安徳帝吉瑞ならず 並 義経上洛の事

 この帝をば安徳天皇と申して、御位を受けさせ給ひて、様々の不思議おはしましけり。
 受禅の日は、昼の御座の御茵{*1}の縁、犬、食ひ損じ、夜の御殿の御帳の中に、鳩、入り篭り、御即位の時は、高御厨子の後ろに、女房、俄に絶入し、御禊の日は、百子帳の前に、夫男、あがり居き。
 総じて御在位三箇年の間に、天変地震、打ち続きて隙なく、諸寺諸山よりさとしを奏する事、頻りなり。堯の日、光を失ひ、舜の雨、潤ひなし。山賊、海賊、闘諍、合戦、天行、飢饉、疫病、焼亡、大風、洪水。三災七難、残る事なし。
 「貞観の旱、永祚の風、承平の煙塵{*2}、正暦の疾疫、上代にもありけれども、かれは、その一事ばかりなり。この御代のためしは、伝へ聞き及ばず。御裳濯河の御流れ、かかるべしや。」と、人、傾き申しけり。「漢の高祖は、太公の子。秦王を討つて位に即く{*3}。秦の始皇は、呂不韋が子。荘襄王の譲りを得。舜王は、瞽䏂が息。堯王、天下を任せたり。人臣の、位を受け、猶ほ以て帝位を全うせり。先帝は、人皇八十代の帝、高倉院の后立ちの皇子{*4}におはしませば、天照大神も、定めて入り替はらせ給ひ、正八幡宮も必ず守護し奉るらんに、いかに。」かくは申しけり{*5}。
 これを聞く人、云く、「異国には、実にさるためし多し。我が朝には、人臣の子として、位を践む事なし。この帝、『高倉院の后立ちの皇子。』と申しながら、故清盛入道、天照大神の御計らひをも知らず、高倉院の御恙もましまさぬに、御位を退け奉り、おして位に即け奉る。その身、帝祖といはれ、摂政関白に非ず。ほしいまゝに天下を執り行ひ、君をも臣をもないがしろにし、諸寺仏閣焼き払ひ、上下男女、多く亡ぼししかば、人の歎き、神の怒り、末の露、もとのしづくに帰る様に、平家の悪行、君に帰し、天地の心にも違ひ、冥慮の恵みにも背けり{*6}。『{*7}位の貴からざるを患へずして、徳のたかからざるを患へよ。禄のおほからざるを恥ぢずして、智の博からざるを恥ぢよ{~*7}。』といへり。先帝も、猶ほ帝徳の至りましまさざりけるを、入道、よこしまに{*8}計らひ申したれば、かかる不思議多くして、天下も治まらず、終に亡びおはしましけり{*9}。」とぞ申しける。)
 同じき十六日、九郎判官義経、いけどりの人人を相具して、播磨国明石浦に著く。名にしおふ名所なる上、今夜は、ことに月隈なくさえつゝ、秋の空にも劣らず。ふけ行く儘に、女房達、頭さしつどへて、旅寝の空の旅なれば、夢に夢見る心地にて、夜もすがらうちまどろむ事もなし。只顔に袖を当てて、忍び音をのみぞ泣かれける。
 時忠卿の北の方帥典侍、つくづくと泣き明かし給ふにも、
  雲の上に見しに替はらぬ月影の澄むにつけても物ぞ悲しき
判官、情ふかき人にて、
  都にて見しに替はらぬ月影の明石の浦に旅ねをぞする
と。帥典侍は、妹背の契りの悲しさに、思ひ残す事もおはせず。時忠卿もいけどられて、程近くおはすなれども、相見る事もなければ、昔語りも恋しくて、
  ながむればぬるゝ袂にやどりけり月よ雲居の物語せよ
と。時忠卿も、身は所々に隔てたれども、通ふ心なりければ、
  我が思ふ人は波路を隔てつゝ心幾度浦つたふらむ
と。二人の心中、推し量られて哀れなり。昔、北野天神{*10}の、移され給ふとて、この処に留まり給ひ、
  名にしおふ明石の浦の月なれど都よりなほ曇る空かな
と詠じ給ひける御心の中、帥典侍の、「月よ雲居の物語せよ。」の心の中、取り取りに哀れなり。
 故郷に還り上る事の嬉しかるべけれども、さしも眤まじき人々、多くは水の底に入りぬ。たまたま生き残りたるは、こゝかしこにいましめられ、憂名を流す。たとひ都に上りたりとも、家々は、一年、都落ちに焼けぬ。何処に落ち留まり、誰育くむべきに非ず。雲の上の昔の楽しみ、旅枕の今の歎き、思ひ並べて、「月よ雲居の物語。」と口ずさみ給ひて、涙に咽び給へば、人皆、袖を絞りけり。
 判官は、東男なれども、物めでし、情ある人にて、様々慰めいたはりけり。

神鏡神璽還幸の事

 同じき二十一日、神鏡神璽還幸のこと、院の御所にして議定あり。左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣実定、皇后宮大夫実房、中御門大納言宗家、堀川大納言忠親、前源中納言雅頼、左衛門督実家、源中納言通親、新藤中納言雅長、左大弁兼光ぞ参られたりける。頭中将通資朝臣、諸道勘文を左大臣に下しければ、次第に伝へ下す。左大弁、これを読む。「群議の趣、事多しといへども、神鏡神璽入御のこと、供奉の人、鳥羽に参向して、朝所に渡し奉る。朝所より、儀を整へて大内に幸すべし。」とぞ、定め申されける。

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校訂者注
 1:底本は、「昼(ひ)の御座(おまし)の御茵(おんしとね)の縁(へり)」。底本頭注に、「〇昼の御座 清凉殿内に東面して設けられた御帳台で日中出御の御座所。」「〇御茵 帳内に敷かれたもの。」とある。
 2:底本頭注に、「平将門の乱。」とある。
 3:底本は、「即き、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 4:底本頭注に、「后腹の皇子。」とある。
 5:底本は、「かくは申しけん。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
 6:底本は、「背(そむ)くにあり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 7:底本、この間は漢文。
 8:底本は、「横(よこ)に」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 9:底本は、「亡び坐(おは)しけり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 10:底本頭注に、「菅原道真。」とある。