源氏等受領 附 義経伊予守に任ずる事
同じき八月十四日に、除目行なはる。源氏、六人受領す。平氏追討の賞とぞ聞こえし。志田三郎先生義憲、伊豆守に任ず。大内冠者維義、越中守。上総太郎義兼、上総守。加々美次郎遠光、信濃守。遠江守義宗が男、兵衛尉義助、越後守。九郎大夫判官、伊予守に任じけり。鎌倉源二位、挙し申すによつてなり。大夫判官は、伊予守を賜はる上、「院の御厩の別当になりて、京の守護に候へ。」とて、侍十人付けられたり。判官、思ひけるは、「義経、度々の合戦に命を捨てて、既に世の乱れを鎮め、父の敵を亡ぼす。私の宿意と云ひながら、国家の固めなり。これ、莫大の軍功に非ずや。しかるに、関より東は云ふに及ばず、京より西をばたばんずらん{*1}と思ひつるに、僅かに伊予一国、没官の地二十箇所知行せよとの源二位の所存、本意なし。」と思ひけれども、「但し、重ねて思ひ計らふ様ありなん。」と過ごしける程に、僅かに付きたりける十人の侍も、かねて心を合はせたりければ、「親の所労。」「子の病悩。」など云ひて、皆東国へ逃げ下りにけり。判官、いとゞこゝろ得ず思ひける程に、「源二位、判官を討たんとて、関東に様々の計らひあり。」とは、京都に披露ありぬ。「又{*2}、何事のあらんずるやらん。」と、貴賎、こゝかしこにさゞめき合へり。
建礼門院は、西国より上り、「吉田にも仮にたち入らせ給はん{*3}。」と思し召しけれども、五月も立ち、六月も半ば過ぎぬ。「今日までも、ながらへさせ給ふべし。」と思し召さざりけれども、御命は限りあれば、明けぬ暮れぬしけるに、大臣殿父子の首、大路を渡され獄門に懸けられ、本三位中将は、奈良坂にて切られて、卒堵婆に付けてさらさる。かの人々の、今は限りになり給へる有様、人参りて、こまごまと申しければ、女院は、御胸せきて、御涙せきあへさせ給はず。暫しつやつや物をだにも仰せられざりけり。
やゝありて、「この人々、帰り上ると聞こし召ししかば、甲斐なき命ばかりは助かりぬるにや、と思し召しけるこそ、愚かに思ひ侍れ。露の命消えやらで、かかる憂き事を聞くこそ、せめての罪の報いなれ。都近かりけるばかり、心憂かりける事は{*4}あらじ。折に触れ時に随ひて、耳を驚かし心を迷はすも、さすが生ける身は、口惜しきことも多かりけり。露の命、風を待つらん程も、深き山の奥の奥に思ひ入らばや。」と思し召しけれども、さるべき便りなくて過ごさせ給ひけるに、さらぬだに住み荒れたる朽ち坊の、度々の地震に築地も崩れ、門も倒れぬ。いとゞ住ませ給ふべき御有様にも見えさせ給はず。
憑もしき人、一人も侍らず。「地、打ち返すべし。」など聞こし召せば、「惜しむべき御命にはなけれども、只尋常の御事にて消え入らばや。」とぞ思し召されける。緑衣の監使、宮門を守るもなく、伴の御奴、朝ぎよめするもなし{*5}。心の儘に荒れたる籬は、しげき野辺よりもなほ露繁く、折知りがほに、いつしか虫の声々怨むも、「我が身の上。」とぞ思し召す。秋も既に半ばになんなんとす。夜もやうやう長くなる儘に、いとゞ御寝覚めがちなれば、明かしかねさせ給ひけるぞ哀れなる。
八月十七日、改元ありて、文治と云ふ。
1:底本頭注に、「賜はんずらん。」とある。
2:底本は、「披露ありぬ。何事の」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
3:底本は、「立ち入らせ給ふ」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
4:底本は、「事あらじ。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
5:底本は、「緑衣(りよくい)の監使(かんし)宮門(きうもん)を守るもなく、伴の御奴(みやつこ)朝浄(あさぎよめ)するもなし。」。底本頭注に、「〇緑衣の監使 緑衣は六位の位袍である。監使は宮門を固める衛府の官人。」「〇伴の御奴 苑庭を掃除する雑役。」「〇朝浄 毎朝の掃除」とある。
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