勝浦合戦 附 勝磨 並 親家屋島尋承の事
判官、いけどりの者に問ひ給ひけるは、「平家の軍兵は、屋島よりこなたには、いづこにか在る。」と宣ふ。「これより三十余町罷り候ひて、阿波民部大輔の弟に桜間介良遠と申す者こそ、五十余騎ばかりにて陣を取りて候へ。」と申す。「さては、小勢や。打てや、打てや。」とて押し寄せ、鬨を造る。城内にも鬨を合はせたり。
良遠は、大堀を掘りて水を湛へ、岸にひし植ゑ、櫓掻いて待ち受けたり。たやすく攻め落としがたかりけるを、源氏の兵、その辺の小家を壊ち、堀に入れ浸して、錏を傾け、一味同心に攻め入りければ、城内乱れて、「我先に。」と落ち行きけり。「良遠を延ばさん。」とて、家子郎等三十余騎、残り留まつて禦ぎ矢射けるが、一々搦め捕られて、忽ちに首刎ねられ、軍神に祭らる。
両陣を追ひ落として後、又浦人を召して、「此処は、何と云ふぞ。」と問ふ。「勝浦と申す。」と答ふ。「軍に勝ちたればとて、色代{*1}して矯飾を申すにこそ。かやうの奴原が、不思議の事をばし出すぞ。返り忠せさすな。義盛は無きか。しや頚{*2}切れ。」と宣へば、伊勢三郎、太刀をぬき、進み出でたり。浦人、大きに恐れ、をのゝきて、「その儀は候はず。この浦は、御室の御領{*3}、五箇荘にて、文字には勝浦と書きて候なるを、下﨟は、申しやすきにつきて、かつらと呼び侍りき。上﨟の御前にて侍れば、文字の儘を申し上げ候。」と云ふ。
判官、これを聞きて、「さては、神妙神妙。さるためしあり。昔、天武天皇のいまだ東宮の位におはしましける時、大友皇子(天智の子)に襲はれて、近江国湖水に船を浮かべて、東の浦に著き給ふ。葦の下葉を漕ぎ分けて、船を岸に寄せ給ふ。田作る男、一人あり。春宮、問うて云く、『汝、何者ぞ。こゝをばいづこと云ふぞ。』と。田夫、答へて申さく、『これをば勝浦と云ふ。我が身をば、月下勝磨と申すなり。』とて、賤が藁屋に請じ入れ奉り、様々供御、進めまゐらせたりければ、春宮、大きに御悦びありて、『朕、勝浦に著きて、勝磨にあへり。軍に勝つて帝位{*4}につかん事、疑ひなし。御即位の後に、御願寺を立てらるべし。』と御誓ひありけるに、果たして帝位に即きて、かの所に寺を建てられけり。月上寺とて、今にありと伝へ聞く。義経、軍の門出に、はちま、あまこの浦にて軍に勝つて、又、勝浦に著きて敵を亡ぼす。末憑もし。」とぞ悦びける。
判官、又浦人に問ひ給ふ。「この勝浦より屋島へは、みちの程、いくら程ぞ。」と。「二日路候。」と申す。「さらば、敵の聞かぬ先に、打てや、打てや。」とて、鞭障泥を合はせて打つ{*5}処に、大将軍とおぼしくて、黒革縅の鎧に、騧{*6}なる馬に乗つて、一百余騎にて歩ませ来る。笠符も付けず、旗も差さず。判官、宣ひけるは、「見え来る軍兵、源平、いづれとも見分かず。敵のたばかるやらん。心許しあるべからず。義盛、罷り向うて、仔細尋ねて、ひきゐ参れ。」と下知しければ、伊勢三郎、仰せ承りて、十五騎にて行き向ひて、何とか云ひたりけん、やすやすと具して参る。
判官、「汝は何者ぞ。源平、いづれとも見えず。」と問ひ給へば、「これは、阿波国の住人臼井近藤六親家と申す者にて侍るが、近年、源平の乱逆に安堵せず、浪にも磯にも著かぬ風情なり。いづれにても、日本の主となり給はん方を、主君と憑み奉らんと相待つ処に、平家、都を落ち、源氏の軍将の院宣を蒙りたまふと承る間、白旗を守つて馳せ参ず。」と申す。判官、宣ひけるは、「神妙なり。源氏の大将軍、鎌倉の兵衛佐殿の弟に九郎大夫判官と云ふは、我なり。平家追討の院宣を蒙り、西国に発向せり。親家を西国の案内者に憑む。屋島の尋承{*7}せよ。但し、所存を知らん程は、物具をばゆるすべからず。」とて、甲冑をぬがせて召し具しけり。
「やをれ、親家。屋島には、勢幾程とか聞く。」と。「よも千騎には過ぎ候はじ。およそは五千余騎とこそ承りしかども、臼杵、戸槻、松浦党、尾形三郎等が背くによつて、平家、かの輩を誅せられんとて、この間は軍兵等、多く所々へ分け遣はさる。その外、阿波、讃岐の{*8}浦々島々に、五十騎、三十騎、百騎、二百騎さし遣はさるゝ間に、勢は少なしと承る。」と。「さて、屋島よりこなたに敵ありや。」と問へば、近藤六、申しけるは、「今三十町ばかり罷りて、勝宮と云ふ社あり。かれに、阿波民部大輔成能が子息、伝内左衛門尉成直、三千余騎にて陣を取りたりつるが、この間、河野四郎通信を攻めんとて、伊予国に越したりと聞こゆ。余り勢などは{*9}、少々も候らん。」と云ひければ、判官、「急げ、急げ。」とて、畠山荘司次郎重忠、和田小太郎義盛、佐々木四郎高綱、平山武者所季重、熊谷次郎直実、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、同弟四郎兵衛忠信、鎌田藤次光政等、一人当千の者どもを先として、「打てや、打てや。」とて、勝社に押し寄せて見れば、伝内左衛門尉が兵士に置きたりける歩兵等、少々ありけれども、散々に蹴散らして、逃ぐるはたまたま遁れけり。向ふ奴原、一々に頚切り懸けて打つ程に、新八幡の宝前をば、判官、下馬して再拝すれば、郎等も又、かくの如し。
