四 正門坊の事
四條室町に、ふりたる郎等のありける。すり法師{*1}なりけるが、これは、恐ろしき者の子孫なり。左馬頭殿の御乳母子、鎌田次郎正清が子なり。
平治の乱の時は、十一歳になりけるを、長田荘司{*2}、これを斬るべき由きこえければ、外戚{*3}親しきものありけるが、やうやうに隠し置き、十九にて男になし{*4}て、鎌田三郎正近とぞ申しける。正近、二十一の年、思ひけるは、「保元に為義討たれたまひぬ。平治に義朝討たれ給ひて後は、子孫たえ果てて、弓馬の名を埋づんで星霜をおくりたまふ。その時、清盛に亡ぼされし者なれば、出家して諸国を修行して、主の御菩提をも弔ひ、親の後世をも弔ひ候はばや。」と思ひければ、鎮西の方へぞ修行しける。筑前国御笠郡太宰府の安楽寺と云ふ処に学問してありけるが、故里の事を思ひ出だして、都にのぼりて、四條の御堂に行ひすまして居たりけり。法名をば正門坊とぞ申しける。また、四條の聖とも申しけり。
つとめの隙には、平家の繁昌しけるを見て、目ざましく{*5}ぞ思ひける。「いかなれば、平家の、太政大臣の官にあがり、末までも臣下卿相になり給ふらん。源氏は、保元、平治の合戦に皆亡ぼされて、おとなしきは斬られ、をさあい{*6}は、こゝかしこにおし篭められて、今まで頭をさし出だし給はず。果報も生まれかはり、心も剛にあらんずる源氏の、あはれ、思し召し立ちたまへかし。いづ方へなりとも御供して、世をみだし、本意を遂げばや。」とぞ思ひける。つとめのひまひまには、指を折りて国々の源氏をぞ数へける。
「紀伊国には新宮十郎義盛。河内国には石川判官義通。摂津国には多田蔵人行綱。都には源三位頼政卿、京の君円信。近江国には佐々木源三秀義。尾張国には蒲冠者。駿河国には阿野禅師。伊豆国には兵衛佐頼朝。常陸国には志田三郎先生{*7}義範、佐竹別当昌義。上野国には利根、吾妻。これは、国を隔てて遠ければ、力及ばず。都近き処には、鞍馬にこそ頭殿{*8}の末の御子、牛若殿とておはするものを。参りて見たてまつり、心がら実に実にしく{*9}おはしまさば、文賜はりて伊豆国へ下り、兵衛佐殿{*10}の御方にまゐり、国を催して世を乱さばや。」と思ひければ、折節その頃、四條の御堂も夏{*11}の時分にてありけるをうち捨てて、やがて鞍馬へとぞ上りける。
別当の縁にたゝずみける程に、「四條の聖、おはしたり。」と申しければ、「承り候。」と申し、「さらば。」とて、東光坊のもとにぞ置かれける。内々には悪心をさしはさみ、謀叛を起こして来れるとも知らざりけり。
ある夜のつれづれに、人しづまつて、牛若殿のおはする処へまゐりて、御耳に口を当てて申しけるは、「知ろし召されず候や。今まで思し召し立ち候はぬ。君は、清和天皇十代の御末、左馬頭殿の御子。かく申すは、頭殿の御乳母子に鎌田次郎兵衛{*12}が子にて候。御一門の源氏、国々にうち篭められておはするをば、心憂しとは思し召されず候や。」と申しければ、その頃、平家の世を取りて盛りなれば、「たばかりて云ふやらん。」とうち解け給はざりければ、源氏重代の事をくはしく申しける。身こそ知りたまはね{*13}ども、かねて、「左様の者あり。」と聞きしかば、「さては、一所にては叶ふまじ。処々にて。」とて、正門坊をば返されけり。
五 牛若貴船詣での事
正門にあひ給ひて後は、学問のこと、跡形なくわすれ果てて、明暮、謀叛の事をのみ思し召しける。「謀叛をおこす程ならば、早業をせでは叶ふまじ。まづはやわざを習はん。」とて、「この坊は、諸人のよりあひ処なり。いかにも叶ひがたし。」とて、鞍馬の奥に僧正が谷といふ処あり。昔は、いかなる人の崇め奉りけん、貴船の明神とて、霊験殊勝に渡らせ給ひける。智恵ある上人も行ひけり。鈴の声も怠らず、神主もありけるが、御神楽の鼓の音もたえず、あらたに{*14}渡らせ給ひしかども、世末になれば、仏の方便も神の験徳も劣らせ給ひて、人住み荒らし、ひとへに天狗の住みかとなりて、夕日西にかたぶけば、物怪、喚き叫ぶ。されば、参りよる人をも取りなやます間、参篭する人もなかりけり。
