六 吉次が奥州物語の事
かくて、年も暮れぬれば、御年十六にぞなり給ふ。多聞の御前に参りて、所作して{*1}おはしける処に、その頃、三條に大福長者あり。その名を吉次信高とぞ申しける。毎年、奥州に下る金商人なりけるが、鞍馬を信じ奉りける間、それも多聞に参りて念誦して居たりけるが、この幼い人を見奉りて、「あら、うつくしの御稚児や。いかなる人の君達やらん。しかるべき人にてましまさば、大衆もあまた付き参らすべきに、度々見申すに、たゞ一人おはしますこそ怪しけれ。この山に、左馬頭殿の君達のおはするものを。真やらん。『秀衡も、鞍馬と申す山寺に、左馬頭殿の君達おはしますなれば、太宰大弐清盛の、日本六十六箇国を従へんと、常は宣ふなるに、源氏の御君達を一人下し参らせ、磐井郡に京を立て、二人の子どもを両国の領主させて{*2}、秀衡生きたらんほどは、大炊介{*3}に成りて、源氏を君とかしづき奉り、上みぬ鷲{*4}の如くにてあらばやと、宣ひ候ものを。』と云ひ奉り、かどはかしまゐらせ、御供して秀衡の見参に入れ、引出物取りて徳付かばや{*5}。」と思ひ、御前に畏まつて申しけるは、「君は、都にはいかなる人の御君達にておはしますやらん。これは、京のものにて候が、金を商ひて毎年奥州へ下る者にて候が、奥方に知ろし召したる人や御入り候。」と申しければ、「片ほとりのものなり。」と仰せられて、返事もしたまはず。
「これこそは、聞こゆる黄金商人吉次といふなり。奥州の案内者やらん。彼に問はばや。」とおぼしめして、「陸奥といふは、いか程の広き国ぞ。」と問ひたまへば、「大過の国{*6}にて候。常陸国と陸奥国との境、菊多の関と申して、出羽と奥州との境をば、なん関と申す。その中、五十四郡。」と申しければ、「その中に、源平の乱出で来たらんに、用に立つべき者、いか程あるべき。」と問ひ給へば、国の案内は知りたり、吉次、暗からずぞ申しける。
「昔、両国の大将をば、をかの大夫とぞ申しける。彼が一人の子あり。阿倍権守{*7}とぞ申しける。子ども、あまたあり。嫡子栗屋川次郎貞任、二男鳥海三郎宗任、家任、盛任、繁任とて、六人の末の子に境冠者りやうぞうとて、霧をおこし霞立て、敵おこる時は、水の底、海の中にて日を送りなどする曲者なり。これら兄弟、丈の高さ、唐人にも越えたり。貞任が丈は九尺五寸、宗任が丈は八尺五寸、いづれも八尺に劣るはなし。中にも境の冠者は、一丈三寸候ひける。
「安倍権守の世までは、宣旨、院宣にも畏れて、毎年上洛して、逆鱗をやすめ奉る。安倍権守死去の後は、宣旨を背き、たまたま院宣なるときは、北陸道七箇国の片道を賜はりて上洛仕るべき由、申され候ひければ、『片道たまはるべき。』とて、下さるべかりしを、公卿僉議ありて、『これ、天命を背くにこそ候へ。源平の大将を下し、追討せさせたまへ。』と申されければ、源頼義、勅宣を承りて、十一万騎の軍兵を率して、安倍を追討のために、陸奥国へ下り給ふ。駿河国の住人高橋大蔵大夫に先陣をさせて、下野国いもうと云ふ処に著く{*8}。貞任、これを聞きて、栗屋川の城を去つて、あつかしゑの中山を{*9}後ろにあてて、安達郡に木戸を立て、行方の原に馳せ向ひて源氏を待つ。大蔵大夫、大将として五百余騎、白川の関をうち越えて、行方の原に馳せ著き、貞任を攻む。その日の軍にうち負けて、浅香の沼へ引き退く。
