土佐房上洛の事
同じき二十九日に、土佐房、鎌倉を立ちて、十月十一日に京著、佐女牛町に宿を取る。義経が宿所は、中四町を隔てたり。「昌俊上洛。」と聞けども、源二位の状なし。昌俊、見え来らず。伊予守、仔細を存ぜり。
同じき十月十七日に、伊予守義経、大蔵卿泰経を以て申し入れけるは、「糸綸に命じて{*1}千里の路に赴き、矢石に交はりて万死の命を忘れ、平氏を討ちて父の恥をすゝぐ。ひとへに義経が功なり。我が君、いかでか抽賞せられざらんや。頼朝、又、殊恩を加ふべきの処に、悉く所領を奪ひ取るの上、忽ちに誅殺せしめんと欲するの間、進退、歩を失ひ、前後、度に迷ふ。まげて官符を下し賜はり、暫く身命を全うせんと欲す。もし勅許なくんば、早く自害すべし。」と申しける。ことばの中に奥旨ありければ、法皇、殊に驚き思し召して、人々に仰せ合はせられけり。
「義経上洛の後、北国の凶徒を誅して洛中安堵し、西海の逆賊を亡ぼして{*2}天下静謐せり。所望に随はば、頼朝が憤り、憚りあり。かの命を背かば、義経、恨みをいだくべし。いかゞあるべき。」と。左大臣経宗、申されけるは、「その難を免かれんために、平将{*3}と云ひ義仲と云ひ、皆、申し請ふに任せて、なし下され畢んぬ。今度に限り惜しまるゝこと、益なからんか。後日に頼朝に謝し仰せられば、何ぞ腹心をのこさんや。」と計らひ申されければ、「従二位源朝臣頼朝卿を追討すべき。」の由、官符を下されける上、「九国、四国の勇士、義経、行家が下知に従ふべし。かねて又、国衙荘園を論ぜず、調庸に備ふべき。」の由、庁{*4}の下し文をなし下されけり。
同じき日に、伊予守{*5}、土佐房を召す。召しに随ひて、昌俊参る。「いかに、何事に上洛ぞ。など又、音信は無きぞ。」と問ふ。昌俊、畏まつて、「且は知ろし召されたる様に、もと奈良の者にて候が、宿願の事侍れども、近年、源平の合戦にうち紛れて、その願を遂げず。かれを果たさんために、七大寺詣の志候ひて、罷り上りて候。明日罷り立ち候間、取り乱し候へば、奈良より罷り上りて、心静かにと相存じつるに候。」と申す。伊予守、あざわらひて、「和僧が上洛、全く七大寺詣に非ず。義経夜討の料なり。大名などを上せば、九郎、用心して、天下の煩ひにもなりなん。又、逃げ隠るゝ事もあるべし。和僧、奈良法師なり。事を七大寺詣と披露して、義経討てとの謀りごとぞや。和僧、源平、糸を乱せるが如く、士卒、蜂の起こるに似たり。しかれども義経上洛の後、両年の間に凶徒を亡ぼし、海内を鎮む。夜討にせんと思ひ寄る條、おろかなり。即ち、召しいましむべしといへども、和僧が勝つに乗らざる前に、義経、手を出すならば、かねて臆病なりと、後の世までも口ずさみに及ばん事、恥に似たり。且は又、舎兄源二位の使なり。いかでか{*6}芳心なかるべき。召しに随ひ参上、神妙。」と云ふ。
土佐房、陳じ申して云く、「全くその儀、侍らず。不審を散ぜんため、起請文を書きまゐらせん。」と云ふ。伊予守は、「起請を書きたればとて、実なるべからず。その上の事、和僧が心に任せよ。」といへば、昌俊、その辺より熊野の牛王、尋ね出だして、その裏に上天下界の神祇、勧請し奉り{*7}、起請文書き、灰に焼きて呑む。宿所に帰つて思ひけるは、「起請は書きたれども、今夜計らずんば、悪しかりなん。」と思ひて、夜討の支度しけり。
伊予守は、その頃、磯禅師が娘静と云ふ白拍子を思ひけり。女に語つて云く、「このくれ程より、いと心騒ぎ、頻りなり。一定、昼の起請法師が夜討に寄せんと思ふなり。」といへば、静、「大路は塵灰立つて、何となく人の足いそがし。打ち解け給ふべからず。」と申す。太政入道の禿童{*8}を二人召し仕ひければ、「土佐房が宿所、見て帰れ。」とて、かれを遣はして、待てども待てども見えず。亥の時の終はり程に、はしたものを召して、日頃のまをとこを尋ぬる由にて{*9}、これを遣はす。
