巻第二

一 鏡の宿にて吉次宿に強盗入る事

 そもそも都ちかき処なれば、人目もつゝましくて、傾城の遙かの末座に遮那王殿をなほしける{*1}。恐れ入りてぞおぼゆる。酒三献過ぎて、長者{*2}、吉次が袖に取り付きて申しけるは、「そもそも御辺は、一年に一度、二年に一度、この道をとほらぬ事なし。されども、これ程いつくしき子具し奉りたる事、これぞ始めなり。御身のためには親しき人か、または他人か。」とぞ問ひける。「親しくはなし。また、他人にてもなし。」とぞ申しける。長者、涙をはらはらと流し、「哀れなる事どもかな。何しに、生きて初めて、かかる憂き目を見るらん。ただ昔の御事、今の心地してぞおぼゆるぞや。この殿のたちふるまひ、かたち、身ざま、頭殿{*3}の二男、朝長殿にすこしも違ひたまはぬものかな。言葉の末をもつても具し奉りたるかや。保元、平治より以来、源氏の子孫、こゝやかしこにうち篭められておはするぞかし。成人して思ひ立ち給ふことあらば、よくよく拵へ奉りて、わたし参らせ給へ{*4}。壁に耳、岩に口といふ事あり。くれなゐは園生に植ゑてもかくれなし。」と申しければ、吉次、申しけるは、「何ぞ。それにては候はず。身が親しき者にて候。」と申しけれども、長者「人は、何ともいはばいへ。」とて、座敷を立ちて、幼き人の袖を引き、上の座敷になほし奉り、酒をすゝめて、夜ふかければ、我が方へぞ入れ奉る。吉次も酒に酔ひ伏しにけり。
 その夜、鏡の宿にぶだうのこと{*5}こそありけれ。その年は、世の中飢饉なりければ、出羽国に聞こゆるせんとう{*6}の大将に、由利太郎と申す者と、越後国に名を得たる、頚城郡の住人藤沢入道と申すもの、二人語らひ、信濃国に越えて、さんの権正子息太郎、遠江国に蒲与一、駿河国に興津十郎、上野に豊岡源八。以下の者ども、いづれも聞こゆる盗人、宗徒のもの{*7}二十五人。その勢七十人連れて、「東海道は衰微す。少しよからん山家山家に居たりける徳人{*8}あらば、追ひおとして、わが党どもに興ある酒飲ませて、都に上り、夏もすぎ秋風立たば、北国にかゝり、国へ下らん。」とて、宿々、山家山家におし入り、おし取りてぞのぼりける。
 その夜、鏡の宿長者の、軒を並べてやどしける。由利太郎、藤沢に申しけるは、「都に聞こえたる吉次といふ金商人、奥州へ下るとて、多くの売り物を持ち、今宵長者のもとに宿りたり。いかゞすべき。」といひければ、藤沢入道、「順風に、帆をあげ棹さし押し寄せて、しやつ{*9}が商ひ物とりて、わが党どもに酒飲ませて通れ。」とて出で立ちける。屈強の足軽ども五、六人、腹巻著て、油さしたる車松明五、六台に火をつけて、天にさし上げければ、外は暗けれども、内は日中のやうに拵へ、由利太郎と藤沢入道とは大将として、その勢八人連れて出で立ち、由利は、唐萌黄の直垂に、萌黄縅の腹巻著て、折烏帽子にうちかけして、三尺五寸の太刀はきてぞ出でにける。藤沢は、褐の直垂に黒革縅の鎧著て、兜の緒をしめ、黒塗の太刀に熊の革の尻鞘入れ、大薙刀を杖につき、夜半ばかりに長者のもとにうち入りたり。
 つと入りて見れば、人もなし。中の間に入りて見れども、人もなし。「こは、いかなることぞ。」とて、簾中{*10}に深くみだれ入りて、障子五、六間切りたふす。吉次、これに驚き、かばと起きて見れば、鬼王の如くにて出で来る。これは、信高{*11}が財宝に目をかけて出で来たるを知らず。「源氏の公達具し奉り奥州へくだること、六波羅{*12}に聞こえて、討手の向ひたる。」と心得て、取る物も取りあへず、かひふいてぞ逃げにける。
 遮那王殿、これを見たまひて、「すべて人の頼むまじきものは、次のもの{*13}にてありけるや。かたの如くも侍ならば、かくはあるまじきものを。とてもかくても、都を出でし日よりして、命をば宝ゆゑに棄て、屍をば鏡の宿にさらすべし。」とて、大口の上に腹巻取りて引きかけ、太刀取り脇にはさみ、唐綾の小袖取りてうちかづき、一間なる障子の中をするりと出で、屏風一よろひ引きたゝみ、前におしあたる八人の盗人を、「今や。」と待ちたまふ。「吉次めに、目ばし放すな{*14}。」とて、をめいてかゝる。「屏風の陰に、人あり。」とは知らで、松明をふつてさしあげ見れば、いつくしきともなゝめならず、南都、山門に聞こえたる児、鞍馬を出で給へる事なれば、極めて色しろく、かね黒{*15}に眉細くつくりて、衣かづきたまひけるを見れば、松浦狭夜媛が、領布ふる野べ{*16}に年をへし、寝乱れて見ゆる黛の、鴬の羽風に乱れぬべくぞ見え給ふ。玄宗皇帝の代なりせば、楊貴妃ともいひつべし。漢の武帝の時ならば、李夫人かとも疑ふべし。傾城と心得て、屏風におし纏ひてぞ通りける。
