巣巻 第四十七
北條上洛平孫を尋ぬ 附 髑髏尼御前の事
「平家は、一門広かりしかば、かれ等が子孫、定めて京中に多くあらん。尋ね捜して誅すべし。」と、源二位、北條時政に仰せ含められければ、時政、上洛して、「平家の子孫尋ね得たらん者は、訴訟も勧賞も請ひによるべし。」と披露しければ、案内知りたるも知らざるも、「賞に預からん。」とて、上下男女、伺ひ求めければ、多く尋ね出しけるこそ、人の心、うたてけれ。「実の平氏の子ならぬ者も、多く召し捕られける。」とぞ聞こえし。いたくをさなきをば、水に沈め、土に埋づむ。少し成人したるをば、刺し殺し、突き殺す。母の悲しみ、乳母の歎き、類ふべき方なかりけり。北條も、子孫多くありけるうへ、さすが岩木ならぬ身なれば、かやうに情なく振舞ひけるも、「いみじ。」とは思はず。世に随ふ習ひ、心憂く思ひける。
東山長楽寺と云ふ所に、阿証坊印西とて、貴き上人おはしけり。慈悲の思ひ深うして、物を憐れみ、柔和の性静かにして、禁戒を犯さず。世こぞつて、「慈悲第一の阿証坊。」と云ふ。この人、西山栂尾の明恵上人に謁して、かへり給ひけるに、一條万里小路を通り給ふ。一條面は平門、小路面は両折戸に土門、薄檜皮の御所の前に、人多く集まりて、ひしめき合へり。立ち寄りて、やゝ見ければ、門々に武士、あまたあり。内より五、六歳ばかりなるをさなき人の、梧竹に鳳凰織りたる小袖に、上に練貫の小袖を打ち著せて、地白の直垂に玉だすき上げて、下腹巻に烏帽子がけして、太刀ばかり帯きたる男の、肩に乗せて、大路に出でて、西を指して走る。見れば、なゝめならずいつくしき小児なり。髪黒々と生ひ延びて、肩の廻り過ぎたり。乳母とおぼしき女房の二十四、五ばかりなるが、かちはだしにて、泣く泣く、「後れじ。」と走り行く。
上人、これを見るに、「この程聞こゆる、平家の子孫を武士が取りて失はんとするにこそ。誰人の子孫なるらん。」と、人に問ひけれども、分明にも謂はず。「たゞ事に非ず。この人の果て、見ん。」と思ひて、西の方へおはしける程に、又、二十余りの女房のなゝめならずいつくしきが、いつ土踏みたるらんともおぼえず、見るもいたはしかりけるが、唐綾の二つ小袖に練貫の二つ小袖をうち纏ひて、顔も隠さず恥をも忘れて、道をも定かに歩まず、現心もなげにて泣く泣く行くを見るに、「これは、母上ならん。」とぞ{*1}おぼえける。かたがた哀れに思して、駒を早めておはしける程に、蓮台野の方へ向つて走りけり。遥かに奥に行きて、峯の堂と云ふ所あり。このすそに、古き墓ども多くあり。その辺に下しすゑて、肩に乗せたる男は、汗押し拭ひて、傍らに休み居たり。継いで走れる男、風情なく走り寄りて、取つて抑へて膝の下におしかふ{*2}かとすれば、やがて頚をぞ切りてける。首をば、古き石の卒堵婆の地輪にすゑて、上なる練貫の小袖にて、刀押し拭ひて、身をばそばなる堀に投げ入れて、やがて走り帰りにける。
上人、つくづくとこれを見給ひて、涙を流し、「あゝ、口惜し。かかる事を見つる心憂さよ。何しに中々来りけん。」と、後悔し給へども、力なし。死人の首のもとに{*3}立ち寄りて、泣く泣く阿弥陀経読み、念仏申して、後生を弔ひ給ひける程に、母上も乳母も、涙に汗も争ひて、出で来。母は、切りてすゑたる首を見て、走り寄り、懐かし気に取り付きて、「こは、何と成りぬる有様ぞ。夢かや、夢かや。」と云ひながら、やがて倒れて絶え入りにけり。乳母の女房は、堀なる身をいだき上げて、首もなき死人をとりて、これも同じく消え入りぬ。上人、これを見給ひて、「日頃は、音にこそ聞きつるに、今まのあたり、かかるかはゆき事{*4}を見る事よ。」と、落つる涙に墨染の袖、白妙にこそ{*5}絞りけれ。
