義経記

巻第一

一 義朝都落ちの事

 本朝の昔を尋ぬれば、田村、利仁{*1}、将門、純友、保昌、頼光{*2}、漢の樊噲、張良は、武勇といへども、名をのみ聞きて目には見ず。まのあたりに芸を世にほどこし、万事の目を驚かし給ひしは、下野の左馬頭義朝の末の子、源九郎義経とて、我が朝にならびなき名将軍にておはしけり。
 父義朝は、平治元年十二月二十七日に、衛門督藤原信頼卿にくみして、京の軍にうち負けぬ。重代の郎等ども、みな討たれしかば、その勢、二十余騎になりて、東国の方へぞ落ちたまひける。成人の子どもをばひき具して、をさあいをば{*3}都に捨ててぞ落ちられける。嫡子、鎌倉の悪源太義平。二男中宮大夫進朝長、十六。三男兵衛佐頼朝、十二になる。悪源太をば、「北国の勢を具せ。」とて、越前へ下す。それも叶はざるにや、近江の石山寺にこもりけるを、平家、聞き付け、難波、妹尾を差し遣はして生け捕り、都へ上り、六條河原にて斬られけり。弟の朝長も、せんぞく{*4}が射ける矢に、弓手の膝口をしたゝかに射られて、美濃国青墓といふ宿にて死にけり。
 そのほか、子ども、方々にあまたありけり。尾張国熱田の大宮司の女の腹にも、一人ありけり。遠江国蒲と云ふ所にて成人し給ひて、蒲の御曹司{*5}とぞ申しける。後には三河守と名乗りたまふ。九條院の常磐が腹にも三人あり。今若七つ、乙若五つ、牛若当歳子なり。清盛、これを取つて斬るべき由をぞ申しける。

二 常磐都落ちの事

 永暦元年正月十七日の暁、常磐、三人の子どもひき具して、大和国宇陀郡岸の岡と云ふ処に、契約{*6}の親しき者あり。これを頼み、尋ねて行きけれども、世間の乱るゝ折ふしなれば、頼まれず。その国の大東寺と云ふ所に、隠れ居たりける。常磐が母、関屋と申す者、楊桃町にありけるを、六條よりとり出だし、拷問せらるゝよし聞こえければ、常磐はこれを悲しみ、「母の命を助けんとすれば、三人の子どもを斬らるべし。子どもを助けんとすれば、老いたる母を失ふべし。子に親をばいかゞ思ひかへ候べき。親の孝養する者をば、堅牢地神も納受あるとなれば、子どもの為にもなりなん。」と思ひつゞけ、三人の子をひき具して、泣く泣く京へぞ出でにける。六條へこのこと聞こえければ、悪七兵衛景清、監物太郎に仰せ付け、子どもを具して、六條へ参りける。清盛、常磐を見給ひて、日頃は、「火にも。水にも。」と思はれけるが、今怒れる心も和らぎけり。
 常磐と申すは、日本一の美人なり。九條院{*7}は、色好みにておはしましければ、洛中より容顔美麗なる女房を千人召されて、その中よりも百人選び、百人の中より十人すぐり、十人の中より一人選び出だされたる美人なり。まことに、「漢の李夫人、楊貴妃も、これには過ぎじ。」と覚えける。清盛、御心をうつされ、「我にだにも従ふものならば、末の世には、この者どもの子孫の、いかなる仇ともならばなれ、三人の子どもをも助けばや。」と思はれける。頼方、景清に仰せ付けて、七條朱雀にぞ置かれける。日番をも、頼方が計らひにして守護しける。
 清盛、常は常磐がもとへ文を遣はされけれども、取りてだに見ず。されども文の数も重なりければ、貞女両夫にまみえずと云ふことばにもはづれ、又、世の人のそしりをも思はれけれども、唯三人の子どもを助けんために、馴れぬ衾のもとに新枕を並べ給ひけり。さてこそ常磐は、三人の子どもをば、処々にて成人させ給ひけり。
 今若、八歳と申す春の頃より、観音寺にのぼせ、学問させて、十八の年しやうかい、禅師の君とぞ申しける。後には、駿河国富士の裾野におはしけるが、悪襌師と申しけり。
 八條におはしけるは、そし{*8}にておはしけれども、腹あしく{*9}恐ろしき人にて、賀茂、春日、稲荷、祇園の御祭ごとに、平家を狙ふ。後には紀伊国にありける新宮十郎義盛{*10}、世をみだりしとき、東海道の洲股河にて討たれけり。
 牛若は、四つの年まで母のもとにありけるが、世のをさあい者よりも、心ざま振舞ひ、人にすぐれしかば、清盛、常に心にかけて宣ひけるは、「敵の子を一所にて育てては、終にはいかゞあるべき。」と思し召しければ、京より東、山科といふ処に、源氏相伝の遁世して、幽なる{*11}住居にてありける処に、七歳まで育て給ひけり。