 「人もなきやうに思はれて、生きては何の益あるべき。末の世に、『いかゞしければ、義朝の子牛若といふもの、謀叛をおこし、奥州へ下るとて、鏡の宿にて強盗にあひて、甲斐なき命生きて、今また忝くも太政大臣に心をかけたり。』などといはれんことこそ{*17}悲しけれ。とてもかくても逃るまじ。」と思し召し、太刀を抜き、多勢の中へ走り入りたまふ。八人は、左右へさつと散る。由利太郎、これを見て、「女かと思ひたれば、世に豪なるものにてありけるものを。」とて、散々に切り合ふ。「一太刀に。」と思ひて、もつて開いてむずと打つ。大の男の太刀の寸は延びたり。天井の縁に太刀うちつらぬき、引きかぬる処を、小太刀を以てちやうと受けとめ、弓手の腕に袖をそへて、ふつとうち落とし、返す太刀に首うち落とす。藤沢入道はこれを見て、「あゝ、斬つたり。そこをひくな。」とて、大長刀うちふりて走りかゝる。これにかゝり合ひて、散々に斬りあひ給ふ。藤沢入道、長刀を茎長に取りて、するりとさし出だす。走りかゝり給ふ。太刀は聞こゆる剣なれば、長刀の柄、つんと切りてぞ落とされける{*18}。やがて、「太刀を抜かん。」としけるを、抜きも果てさせず切り付け給へば、兜の真向、しや面{*19}かけて切り付け給ひけり。
 吉次は、物の陰にてこれを見て、「恐ろしき殿のふるまひかな。いかに我をきたなしと思し召さるらん。」とおもひ、臥したりける帳台へつと入り、腹巻取つて著、髻解き乱し、太刀を抜き、敵の捨てたる松明うち振り、大庭に走り出でて、遮那王殿と一つになりて、追つつまくつつ散々に戦ひ、屈竟の者ども五人、やにはに切り給ふ。二人は手を負ひて北へゆく。一人追ひにがす。残る盗人、のこらず落ち失せけり。
 明くれば宿の東のはづれに、五人が首をかけ、札を書きてぞ添へられける。
  音にも聞くらん、目にも見よ。出羽国の住人由利太郎、越後国の住人藤沢入道以下の首、五人切りて通るものを、何者とか思ふらん。金商人三條の吉次がためには縁あり。これを十六にての初業よ。委しき旨を聞きたくば、鞍馬の東光坊のもとにて聞け。承安二年二月四日。
とぞ書きて立てられける。さてこそ後には、「源氏の門出しすましたり。」とぞ舌を巻きて怖ぢあひける。その日、鏡の宿を立ち給ひけり。吉次は、いとゞかしづき奉りてぞ下りける。
 小野の摺針うち過ぎて、番場、醒井過ぎければ、今日も程なく行き暮れて、美濃国青墓の宿にぞ著き給ふ。これは、義朝浅からず思ひ給ひける長者があとなり。兄の中宮大夫の墓所を尋ね給ひて、御出あり{*20}。夜と共に法華経読誦して、明くれば卒堵婆をつくり、みづから梵字を書きて、供養してぞ通られける。子安の森をよそに見て、くせ川をうちわたり、洲股川を曙にながめて通りつゝ、今日も三日になりければ、尾張国熱田の宮につき給ひけり。

遮那王殿元服の事

 熱田の前の大宮司は、義朝の舅なり。今の大宮司は小舅なり。兵衛佐殿母御前も、熱田のそとの浜といふ処にぞおはします。父の御かたみと思し召して、吉次をもつて申されければ、大宮司、いそぎ御迎へに人をまゐらせ、入れ奉り、やうやうにいたはり奉りける。やがて次の日、「立たん。」とし給へば、様々にいさめごと{*21}に参り、とかくする程に、三日までぞ熱田におはします。