「伊達郡あつかしゑ{*10}の中山に楯篭り、源氏は、信夫の里、駿河三河のはた、はやしろと云ふ処に陣を取つて、七年、夜昼戦ひ暮らすに、源氏の十一万騎、皆討たれて、『叶はじ。』とや思ひけん、頼義、京へ上りて内裏にまゐり、『頼義、叶ふまじき。』由を申されければ、『汝叶はずは{*11}、代官を下し、急ぎ追討せよ。』と、重ねて宣旨を下されければ、急ぎ六條堀川の宿所へ帰り、十三になる子息を内裏に参らせけり。『汝が名をば何と云ふぞ。』と御尋ねありけるに、『辰の年の辰の日の辰の時にうまれ候とて、名をば、くわんた{*12}と申し候。』とまうしければ、『無官の者に、合戦の大将さする例なし。』とて、『元服させよ。』とて、後藤内範明をさし添へられて、八幡宮にて元服させて、八幡太郎義家と号す。その時、御門より賜はりたる鎧をこそ、『源太が産衣{*13}。』と申しけり。
秩父十郎重国、先陣を承りて、奥州へうち下る。あつかしゑの城を攻めけるに、なほも源氏うち負けて、『こと悪しかりなん。』とて、いそぎ都へ早馬を立て、このよしを申しければ、『年号が悪しければ。』とて、康平元年と改められ、同年四月二十一日、あつかしゑの城を追ひ落とす。しから坂{*14}にかゝりて、いさむ関をせめ越えて、最上郡に篭る。源氏、続いて攻め給ひしかば、おからの中山うち越えて、仙北金沢の城に引き篭り。それにて一両年をおくり、戦ひつれども、鎌倉権五郎景政、三浦平大夫為継、大蔵大夫光任、これらは命を捨てて攻めける程に、金沢の城をも落とされて、白木山にかゝりて、衣川の城に篭る。為継、景政、重ねて攻めかゝる。康平三年六月二十一日に、貞任は、大事の手を負ひ、梔子色の衣を著て、磐手の野辺にぞ伏しにける。弟の宗任は、降人となる。境冠者、後藤内、生け捕りにして、やがて斬られぬ。義家、都に馳せ上り、内の見参に入れて{*15}、末代までの名を挙げたまふ。
その時、奥州へ御供申し候ひし、三つうの少将に十一代の末、淡海{*16}の後胤、藤原清衡と申す者、国の警護に留められて候ひけるが、和田郡にありければ、わだの清衡と申し候ひし、両国を手に握つて候ひし。十四道の弓取り五十万騎、秀衡が伺候の郎等十八万騎、持ちて候。これこそ、源平の乱出で来らば、御方人{*17}ともなりぬべき者にて候へ。」と申しける。
七 遮那王殿鞍馬いでの事
遮那王殿、これを聞き給ひて、「かねて聞きしに少しも違はず。世にあるものござんなれ{*18}。あはれ、下らばや。左右なく{*19}頼まれたらば、十八万騎の勢を、十万騎をば国に留め、八万騎をば率して、坂東にうちいで、八箇国は源氏に心ざしある国なり。下野殿{*20}の国なり。これを始めとして、十二万騎を催し、二十万騎になして、十万騎をば伊豆国兵衛佐殿へ奉り、十万騎をば木曽殿につけて{*21}、我が身は越後国にうち越し、鵜川、佐橋、金津、奥山の勢を催して、越中、能登、加賀、越前の軍兵を靡けて、十万騎になして、荒乳の中山を馳せ越えて、西近江に懸かりて、大津の浦に著きて、坂東の二十万騎を待ち得て、逢坂の関をうち越えて、都に攻め上り、十万騎をば天下の御所に参らせて、源氏すごさん由{*22}を申さんに、平家、猶も都に繁昌して、むなしかるべくは、名をば後の世にとゞめ、屍をば都にさらさんこと、身に取つては何の不足か有るべき。」と思ひ立ち給ふも、十六の盛りには恐ろしくぞおぼえける。
