二位禅尼入海 並 平家亡虜の人々 附 京都注進の事

 二位殿、今は限りと見はてたまひにければ、練色の二つ衣引きかづき、白袴のそば高く挟みて、先帝{*1}をいだき奉り、帯にて我が身に結び合はせまゐらせ、宝剣を腰にさし、神璽を脇に挟みて、舷に臨み給ふ。
 先帝は、八つにぞ成らせ給ひける。御年の程よりは、ねびとゝのほらせ給ひて、御形あてにうつくしく、御髪黒くふさやかにして、御背に懸け給へる御かたち、類なくぞ見えさせ給ひける。御心迷ひたる御気色にて、「こは、いづこへ行くべきぞ。」と仰せられけるこそ悲しけれ。二位殿は、「兵どもが、御船に矢をまゐらせ候へば、別の御舟へ行幸なしまゐらせ候。」とて、
  今ぞしる御裳濯河の流れには浪の下にも都ありとは
と宣ひもはてず、海に入り給ひければ、八條殿{*2}、同じくつゞきて入り給ひにけり。国母建礼門院を始め奉りて、先帝御乳母帥典侍、大納言典侍已下の女房達、船の艫舳に臥しまろび、声をそろへて叫び給ふもおびたゞし。軍さけびにぞ似たりける。「浮きもや上がらせ給ふ。」と、暫しは見奉りけれども、二位殿も八條殿も、深く沈みて見え給はず。
 昔は、一天の主として、殿をば長生と祝ひ、門をば不老と名づけしかども、今は雲上の竜下りて、忽ちに海中の鱗となり給ふこそ悲しけれ。哀れなるかな、花に喩へし十善の御粧ひ、無常の風に匂ひを失ひ、悲しきかな、月にみがきし万乗の玉体、蒼海の浪に影を沈めおはします事を{*3}。無常、元より定めなし。有待、誰かは恃みあるなれども、清涼、紫宸の玉の台を振り捨てて、闘戦兵革の船中に行幸して、未だ十歳にだにも満たせ給はぬ御齢に、忽ちに波の底に入り給ひけん、哀れと云ふもおろかなり。
 女院{*4}は、「後れ奉らじ。」と、御焼石と御硯の箱とを左右の御袂に宿し入れ、御身を重くして、続きて海に入らせ給ひけるを、渡辺源次兵衛尉番が子に源五馬允眤と云ふ者、急ぎ飛び入りて、かづき上げ奉りけるを、眤が郎等、熊手を下して、御髪をから巻きて、御舟へ引き入れ奉る。弥生の末の事なれば、藤重の十二単の御衣を召されたり。翡翠の御髪より始めて、皆塩垂れおはしますぞ{*5}御いたはしき。帥典侍も、同じく飛び入り給ひけるを、衣のすそと御袴とを舷に射付けられ給ひて、沈み遣りたまはざりけるを、源次兵衛番、取り上げ奉る。
 眤は、もしやの時とて、鎧唐櫃の底に持ちたりける唐綾の白小袖一重取り出して、女院にまゐらせたりけるぞ、夷なれども情あり。眤は、近くは参り寄らず。程を隔て、畏まりて、「君は、女院にて渡らせおはしますか。」と、度々尋ね申しければ、御覧じ馴れぬ夷の有様、恐ろしく思し召しけれども、御ことばをば出ださせ給はず、二度うちうなづかせ給ひけり。眤、御舟を漕ぎて、女院をば判官の船に渡し入れ奉る。近衛殿の北政所{*6}も、海へ飛び入らせ給ひけるを、人々、とり留め奉る。
 判官、伊勢三郎義盛を以て、「海には、大事の人々入らせ給ひたるを、とり上げまゐらせたらん者ども、狼藉仕るな。」と下知しければ、義盛、小船に乗りて触れ廻る。こゝかしこより、女房達をば判官の船へ送り渡し奉る。
 兵ども、先帝の御船へ乱れ入りて、大きなる唐櫃の鎖ねぢ破り、中なる箱を取り出し、箱のからげ緒切り解いて、「蓋をあけん、あけん。」としければ、忽ちに目くるめき、鼻血垂る。平大納言時忠卿、見給ひて、「内侍所の御箱なり。狼藉なり。」と宣へば、判官、これを聞きて、制止を加ふ。武士ども、御船を罷り出でぬ。即ち、平大納言に申して、元の如く御唐櫃に納め入れ奉る。末代といへども、かく霊験のおはしますこそ目出たけれ。神璽は、海上に浮かみ給ひたりけるを、片岡太郎経春、取り上げ奉る。