夕日、既に山の端に傾き、いぶせき山の中なれば、「この人々も、失はれなんず。如何すべき。」とて、上人、よりて事の仔細を尋ぬれども、暫しは呆れて物もいはず。様々教化して、「御命は、限りある事に侍り。今日、かかる憂目を御覧ずるも、前世の事にこそ侍らめ。折節、愚僧参り会ひて、後世をも弔ひ奉れば、同じ御事と云ひながら、若公の菩提も助かり給ひぬらん。一度にたへぬは思ひにてこそ侍るなれば、帰り給ひて、後生をこそ弔ひたまはめ。」と宣へば、女房、現心もなくして、「こは如何にと云ふ事ぞ。こゝをばいづこと申す所にて侍るぞ。」と宣ひければ、上人、「こゝは、蓮台野と申して、亡き人を送る鳥辺野{*6}なり。たまたまあるものは死人の骸、草深うして露滋し。いぶせくあやしき所なり。」と答へ給ふ。
女房、人心地出で来て宣ひけるは、「北條とかや、上りて、平家の子孫失ひ侍りなど聞きしかば、人の上ともおぼえず、憂目をか見んずらんと、日頃は思ひ儲けたりつれども、愚かにも、只今の事とは思ひ侍らずこそありつるに、何者か云ひ伝へけん、俄にたばかりとられて、出で侍りつれば、最後のものなども、すゝむる事なし。懐かしくいとほしく、面影をも見ずかきくらす別れの悲しさに、心一つに迷ひ出でたりつれども、そこはかともおぼえず。元より西も東も知らざる身にて侍る上、かかる歎きさへ打ち副へて、物の心もおぼえず。今朝の華やかにいつくしかりつる有様の、今かく見るべしとは思ひ侍らず。こは何となりぬる事ぞや。」とて、身もなき首を抱きて泣き給へば、乳母の女房は、頚もなき身をいだきて、共に泣きけり。
上人、宣ひけるは、「こゝにかくては、如何おはしまし侍るべき。帰り給ひてこそ、ともかくも思し召しなり給はめ。女房の御身として、かかる山に渡らせ給はば、盗人など云ふ情なき者も出で来て、御恥に及び、又、人を損ずる獣なども参りなば、中々口惜しかるべし。疾く里に出でおはしませ。」と、様々勧め奉れば、女房、宣ひけるは、「今は、命を惜しむべき身にも侍らばこそ、帰りても嬉しからめ。左様にて消えも失せなば、若君と一つ闇路を伴ひたれば、中々嬉しく侍りなん。出づる日の如く{*7}わりなく思ひつるをさなき者には後れぬ。また命惜しとも思はず。」とて、声も惜しまず泣きくどき給ひければ、上人、「さらでだに、女人は五障三従とて、罪深き御事にて侍り。我が御身こそ悲しき地獄に落ち給ふとも、さしも御いとほしき若君の、刀のさきにかゝりてうせ給ひぬるを、御弔ひもなくて、悪しき道へ堕とし奉らんと思し召し侍るか。長き闇路を祈り助け給はんこそ、遠き御情にて侍るべけれ。一樹の陰、一河の流れと云ふ事もあれば、先立ち給ふ御歎きはさる事なれども、亡き人の御ためには、そも由なし。」など、一度は教訓しつ、一度はおどしつ宣ひけれども、猶ほ悲しみの涙、色深うして、「同じ道に。」と焦がれ給ひけるが、やゝ暫くありて、女房、「さらば、こゝにて様を替へばや。」と宣へば、上人、「それは、さるべき御事にも侍るべし。」とて、蓮台野に池の坊と云ふ所あり。その傍らに、地蔵堂と云ふ御堂に具足し、入れ奉りて、傍らの庵室より剃刀を借り寄せて、持ち給へる水瓶にて髪を洗ひ、たけに余れる簪{*8}をおろし奉る。落つる涙、髪の雫、露を垂れてぞ争ひける。御乳母も、「共にならん。」と云ひけるを、様々制し給ひけるが、自ら髪を切り落としたりければ、力及ばず剃り給ふ。
