裳巻 第四十五

内大臣関東下向 附 池田宿遊君歌の事

 去にし七日は、九郎判官、前内大臣以下のいけどりども相具して、都を立つて、六條堀川の宿所をうち出でけるに、大臣、武士を召して、「こゝに在りしをさなきもの{*1}は、母もなし。我も下りなば、憑もしき者もなくて、いかばかりかは歎き侘び侍るらん。残し留むるこそ心苦しく侍れ。相構へて不便にし給へ。」と宣ひも敢へず、御涙を流されけるぞ哀れなる。夜べ、六條河原にて失ひたるをば知り給はず、かく宣ひけり。猛き夷なれども、「恩愛の道は哀れなり。」と、皆袖をぞ絞りける。
 かくて内大臣父子、美濃守則清以下、都を出で給ひて、会坂関にかゝり、都の方を顧み給ひて、「いつしか大内山も隔たりぬ。」と、流す涙を袖につゝみ、東路や今日ぞ始めて踏み見給ひける{*2}。昔、蝉丸と云ひし世捨人、山科や音羽里に居をしめ、この関の辺に藁屋の床を結びて、常に琵琶を弾きつゝ、和歌を詠じて思ひをのぶ。
  これやこのゆくも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関
  世の中はとてもかくてもありぬべし宮も藁やも果てしなければ
「『流泉、啄木の二曲を伝へん。』とて、博雅三位、三年まで夜な夜な通ひし所なり。」と思ひ出で給ひにけり。蝉丸は、延喜{*3}第四の宮なれば、この関のあたりをば、四宮河原と名づけたり。東三條院{*4}、石山寺に詣で給ひて、還御に、「関の清水を過ぎさせ給ふ。」とて、
  あまた度ゆきあふ坂の関水をけふを限りのかげぞ恋しき
と詠じさせ給ひしも、「我が身の上。」とぞ思し召す。関山、関寺うち過ぎて、大津の打出浦に出でぬれば、粟津原とぞ聞き給ふ。「天智天皇六年に、大和国明日香{*5}岡本の宮より、近江国志賀郡に遷されて、大津宮を造られける所にや。」と思し召し続けつゝ、湖水遥かに見渡せば、跡定めなきあま小舟、世に憂き我が身にたぐひつゝ、勢多の長橋、轟々とうち渡し、野路の野原を分け行きて、野洲の河原に出でにけり。三上嶽を見給へば、緑冷しき山陰の、麓の森に神住めり。三上明神と名付けたり。この神と申すは、第四十四代{*6}の帝、元正天皇の御宇、養老年中に天降り、日本第二の忌火にて、この所にぞ住み給ふ。能宣{*7}と云はれし者こそ、社に詣でつゝ、
  ちはやぶる三上の山の榊葉はさかえぞまさる末の代までも
と詠じけるを思ひ出して、羨ましくこそ思しけめ。篠原堤、鳴橋、駒を早めて打つ程に、今日は鏡に著き給ふ。昔、七の翁{*8}の、老いを厭ひて、
  鏡山いざ立ちよりてみてゆかむ年経ぬる身は老いやしぬると
と詠じけるをも思ひ出して、武佐寺をうち過ぎて、老曽杜をば心ばかりに拝しつゝ、小野の細道露払ひ、醒井宿を見給へば、木陰涼しき岩根より、流るゝ清水すさまじや。何事に付けても心細くぞ思はれける。美濃国関山に懸かれば、細谷川も水の音凄く、松吹く風に時雨れつゝ、日影も見えぬ木の下路に、関の萱屋の板廂、「年経にけり。」とおぼえたり。杙瀬川をもうち渡り、萱津宿をも過ぎぬれば、尾張国熱田社に著きたまふ。この明神と申すは、景行天皇の御宇に、この砌に跡を留め、和光の恵みを垂れ給ふ。一條院の御時、大江匡衡と云ふ博士、長保の末の頃、当国守にて、大般若を書写して、この社にて供養をとぐ。その願文に云く、「我が願、すでに満つ。任限、また満ちたり。故郷に帰りのぼらんこと、その期、いくばくならず。」と書きたりけん事こそ、うらやましくはおぼしけれ。鳴海潟、塩路遥かにながむれば、磯打つ波に袖をうるほし、友なし千鳥おとづれり。二村山を過ぎぬれば、三河国八橋を渡り給ふ。昔、業平が、かきつばたの歌読みたりけるに、皆人、袖の上に涙を流しける所とおぼしけるも、御涙堰き敢へたまはず。矢作宿をも打ち過ぎて、宮路山をも越えぬれば、赤坂宿と聞こえけり。三河入道大江定基が、この宿の遊君力寿と、云ふに後れて真の道に入る事も、あらまほしくや思し召しけん。高師山をも過ぎぬれば、遠江橋本宿に著き給ふ。眺望、殊に勝れたり。南は巨海漫々として、あま船、波に浮かぶ。北は湖水茫々として、人屋、岸につらなれり。磯打つ波繁ければ、群れ居る鳥も声いそがはし。松吹く風高ければ、旅客、睡り覚め易し。浜名の橋のあさぼらけ、駒に任せてうち渡り、池田宿のゆふづゝ{*9}(星の名。)に、今夜はこゝに宿を取る。
 侍従と云ふ遊君あり。情深き女にて、夜もすがら旅をぞ慰め奉る。内大臣は、憂身の旅の空なれば、目にも懸け給はねども、女は、前なる畳に副ひ臥して明かしけり。侍従、「暇申して帰る。」とて、
  東路の埴生のこやのいぶせさに故郷いかに恋しかるらむ
内大臣、優に思し召して、
  故郷も恋しくもなし旅の空都もつひの栖ならねば
