源平侍どもの軍 附 継信光政孝養の事
大臣殿、船中にてこれを見給ひて、能登殿へ仰せられけるは、「源氏の軍将九郎冠者を、度々目に懸けて討ち外しぬる事、返す返す遺恨なり。最前、七騎にて寄せたりしには、残党に恐れて討ち留めず。海上に馳せ入るゝ時は、盛嗣、熊手にかけ外しぬ。鍬形の兜に金作りの太刀、いちじるき装束なり。船より上がりて軍し給へ。相構へて九郎冠者を目にかけ給へ。」と宣ふ。能登守は、返事に、「その條は、存ずるところに候。」とて、飛騨三郎左衛門尉景経、同四郎兵衛景俊、越中次郎兵衛盛嗣、上総五郎兵衛忠光、同七郎兵衛景清、矢野馬允家村、同七郎高村已下、究竟の輩三十余人、船を漕ぎ寄せ、陸に上り、芝築地を前にあて、後ろにあて、進み、退き、招きたり。
判官、「日、既にくれにおよぶ。夜陰の軍は憚りあり。只今の敵は、名ある者どもとおぼえたり。つゞけ、者ども{*1}。一揉み揉まん。」とて打ち立ちたまへば、土肥次郎実平、「大将軍、度度の合戦、軽々しく候。若者どもに預け給へ。」とて、判官をば本陣に留め置き、実平、先陣に進みければ、子息弥太郎遠平、畠山荘司次郎重忠、和田小太郎義盛、熊谷次郎直実、平山武者所季重、佐々木四郎高綱、金子十郎家忠、渋谷荘司重国、子息馬允重助、渡辺源五馬允眤、伊勢三郎義盛、鎌田藤次光政、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信、片岡八郎為春等を始めとして、一人当千の者ども五十余騎、轡を並べてかけ出づ。
平家は、かち立ちにて{*2}、芝築地より打ち出でて、引き詰め引き詰め、馬の上を射る。源氏は、馬上よりさし当てさし当て、落とし矢に射る。寄せつ返しつ、追ひつ追はれつ、入り替はり入り替はり射合ひたり。流るゝ血は砂を染め、揚がる塵は煙の如し。源氏、手負へば陣に舁き入れ、平家、討たるれば舟に運びのす。こゝにして{*3}、常陸国の住人鹿島六郎宗綱、行方六郎、鎌田藤次光政を始めとして、十余人は討たれにけり。
能登守は、心も剛に力も強く、精兵の手利きなり。源氏がかけ廻しかけ廻して、ちとやすらふ所を見負ほせて、さし詰めさし詰め射ける矢に、武蔵国の住人河越三郎宗頼、目の前に射られて引き退く。次に片岡兵衛経俊、胸板射られて引き退く。次に河村三郎能高、内兜射られ、落ちにけり。次に大田四郎重綱、小かひな射られ、引き退く。
次に判官乳母子、奥州の佐藤三郎兵衛継信は、黒革縅の鎧を著たりけるが、首の骨を射ぬかれ、真つさかさまに落ちたりけるを、能登守童に菊王丸と云ふ者あり。もとは通盛の下人なりけるが、越前三位討たれて後、「その弟なれば。」とて、この人に附きたりけるが、萌黄糸縅腹巻に、左右、こてさして、三枚兜、居首{*4}に著なし、太刀を抜いて飛んで懸かり、継信が首を取らんとす{*5}。四郎兵衛忠信、立ち留まり、引き固めて放つ矢に、菊王丸が腹巻の引き合はせ、つと射ぬかれて、一足もひかず、うつぶしに倒る。忠信が郎等に八郎為定、小長刀を以て開いて、童が首を取らんとかゝる。能登守、「童が頚、取られじ。」と、太刀を打ち振り、つとより、童が手を取り、引き立てて、えい声を出して、船になげ入る。暫しは生くべくやありけんに、あまり強く投げられて、のちこと{*6}もせず死にけり。
忠信は、この間に、兄の継信を肩にひつかけて、泣く泣く陣の中へ負ひて入りたり。判官、近く居寄り給ひ、「いかに、継信よ、継信よ。義経、こゝにあり。一所にてとこそ契りしに、先立つる事の悲しさよ。如何にも後世をば弔ふべし。冥途の旅、心安く思ふべし。さても何事をか思ふ。云ひ置けかし。」と宣へども、只涙を流すばかりにて、是非の返事はなし。判官、重ねて、「汝、心があればこそ涙をば流すらめ。猛き兵の、矢一つに中つて、生きながらもの言はざる事やはある。さほどの後れたる者{*7}とは存ぜざるものを。今一度、最後のことば聞かせよ。」と宣へば、継信、息吹き出だし、よに苦しげにて、息の下に、「弓矢取る身の習ひなり。敵の矢に中つて、主君の命に替はるは、かねて存ずる処なれば、更に恨みに非ず。只思ふ事とては、老いたる母をも捨て置き、親しき者どもにも別れて、遥かに奥州より附き奉りし志は、平家を討ち亡ぼして、日本国を奉行し給はんを見奉らんとこそ存ぜしに、先立ち奉るばかりこそ心に懸かり侍れ。老母が歎きもいたはし。」と申しければ、さしも猛き武士なれども、判官、涙をはらはらとぞ流し給ひける。
「実に、思ふも理なり。敵を亡ぼさん事は、年月を経べからず。義経、世にあらば、汝兄弟をこそ左右に立てんと思ひつるに。」とて、手に手を取り合はせて泣き給へば、継信、「あな、嬉し。」と、それを最後のことばにて、息絶えけるこそ無慙なれ。これを聞きける兵どもも、鎧の袖を絞りけり。