十七日の夜半の事なれば、月は隈なく照りたり。女、程なく帰りて大息つき、申しけるは、「御使禿童とおぼしきは、二人ながら土佐房が宿所の小門に死に臥したり。暁、大仏詣とて、大庭に大幕引き、その中に鞍置馬四、五十匹ばかり引き立てたり。鎧物具身に取りつけて、手綱をとり、鞍に手うち懸けて、只今乗らんずる様に候。」と云ふぞ遅き、土佐房昌俊、並びに児玉党等六十余騎、十七日の子の刻に、伊予守義経の六條堀川の宿所におし寄せて、鬨の声を発す。館内には、慮らざることなれば、義経を始めとして、わづかに七騎ぞありける。
伊予守、鬨の声を聞き、「さればこそ、起請法師が所為なり。但し、その僧は、けやけからず{*10}。何事かあるべき。」とて、ちとも騒がず。静、「物をばあなどるまじき事なり。」とて、鎧を取りて打ち懸け、灸治し乱れて、いたはり{*11}の折節なりけれども、鎧小具足取り付けて、縁の際に立ち出でて、「門を開け。」と下知す。舎人、馬を待ち儲けたり。義経、馬に乗つてかけ出づ。「今日このごろ、日本国に誰かは義経を思ひかくべき。いはんや昌俊法師をや。あますな、者ども。」とて、たて横散々にかけければ、木の葉を嵐の吹くやうに、さと左右へぞ散りたりける。伊予守、引き退きて、さし詰めさし詰め射ければ、あだ矢なし。寄せ手も矢前をそろへて射けり。源八兵衛尉広綱は、内兜を鉢付の板に射付けられて、馬より落ちて死にけり。熊井太郎は、膝節いさせて、死生定まらざるなり。義経、敵の中にかけ入りて、「あますな、射取れ。」と下知しける上、郎等ども、こゝかしこより馳せ集まりければ、昌俊が軍敗れて、河原を指して逃げ走る。行家、この事を聞き、馳せ来りければ、夜討の党類、いよいよ四方に敗れ散る。
昌俊は、河原を上りに落ちけるを、「その僧、あますな、若党。」とて、義経は、暁天に院の御所へ馳せ参ず。鎧{*12}の上に矢多く折れ懸けたり。胡簶に矢わづかに三筋ぞ残りたりける。猛将の條は、人の知る所、世のゆるす所なれども、その気色、実にゆゝしかりければ、人、称美しあへり。昌俊は、大原路にかゝり、竜華越を志し、北山を指して落ちけるが、軍兵、二手三手に差し廻し、先を切つて延びやらず。昌俊、大原より薬王坂を越え、鞍馬山へ逃げ篭る。伊予守、ちご童の時、当寺居住のよしみありて、大衆法師原、山踏みして尋ねける程に、鞍馬の奥僧正谷と云ふ所にて搦め捕り、伊予守に奉る。
大庭に引きすゑて、「いかに、和僧は、腹黒なしと起請書きながら、かやうの結構をば巧みけるぞ。冥覧、頂に在り。神罰、踵を廻らさず。奇怪奇怪。」と云ひければ、土佐房、「今は助かるべき身に非ず。」と思ひて、悪口に及ぶ。「夜討は二位家の結構、起請は昌俊が私の所作なり。必ずしも冥罰にあらじ。只自然の運の尽くるにこそ。互にその期あるべし{*13}。」と云ふ。伊予守、腹を立てて、「しや頬、打て。」とて、頬を打たせたりければ、昌俊、面を振らず、顔を損ぜず。只、「飽くまで打ち給へ、打ち給へ。昌俊が顔、我が頬にあらず。これは、源二位家の御頬なり。この代りには、又鎌倉殿、伊予守殿の顔を打ち給はんずれば、思ひ合はせ給はんずらん。」と申す。伊予守、からからとうち笑つて、「和僧が志、誠に神妙なり。主を憑むと云ふは、かくこそあるべけれ。めしうどなれども土肥が親しくなりけるは、むべ理なり。」と感じて、「命惜しくば助けん。二位殿へ参れ。」と云ひければ、昌俊、「取り替へもなき命を奉つて、鎌倉を立ちし日より、生きて帰るべしと存ぜず。夜討し損じ、いけどられぬる上は、申し請ふべき命に非ず。芳恩には、急ぎ頭をめせ。」と申す。伊予守以下、侍ども、感じ申しけり。「さらば切れ。」とて、六條河原に引き出して、京の者に中務丞友国と云ふ者、切りてけり。
