日巻 第四十四
神鏡神璽都入り 並 三種の宝剣の事
同じき二十五日、神鏡、神璽入御あり。上卿{*1}は、権中納言経房、参議は、宰相中将泰通、弁は、左少弁兼忠、近衛には、左中将公時朝臣、右中将範能朝臣なり。両将共に、壺胡簶を帯せり。職事蔵人左衛門権佐親雅ぞ供奉しける。四塚より下馬して、各、歩行す。まづ頭中将通資朝臣、参向して行事す。内侍所、内蔵寮新造の唐櫃に納め奉る。大夫尉義経、郎等三百騎を相具して前行す。御後ろ、又百騎候す。朱雀を北へ行き、六條を東へ行き、大宮を北へ行き、待賢門に入り、朝所に著御ありけり。蔵人左衛門尉橘清季、かねてこの所に候ひけり。
神鏡、神璽は入御あれども、宝剣は、失せにけり。「神璽は、海上に浮かびたりけるを、常陸国の住人片岡太郎経春が取り上げ奉りける。」とぞ聞こえし。神璽をば{*2}、註の御箱と申す。国の手璽なり。王者の印なり。(習ひあり、云々。)
そもそも神代より三柄の霊剣あり。天十握剣、天叢雲剣、布流剣、これなり。十握剣をば羽々斬剣と名づく。羽々とは大蛇の名なり。この剣、大蛇を斬ればなり。または、蝿斬剣と云ふ。この剣、利剣なり。その刃の上に居る蝿の、自ら斬れずと云ふことなければなり。素盞鳴尊の天より降り給ひけるに帯き給ひたる剣なり。今、石上宮に篭められたり。天叢雲剣をば草薙剣と云ふ。日本武尊、草を薙ぎて野火を免かれ給へる故なり。又は、宝剣と云ふ。内裏に留めて、代々、帝の御宝なればなり。布留剣は、即ち大和国添上郡磯上布留明神、これなり。この剣を布留と云ふ事は、布留河の水上より、一つの剣、流れ下る。この剣に触るゝ者は、石木共に伐り砕き流れけり{*3}。下女、布を洗ひてこの河にあり。剣、下女が布に留まりて、流れ遣らず。即ち、神と祝ひ奉る。故に布流大明神と云ふ。
宝剣は、昔、素盞鳴尊、天より出雲国へ降り給ひけるに、その国の簸河上の山に入り給ひける時、啼哭するこゑあり。声を尋ねて行きて見れば、一の老公と老婆と、小女を中間に置きて、髪掻き撫で、哭し居たり。尊、問ひて曰く、「汝等、誰人ぞ。哭する故、いかに。」と。老公、答へて曰く、「我はこれ、国津神なり。名をば脚摩乳といふ。女をば手摩乳と申す{*4}。この河上の山に、大蛇あり。年々に人を呑む。親を食はる。子を呑まる。親子、互に相歎きて、村南村北に愁へのこゑ、絶ゆる事なし。なかんづく我に八人の小女あり。年々、八岐の大蛇のために呑まる。今、一人を残せり。かたち、人に勝れ、心、世に類なし。名をば奇稲田姫と云ふ。又、曽波姫とも申す。今又、大蛇のために呑まれんとす。恩愛の慈悲、せん方なし。別れを悲しみて泣くなり。」と申せば、尊、これを憐み給ひて、「汝が娘、命を助けば、我にえさせてんや。」と宣へば、老公老婆、手を合はせて悦ぶ。「たとひ怪しの賤男なりとも、娘の命を助けば、惜しむべからず。いはんや尊をや。」とて、即ち奇稲田姫をまゐらす。即ち、后に祝ひ奉る。小女、湯津(湯津とは、祝の浄詞なり。女を后に祝へばなり。)浄櫛{*5}を御髪にさしたまふ。(浄櫛とは潔斎の義なり。)
さては、山の頂にのぼせ奉りて{*6}、父老公に八醞の酒{*7}を召さる。老公、出雲国飯石郡の長者なれば、取り出して、これを奉る。尊、かの酒を八つの槽に湛へて、后を大蛇の居たる東の山の頂に立てて、朝日の光に、后の御影を槽の底に移し給ひたりけるに、大蛇、はらばひして来れり。尾頭ともに八つあり。背には諸の木生ひ、苔むせり。眼は日月のごとくにして、年々呑む人、幾千万と云ふことを知らず。大蛇の八つの尾、八つの頭、八つの岡、八つの谷にはびこれり。大蛇、この酒を見るに、八つの槽の中に八人の美人あり。実の人とおもひ、頭を八つの槽に浸して、「人を呑まん。」とおもひて、その酒を飲み干す。大蛇、頭をたれて、酔ひ臥す。尊、帯びたまへる十握剣を抜きて、大蛇をすたすたに斬りたまふ。故に、十握を羽羽斬と名づく。
蛇の尾、切れず。十握剣の刃、少し欠けたり。怪しみて、きり割りてこれを見れば、一つの剣あり。明らかなること、みがける鏡のごとし。素盞鳴尊、これを取りて、「定めてこれ、神剣ならん。我、私におかんや。」とて、即ち天照大神に奉る。大神、大きに悦びましまして、「吾、天岩戸に閉ぢ篭りし時、近江国胆吹巓に落としたりし剣なり。」とぞ仰せける。
かの大蛇と云ふは、胆吹大明神の法体なり。この剣、大蛇の尾にありける時、常に黒雲たなびきて覆ひける故に、天叢雲剣とは名づけたりけり。天照大神の御孫天津彦尊を、「葦原瑞穂国の主とせん。」とて、天降し{*8}奉る時、八咫鏡、叢雲剣、神璽、三種の神器を授け奉る、その一つなり。代々、帝の御宝なれば、宝剣と云ふ。素盞鳴尊と申すは、今、出雲国杵築大社、これなり。