されども牛若、かかる処のある由を聞きたまひ、昼は学問し給ふ体にもてなし、夜は、日ごろ、「一所にてともかくも成りまゐらせん。」と申しつる大衆{*15}にも知らせずして、別当の御護りに参らせたる敷妙と云ふ腹巻に、黄金作りの太刀はきて、たゞ一人、貴船の明神へまゐり給ひ、念誦申させ給ひけるは、「南無大慈明神、八幡大菩薩。」掌を合はせて、「源氏を守らせ給へ。宿願、まこと成就あらば、玉の御宝殿つくり、千町の所領を寄進し奉らん。」と祈誓し、正面より未申に向ひて立ち給ふ。四方の草木をば平家の一類と名付け、大木二本ありけるを、一本をば清盛と名付け、太刀を抜きてさんざんに切り、懐よりぎつちやう{*16}の玉のやうなる物を取り出だし、木の枝にかけ、一つをば重盛が首と名づけ、一つをば清盛が首とて懸けられけるが、かくて暁にもなれば、我が方に帰り、衣引きかづきて伏し給ふ。
これを知らず、知泉と申す法師の御介錯{*17}申しけるが、「この御有様、たゞ事にはあらじ。」と思ひて、目を放さず。ある夜、御跡を慕ひて、かくれて草むらの陰に忍びて見ければ、かやうにふるまひ給ふ間、急ぎ鞍馬に帰りて、東光坊にこの由申しければ、阿闍梨、大きに驚き、量智房阿闍梨につげ、寺に触れて、「牛若殿の御髪剃り奉れ。」とぞ申されける。量智房、この事を聞き給ひ、「幼き人も、様にこそよれ。容顔、世に超えておはすれば、今年の受戒、いたはしくこそおはすれ。明年の春の頃、そり参らせ給へ。」と申しければ、「誰も御名残、さこそと思ひ候へども、かやうに御心不用になり{*18}て御渡り候へば、我がため、御身のため、しかるべからず候。唯そり奉れ。」とのたまひければ、牛若殿、「何ともあれ、寄りて剃らんとする者をば、突かんずるものを。」と、刀のつかに手をかけておはしましければ、左右なくよりて剃るべしとも見えず。
覚日坊の律師、申されけるは、「これは、諸人{*19}の寄合処にて、静かならぬ間、学問も御心に入らず候へば、某が処は、かたはらにて候へば、御心静かに御学問候へかし。」と申されければ、東光坊も、さすがいたはしく思はれけん、「さらば。」とて、覚日坊へ入れ奉り給ひけり。御名をばかへられて、遮那王殿とぞ申しける。それより後には、貴船まうでも止まりぬ。日々に多聞に日参して、謀叛の事をぞ祈られける。
校訂者注
1:底本頭注に、「新に髪を剃つた法師。」とある。
2:底本頭注に、「尾張長田荘を司る役人。平忠致。」とある。
3:底本は、「外戚(げしやく)」。底本頭注に、「母方の親戚。」とある。
4:底本頭注に、「元服させて俗人になして。」とある。
5:底本頭注に、「心外に。」とある。
6:底本「義朝都落ちの事」頭注に、「をさなきの音便。幼い者。」とある。
7:底本は、「志田(しだの)三郎先生(せんじやう)」。底本頭注に、「為義の三男。常陸志田郡に居たからいふ。先生は東宮に侍する帯刀の長官をいふ。」とある。
8:底本は、「頭殿(かうのとの)」。底本頭注に、「左馬頭義朝。」とある。
9:底本は、「実(げ)に(二字以上の繰り返し記号)しく」。底本頭注に、「人物らしく。」とある。
10:底本は、「兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)」。底本頭注に、「頼朝。」とある。
11:底本は、「夏(げ)」。底本頭注に、「陰暦四月十六日から七月十六日まで、仏者が篭つて修養する期間をいふ。」とある。
12:底本頭注に、「正清。右兵衛尉であつた。」とある。
13:底本頭注に、「其の当人を知らないが。」とある。
14:底本頭注に、「あらたかに。霊験あるさま。」とある。
15:底本は、「大衆(たいしゆ)」。底本頭注に、「僧徒。」とある。
16:底本頭注に、「毬杖。又、毬打。昔正月などに、彩糸で飾つた槌形の杖で、木製の毬を打つ遊び。」とある。
17:底本頭注に、「世話をすること。」とある。
18:底本頭注に、「○不用(ふよう)になり 我が儘になる。乱暴になる。」とある。
19:底本は、「諸国」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
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