日も西山に傾きける上、判官には、多くの郎等の中に四天王とて、ことに身近く憑みたまへる者は、四人あり。鎌田兵衛政清が子に鎌田藤太盛政、同藤次光政と、佐藤三郎兵衛継信、弟に四郎兵衛忠信なり。藤太盛政は、一谷にて討たれぬ。一人闕けたる事をこそ、日頃歎きしに、今日二人を失ひて、「今は、軍もあぢきなし。」とて、継信、光政が死骸を舁きて、当国の武例、高松と云ふ柴山に帰り給ひて、その辺を相尋ねて僧を請じ、薄墨と云ふ馬に金覆輪の鞍置きて申しけるは、「心静かならば、ねんごろにこそ申すべけれども、かかる折節なれば力なし。この馬鞍を以て、御房庵室にて卒堵婆、経書き、佐藤三郎兵衛尉継信、鎌田藤次光政と廻向して、後世を弔ひ給へ。」とて、舎人に引かせて僧の庵室に送られけり。
この馬と云ふは、貞任がをき墨の末{*8}とて、黒き馬の、少しちひさかりけるが、早走りの逸物なり。多くの馬の中に、秀衡、殊に秘蔵なりけれども、「軍には、よき馬こそ武士の宝なれば、山をも河をもこれに乗りて、敵を攻め給へ。」とて、判官、奥州を立ちける時、まゐらせたる馬なり。宇治河をも渡し、一谷をも落とせしこと、この馬なり。一度も不覚なかりければ、吉例と申しけるを、判官、五位尉に成りけるに、この馬に乗りたりければ、私には大夫とも呼びけり。「片時も身を放たじ。」と思ひ給ひけれども、せめても継信、光政が悲しさに、「中有の路にも乗れかし。」とて引かれたり。兵ども、これを見て、「この君のために命を失はん事、惜しからず。」とぞ勇みける。
源氏は、武例、高松に陣を取る。平家は、屋島焼内裏に陣を取る。源平の両陣、三十余町をへだてたり。源氏は、軍にし疲れて、箙を解いて枕とし、鎧を脱ぎて寄り臥したり。伊勢三郎義盛ぞ、夜もすがら、「夜打ちもぞある。打ちとけ寝ね給ふなよ、打ちとけ寝ね給ふなよ。」と、立ちわたり立ちわたり触れ明かしける。平家は、夜討の評定あり。「敵は、三百余騎には、よも過ぎじ。今夜は、軍に疲れて、柴山にこそ臥したるらめ{*9}。味方の軍兵一千余騎、足軽に出で立ちて、高松山を引きまはし、一人も漏らさず、などか夜討にせざるべき。」と。「この儀、しかるべし。」とて、思ひ思ひに出で立ちける程に、美作国の住人江見太郎守方と、越中次郎兵衛盛嗣と、先陣後陣をあらそふ程に、その夜もむなしく明けにけり。夜討は実にしかるべかりけれども、これも、平家の運の尽くるゆゑなり。
二十日の夜も、既に暁になりぬ。野寺の鐘も打ち響き、やもめ烏のうかれ声、旅の眠りを驚かす。判官、きと起き直り、「軍には、よく疲れにけり。暫しと思ひければ、早明けにけり。いざや、殿原。よせん。」とて、七十余騎にて、焼内裏の前、平家の陣へ押し寄せて、鬨の声を発す。
平家も期したりければ、声を合はせ、楯つき向うて支へたり。平家には次郎兵衛、悪七兵衛、五郎兵衛、三郎左衛門等、三十人ばかり、かち立ちに成つて、熊手、薙鎌、手鋒、長刀を以て、馬をも人をもきらふ事なし。刺したり、突きたり、切りたり、薙ぎたり。つじかぜの吹くが如くに狂ひ廻る。面を向くべき様もなし。源氏には熊谷、平山、畠山と、佐々木、三浦と、土肥、金子、椎名、横山と、片岡等三十余騎、薙鎌、長刀に恐れて、馬の足、一所にとめず。弓手に廻し、馬手に馳せ、さし詰めさし詰め、追物射にこそ射たりけれ。兵五、六人射伏せられて、平家、こらへず、舟に乗つて漕ぎ出す。能登守、又二十騎ばかり船より下り、芝築地を小陰として、ひき取りさし詰め散々に射ければ、昨日矢風{*10}は負ひぬ、進む者もなし。武蔵坊、常陸坊、ふる山法師にて、究竟の長刀の上手にて、七、八人かち立ちになり、長刀十文字に採り、帚木を以て庭を払ふが如く薙ぎ入りければ、平氏の軍兵十余人、薙ぎ伏せたり。能登守、無下に目近く見えければ、打ち懸かる処に、いぶせくや思はれけん、又船に乗つてさし出す。
さる程に、大風に恐れて、留まりたりける軍兵、跡目につきて、屋島浦に馳せ来る。
さる程に、大風に恐れて、留まりたりける軍兵、跡目につきて、屋島浦に馳せ来る。
校訂者注
1:底本は、「つゞけ者とも、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
2:底本は、「歩立(かちだち)に芝築地(しばついぢ)」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
3:底本は、「此(こゝ)にて」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
4:底本は、「居首(ゐくび)」。底本頭注に、「猪頚。」とある。
5:底本は、「取らんとする。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
6:底本は、「後言(のちこと)」。底本頭注に、「遺言。」とある。
7:底本頭注に、「心の鈍いもの。」とある。
8:底本頭注に、「をき墨といふ名の馬を種馬にしたるもの。」とある。
9:底本は、「臥したらめ。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
10:底本は、「矢風(やかぜ)」。底本頭注に、「矢の勢ひ。」とある。
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