(かの老公、女を尊に奉る時、潔斎の義にて、浄櫛をさす。后を祝ひ奉り、湯津しけり。湯は、祝の義なり。津は、ことばの助けなり。天津社、国津社と云ふが{*9}如し。されば、今の世までも、斎宮群行の時、帝、自ら斎宮の御額に櫛をさして宣はく、「一度斎宮に祝ひ給ひなば、再び都に帰り給ふべからず。」と仰せなるは、この故なり。又、櫛に取りなし給ひけるは、「蛇の難を遁れん。」となり。爪櫛には、悪しき者の{*10}怖るゝ事あるにこそ。ある人、醜女に追はれて逃げけるに、如何にも遁れ難くして、「捕らはれなん。」としけるに、懐より爪櫛を取り出して打ち蒔きたれば、鬼神、それより還りぬ。さてこそ命は延びにけれ。今の世までも、「なげ櫛を取らぬ。」と云ふは、これより始まれり。老公、女を爪櫛に取り成して、尊に{*11}奉りたれば、大蛇の難を遁れ、命は延び給ひにけり。娘に櫛をさす事を、今の世の人、歌にも、
かつみれど猶ぞ恋しきわぎもこ{*12}がゆつの爪櫛如何ささまし)
崇神天皇の御宇に、神威に恐れおはしまし{*13}、「同殿、たやすからず。」とて、更に剣を改め、鏡を鋳移し、古きをば、大神宮に返し送り奉り、新しき鏡、新しき剣を御守りとす。霊験、全くおとらせ給はず。
景行天皇四十年夏六月に、東夷、朝家を背き、関より東、静まらず。天皇、日本武尊に命じて、数万の官兵差し副へて、東国へ発向す。冬十月朔癸丑、日本武尊、道に出でたまひて、戊午、まづ伊勢大神宮を拝したまふ。斎宮倭姫命を以て、今、天皇の命を蒙りて、東征に赴き、諸の叛者を誅す。こゝに、倭姫命{*14}、天叢雲剣を取りて、日本武尊に授け奉りて云く、「慎しんで、おこたる事なかれ。汝、東征せんに、危ふからん時、この剣を以て防ぎて、助かる事を得べし。又、錦の袋を披きて、異賊を平らげよ。」とて、叢雲剣に錦の袋を付けられたり。
日本武尊、これを賜はりて東に向ひ、駿河国浮島原に著き給ふ。その処の凶徒等、尊欺かんがために、「この野には、くじか多し。狩して遊び給へ。」と申す。尊、野に出で、枯野の荻かき分けかき分け狩したまへば、凶徒、枯野に火を放ちて、尊を焼き殺さんとす。野火、四方より燃え来つて、尊、遁れ難かりければ、佩き給へる叢雲剣を抜いて、打ち振り給へば、刃に向ふ草{*15}、一里までこそ切れたりけれ。こゝにて野火は止まりぬ。又、その後、剣に付きたる錦袋を披き見るに、燧あり。尊、自ら石のかどを取りて、火を打ち出だし、これより野に付けたれば、風、忽ちに起こつて、猛火、夷賊に吹き覆ひ、凶徒、悉くに焼き亡びぬ。さてこそその処をば、焼詰里とは申すなれ。これよりして、天叢雲剣をば、草薙剣と名づけたり。かの燧と申すは、天照大神、「百王の末の帝まで、我が御かたちを見せ奉らん。」とて、自ら御鏡に移させ給ひけるに、初めの鋳損じの鏡は、紀伊国日前宮におはしまし、第二度の御鏡を取り上げ御覧じけるに、取りはづして打ち落とし、三つに破れたるを、燧になし給へり。かの燧を錦の袋に入れ、剣に付けられたりけるなり。今の世までに、人、腰刀に錦の赤皮を下げて、燧袋と云ふ事は、この故なり。
日本武尊、猶ほ夷を鎮めんがために、これより奥へ入り、武蔵国より御船に召し、上総へ渡り給ひけるが、波風荒くして、御船危ふかりけるに、旅の御徒然の料に、御志深き下女を相具し給ひたりけるが、「風波は、竜神のしわざなり。君は、国を治めんがために、遥かに東夷を平らげ給ふ。我、いかでか君を助け奉らざらん。わらは、竜神を宥めん。」とて、舷に立ち出でて、千尋の海に入りにけり。実に竜神、納受ありけるにや、風波、即ち静まりぬ。尊、その後、上総に渡り、夷を随へ給ひける折々には、海に入りし下女、恋しく思し召し出でては、常に、「我が妻よ、我が妻よ。」と召されける御片言、「あづま、あづま。」とぞ聞こえさせ給ひける。東をあづまと云ふ事は、それよりして始まれり。
尊、東夷の凶賊討ち平らげ、所々の悪神を鎮め給ひて、同じき四十三年癸丑に帰り上り{*16}給ひけるが、異賊のために呪詛せられ給ひて、日本武尊、尾張国よりぬるみほとほり{*17}給ひけるが、いとゞ燃え焦がるゝ御心地し給ひければ、「御身を冷やさん。」とて、弓の弭にて地をくじり給ひけるに、冷水、忽ちに湧き出でて、河を流す。これに下り浸り給ひて、御身を冷やし給へり。近江国醒井の水と云ふは、これなり。されども、御悩いとゞ重くなり給ひければ、これより伊勢へ移り給ひ、いけどりの夷、並びに草薙剣、天神に返しまゐらせて、御弟の武彦尊{*18}を御使にて、天皇に奏し申させ給ひけり。日本武尊、終に崩じ給ふ。御年三十。白鶴と変じて、西を指して飛び去り、讃岐国白鳥明神と顕はれ給ふ。草薙剣を、大神より尾張国熱田社に預け置く。