判官は、「勝浦の勝も、すぐると読み、勝宮の勝も、かつとよむ。かたがたの、軍に打ち勝つて、今大菩薩の御前に参る。源氏の吉瑞、顕然なり。平家の滅亡、疑ひなし。八幡三所、遠き守りと守り、幸ひ給へ。」とて、馬に打ち乗り、馳せつあがかせつ、馳せつあがかせつ、讃岐の屋島へ打つ程に、
金仙寺観音講 附 六條北政所の使義経に逢ふ事
中山と云ふ所の道のはたより、二町ばかり右に引き入れて、竹の林あり。中に古き寺あり。粟守の后の御願、金仙寺と云ふ伽藍なり。本尊は観音。所の名主、百姓が集まりて、月次の講営とて、大饗盛り並べ、杯すゑて、「既に行なはん。」としけるが、おとな百姓は善しとほめ、若者どもは悪しと嫌ふ。「善し。」「悪し。」と讃めそしる程に、百余人の講衆、とゞめき{*10}けり。
軍兵、これを聞きて、「敵の篭りたるぞ。」と心得て、弓取り直し、片手矢はげて、鬨をどと造りて押し寄せたれば、講衆を始めて、汁御菜持ち運びたる尼公、女童、下し取らん{*11}とて集まりたる子孫、童べに至るまで、取る物も取り敢へず、蜘蛛の子を散らしたるが様にぞ逃げ迷ひける。幼少の子孫が尻に随ひたるをも打ち捨て、老耄の親祖父が杖に懸かるをも助けず、「我先、我先。」と、こゝかしこに隠れ忍びて、これを見る。
軍兵、縁の際まで打ち寄せて、御堂の内に下り居て、我が物がほに講の座に著す。五種御菜に三升盛を、百二、三十前ばかり組み調へたり。座上に杯すゑ、大桶に汁入れ、樽二つに濁酒入れて、座中に舁きすゑたり。仏前には花香供じ、仏供灯明備へたり。机の上に巻物一巻あり。講式とおぼゆ。判官は、座上に著す。兵ども、思ひ思ひに列座せり。武蔵房弁慶、座よりたつて、判官の前に五本立ちにとり並べて、「あゝ、今月の講は、随分尋常に営み出しておぼえ候。来頭は、誰人ぞ。これ、定め候ぞよ{*12}。」と云ふ。判官、「実にこの講、目出たし。来頭は、義経営み侍るべし。」と宣へば、兵皆、ゑ壺の会なり。
飯酒共に行なつて、仏壇の中より老翁を尋ね出して、「これは、何講ぞ。」と問へば、翁、ふるひふるひ、「これは、月並の観音講にて候が、只今は、御景気どもの恐ろしさに、わなゝく。」とぞ云ひける。「講食うて、只有るべきに非ず。誰か式読むべき。」と云ひければ、弁慶、黒皮縅の鎧に矢負ひ、太刀帯きながら、礼盤に昇つて、高声に観音講の式を、たゞめかしてよむ{*13}。判官は、「式は観音講、かたちは毘沙門講。あな、貴くおそろし{*14}。」と云ひければ、兵ども、皆笑ひけり。「さても、勇士等。西国の軍の門出に、勝浦勝社に著き、今また講座に著す。事において勇みあり。昔、八幡殿の奥州を攻められけるにこそ、剛臆の座をば分けられけれ。今の軍兵、一人も洩らさず講座に著く{*15}。平家を亡ぼさん事、仔細なし。」とぞのゝしりける。
それより屋島へ打つ程に、中山路の道の末に、さよみ{*16}の直垂に立烏帽子、立文持ちて、足ばやに行く下種男あり。京家の者と見ゆ。判官、馬を早めて追ひ付き、問ひけるは、「汝は何者ぞ。いづこへ行く人ぞ。」と。この男、判官とは夢にも知らず、「国人ぞ。」と思ひて、「これは、京より屋島の方へ下るものなり。」と答ふ。「京よりは、誰人の御もとより、屋島のいづれの御方へぞ。」と問へば、「いや、只。」と云ひて、いと分明ならず。
判官は、「や、殿。これは、阿波国の者にてあるが、屋島の大臣殿の御催しによつて参る者ぞ。誠や、九郎判官と云ふ者が、源氏の大将にて下るなるが、淀の河尻にて舟ぞろへして、今日明日の程に、屋島の内裏へ寄すべしと聞けば、御辺は、京より下り給へば、定めて見給ひぬらん。勢、幾ら程とか申す。」など問ひて、昼の破子{*17}食はせ、よくよく心を取りて後、「さても御辺は、誰人の御使ぞ。」と問ふ。「これは、六條摂政殿{*18}の北政所より、大臣の御方へ申させ給ふ御文なり。」と申す。「御文には、何事をか仰せ下さるらん。」と問へば、下﨟は、「いかでか御文の中を知り奉るべき。御ことばには、『源氏九郎大夫判官、既に西国へとて、都を立ちぬ。浪風静まりなば、一定渡るべし。さしも鬼神の如くにおぢ畏れし木曽も、九郎上りぬれば、時日を廻らさず亡ぼしぬる、怖ろしき者に侍り。城をもよくこしらへ、兵をも催し集めて、御用心あるべし。』とこそ申させ給ひつれば、御文も、定めてその御心にこそ候らめ。誠に、淀の河尻には、軍兵充ち満ちて、雲霞の如し。六万余騎が二手に分けて、参河守、九郎判官兄弟して、四国、長門よりさし挟みて下るべしと披露しき。波風やみなば、今日明日の程には、軍は一定あるべし。急々、屋島へ御参りあるべし。」とて、抜け抜けと判官に相つゞきて行く。