「この男めに知らせばや。」と思し召し、近く召しておほせられけるは、「汝なれば知らするぞ。人に披露あるべからず。我こそ左馬頭義朝が子にてあれ。秀衡がもとへ文一つ、ことづてばや。いつの頃、返事を取りてくれんずるぞ。」と仰せられければ、吉次、座敷をすべり下り、烏帽子のさきを地につけて申しけるは、「御事をば、秀衡、以前に申され候。御文よりも、唯御下り候へ。道の程、御宿直{*23}仕り候はんずる。」と申しければ、「文の返事待たんも心もとなし。さらば、連れて下らばや。」と思し召しける。「いつのころ下り候はんずるぞ。」とのたまへば、「明日吉日にて候間、かたの如くの門出仕り候はんずる。」と申しければ、「さらば、粟田口十禅寺の御前にて待たんずるぞ。」と宣ひければ、吉次、「さ承り候。」とて下向してけり。
遮那王殿、別当の坊に帰りて、心の中ばかり{*24}に出で立ち給ふ。「七歳の春の頃より十六の今に至るまで、朝にはけうくんの霧を払ひ、夕には三光の星を戴き、日夜朝暮馴れし、なじみの師匠の御名残も、今ばかり。」と思はれければ、しきりに忍ぶとし給へども、涙に咽びけり。されども、弱くて叶ふべきにあらざれば、承安二年二月二日の曙に、鞍馬をぞ出で給ふ。白き小袖一重ねに唐綾を著重ね、はりま浅葱のかたびらを上に召し、しろき大口に唐織物の直垂めし、敷妙と云ふ腹巻、きごめにして、紺地の錦にて、柄鞘包みたる守り刀、金作りの太刀佩いて、薄化粧に眉細く作りて、髪高く結ひあげ、心細げにて壁を隔てて出で立ちたまふが、「我ならぬ人のおとづれて通らん度に、『さる者、これにありしぞ。』と思ひ出でて、跡をもとぶらひ給へかし。」と思はれければ、漢竹のようでう{*25}を取り出だし、半時ばかりふきて、「音をだに、跡の形見。」とて、泣く泣く鞍馬を出で給ひ、その夜は四條の正門坊の宿へ出で給ひて、奥州へ下る由、仰せられければ、「善悪、御供申し候はん。」と出で立ちけり。遮那王殿、宣ひけるは、「御辺は、都に留まりて、平家のなり行く様を見て、知らせよ。」とて、京にぞ留められける。
さて遮那王殿、粟田口まで出で給ふ。正門坊もそれまで送り奉り、十禅寺の御前にて吉次を待ちたまへば、吉次、いまだ夜深に京を出でて、粟田口に出で来る。種々の宝を二十余疋に負ふせて先に立て、我が身は京を尋常にぞ出で立ちける。あひあひ引きかきしたる摺尽くしの直垂に、秋毛の行縢{*26}はいて、黒栗毛なる馬に角覆輪の鞍おきてぞ乗りたりける。「児を載せ奉らん。」とて、月毛なる馬に沃懸地の鞍をおきて、大斑の行縢、鞍おほひにしてぞ出で来る。
遮那王殿、「いかに、約束せばや。」と宣へば、馬より急ぎ飛んで下り、馬引き寄せ、のせ奉り、「かかる縁に遇ひけるよ。」と、よに嬉しくぞ思ひける{*27}。吉次を招きて宣ひけるは、「宿の馬の腹筋馳せ切つて{*28}、雑人めらが追ひつかん。顧みるに、かけ足になつて下らんとおぼゆるなり。『鞍馬になし。』といはば、都に尋ぬべし。『都になし。』といはば、大衆ども、『さだめて東海道へぞ下らんずらん。』とて、摺針山よりこなたにて追つかけられて、『帰れ。』といはんずるものなり。帰らざらんも、仁義礼智信にもはづれなん。都は敵の辺なり。足柄山を越えんまでこそ大事なれ。坂東と云ふは、源氏に心ざしのある国なり。言葉の末を以て{*29}、宿々の馬取りて、乗り下るべし。白川の関をだにも越えば、秀衡が知行の処なれば、雨のふるやらん、風のふくやらんも、知るまじきぞ{*30}。」と宣へば、吉次、これを聞きて、「かかる恐ろしき事あらじ。毛のなだらかならん馬一匹をだにも乗り給はずして、恥ある郎等{*31}の一騎をだにも具し給はで、現在の敵の知行する国の馬を、『取りて下らん。』と宣ふこそ恐ろしけれ。」とぞ思ひける。
されども、命に随ひ、駒を早めて下るほどに、松坂をも越えて、四の宮河原を見て過ぎ、逢坂の関をうち越えて、大津の浜をも通りつゝ、瀬多の唐橋うち渡り、鏡の宿に著き給ふ。長者は、吉次が年頃の知る人なりければ、女房あまた出だし、色色にこそもてなしけれ。