 前左馬頭行盛は、基盛の子。前左少将有盛は、小松大臣の息男。共に太政入道の孫なり。同船しておはしけるが、「軍の様、今を限り。」と思ひければ、兜を脱ぎ捨て、鎧の袖切り落とし、身を軽くして舷に進み出づ。有盛、先陣に在りて、源氏の兵と射合ひけり。行盛は、暫し最後の所作とおぼしくて、船の舳頭にして、提婆品をぞ読み給ふ。一品、既に終はりければ、西に向つて廻向して、有盛と立ち並び、矢鏃をそろへて射けるにこそ、数の兵も亡びけれ{*7}。熊井太郎忠元、江田源三弘基已下の輩、舟を押し廻して、両方より乗り移りければ、行盛、有盛、弓をば棄て、剣を抜き、心をたわめず命を惜しまず、艫舳に廻りて散々に戦ひ、首をならべて討死してぞ亡せにける。勇兵の振舞ひ、けやけく{*8}ぞおぼえける。
 行盛、提婆品を読み給ひける事は、父基盛、大和守に任じて上洛の時、宇治河のはたに下りて、水練して游ぎけるに、水に流れて死にけり。その後、基盛の女房、夢に見けるは、「我、思ひかけず、宇治左大臣頼長のためにとられて、河の底に沈みぬ。法華経にあらずば、得道しがたし。追善には、提婆品を読誦書写して廻向せよ。」と見えたりければ、この夢を、しうと入道殿に語りたれば、「不便なり。」とて、福原の経島に御堂を立てて、八人の持経者を置きて、毎日に法華経を転読し、殊に提婆品をば極信に読ませられけり。行盛、その頃は幼少なり。成人してこれを聞き、毎日におこたらずこの品をよみ給ひけるが、今日は未だ読み給はざりけるやらん。又、「今を最後。」と思し召しけるにや。いと貴く哀れにぞおぼえける。
 源氏の郎等に後藤三範綱は、平家の船に飛び入りて、弓をば捨て、打ち物抜いて走り廻りけるを、越中次郎兵衛盛嗣、寄り合ひ、組んで重なり、上になり下になり、船中を五転び六転びしければ、互に刀を抜く隙もなかりける処に、「盛嗣を助けん。」とて、悪七兵衛景清、範綱をばさしてけり。
 前能登守教経は、元より心剛に身すくやかにして、進む事ありて退くことなし。「軍、敗れぬ。」と見えければ、思ひきり、死生知らずに振舞ふ。「これぞ聞こゆる能登守。」とて、「我先、我先に。」とあらそひてかゝりれども、少しも面も振らず戦ふ。矢ごろに廻る者をば、さし詰めさし詰め射けるに、更にあだ矢なし。近付く者をば引きよせ、ひつ提げて海へなげ入れければ、面を向け難し。太刀にて切るは少なく、水にはむるは多し。
 前中納言知盛卿、これを見て、「由なき事し給ふものかな。この輩は、皆歩兵にこそ侍りぬる。あながちに目にたて給ふべきにあらず。自害をもし給へかし。」と宣へば、「さては、『九郎冠者に組め。』とにこそ。それは、存ずる処なり。いかゞはせん。」と伺ひ廻る処に、判官の船と能登守の船と、すり合ひて通りけり。能登守、「しかるべし」とて、判官の船に乗り移り、兜をば脱ぎ棄て、大童{*9}になり、鎧の袖、草摺ちぎり捨て、軽々と身をしたゝめて、「いづれ、九郎ならん。」と馳せ廻る。
 判官、かねて存知して、とかく違へて、「組まじ、組まじ。」と紛れ行く。「さすが大将軍。」とおぼえて、鎧に小長刀突いて、武者一人あり。能登守、目を懸けて、「軍将義経と見るは、ひが目か{*10}。故太政入道の弟、門脇中納言教盛の二男に能登守教経。」と名乗り、にこと笑ひ、飛び懸かる。判官は、「組んでは叶はじ。」と思ひて、尻足踏んでぞやすらひける。「大将軍を組ませじ。」とて、郎等どもが立ち隔て立ち隔てしけれども、「のけ、奴原。人々しき。」とて、海の中へ蹴入り、取り入り、つと寄る。既に、「判官に組まん。」としければ、判官、早業、人に勝れたり。小長刀を脇に挟み、さしくゞりて、弓たけ二つばかりなる隣の船へ、つと飛び移り、長刀取り直して、舷に、にこと笑ひて立ちたり。能登守は、力こそ勝れたりけれども、早業は判官に及ばねば、力なくして舟に留まり、「あゝ、飛びたり、飛びたり。」とほむ。その後、能登守、「今を限り。」と狂ひ廻りければ、面を向け難し。
