬を追ひ下し、船に引きつけ引きつけ游がせたり。馬の足とゞきければ、鎧物具取り付けて、船より馬にひたと乗り、一百五十余騎の兵ども、射向の袖を兜の真額にあて、轡を並べて、汀へさと馳せ上りたり。判官、先陣に進み、「この浦固めたる大将軍は、誰人ぞや。名乗れ、名乗れ。」と攻めけれども、答ふる者なし。この浦をば、阿波民部大輔成良が伯父、桜間外記大夫良連、軍将として、三百余騎にて固めたりけれども、何とか思ひけん、名乗らざりければ、判官は、「この奴原は、近国の歩兵にこそあるめれ。若者ども、攻め入りて、一々に首切り懸けて、軍神に奉れ。」と下知しければ、河越小太郎茂房、堀弥太郎親弘、熊井太郎忠元、江田源三弘基、源八広綱五騎、轡を並べ、鞭を打つてかけ入りけり。
 城中よりは、鏃をそろへて散散に射る。源氏は、一百余騎、後陣にひかへて、「攻めよ、かけよ。隙なあらせそ。」ととゞめきければ、五騎の者ども、郎等乗替相具して三十余騎、錏を傾けて攻め入りければ、三百余騎も堪へずして、さと開いて通しけり。取つて返して、たてさま横さま、おもの射{*5}に射ければ、木の葉を風の吹くが如く、四方へさと逃げ走りけるを、駆り立てつゝ、つよる者をば頚を切り、弱る者をばいけどりにす。大将軍外記大夫も禦ぎかね、鞭を揚げて逃げけれども、延べ遣らずしていけどられけり。首ども四、五十切り掛けて、軍神に奉り、悦びの鬨、二度造り、「西国の軍の手合はせなり。物よし、物よし。」とぞ勇みにける。
 備前児島城は、去にし冬、土肥次郎実平、塩干に渡瀬を求めて、暗夜、五十余騎を率して攻め寄せて、鬨のこゑをおこしければ、平氏の軍兵、計らざりける程なれば、防ぎ戦ふに及ばずして、船にあらそひ乗つて逃げけるを、あるいはいけどり、あるいは頚を切りければ、その後は、備中備前の輩、悉く官軍に相従ひける処に、この春又、平氏、百余艘の兵船を調へて、夜半にかの城へ寄せて合戦しける程に、実平、軍敗れて、息男遠平、疵を蒙り、家人多く討ち捕られけり。船軍の事、西国の賊徒は、自在を得たり。東国の官兵は、寸歩を失ひて、実平、毎度に敗られけり。
 かかりし程に、豊後国の住人等、舟をふなよそひして、官兵を迎へければ、参河守範頼已下、かの国へ入りにけり。
 又、三位中将資盛入道、並びに左中将清経朝臣を、当国の輩、討ち捕つて、首を範頼のもとへ送りけり。清経朝臣は、心劣らず、死を顧みず敵を討ち、自害し給ひたりけるを、資盛入道の頚ととり具して、京都へ献ずべき由、その沙汰ありけり。
 平家は、「源氏の討手、下る。」と聞こえしより、讃岐国屋島浦に城郭を構へ、軍兵をまうけて相待ちけり。前内大臣宗盛、前平中納言教盛、前権中納言知盛、前修理大夫経盛、前右兵衛督清宗、小松少将有盛、能登守教経、小松新侍従忠房已下、五十余騎とぞ聞こえし。浦々島々、さし塞ぎてぞ守護しける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「締りのないところ。」とある。
 2:底本は、「中指(なかざし)」。底本頭注に、「尖り矢。」とある。
 3:底本は、「纔か三筋」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 4:底本は、「射向(いむけ)の袖」。底本頭注に、「左の袖」とある。
 5:底本頭注に、「追物射で馬上の騎射。」とある。