天智天皇七年に、沙門道行と云ふ僧あり。もと新羅国の者なり。草薙剣の霊験を聞きて、熱田社に三七日篭りて、剣の秘法を行なひて、社壇に入り、盗み出して、五條の袈裟につゝみて出づ。即ち、社頭にして、黒雲たなび来つて、剣を巻き取つて、社壇に送り入る。道行、身の毛よだちて、いよいよ霊験を貴み、重ねて百日行なひて、九條の袈裟につゝみて、近江国まで帰る処に、又、黒雲、空より下り、剣を取つて、東を指して行く。道行、「取り返さん。」とて、追ひて行く。近江国蒲生郡に大磯森と云ふ所あり。追初森なり。道行、「剣を取り返さん。」とて、これより追ひ初めければなり。「行業の功、日浅ければこそ、かくはあれ。」とて、道行、又千日行して、二十五條の袈裟につゝみて出づ。筑紫に下り、船に乗りて海上に浮かみ、「望み、既に足りぬ。新羅国の重宝。」と悦ぶ程に、俄に波風荒くして、渡り得ざりければ、「如何にも叶ひがたし。」とて、海中になげ入る。竜王{*19}、これをかづき上げて、熱田社へ送りまゐらす。
「末代には、又、かかる者もありなん。」とて、少しも替へず、剣を四つ造具して、社頭の中に立てられたり。「一の社官が一人に教へ授くる時、五つの指を差し上げて、これを伝ふるためしあり。その外の人、本剣、新剣を知らず。」といへり。天武天皇朱鳥元年六月己巳、天皇、病祟り、草薙剣を尾張国熱田社におくり置かる。(この事、沙門道行は、天智天皇七年に、これを盗む。たとひ三年行なひたらば、天智天皇九年か十年かの事なり。天武天皇朱鳥元年は、十四年を隔てたり。この時、熱田へ送り遣はす、と。両説、実ならず。決すべし。)
校訂者注
1:底本は、「上卿(しやうけい)」。底本頭注に、「公事ある時の奉行。」とある。
2:底本頭注に、「この説は史実として取るに足らぬことは言ふまでもない。次の御剣の説も同様である。」とある。
3:底本は、「流れり。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
4:底本は、「申し、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
5:底本は、「湯津浄櫛(ゆづきよぐし)」。底本頭注に、「〇湯津、浄櫛 湯津爪櫛の訛りである。湯津は五百箇で物の多く盛んなる状。爪櫛は葉の繁き櫛の義である。」とある。
6:底本は、「昇り奉りて、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
7:底本は、「八醞(しほ)の酒」。底本頭注に、「幾度も幾度も打返して醸造する酒。」とある。
8:底本は、「天降り奉る時、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
9:底本は、「云ふ如し。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
10:底本は、「悪者の」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
11:底本は、「取成して奉りたれば、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
12:底本頭注に、「我妹子の約で女を親しみて呼ぶ詞。」とある。
13:底本は、「恐れおはし、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
14:底本は、「倭姫の、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
15:底本は、「刃向の草、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
16:底本は、「帰り給ひけるが、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
17:底本頭注に、「熱気の発すること。」とある。
18:底本は、「武彦尊(たけひこのみこと)」。底本頭注に、「史実上の吉備武彦を思ひ誤りたるもの。」とある。
19:底本頭注に、「海神。」とある。
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