 こゝに安芸太郎時家と云ふ者あり。これは、安芸国の住人にもなし。安芸守が子息にも非ず。阿波国の住人安芸大領と云ふ者が子なり。「三十人が力持ちたり。」と聞こゆ。郎等二人あり。同じく三十人づゝ力あり。時家、二人の郎等に云ひけるは、「我等三人、心を一つにして組まんには、鬼神と云ふとも負くまじ{*11}。能登殿強しと云ふとも、やは三人には勝ち給ふべき。三人取つて合はすれば、九十人が力なり。私の力業は、人の証拠にたたず。能登守に組んで、力をも人に知らせ、剛の名をも極めんと思ふは如何に。」といへば、郎等、「仔細にや及ぶべき。」とて、三人一度に錏を傾け、打つてかゝる。
 能登守は、「源氏の郎等に、名もあり力あればこそ、教経にはかゝるらめ。これぞ軍の最後なる。」と思ひければ、しづしづと相待つ処に、三人、鼻を並べ、透間もなく、つと寄る。一人をば海中へたふと蹴入れ、二人をば左右の脇に掻い挟んで、一しめ締めて、「いざ、おのれら、教経が御伴申せ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」とて、海の底へぞ沈みける。(異説には、自害。)
 宗盛卿、子息清宗、二人は、海にも入らず、自害をもせず。船中を、と違ひ、かく違ひ、行き給ひければ、侍ども、余りににくく思ひて、通るさまにて海へ突き入れ奉る。人は、鎧の上に碇を置き、鎧{*12}の上に鎧を重ねて、身を重くして入ればこそ沈むに、これは、すはだにて、しかも究竟の水練なり。清宗は、「父沈み給はば、我も沈まん。」とおぼし、宗盛は、「子沈まば、我も沈まん。」と思ひて、二人ながら沈まず。たてさま横さま、立ち游ぎ犬游ぎして、沈みたまはざりけるを、伊勢三郎義盛、船を押し寄せて、右衛門督を熊手にかけて引き上ぐ。大臣殿、この様を見て、わざと義盛が船近く游ぎ寄りて、取りあげられ給ひにけり。
 飛騨三郎左衛門景経、これを見て、「何者なれば、我が君をば取り奉るぞ。」と云ひて、太刀を抜いて打つてかゝる処に、義盛が童、「主を討たせじ。」と、中に隔たり戦ひけるが、童、一の刀に兜を打ち落とされて、二の刀に頚を切り落とされぬ。即ち、義盛に打つてかゝる。危ふく見えけるに、堀弥太郎親弘、引き固めて放つ矢、景経が内兜を射る。ひるむ処を親弘、弓を捨てて、「得たり。」といだく。上になり下になりころびける処を、親弘が郎等落ち合ひて、景経が首をとる。この三郎左衛門と云ふは、大臣殿の乳母子なり。目のあたり見給へば、さこそ悲しくおぼしけめ。
 前内大臣宗盛は、いやしくも征夷の将たり。忽ちに匹夫の手にとらはれ、永くそしりを万人の唇に懸け、ひとり恥を累祖の跡に残す。無慙と云ふもおろかなり。
 前修理大夫経盛卿は、船を遁れ去つて南山{*13}に入り、自害して掘り埋づまれにけり。難を去り、死を去らず。骨を埋づめども、名を埋づまず。
 前平中納言教盛、同新中納言知盛卿は、一所におはしけるが、伊賀平内左衛門を召されて、「いかに、家長。見るべきことは見つ。先帝を始めまゐらせて、一門の人々、自害し、海に入りぬ。今までもかくあれば、つれなき命を惜しむに似たり。大臣殿は、如何になり給ひぬるやらん。」と問ひ給ふ。家長、涙を流して、「大臣殿、右衛門督殿{*14}二人は、一度に海に入り給ひたりつるを、敵、熊手にかけ奉りて、二所ながら引き上げ、取りまゐらせ候ひぬ。景経も、討死候ひぬ。」と申しければ、知盛卿は、「あな、心憂。など深くは沈み給はざりけるぞ。」と二度宣ひて、涙をはらはらと流して、「今は、何をか見聞くべき。家長、日頃の約束はいかに。」と仰せられければ、「今更、君に離れ奉りて、いづちへ行くべきに候はず。御伴なり。」と申せば、知盛卿、よに嬉しげに思ひて、平中納言教盛卿と、鎧脱ぎ捨てて、西に向ひ、念仏申して、両人自害せられければ、有国、家長已下、侍八人、同じ枕に自害して伏しぬ。
