源平侍遠矢 附 成良返忠の事

 平家は、屋島をば落ちぬ。九国へは入られず。寄る方もなくあくがれて、長門、壇浦、赤間、門司関、引島に著きて、波の上に漂ひ、船中に日を送り給ふ。
 源氏は、阿波国勝浦に著き、所所の軍に討ち勝つて、屋島の内裏を追ひ落とし、平家の船の行くに任せて、陸より攻め追ふ。焼野の雉の隠れなく、鷹の攻むるに異ならず。源氏は、於井津、部井津と云ふ所に著く。平家の陣を去る事、三十余町なり。
 同じき三月二十四日、九郎判官義経已下の軍兵、七百余艘にて、夜のあけぼのに攻め寄す。平家、待ち請けたり。五百余艘の兵船を漕ぎ向へ、矢合はせして戦ふ。源平両方の軍兵、十万余人なれば、互に鬨を発す声、鏑矢の鳴り違ふ音、上は蒼天に聞こえ、下は海の底に響くらんとぞ驚かれける。
 参河守範頼、千葉介常胤、稲毛、榛谷、海老名、中條、相馬、大田、大胡、広瀬、小代、中村、久下、塩谷、三万余騎にて九国の地に著き、前をきる。篭の中の鳥、出で難く、網代のひを、免かれんや。海には船を浮かべたり。陸には轡を並べたり。東西南北塞がれて、漏るべき方こそなかりけれ。
 権中納言知盛卿、船の舳に立ち出でて申されけるは、「軍は、今日を限り。各、退く心、あるべからず。昔より今に至るまで、軍破れ、運尽きぬれば、名将勇士も、あるいは路人のために獲られ、あるいは行客のためにとらはる。これ皆、去り難き死を遁れんと思ふ故なり。各、命をこの時に失ひて、必ず名を後の世に留めよ。東国の奴原にわるびれて見ゆな。何の科にか命をも惜しむべき。心を一つにして、義経を取つて海に入れよ。今度の合戦の執心、この事にあり。」と申されければ、近く候ひける武蔵三郎左衛門有国、「各、この仰せ、うけたまはれや。」と申す。
 「悪七兵衛景清が申す。坂東の者どもは、馬上にてこそ口は聞き候へども、船軍は未練なるべし。只魚の木に登らん如くなるべし。必ず寸歩を失ひ、弓箭をなぐべし。一々に取つて、海に入れなん。」と申す。ゆゝしくぞ聞こえし。越中次郎兵衛盛嗣、申しけるは、「九郎冠者が軍将として上ると承りし間、縁に付きてその様を尋ね聞きしかば、『面長うして身短く、色白うして歯出でたり。身をやつして、よき鎧を著ず。日々朝夕に物具を替ふ。』と云ひき。その意を得て、組め、組まん。」と申す。人々、口々に、「九郎は、心こそ猛くとも、勢が小さくあるなれば、その冠者、何事かあるべき。目にかれてんには、寄り合ひ、片脇にかき挟んで、つと海へ入りなん。」と申す。伊賀平内左衛門家長は、「あゝ、世は不思議のことかな。金商人が従者して奥州へ下りたるものが、源氏の大将軍して、君に向ひまゐらせ、矢を放つ事よ。御運の尽きさせ給ふと云ひながら、口惜しき事かな。」とて、はらはらと泣く。
 権中納言知盛卿、大臣殿の前に進んで申されけるは、「今日の合戦、兵の景気、勇ありて見え候。但し、成良は、一定心替はりしたりとおぼゆ。頚を切り侍らばや。」と宣へば、大臣殿は、「そも、実否を聞き定めてこそ。もしひが事ならば、不便なり。」とて、詳らかならざりければ、度々諌め申され、成良を召す。木蘭地の直垂に、洗革の鎧著て、大臣殿の前に蹲踞せり。「成良こそ、先々のやうに事をもおきてね、今日は、わるびれて見ゆ。もし臆し侍るか。四国の者どもに、『軍、よくせよ。』と下知すべし。」と仰せられければ、「なじかは臆し侍るべき。」とて立ちぬ。知盛卿は、太刀の柄に手を懸けて、「頚を打たばや。」と思し召しけれども、ゆるし給はねば、力なし。