校訂者注
1:底本頭注に、「動作をしての意で、神前の礼拝をいふ。」とある。
2:底本頭注に、「〇二人の子ども 国衡泰衡。」「〇両国 陸奥出羽。」とある。
3:底本は、「大炊介(おほゐのすけ)」。底本頭注に、「古朝廷の炊事を掌つた大炊寮の次官。こゝは、秀衡が源氏を君として自ら台所奉行となつて仕へようといふ意。」とある。
4:底本頭注に、「最も威勢あつて恐れる者のない様子。鷲は他の鳥に上から覗はれる恐れのないに比していふ。」とある。
5:底本頭注に、「利益を得よう。」とある。
6:底本は、「大過(たいくわ)の国」。底本頭注に、「すぐれて大なる国。」とある。
7:底本頭注に、「阿倍頼時。」とある。
8:底本は、「著(つ)き、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
9:底本は、「あつかしゑの中山の後ろ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇あつかしゑ 陸前国阿津賀志山のことであらう。岩代国大木戸村。」とある。
10:底本は、「あつかしみの中山」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
11:底本は、「汝叶(かな)はず代官(だいくわん)を下し、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
12:底本頭注に、「源太の訛。正徳の版本にげんたとある。」とある。
13:底本は、「源太(くわんた)が産衣(うぶぎぬ)」。底本頭注に、「源氏相伝八領の鎧の一。」とある。
14:底本は、「しからざる」。底本頭注に従い改めた。
15:底本は、「内(うち)の見参(げんざん)に入れて」。底本頭注に、「天子に拝謁して。内は内裏又は天子をいふ。」とある。
16:底本は、「淡海(たんかい)」。底本頭注に、「淡海公藤原不比等。」とある。
17:底本は、「方人(かたうど)」。底本頭注に、「身方。」とある。
18:底本頭注に、「世にあるものであるよな。」とある。
19:底本は、「左右(さう)なく」。底本頭注に、「とかくの論なく。躊躇せずに。かれこれいふことなく。」とある。
20:底本頭注に、「義朝。」とある。
21:底本頭注に、「〇兵衛佐 頼朝。」「〇木曽殿 義仲。」とある。
22:底本頭注に、「源氏が御所守護しすごさうと。」とある。
23:底本は、「御宿直(とのゐ)」。底本頭注に、「守衛し面倒を見る意。」とある。
24:底本頭注に、「師へ暇乞もあらはに告げられず心の中だけで暇乞して。」とある。
25:底本は、「漢土から渡来した竹で作つた横笛。」。
26:底本は、「行縢(むかばき)」。底本頭注に、「騎馬の時腰から脛にかけて被ひかけるもの。」とある。
27:底本は、「思はせ給ひける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
28:底本は、「馬の腹筋(はらすぢ)馳(は)せ切つて、」。底本頭注に、「馬をひどく馳せて馬の腹筋も断れる程にして。」とある。
29:底本頭注に、「言葉で巧みに言ひくるめて。」とある。
30:底本頭注に、「秀衡の領地内に入れば雨が降つても風が吹いても一向平気だ。」とある。
31:底本頭注に、「名誉を重んずる家来。」とある。
コメント