伊予守には、二位家よりあまた人を付けたりける内、安達新三郎清経と云ふ雑色あり。「下﨟なれども、よき者なり。旗差にせよ。」とて付けられたりけれども、実には、「九郎冠者、謀叛をもおこし、頼朝を背かば、急ぎ告げよ。」との検見の使{*14}なりければ、土佐房が討たるゝを見て、清経、その暁、鎌倉へ逃げ下りて、二位殿にかくと申しければ、「あゝ、九郎は、頼朝が敵には、よくなりにけり。今は、憚るべからず。」とて、弟に三河守範頼を大将軍にて、六万騎の兵を相副へて、「上洛すべき。」の由、申されければ、範頼、既に出で立ちて、小具足ばかりにて、熊王丸に兜持たせて、二位殿に見参し給ふ。
「和殿とても、打ち解くべきに非ず。九郎が様に、二の舞もやと存ずれば、上洛の事、暫く相計らふべし。」と宣ふ。三河守、小具足解き置き、「ゆめゆめその義を存ぜず。起請仕るべし。」とて、背き奉るべからざるの由、梵天帝釈下し奉りて、百日に百枚の起請文を書き上げたれども、用ゐずして、範頼、暫く宥められけり。「義経誅戮のために、北條四郎時政、土肥次郎実平、上洛すべき。」のよし、評定あり。
高直斬らる 並 義経庁の下し文を申す 附 義経女になごりを惜しむ事
同じき十一月一日、肥後国の住人原田大夫高直、切られけり。これは、この三箇年の間{*15}平家に付きて、度々合戦に勲功ありしかども、平家滅亡の後は、安堵し難うして、「命ばかりもや。」と思ひて、頚を延べて降人に下りたりけれども、「源家敵対の罪科、遁れ難し。」とて、かく行なはれけり。
同じき二日、伊予守義経、法皇の御所六條殿に参ず。何となく、見る人上下、恐れを成して、ひそまる気色なりけるに、思ふよりもしづかにして、忍びやかに大蔵卿泰経朝臣に案内したりければ、出で合ひ対面ありけるに、義経、畏まつて申す様、「源二位頼朝が、度々の奉公をば忘れて、由なくにくみ思ふ事、更にその意を得ず。その誤りなき由、聞きや直すと思ひ候へども、いよいよにこそ承り侍るなり。今は思ひ切りて、京都にて如何にもなるべく候に、君の御ためにも人のためにも煩ひあるべし。西国の方へ罷り下るべき由、思ひ立ち侍り。しかるべくば、豊後国の住人惟妙、惟義等がもとへ、始終見放さず合力すべき由、院の庁の御下し文申し給ひ候ひなんや。宸襟を休め奉り、度々の軍功、いかでか思し召し捨てらるべき。最後の所望、唯この事に侍り。」と、かきくどき申しければ、泰経、奏聞す。
法皇、聞こし召し、御進退の間、思し召し煩ひて、即ち泰経を以て殿下に申さる。左大臣に仰せられ、又、蔵人左少弁定長を御使にて、右大臣に仰す{*16}。各計らひ申されけるは、「洛中にて合戦に及ばば、朝家の御大事も出来すべし。軍士を外土へ出さるゝ事、穏しき事にこそ。」と奏し申されければ、申し請ふに任せ、庁の御下し文をなされにけり。義経、畏まりてこれを賜はり、出でぬ。
同じき日の夕、夜に入りて、義経、最後の別れを惜しみつゝ、女のもとへ行きけり。前平大納言時忠卿の娘なり。月頃は、志深く通ひけれども、源二位に中悪しくなる由、披露の後は、この女房にも打ち解けず。「平家を亡ぼし、時忠をいけどりたりしに、文箱を乞はん料に、こゝろならず情を篭めしばかりなり。女なりとも義経をば、よき敵とこそ思ふらめなればとて、かれがれ{*17}になりたりけるが、都を落ちなん後は、再び云ひ通はさん{*18}事もあるまじ。行きて、事の様をも見聞かん。」と思ひて、忍びて、かの宿所の垣根にたゝずみ、聞きければ、かたへの女房に物語すとて、「伊予守は、源二位に中悪しくなりて、都を出づべしと聞こゆ。世をつゝみて、云ふ事も無きやあらん。一夜の契り、おろそかならず。さすが積もりぬる月日なれば、忍び難く侍る。などやおとづれざるらん。うらめしくも人の心、つれなかりけり。」とて、