侍従と云ふ遊君は、この宿の長者、湯谷が女なり。内に入りて、今夜の御有様、歌の返事まで細やかに語りければ、母湯谷、哀れに思ひて、紅梅の檀紙を引き重ねて文を書きて、右衛門督に奉る。取り次ぎ、父に奉りたれば、これを披き見給ふに、一首あり。
  もろともに思ひ合はせてしぼるらし東路にたつころもばかりぞ
大臣、これにや慰み給ひけん、返事あり。
  東路に思ひ立ちぬるたび衣涙に袖はかわくまぞなき
右衛門督、聞き給ひて、
  三年へし心尽くしの旅寝にも東路ばかり袖はぬらさじ
 明けぬれば、天竜河を渡り給ふに、「水増しぬれば、船を覆す。」と聞き給ふにも、西海の波の上、思ひ出だされけり。かの巫峡の流れ、我が命の危ふき事も思ひつゞけて、小夜の中山に懸かりぬ。南は野山谷より峯に移る路、雲に分け入る心地して、尾上の嵐も、いとすさまじ。菊川宿うち過ぎて、大井河を渡りつゝ、宇津山にもなりぬ。「昔、業平が都鳥に言伝てけん、いづこなるらん。かの鳥しあらば、言伝せまほしく。」思し召す。清見関に懸かりては、昔、朱雀院の御時、「将門追討のために。」とて、平将軍貞盛が奥州へ下りしに、民部卿忠文が、「{*10}漁舟の火影、寒くして波を焼き、駅路の鈴声、夜山を過ぐ{~*10}。」と云へりし唐歌を詠じける昔の跡ぞゆかしき。田子浦を過ぎ行けば、富士の高峯を見給ふに、時わかぬ雪なれど、皆白妙に見渡し、浮島原に著きぬ。北は富士の高峯なり。東西は長沼あり。山の緑、陰を浸して、雲水も一つなり。葦分け小船竿さして、水鳥、心を迷はせり。南は海上漫々として、蒼海渺々たり。孤島に眼遮つて、遠帆、幽かにつらなれり。原には藻塩の煙、片々として、浦吹く風に消えのぼる。昔は、海上に浮かみて、蓬莱の三島の如くなりければ、浮島とも名付けたり。駿河国千本松原うち過ぎて、伊豆国三島社に著き給ふ。この宮は、伊予の三島を祝ひ奉る{*11}。天下旱魃して、禾穂、青ながら枯れけるに、伊予守実綱が命により、能因入道が、
  天くだる現人神の神ならば雨下し給へ天くだる神
と読みたりけるに、炎旱の天より俄に雨下りつゝ、枯れたる稲葉、忽ちに緑になりし現人神、木綿だすきかけて、「末憑もしくなしたまへ{*12}。」と祈念して、箱根山をも歎き越え、湯本宿に著きたまふ。谷川漲り落ちて、岩瀬の浪に咽びけり。源氏物語に、「涙催す滝の音かな。」といへるも思ひ出し給ひけり。
 判官は、事に触れて情ある人にて、道すがらいたはり慰め奉りければ、大臣殿、宣ひけるは、「相構へて、父子が命を申し請け給へ。出家して、心しづかに後世を助からん。」と申されければ、「御命ばかりは、さりともとこそ思ひ給ふれ。さらば、奥の方へぞ遷し奉らんずらん。義経が勲功の賞には、両所の御命を申し請け奉るべし。」と、憑もし気に申しければ、内大臣、「えぞが千島{*13}なりとも、甲斐なき命だにあらば、嬉しき事にこそ。」とて、いとゞ涙を流し給ひけり。
 日数経れば、大磯、小磯、唐河原、相模川、腰越、稲村うち過ぎて、既に鎌倉に著き給ふ。「屠所の羊の歩々の悲しみ、小水の魚の泡の命、かくや。」とおぼえて哀れなり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「平宗盛の末子能宗。」とある。
 2:底本は、「踏み見給ひて、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「延喜の帝即ち醍醐天皇。」とある。
 4:底本頭注に、「円融天皇の女御で藤原実兼家の女。」とある。
 5:底本は、「明香(あすか)」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 6:底本は、「申すは、四十四代」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
 7:底本頭注に、「大中臣能宣」とある。
 8:底本は、「七十翁(なゝそぢのおきな)の」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 9:底本は、「長庚(ゆふづゝ)」。底本頭注に、「太白星即ち金星で宵の明星をいふ。」とある。
 10:底本、この間は漢文。
 11:底本は、「祝ひ奉り、」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 12:底本は、「なりたまへ」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
 13:底本は、「俘囚(えびす)千島(ちしま)」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。