「さて、御辺は始めて下る人か、前々も下りたまへる人か。」と問へば、「六條摂政殿の北政所と大臣殿とは、御兄弟の御中にてましませば、西国の御住居、御心苦しく思し召し、源氏上洛の後は、都のありさま、人の披露、聞こし召すに随つて仰せらるれば、常に下向するなり。」と云ふ。「さては、屋島城の有様は、よく知り給ひたるらん。誠や、究竟の城にて、敵も左右なく寄せ難き所と聞くは、実か。あはれ、さやうの城にて高名をして、勲功に預からばや。」といへば、男が云ひけるは、「これは、敵に聞かすべき事にはあらず。味方へ参らるれば申す。源氏が知らでこそ、よき城とは申せ。事も無き所なり。あれに見ゆる松原をば、武例高松と申す。かの松原の在家に火を懸けて、塩干潟に付きて山のそばに打ちそうて渡らば、鐙鞍つめの浸る程なり。百騎も二百騎も、塩花蹴立てて押し寄せば、『あは、大勢の寄するは。』とて、平家は汀に儲け置きたる船に乗りて、沖へ押し出さば、内裏を城にして戦ふは、無念の所なり。」と、細々と語りけり。判官、これを聞き、「実に無念の所や。しかるべき八幡大菩薩の御計らひなり。」とて、都の方を拝みつゝ、「やをれ、男め。我こそ九郎大夫判官よ。その文、まゐらせよ。」とて奪ひ取り、海の中に抛げ入れて、男をば中山の大木に縛り上げてぞ通りける。
その日は、阿波国阪東、阪西{*19}打ち過ぎて、阿波と讃岐の境なる中山の山口の南に陣を取る。翌日は、引田浦、入野、高松郷をも打ち過ぎて、屋島城へ押し寄せけり。
校訂者注
1:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶のことなれどこゝでは追従の意。」とある。
2:底本は、「しや頚(くび)」。底本頭注に、「しやは賤しめていふ詞。」とある。
3:底本は、「御室(おむろ)の御領(ごりやう)」。底本頭注に、「御室にある仁和寺所領の荘園。」とある。
4:底本は、「天位」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
5:底本は、「鞭障泥(むちあふり)を合はせて打つ」。底本頭注に、「馬を急がせて馳せる。」とある。
6:底本は、「騧(かげ)」。底本頭注に、「鹿の毛に似て茶褐色。」とある。
7:底本は、「尋承(じんじよう)」。底本頭注に、「案内。」とある。
8:底本は、「阿波讃岐浦々島々」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
9:底本は、「余勢(あまりせい)なども、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
10:底本頭注に、「騒ぐ。」とある。
11:底本は、「下(おろ)し取らん」。底本頭注に、「饗膳をさげて食ひ残しを得る。」とある。
12:底本は、「此の定(さだ)め候ぞよ。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
13:底本頭注に、「四角ばつて読む。」とある。
14:底本は、「噫(あな)貴(たふと)、おそろし。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
15:底本は、「講座(こうざ)に著く」。底本頭注に、「講座と剛座と同音であるからしやれていふ。」とある。
16:底本頭注に、「しなのきの皮を紡いで製した布。」とある。
17:底本は、「破子(わりご)」。底本頭注に、「破篭にて食物を入れる器、転じて今の弁当をいふ。」とある。
18:底本頭注に、「藤原基実。」とある。
19:底本は、「阿波(の)国阪東西打過(うちす)ぎて、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
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