つらからば我もろともにさもあらでなど憂き人{*19}の恋しかるらむ
とうち詠じて、さめざめと泣きけり。伊予守、これを聞き、「心替はりはなかりけり。」と哀れに思ひければ、今夜はこゝに留まりて、こしかたゆくすゑの物語、互に袖を絞りける。
女房、云ひけるは、「母には死して別れぬ。父には生きて別れぬ。便りなき身なり。誰哀れを掛くべしとも思ひ侍らず。しかるべき先の世の契りにこそ近付き侍らめ。如何なる有様におはしますとも、相具し給へ。」と歎き給ひけり。伊予守は、「実にさるべきにこそ侍れども、義経、源二位に中違ひぬる上は、日本国、誰か敵にあらざるべき。今は、身一つの置き所なければ、いづ方へも落ち忍ぶべし。如何ならん末の代までもとこそ思ひ侍りしに、心に任せぬ身の憂さよ。留め置き奉りて後いかならんと、かねて思ふこそ心苦しけれ。」とて、きぬぎぬになる暁の空、出づるも留まるも、さこそなごりは惜しかりけめ。
1:底本は、「糸綸(しりん)に命じて」。底本頭注に、「礼記に『王言如(レ)糸、出如(レ)綸』とあるにより綸言を奉じてといふこと。」とある。
2:底本頭注に、「〇北国の凶徒 木曽義仲のこと。」「〇西海の逆賊 平氏の軍。」とある。
3:底本頭注に、「平氏の将軍即ち宗盛。」とある。
4:底本頭注に、「院庁。」とある。
5:底本頭注に、「源義経。」とある。
6:底本は、「争で芳心(はうしん)なかる可き。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
7:底本は、「熊野の牛王(ごわう)尋ね出して、其の裏に上天下界(じやうてんげかい)の神祇勧請(じんぎくわんじやう)し奉り、」。底本頭注に、「〇牛王 神社より出す牛王宝命と記したる符の名。」「〇勧請 神名を記す。」とある。
8:底本は、「太政入道の禿童(かむろわらは)」。底本頭注に、「清盛に召使はれたる禿童。」とある。
9:底本は、「半物(はんたもの)を召して、日比(ひごろ)の寝夫(まをとこ)を尋ぬる由にて」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇半物 上品にもあらず下品にもあらぬ中品の召仕女。」「〇日比の寝夫 日頃契り置く密夫。」とある。
10:底本は、「尤(けやけ)からず」。底本頭注に、「際立つたものではない。」とある。
11:底本は、「労(つか)れの」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
12:底本は、「兜の上に」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い改めた。
13:底本は、「互にその期あるべき。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
14:底本は、「検見(けんみ)の使」。底本頭注に、「目付けの役。」とある。
15:底本は、「三箇年間」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い削除した。
16:底本頭注に、「〇殿下 関白藤原基通。」「〇左大臣 経宗。」「〇右大臣 兼実。」とある。
17:底本頭注に、「離れ離れ。」とある。
18:底本は、「云ひ通はん事」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い改めた。
19:底本は、「浮き人」。底本頭注に従い改めた。
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