 肥後国の住人菊池次郎高直、原田大夫種直等は、平家に相従ひたりければ、三百余艘、先陣に漕ぎ向へ、弓の上手、大矢どもをそろへて、散々に射ければ、源氏の兵、多く討たれて、舟ども、さし退く。平家は、「勝ちぬ。」とて、阿波国の住人新居紀三郎行俊、唐鼓の上にのぼりて、攻め鼓を打つて、のゝしりけり。
 判官は、軍、負け色に見えければ、塩瀬の水{*1}に口を漱ぎ、目を塞ぎて掌を合はせ、八幡大菩薩を祈念し奉る。神明、擁護を加へ給ひ、白鳩二羽飛び来て、判官の旗の上にぞ居たりける。源平共に、「あれ、あれ。」と云ふ程に、東方より一叢の黒雲たなびき来りて、軍場の上にかゝる。雲の中より白旗一ながれおり下つて、判官の旗頭にひらめきて、雲と共に去りぬ。源氏は、掌を合はせてこれを拝む。平家は、身の毛よだちて心細くぞおぼしける。
 源氏の軍兵等、これ等の霊瑞を拝みければ、勇みのゝしつて、あるいは船に乗り移りて、漕ぎ寄せ漕ぎ寄せ戦ふものもあり。あるいは、陸を歩ませて、差し詰め差し詰め射るものもあり。強弓精兵、矢継ぎ早の手だりども、「劣らじ、負けじ。」と散々に射ければ、平家も乱れ合ひて戦ふ。勝劣、更に見えず。
 三浦平太郎義盛、船には乗らず、浦路を歩ませ、敵の舟をさしつめさしつめ射けるこそ、物に当るもつよく、遠くも行きけれ。前権中納言知盛卿乗り給へる舟、三町余りを隔てて澳に浮かぶ。三浦義盛、十三束二伏の白箆{*2}に、山鳥の尾を以てはいだりけるを、羽本一寸ばかり置きて、「三浦平太郎義盛」と焼絵{*3}したりけるを、よつ引いて、ひやうと放つ。知盛卿の舷に立ちて、ゆすめけり。中納言、この矢を抜かせて、舌振ひして立ち給へり。三浦は、「遠矢、射澄ましたり。」と思ひて、鐙踏ん張り弓杖つき、立ち上がつて、扇をひらいて平家を招く。「その矢、射返せ。」との心なり。
 中納言、これを見給ひて、「平家の侍の中に、この矢、射返すべき者はなきか。」と尋ねられけるが、「阿波国の住人新居紀四郎宗長、手は少し手あらなれども{*4}、遠矢は四国第一。」とて召されたり。宗長、三浦が箭をさらりさらりと爪遣りて、「この箭、箆性弱く、矢つか短し。私の矢にて仕りはべるべし。」とて、黒塗の箭の十四束なるを、只今漆をちと削りけり。「新居紀四郎宗長」と書き付けて、舳屋形の前ほばしらの下に立ちて、暫し固めて、ひやうと放つ。三浦義盛が弓杖に懸けて居たりける兜の鉢射削り、後ろ四段ばかりに控へたる三浦石左近と云ふ者が弓手の小かひな、射通す。
 源氏の軍兵等、「あゝ、義盛。無益の遠矢射て、源氏の名折りぞ、源氏の名折りぞ。」と云ひければ、判官、宗長が矢を取りて、「これ返すべき者やある。」と尋ねられければ、土肥次郎実平が申しけるは、「東八箇国には、この矢に射ますべき者おぼえず。甲斐源太殿の末子に浅利与一殿ぞ、遠矢は名誉し給ひたる。」と挙す。「さらば、呼び奉れ。」とて招き寄す。判官、宣ひけるは、「三浦義盛、遠矢射損じて、答の矢、射られたり。時の恥にはべり。それ、返し給ひなんや。」といはれければ、与一は、宗長が矢を取りて、さらりさらりと爪遣りて、「これは、箆こしらへも尋常に、普通には越え侍る。但し、遠忠がためには相応せず。私の具足にて仕るべし。」とて、判官の前を立つ。