その後、長楽寺の坊に誘ひ入れ奉りて、四十八日の念仏を始め、七日七日の仏事営み、御菩提を弔ひ給へば、母上も乳母も、嬉しくこそは{*9}思はれけれ。されども、首をば身にそへて放ち給はず。又、「この若公、慰みに。」とて、常にもてあそび給ひける小車と、二つを並べ置きて、恋しき時は、これを見てぞ慰み給ひける。乳母は、終に思ひ死ににうせにけり。
念仏結願し給ひければ、尼御前、上人に申されけり。「このをさなき者の父と申すは、本三位中将重衡卿にて侍りき。大仏殿焼き奉りて、罪深き者にありしかば、その報いにこそ、末の露まで{*10}も、かゝる憂目にもあひ侍るらめ。されば、懺悔のために、奈良へ参り侍らばや。」と仰せられければ、上人、「只御心しづかに閉ぢ篭り、御念仏申して、かたがたの御菩提を弔ひ給はば、これに過ぎたる懺悔滅罪の功徳、あるべからず。」とすゝめ、制し給ひけれども、しひて暇を乞ひ、奈良へぞ参り給ひける。暫く都にもおはしたくは思し召しけめども、若公には別れ給ひぬ。その形見にもと思ひ給ひし乳母をさへ先立てて、「つれなき命の、今日までも何にながらへて。」とぞ、常は歎き給ひける。
奈良に参りて、興福寺、東大寺の焼跡どもを拝み、廻り給ふにも、さこそ罪深く、悲しく思しけめ。御姿をやつし、乞食修行者の様になり果てて、浅まし気にて、行き寄る所を臥しどとし、乞ひ得る物に命を繋ぎて、悲しみありきける程に、既に年の暮にもなりぬ。
修行者の尼ども多くありけれども、この尼を見て、うとみけり。「さもぞ、怖ろしき尼よ。ひたすら下﨟かとすれば、さにはあらず。なま尋常気{*11}なる者がする事の恐ろしさよ。我が子にてありけるか、養ひ君にてありけるか、五つ六つばかりなるをさなき者の頚を懐に入れ持ちて、常は取り出して、いつくしき小車に並べて見る事のきたなさよ。親子に別るゝ事は、よの常の習ひぞかし。さまで、あれ程にあるべしともおぼえず。」とて、にくむ者も多し。又、「堪へぬ思ひは、さのみこそあれ。かなしき子に後れて、いとほしさの余り、心の置き所のなさにこそするらめ。如来在世の往昔に、提婆提女と云ひけるは、一子のむすめを先立てて、その身を干し堅めて、頚に懸けてありきけり。ためしなきにもあらず。」とて、情をかくる者もありけり。かくは云ひけれども、髑髏の尼と名付けて、修行者の中には交ぜざりけり。されども、これを歎かず。人のことばども、聞きも入れず。元来思ひ切りて出でたれば、栖を定むる事なし。こゝの唐居敷、かしこの築地のはら、木の根、萱の根、いづくにも傾き臥してぞ悲しみける。
年も既に明けければ、「救世観音の草創なり。仏法最初の霊地なり。」とて、人に相具して、天王寺へぞ参り給ふ。西門にて七日七夜、湯水を飲まず、断食念仏して居たりけるが、七日と云ひけるくれ程に、今宮の前、木津と云ふ所より、海人を語らひて、膚に隠し著たりける綾の小袖の垢付きたりけるを脱ぎてたび、「この難波の沖に、この車の主にてある者の、死したる骨を入れんと思ふなり。」とていざなひければ、あま、哀れに思ひて、船に乗せ奉り、遥かの沖に漕ぎ出す。「こゝの程こそ、骨をも御経をも入るゝ所にて侍らん。」と申しければ、「さらば。」とて、舷に立ち寄り、西に向ひて念仏二、三百返ばかり申して、車と首とを括り合はせて、「入れん。」とする由にもてなし、手に持ち給ひたりけるが、左右の掌を合はせながら、「南無帰命頂礼阿弥陀如来、太子聖霊。先人羽林{*12}、若公御前、必ず一つ蓮に迎へ取り給へ。」と唱へつゝ、海へぞ入りたまひにける。「如何にや、如何にや。」と云ひけれども、深く沈みて見えざりければ、海人、力及ばずして、むなしき船を漕ぎ戻す。