 遮那王殿、吉次に仰せられけるは、「童にて下らんは、わろし。かり烏帽子{*22}なりとも著て下らばやと思ふは、いかにすべき。」吉次、「いかやうにも御計らひ候へ。」とぞ申しける{*23}。大宮司、烏帽子奉り、取りあげ、烏帽子をぞ召されける。「かくて下り、秀衡が、『名をば何と申すぞ。』と問はんとき、『遮那王。』といひて、男になりたるかひなし。これにて名をかへずして下り著きたらば、定めて、『元服せよ。』といはれんずらん。秀衡は、我々がためには相伝{*24}の者なり。他のそしりもあるぞかし。これは、熱田の明神の御前、しかも兵衛佐殿の母御前も、これにおはします。これにて思ひ立たん。」とて、精進潔斎して、大明神に御参りあり。大宮司、吉次も御供仕る。二人に仰せけるは、「左馬頭殿の子ども、嫡子悪源太、二男進朝長、三男兵衛佐、四男蒲殿、五郎はげんじの君、六郎は京の君、七郎は悪禅師の君。われは、左馬八郎とこそいはるべきに、保元の合戦に叔父鎮西八郎{*25}、名をながし給ひしことなれば、その跡をつがんこと、よしなし。末になるとも苦しかるまじ。われは、左馬九郎といはるべし。実名は、祖父は為義、父は義朝、兄は義平と申しける。われは、義経といはれん。」とて、昨日までは遮那王殿、今日は左馬九郎義経と名をかへて、熱田の宮を過ぎ、なにと鳴海{*26}の塩干潟、三河国八橋をうち越えて、遠江国浜名の橋をうちながめて通らせたまひけり。日頃は、業平、山蔭中将などのながめける、名所名所は多けれども、牛若殿、「うちとけたる時こそ面白けれ。思ひあるときは、名所も旧跡も何ならず。」とて、うち過ぎたまへば、宇津の山を越え過ぎて、駿河なる浮島が原にぞ著きたまひける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「座になほすは著座せしめるをいふ。」とある。
 2:底本は、「長者(ちやうじや)」。底本頭注に、「宿駅の長。」とある。
 3:底本は、「頭殿(かうのとの)」。底本頭注に、「左馬頭義朝。」とある。
 4:底本は、「拵(こしら)へ奉り」。底本頭注に、「謀り構へて差上げてくれ。作り構へて用心して渡り給へ。」とある。
 5:底本頭注に、「無道の事。一本おもはざる事とある。」とある。
 6:底本頭注に、「潜盗か山盗か。」とある。
 7:底本は、「宗徒(むねと)のもの」。底本頭注に、「宗と頼むもの。重だつ者。」とある。
 8:底本は、「徳人(とくにん)」。底本頭注に、「富豪。」とある。
 9:底本頭注に、「彼奴。きやつ。」とある。
 10:底本は、「れんちう」。底本頭注に従い改めた。
 11:底本は、「宗高」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「京都で清盛の邸のあつた処。」とある。
 13:底本頭注に、「下劣な者で武士でない賤しい者。」とある。
 14:底本頭注に、「目を放すな。ばしは語勢を強める語。」とある。
 15:底本頭注に、「鉄漿で歯を染めること。」とある。
 16:底本は、「松浦狭夜媛(まつらさよひめ)が、領布(ひれ)ふる野べ」。底本頭注に、「〇松浦狭夜媛 大伴狭手彦の妻。」「〇領布ふる野べ 肥前唐津附近。領布は古昔婦人が項にかけた飾りの布。」とある。
 17:底本頭注に、「〇いかゞしければ 末世の評判に、牛若はどうした事で強盗に遇つておめおめ生きて更に清盛を狙つたなど云はれるのはの意。」「〇甲斐なき命 生き甲斐もなくおめおめ生きながらへて。」「〇太政大臣云々 清盛を殺さうと狙つて。」とある。
 18:底本は、「落されけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 19:底本は、「しや面(つら)」。底本頭注に、「顔をいふ。侮り罵つた詞。」とある。
 20:底本頭注に、「〇義朝浅からず 平治物語にかの長者大炊が娘延寿と申すは頭殿御志浅からず云々と見える。」「〇中宮大夫 義朝の二男朝長。」とある。
 21:底本頭注に、「教誡。」とある。
 22:底本頭注に、「一時まにあはせの烏帽子。烏帽子は元服した男のかぶるもの。」とある。
 23:底本は、「仰せける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 24:底本頭注に、「相伝譜代。代々伝へて臣下たる者。」とある。
 25:底本頭注に、「〇左馬頭殿 義朝。」「〇悪源太 義平。」「〇進 中宮大夫進。」「〇兵衛佐 頼朝。」「〇蒲殿 範頼。」「〇鎮西八郎 為義の子為朝。」とある。
 26:底本頭注に、「何となる身に地名鳴海を言ひかけた。」とある。