 その日の装束には、魚綾の直垂に、折烏帽子を引き立てて、黄河原毛馬に白覆輪の鞍置きてぞ乗りたりける。白木の弓の握り太なるを召しよせて、白篦十四束二つ伏せにこしらへたる、切府に鵠の霜降り{*5}破りあはせてはいだる征矢、一手{*6}取り添へて、「遠矢の舟は、いづれぞ。」と問ふ。「舳屋形の前に、扇披き仕ひて、鎧武者の立ちたる船。」と教ふ。遠忠、よつ引き固めて、ひやうと放つ。宗長が、「遠箭、射澄ましたり。」と存じて、ほばしらによりかゝり、小扇披き仕ひける、鎧の胸板かけず、つと射通し、その矢はぬけて、海上五段ばかりにさと入る。宗長、ほばしらのもとに倒る。その後、源平の遠矢はなかりけり。
 三浦義盛、遠矢射劣つて、「この恥をきよめん。」と思ひ、小船に乗り、楯突き向うて漕ぎ廻り漕ぎ廻り、面に立つ平家の侍ども、差し詰め差し詰め射倒す。元より精兵の手だりなれば、簇に廻る者なし。
 源氏方に、「斎院次官親能。」と名乗つて、のゝしり懸けて戦ふ。平家方には{*7}、誰とは知らず武者一人、舷に立ちて、「あゝ、親能は、右筆{*8}ばかりは取りも習ひたるらん。弓矢の道は知らざるものを。」と云ひたりければ、敵も御方もはつと笑ふ。親能、赤面してぞ侍りける。
 源氏は大勢なり。勝つに乗つて攻め戦ふ。平家は小勢なり。「今日を限り。」と振舞ひけり。帝釈、修羅の闘諍、いかでかこれには勝るべき。平家は、船を二、三重に構へたり。唐船には、軍将の乗りたる体にて軍兵を乗せたり。兵船には、大臣殿已下、しかるべき人々、乗られたり。「源氏、軍将の唐船を攻めん時、兵船、源氏の船をさし廻して、中に取り篭め、一人も洩らさず討たん。」との謀りごとなり。
 民部大輔成良は、さしも平家に忠を致ししかども、忽ちに心替はりして、四国の軍兵三百余艘、漕ぎしりぞけて、軍の見物して居たり。「平家強らば、源氏を射ん。源氏勝ち色ならば、平家を射ん。」とぞためらうたる{*9}。「天をもはかりつべし。地をもはかるべし。只はかるべからざるは、人の心。」と。誠なるかな、成良。
 源氏、海には櫓棹を並べて、兵船、数を知らず。陸には轡を並べて、その勢、雲霞の如し。平家、如何にも叶ひ難く見えける上、子息伝内左衛門が事も悲しければ、成良、判官へ使を立てて{*10}申しけるは、「唐船には、大将軍の乗りたる様にて、軍兵を乗せられたり。兵船には、大臣殿已下の公達、召されたり。唐船を攻めさせて、源氏を中に取り篭めんと支度し侍り。御意あるべき。」よし、中言して、成良が一類、相従ふ四国の者ども、三百余艘漕ぎ寄せつゝ、さし合はせて平家を射る。「『成良は、心がはりのものなり。頚を切らばや。』と、中納言のよく宣ひけるものを。」と、大臣殿、後悔したまひけれども、云ひがひなし。

知盛船掃除 附 海鹿を占ふ 並 宗盛取替子の事

 源氏の兵ども、いとゞ力を得て、平家の船に漕ぎ寄せ漕ぎ寄せ乱れ乗る。遠きをば射、近きをば斬る。たて横、散々に攻む。水手楫取{*11}、櫓をすて、楫を捨て、船を直すに及ばず。射伏せられ、切り伏せられ、船底に倒れ、水の底に入る。
 中納言は、女院、二位殿などの乗り給へる御船に参られたりければ、女房達、「こはいかに成り侍りぬるぞ。」と宣ひければ、「今はともかくも、申すにことば足らず。かねて思ひ儲けし事なり。珍らしき東男どもをこそ御覧ぜんずらめ。」とて、うち笑ひ給ふ。手づから船の掃除して、見苦しき物ども、海に取り入れ、「こゝ拭へ。かしこ払へ。」など宣ふ。「さほどの事に成り侍るなるに。のどかなる戯れ言かな。」とて、女房達、声々、をめき叫び給ふ。