西門にかへりて、この哀れを語りければ、伴ひたりける者どもも、「いとほしや。実にさる人のありつるぞや。この程は、断食念仏しつるが。早思ひ切りたる人なりけり。」と涙を流し、次の日のまだ朝{*13}、海士ども、船に乗りつれ、遥かの沖に出でて見れば、尼、波にぞ浮かびたる。昨日の事なりければ、事切れ果てぬ。これを取り上げて灰に焼き、「元来、好み給ひぬる所なり。」とて、又海に入れて、西門に集まりて念仏申し、追善しけるぞ情ある。
さる程に、長楽寺の上人のもとには、正月十五日より毎年に四十八日の間、念仏法問の談議あり。上人の弟子に、天王寺に信阿弥陀仏と云ふ僧、上洛して、この談議に遇ひけるが、法問の隙に、よろづの物語のついでに、かの僧、申し出したりければ、上人、聞き給ひて、「なになに、今一度語り給へ。」とて、委しくいはせて、涙をはらはらと流し、「さる事侍りき。それは、こゝにて髪をおろしたりし人なり。持ちたる首は、子なり。」とて、一條万里小路より蓮台野の有様、出家して後世を弔ひしまでに、泣く泣く語り給ひければ、諸僧、涙に溺れ、聴衆、袖をぞ絞りける。その後、一文一句の談議も、随喜聴聞の功徳をも、この人の孝養にぞ廻向せられける。その上、諸僧を勧進して、一字三礼{*14}の一日経を書き、難波の海へぞ送り給ふ。母上も若君も、たとひ罪業深くとも、印西上人の志、などか生死を出でざらん。
そもそもこの女房と申すは、故少納言入道信西には孫、桜町中納言成範卿の娘に、新中納言御局とて、内裏に候はれける人なり。本三位中将重衡卿の時々通ひ給ひし女房、最後のなごりを悲しみて、八條堀川へ迎へ給ひし人の事なり。
1:底本は、「と覚えける。」。『新定源平盛衰記』(1988年刊)に従い補った。
2:底本頭注に、「膝の下に押へつける。」とある。
3:底本は、「首のもと立ち寄りて、」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
4:底本頭注に、「不憫なこと。」とある。
5:底本頭注に、「墨染の法衣が涙のために色がさめて白くなると大げさにいふ。」とある。
6:底本は、「鳥辺野(とりべの)」。底本頭注に、「京都東山清水寺の附近にある墓地であるが、こゝでは其の地名を借りて単に墓地といふ意」とある。
7:底本頭注に、「東天に登る朝日などのやうに思ひ末頼もしくて非常に可愛がつたこと。」とある。
8:底本は、「簪(かざし)」。底本頭注に、「髪。」とある。
9:底本は、「嬉しくこそ思はれけれ。」。『通俗日本全史第3巻 源平盛衰記上』(1912年刊)に従い補った。
10:底本頭注に、「死に後れた妻子まで。」とある。
11:底本は、「なま尋常気(じんじやうげ)」。底本頭注に、「普通でない。」とある。
12:底本頭注に、「先人とは重衡をいふ 羽林は近衛府の唐名で重衡が近衛中将であつたからいふ。」とある。
13:底本は、「まだ朝(あした)」。底本頭注に、「早朝。」とある。
14:底本は、「一字(じ)三礼(らい)」。底本頭注に、「一字書く毎に三度礼拝する」とある。
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