老松若松剣を尋ぬる事
平氏取りて、都の外に出で、准后持ちて、海中に入り給ひたれども、上古ならば、失せざらまし。末代こそ悲しけれ。かづきするあまに仰せて探り、水練の者を入れて求められけれども、終に見えず。天神地祇に祈誓し、大法秘法を行なはれけれども、験なし。
法皇、大きに御歎きあり。「仏神の加護に非ずば、尋ね得難し。」とて、賀茂大明神に七日御参篭あり。宝剣のゆくへを御祈誓あり。第七箇日に御夢想あり。「宝剣の事、長門国壇浦の老松若松と云ふ海士に仰せて、尋ね聞こし召せ。」と。霊夢、新たなりければ、法皇、還御ありて、九郎判官を召されて、御夢の旨に任せて仰せ含めらる。
義経、百騎の勢にて西国へ下向、壇浦にて両あまを召さる。老松は母なり、若松は女なり。勅諚の趣を仰せ含む。母子、共に海に入りて、一日ありて、二人共に浮き上がる。若松は、「仔細なし。」と申す。「我が力にては、叶はず。怪しき仔細ある所あり。凡夫の入るべき所にはあらず。如法経を書写して、身にまきて、仏神の力を以て入るべき。」由、申しければ、貴僧を集めて、如法経を書写して老松に賜ふ。海士、身に経を巻きて、海に入りて、一日一夜上がらず。人皆、思はく、「老松は、亡せぬるよ。」と歎きける処に、老松、翌日午の刻ばかりに上がる。判官、待ち得て仔細を問ふ。「私に申すべきに非ず。帝の御前にて申すべし。」と云ひければ、「さらば。」とて、相具し上洛す。
判官、奏し申しければ、老松を法住寺の御所に召さる。庭上に参じて云く、「宝剣を尋ね侍らんがために、竜宮城とおぼしき所へ入る。金銀の砂を敷き、玉の刻階を渡し、二階の楼門を構へ、種々の殿を並べたり。その有様、凡夫の栖に似ず。心ことば、及び難し。暫く総門にたゝずみて、『大日本国の帝王の御使。』と申し入れ侍りしかば、紅の袴著たる女房、二人出でて、『何事ぞ。』と尋ぬ。『宝剣の行くへ、知ろし召したりや。』と申し入れ侍りしかば、この女房、内に入り、やゝありて、『暫らく相待つべし。』とて、又内へ入りぬ。遥かにありて、大地動き、冰雨ふり、大風吹きて、天則ち晴れぬ。暫くありて、先の女来つて、『これへ。』と云ふ。老松、庭上に進む。御簾を半ばにあげたり。庭上より見入れ侍れば、「長さは知らず、臥たけ二丈もやあるらん。」とおぼゆる大蛇、剣を口にくはへ、七、八歳の小児をいだき、眼は日月の如く、口は朱をさせるが{*1}如し。舌は、紅の袴を打ち振るに似たり。ことばを出して云く、『やゝ、日本の御使。帝に申すべし。宝剣は、必ずしも日本の{*2}帝の宝に非ず。竜宮城の重宝なり。我が次郎王子、我が不審を蒙り、海中に安堵せず。出雲国簸川上に、尾頭共に八つある大蛇となり、人をのむ事年々なりしに、素盞鳴尊、王者を憐れみ、民をはぐゝみ、かの大蛇を失なはる。その後、この剣を尊、取り給ひて、天照大神に奉る。景行天皇の御宇に、日本武尊、東夷降伏の時、天照大神より斎宮を御使にて、この剣を賜ひて、下し給ひし胆吹山のすそに、臥たけ一丈の大蛇となりて、「この剣をとらん。」とす。されども尊、心猛くおはせし上、勅命によりて下り給ひし間、我を恐れ思ふ事なく、飛び越え通り給ひしかば、力及ばず。その後、謀りごとを廻らし、「取らん。」とせしかども、叶はずして、簸川上の大蛇、安徳天皇となり、源平の乱れを起こし、竜宮に返し取る。口に含めるは、即ち宝剣なり。いだける小児は、先帝安徳天皇なり。平家の入道太政大臣より始めて、一門の人、皆こゝにあり。見よ。」とて、傍なる御簾を巻き上げたれば、法師を上座にすゑて、気高き上﨟、その数、並み居給へり。『汝に見すべきに非ず。しかれども、身に巻きたる如法一乗の法の貴さに、結縁のために、もとのみを改めずして見ゆるなり。尽未来際までこの剣、日本に返す事はあるべからず。』とて、大蛇、内にはらばひ入り給ひぬ。」と奏し申しければ、法皇を始め奉り、月卿雲客、皆同じく、奇特の思ひをなし給ひにけり。さてこそ、「三種の神器の中、宝剣は失せ侍り。」と治定しけれ。
(疑ふらくは、「崇神天皇の御宇、霊威に恐れ、新鏡、新剣を移して、もとをば大神宮に送らる。」といへり。しかれば、壇浦の海に入るは、新剣なるべし。なんぞ竜神、「我が宝。」と云ふべきや。次に、素盞鳴命、蛇の尾より取り出だしたる時、大神宮に奉るには、天神の仰せに、「我、天岩戸にありし時、落としたりし剣なり。」と仰す。今又、竜神、「竜宮の宝。」と云ふ。しかれば、竜神と天照大神とは、一体異名か。不審、決すべし、云々。)
同じき日、夜に入りて、故高倉院の第二の宮{*3}、都へ帰り入らせ給ふ。法皇より御迎への御車をまゐらせられ、七條侍従信清、御伴に候ひけり。七條坊城の御母儀{*4}の宿所へ入らせ給ふ。この宮は、当時の帝{*5}の同じ御腹の御兄、「もしの事あらば、儲君まで。」と、二位殿、賢々しく具しまゐらせられたり。「都におはしまさば、この宮こそ御位にも即かせたまふべきに。それ、しかるべき事なれども、四の宮、御運は目出たかりけり。」と、人、申しあへり。今年、七歳にならせ給ふ。御心ならぬ旅の空に出でて、三年を過ぎければ、御母儀も、御乳人持明院宰相も、覚束なく恋しく思ひ奉りけるに、事ゆゑなく入らせ給ひたれば、見奉りて誰々も、悦び泣きしてぞおはしましける。
校訂者注
1:底本は、「させる如し。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
2:底本は、「日本帝の」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
3:底本頭注に、「守貞親王。」とある。
4:底本は、「御母儀(おんぼぎ)」。底本頭注に、「守貞親王の御母は七條院殖子にして藤原信隆の女」とある。
5:底本頭注に、「後鳥羽天皇。」とある。
コメント