 知盛卿は、猛将の聞こえを{*15}はづかしめず。教盛卿は、武勇の名に劣らず。共に命を西海に亡ぼし、互に誉れを東路に伝へたる。
 (一説に云く、知盛、教盛両人は、腹巻の上に鎧を著、身を重くして、手を取り組み、海に入り給ひければ、侍ども八人、同じく続きて入りにけり。源氏の兵ども、「哀れ。」と見る処に、年{*16}三十ばかりの男の、木蘭地の直垂に黒糸縅の腹巻に、二所籐の塗り篭めたる弓の真中取り、兜をも著ず箙も負はず、矢二つ三つ執り添へて、赤銅作の太刀帯いて、中納言の海へ入り給へるせがいへ、つと出できたり、海を睨んで立ちたり。源氏、その意をば知らず、目を澄ましてこれを見、「あはれ、よき侍どもをば召し仕ひ給ひけるものかな。あるいはいけどり、あるいは海に沈みて、主は一人もなけれども、ことに遇ふべき事がらなり。何者に目を懸け、伺ひ居たるらん。」とさゝやき見けれども、近付き寄る者なければ、仕出だせる事はなし。やゝ久しく海を睨んでのち、弓矢をざぶと投げ入れつゝ、我が身も海につと入る。またも浮かまで沈みにけり。
 (「こは、何としつることぞ。」と、取り取り不審をなしけるに、ある人の申しけるは、「この者は一定{*17}、新中納言の侍なり。中納言、さる謀りごと賢き人にて、『身をばよくしたゝめて入りたりとも、もし浮き上がる事もあらば、敵の手に懸けずして、汝、射殺せ。』と約束せられたりけるとぞおぼゆる。大臣父子、沈みもやらで、敵にいけどられ給へるをも、心憂くこそ思しけめ。さればこそ、主の入りたる処を睨んで、別に仔細はなくして、ともに海には沈むらめ。あはれ、この人に世を譲りたらば、たとひ運の極みなりとも、都にて如何にも成り給ひなまし。」と、惜しまぬ者はなかりけり。)
 赤旗赤符、海上に充ち満ちて、紅葉を嵐の吹き散らしたるが如し。海水も血に変じて、渚々に寄する波、薄紅にして流れける。主を失へる船は、風に随ひ、潮に引かれて、越路の雁、行を乱るが如く、膚を離れたる衣は、水にうき、波にあらそうて、蜀江の錦、色を洗ふかと疑はる。玉楼金殿の昔の栄華、船中の波の底、今の有様、思ひ並べて哀れなり。(元暦二年の春の暮、如何なる年、如何なる日ぞ。一人、海底に沈み、百官、水の泡と消ゆ。)
 豊後国八代宮の神主に七郎兵衛尉某と云ふ者、父子は、平家に催され、軍しける程に、壇浦の軍敗れて、遁るべき方なし。「自害をせばや。」とおもひて、子息の大夫を招きて、「平家は、早亡びぬ。我等、とらはれになりなば、一定誅せらるべし。旧里に帰りて今一度、妻子をも見ばやと思ふ。又、自害すべきか。それ、計らへ。」と云ふ。子息大夫、申しけるは、「我等、必ずしも平家重代の侍に非ず。又、心よりおこりて軍せず。『十善帝王おはします。』とて、駆り催され、一旦参ず。あながちに罪深からず。只旧里に返り退きて、誤りなき由を陳じ申し給へ。但し、只今舟を漕ぎ行かば、落人とて、よも生けられじ。年ごろの水練、この時にあり。水底を游ぎ給へ。」と云ふ。「しかるべし。」とて、鎧物具脱ぎ棄てて、裸に成り、褌かき、父子共にに水底に飛び入りて、豊前国柳浦を志して游ぎ行く。