 こゝに、海鹿と云ふ大魚、二、三百もやあるらん。塩ふき立てて、はみて来る。安倍晴延と云ふ小博士を召して、「いかなるべきぞ。」と尋ね給ふ。晴延、占文披いて、「この海鹿、はみ返らば、源氏に疑ひあり。はみ通らば、味方に憑みなし。」と申しけるに、この魚、一つもはみ返らず。平家の船の下をついくゞりついくゞり、はみて過ぎぬ。小博士、「今はかう候。」とて、涙をはらはらと流しければ、人々、声を立ててぞをめき給ふ。
 二位殿は、「今は限りにこそ。」と聞き給ひければ、「宗盛は、入道大相国の子にも非ず。又{*12}、我が子にもなし。されば、小松内府が心にも似ず、思ひおくれたるぞとよ。海に入り、自害などもせで、いけどられて憂目などをや見んずらん。心憂くこそおぼゆれ。」とぞ宣ひける。
 宗盛、入道の子になりける故は、二位殿、重盛を嫡子に儲けて後、又懐妊したりけるに、入道、「弓矢取る身は、男子こそ宝よ。嫡子、一人なれば{*13}、心苦し。必ず弟、儲けて給へ。とぎ{*14}にせさせん。」と云ふ。二位殿、なのめならず仏神に祈り申し、月満じて生まれたるは、女子なり。「音なせそ。如何せん。」とて、方々取り替へ子を尋ねける程に、清水寺の北の坂に、唐笠を張りて商ふ僧あり。なまじひに僧綱になりたりければ、異名に唐笠法橋と云ひけるものがもとに、男子を産みたりけるに取り替へつゝ、入道に、男子儲けたるよし、告げたれば、大きに悦んで、産所もはてざりけれども{*15}、嬉しさには、穢き事も忘れて、女房のもとに行き、「あゝ、目出たし、目出たし。」とぞ悦び給ひける。入道、世にありし程は、つゆの言葉にも出し給はず。壇浦にてぞ、初めてかく語り給ひける。

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校訂者注
 1:底本は、「塩瀬(しほせ)の水」。底本頭注に、「海の水」とある。
 2:底本は、「十三束(ぞく)二伏(ふたつぶせ)の白箆(しらの)」。底本頭注に、「〇白箆 矢の箆の塗らないものをいふ。」とある。
 3:底本は、「焼絵(やきゑ)」。底本頭注に、「烙印即ち金印を焼いて捺したもの。」とある。
 4:底本は、「手は少(すこ)し亭(てがら)なれども、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 5:底本は、「切府(きりふ)に鵠(こふ)の霜降(しもふり)」。底本頭注に、「〇鵠の霜降 鷲の羽の白黒の斑が極めて細かく霜降のやうな斑の羽。」とある。
 6:底本は、「一手(ひとて)」。底本頭注に、「矢二本。」とある。
 7:底本は、「平家には、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 8:底本は、「右筆(いうひつ)」。底本頭注に、「こゝでは文筆の意。」とある。
 9:底本は、「ためらふたる」。
 10:底本は、「使を立て、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 11:底本は、「水手楫取(かこかんどり)」。底本頭注に、「〇水手 舟夫。」とある。
 12:底本は、「非ず。我が」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 13:底本は、「嫡子に一人あれば」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 14:底本頭注に、「伽のことで 相談相手の意。」とある。
 15:底本頭注に、「産の穢れとて三十五日間産婦が産所に篭ること。」とある。