三 牛若鞍馬いりの事

 常磐が子ども、成人するに随ひて、なかなか心苦しく{*12}、初めて人に従はせんも、由なし。習はねば、殿上にも交はるべくもなし。「唯法師になして、跡をも弔ひて。」なんど思ひて、鞍馬の別当、東光房の阿闍梨は、義朝の祈りの師にておはしける程に、御使を遣はして仰せけるは、「義朝の末の子、牛若殿と申し候を、且は知ろし召してこそ候らめ。平家、世ざかりにて候に、女の身として持ちたるも、心ぐるしく候へば、鞍馬へ参らせ候べし。猛くとも、おだしき心もつけ、書の一巻をも読ませ、経の一字をも覚えさせてたまはり候へ。」と申されければ、東光房の御返事には、「故頭殿{*13}の君達にて渡らせたまひ候こそ、殊に悦び入りて候へ。」とて、山科へ、急ぎ御迎ひに人をぞ参らせける。七歳と申す二月初めに、「鞍馬へ。」とてぞ上られける。
 その後、昼はひねもすに師の御坊の御前にて経を読み、書学して、夕日西に傾けば、夜の更け行くに、仏の御あかしの消ゆるまでは、ともに物をよみ、五更の天にもなれども、雨もよひもすくまで{*14}、学問に心をのみぞ尽くしける。東光坊も、「山{*15}、三井寺にも、これ程の児あるべし。」とも覚えず。学問の精と申し、心ざま、みめかたち、類なくおはしければ、量智坊の阿闍梨、覚日坊の律師も、「かくて、二十ばかりまでも学問し給ひ候はば、鞍馬の東光坊より後も、仏法の種をつぎ、多聞の御宝{*16}にもなり給はんずる人。」とぞ申されける。
 母も、これを聞き、「牛若、学問の精よく候とも、里に常にありなんどし候はば、心も不用{*17}になり、学問をも怠りなんず。恋しく見たけれと申し候はば、わざと人を賜はり候て、母はそれまで参り、見もし、人に見えられて、返し候はん」と申されける。「さなくとも、児を里へ下すこと、朧気ならぬにて候。」とて、一年に一度、二年に一度も下さず{*18}。
 かかる学問の性いみじき人の、いかなる天魔のすゝめにや有りけん、十五とまうす秋の頃より、学問の心、以ての外にかはりけり。その故は、ふるき郎等の、謀叛を勧むるにてぞありける。

校訂者注
 1:底本は、「田村(たむら)、利仁(としひと)、」。底本頭注に、「○田村 坂上田村麿刈田麿の子。桓武天皇に仕へ侍従兵部卿になつた。」「○利仁 藤原氏。左大臣魚名の裔。醍醐の朝鎮守府将軍となる。」とある。
 2:底本は、「保昌(はうしやう)、頼光(らいくわう)、」。底本頭注に、「○保昌 藤原忠致の子。摂津守。長元九年卒す。」「○頼光 鎮守府将軍源満仲の子。」とある。
 3:底本は、「をさあいをば」。底本頭注に、「をさなきの音便。幼い者。」とある。
 4:底本頭注に、「横川法師の名か。山賊の意か。」とある。
 5:底本頭注に、「御曹子とあつたが、御曹司と訂正した。部屋住の公達。蒲御曹司は義朝第六子範頼。」とある。
 6:底本は、「けいやく」。底本頭注に従い改めた。底本頭注に、「契約。契約の親しき者は親しき縁故の者。」とある。
 7:底本頭注に、「中宮呈子の御父。太政大臣藤原伊通。九條相国といふ。」とある。
 8:底本頭注に、「庶子。」とある。
 9:底本頭注に、「怒り易く。」とある。
 10:底本頭注に、「為義の第十子。行家と改む。」とある。
 11:底本は、「かすかる」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「成長するにつれて却つて心配で。」とある。
 13:底本は、「故頭殿(こかうのとの)」。底本頭注に、「故左馬頭殿、義朝をいふ。」とある。
 14:底本頭注に、「暗い空のすくまで。東天のしらむまでの意だらう。」とある。
 15:底本頭注に、「比叡山延暦寺。」とある。
 16:底本頭注に、「多聞は鞍馬寺の本尊毘沙聞天の一名。多聞の御宝は仏法を伝へて毘沙門天の愛子たるべき人にもなる。」とある。
 17:底本頭注に、「不都合。乱暴。」とある。
 18:底本は、「さなくとも、稚児(ちご)を里へ下すこと、朧気(おぼろげ)ならぬにて候。一年(ひとゝせ)に一度、二年に一度も下さる。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。