 門司浦より柳浦までは、海の面五十余町の処なり。今二十町ばかり行き著かずして、父の兵衛尉、子息大夫を呼び返して云ふ。「さりともと思ひつれども、我が左の足を引き入れ引き入れする者あり。今は、故郷に游ぎ著かん事、叶ひ難し。さればこそ、汝にも游ぎ後る。」と云ふ。大夫は、「疲れ給ひたるにこそ。何物かは足を引き侍るべき。只我が肩に懸かり給へ。」といへば、「我が身こそ死ぬとも、汝をさへ沈めん事、不便なり。如何にも足が重ければ、叶はじ。」と云へば、大夫、水底に入りて、足を捕つて見れば、余りにあわてて、すね当て{*18}の片方の緒をば解いて、今片方を解かざりけるが、水にしとみて重かりけり。引き切りて、かくといへば、「さては游がん。」とて、二時ばかりに柳浦へ游ぎあがる。宿所に帰りて妻子を見る。悦ぶ事、極まりなし。
 世静まりて、鎌倉に下り、陳じ申しければ、「遁れ難き罪科なれども、社官に咎め行なはるゝ事、思へば神慮量り難し。」とて、八十五町の神田相違なく、元の如く神主職に補せられ、罷り下りにけり。
 平家亡びて、猪俣近平六と、常陸の八田左衛門知家と乗りたる船のもとへ、つきうす一つ、ゆられて来る。「機嫌なし{*19}。」と笑ひけるに、近平六、「平家の臼と見ゆるなりけり。」と云ふ。八田知家、「年ごろの憑みも今はつきはてて。」と付く。人々、興に入りてぞ笑ひける。
 同じき四月四日、九郎判官義経、合戦の次第、注進して、飛脚を以て院の御所へ奏し申しけり。注進状には、
 {*20}去にし三月二十四日午の刻、長門国壇浦において、平氏悉く討ち取り、大将軍前内大臣已下、生けどる。神璽、内侍所は、無為に帰り入りおはしまし給ふべし。宝剣は、厳島の神主景弘に仰せて、海底を探り求む。生けどりの人には建礼門院、若宮、冷泉局{*21}、大納言典侍、帥典侍、前内大臣{*22}、前平中納言時忠卿、前右衛門督清宗卿、前内蔵頭信基朝臣、前左中将時実朝臣、前兵部少輔尹明、蔵人大夫親房、全真僧都、能円法師。自害の人には前中納言教盛卿、同知盛卿、前修理大夫経盛卿(登山自害、掘り埋づむる)、前能登守教経。戦死の者には前左馬頭行盛朝臣、前左少将有盛朝臣。海中に入る人は先帝、准后八條局{*23}。侍の生けどりには美濃守則清、左衛門尉信康、阿波民部大輔成良。降人には前安芸守景弘(厳島神主)、民部大輔景信、雅楽助貞経(貞能男)、田内左衛門尉則長、矢野右馬允家村、同舎弟高村、相模国住人熊代三郎家直。{~*20}
とぞ註し申したりける。
 法皇、大きに御感あり。貴賎、悦びあへり。使節広綱を御坪に召されて、合戦の次第、委しく御尋ねあり。叡感の余り、広綱、左兵衛尉に補す。
 同じき日に、徳大寺内大臣実定、院の御所六條殿へまゐられたり。大蔵卿泰経卿を以て、「神鏡、神璽は無為におはします。宝剣は、厳島神主景弘に仰せて、海底を探り求むる。」の由、義経、言上す。「いけどり前内大臣已下の罪科、何様に行はるべきか。」と仰せ下されければ、実定、畏まつて、「璽鏡の事、弁官、並びに近衛司等を差し遣はさるべしといへども、定めて遅怠に及ばんか。まづ軍将{*24}の沙汰として、淀辺に渡し奉り、事の由を奏せば、供奉の人等参向して、迎へ奉るの條、宜しかるべきか。生け捕りの輩が罪の処置、唯叡慮を決せらるべきか。」とぞ申されける。
 同じき五日、猶ほ御不審によつて、北面の下﨟に藤判官信盛を、西国へ下し遣はさる。信盛、宿所に帰らず、鞭を上げて、急ぎ馳せ下る。
 権亮三位中将北の方、伝へ聞き給ひては、「賢くぞ身をなげ給ひける。つひの別れは同じ事と云ひながら、今までながらへて、かく聞きなさば、いかばかりかは悲しからまし。」と、今こそ思ひ知られけれ。
 建礼門院、北政所{*25}を始め奉り、帥典侍、大納言典侍以下、あるいは討たれ、あるいは捕らはれたる人々の北の方、上﨟下﨟、船底に臥しまろび、声をそろへてをめき叫び給へり。人目をも見ぬ人々の、見馴れざる武士の手に懸かつて、都へ帰り上り給ひしは、王昭君が、夷の手に渡されて胡国へ行きし悲しさも、いかでかこれには勝るべき。
 そもそも、諸国七道の合戦によつて、公家も武家も騒動し、諸寺諸山も破滅す。春夏は旱魃して、秋冬は大風洪水。たまたま東作の業を致すといへども、終に西収の勤めに及ばず。三月雨なくして寒風起これば、麦苗秀でず、多く黄死す{*26}。九月に霜降りて、秋早く寒ければ、秋の穂熟せずして、青苗皆かる。兵乱打ちつゞきて、口中の食を奪ひ取れば、天下の人民、餓死に及ぶ。僅かに命を生きたる者も、譜代相伝の田地を棄て、恩愛慈育の子孫にわかれ、「家を出でても身を助けん。」と逃げ隠れ、「境を越えても命を生きん。」と迷ひ行きければ、浪人、ちまたにさすらひ、愁へのこゑ、こゝかしこに充ち満ちたり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「安徳天皇。」とある。
 2:底本頭注に、「二位尼が八條邸に住するので二位尼を指す。」とある。
 3:底本は、「沈め坐(おは)す事を。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 4:底本頭注に、「建礼門院。」とある。
 5:底本は、「塩垂(しほた)れおはすぞ」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 6:底本頭注に、「関白藤原基通の妻。」とある。
 7:底本は、「亡びけり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 8:底本は、「尤もとぞ覚えける。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 9:底本は、「大童(おほわらは)」。底本頭注に、「髪の結び解けて乱れ垂れたること。」とある。
 10:底本は、「僻(ひが)事か、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 11:底本は、「負けまじ、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 12:底本は、「兜の上に」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 13:底本頭注に、「紀州の高野山。」とある。
 14:底本は、「右衛門(の)督二人」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 15:底本は、「聞え辱(はづかし)めず、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
 16:底本は、「見る処に、三十許りの」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 17:底本は、「一定(ぢやう)」。底本頭注に、「必ず。」とある。
 18:底本は、「髄当(すねあて)」。底本頭注に、「髄当を鉄にて作るから重い。」とある。
 19:底本頭注に、「時に取つて興がない。」とある。
 20:底本、この間は漢文。
 21:底本頭注に、「〇若宮 高倉天皇第二皇子守貞親王。」「〇冷泉局 平時忠の女。」とある。
 22:底本頭注に、「平宗盛」とある。
 23:底本頭注に、「二位尼。」とある。
 24:底本は、「軍陳」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 25:底本頭注に、「基通の妻をいふのであらう。」とある。
 26:底本は、「麦黄(むぎきば)み秀(ひい)でずして多く横はる。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。