三 阿野の禅師に御対面の事

 これより、阿野の禅師{*1}の御もとへ、御使参らせ給ひける。禅師、大きに悦び給ひて、御曹司{*2}を入れ奉り、たがひに御目を見合はせて、過ぎにし方の事ども、物語り続け給ひて、御涙にむせび給ひける。「不思議の御事かな。離れし時は、二歳になり給ふ。この日頃は、いづくにおはするとも知り奉らず。これ程に成人して、かかる大事を思ひたちたまふ嬉しさよ。我も、共にうち出で、一所にてともかくもなりたく候へども、『たまたま釈尊の経法をまなんで、尋常の閑処に入りしより以来、三衣を墨に染めぬれば、甲冑をよろひ、弓箭を帯すること、いかにぞや。』と思へば、うち連れ奉らず。且は、頭殿{*3}の御菩提をも、誰かはとぶらひ奉らん。かつうは{*4}、一門の人々の祈りをこそ仕らんずれ。一箇月をだにも添ひ奉らず、離れ奉らんことこそ悲しけれ。兵衛佐殿も、伊豆国の北條におはしませども、『警固の者ども、きびしく守護し奉る。』とまうせば、文をだにまゐらせず。近所を頼みにて、おとづれもなし。御身とても、この度見参し給はん事、不定なれば、文を書き置き給へ。そのやうを申すべし。」と仰せられければ、文書きて跡に留めおき、その日は伊豆の国府に著きたまふ。
 夜もすがら祈念申されけるは、「南無御堂大明神、走湯権現、吉祥駒形。願はくは、義経を三十万騎の大将軍となし給へ。さらぬ外は、この山より西へ越えさせ給ふな。」と、精誠をつくし祈誓し給ひけるこそ、十六の盛りには恐ろしき。足柄の宿をうち過ぎて、武蔵野の堀金の井をよそに見て、在五中将のながめける深きよしみを思ひて、下野国荘たかのと云ふ処に著きたまふ。日数ふる程にしたがひて、都はとほく、東は近くなるまゝに、その夜は都のこと思し召し出だされける。宿のあるじを召して、「これは、いづくの国ぞ。」と御問ひありければ、「下野国。」と申しける。「この処は、郡か、荘{*5}か。」と宣へば、「下野の荘。」とぞ申しける。「この荘の領主は、誰と云ふぞ。」「少納言信西と申せし人の母方の伯父、陵介{*6}と申す人の嫡子、陵の兵衛。」とぞ申しける。

四 義経陵が館を焼き給ふ事

 きつと{*7}思し召し出だされけるは、「義経が九つの年、鞍馬の寺にありて、東光坊の膝の上に寝ねたりし時{*8}、『あはれ、幼き人の御目のけしきや。いかなる人の君達にて渡らせ給ひ候やらん。』と言ひしかば、『これこそ左馬頭殿の公達。」と宣ひしかば、『あはれ、末の世に、平家のためには大事かな。この人々をたすけ奉りて、日本国に置かれんことこそ、獅子虎を千里の野へ放つにてあれ。成人し給ひ候はば、必定、謀叛をおこし給ふべし。聞きもおかせたまへ。自然の事の候はん時、御尋ね候へ。下野国に下道祖とまうす処に候{*9}。』といひしなり。はるばると奥州へ下らんよりも、陵がもとへ行かばや。」と思し召し、吉次をば、「下野の室八島にて待て。義経は、人をたづねて、やがて追ひつかんずるぞ。」とて、陵がもとへぞおはしける。吉次は、心ならず先立ち参らせて、奥州へ下りける。
 御曹司は、陵が宿所へ尋ねて御覧ずるに、まことに世にありし{*10}とおぼしくて、門には鞍置きたる馬ども、その数引つ立てたり。さしのぞきて見たまへば、遠侍{*11}に屈強の若き者ども、五十人{*12}ばかり居ながれたり。御曹司は、人を招きよせて、「御内に案内申さん。」と宣ひければ、「いづくよりぞ。」と申す。「京の方より。かねて見参に入りて候者なり。」と仰せけり。主にこの事を申しければ、「いかやうなる人ぞ。」と申せば、「そのすがた、尋常{*13}にまします。」と申しければ、「さらば、これへと申せ。」とて、入れ奉る。
 陵、「いかなる人にて渡らせ給ふぞ。」と申しければ、「幼少にて見参に入りて候ひし、御覧じ忘れ候や。鞍馬の東光坊のもとにて、『何事もあらん時、尋ねよ。』と候ひし程に、万事頼み奉りて下り候。」と仰せられければ、陵、この事を聞きて、「かかる事こそなけれ{*14}。成人したる子どもは皆、京に上りて小松殿{*15}の御内にあり。我々が源氏にくみせば、二人の子ども、いたづらになるべし。」と思ひわづらひて、暫くうち案じ、申しけるは、「さ思し召し立たせ給ひ、畏まつて候へども、平治の乱れの時、すでに兄弟、誅せられ給ふべく候ひしを、七條朱雀の方に清盛ちかづかせ給ひて、その芳志により、命を助からせ給ひぬ{*16}。老少不定のさかひ、定めなき事にて候へども、清盛、いかにもなりたまひて後{*17}、思し召し立たせ給ひ候へかし。」と申しければ、御曹司、聞こし召して、「あはれ、きやつは日本一の不覚人にてありけるや。あはれ。」とは思し召しけれども、力およばず、その日は暮らしたまひけり。
 「頼まれざらんものゆゑに、執心もあるべからず{*18}。」とて、その夜の夜半ばかりに、陵の家に火をかけて、残る処もなく散々に焼き払ひて、かき消す如くにうせ給ひけり。「かくて行くには{*19}、下野国横山の原、室の八島、しのの河、関山に人を付けられて叶ふまじ。」と思し召して、墨田川辺を馬にまかせて歩ませ給ひける程に、馬の足早くて、二日に通りける処を一日に、上野国板鼻といふ処につき給ひけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「義経の同母兄。幼名今若。僧となり金成といふ。悪禅師。遠江国阿野に居た。」とある。
 2:底本頭注に、「部屋住の若君。義経をさす。」とある。
 3:底本は、「頭殿(かうのとの)」。底本頭注に、「亡父義朝。」とある。
 4:底本頭注に、「且は。」とある。
 5:底本は、「荘(しやう)」。底本頭注に、「荘園。権勢ある人又は社寺の私有地。」とある。
 6:底本は、「陵介(みさゝぎのすけ)」。底本頭注に、「諸陵寮の次官。」とある。
 7:底本は、「急度(きつと)」。底本頭注に、「ふと。ひよつと。すぐに。」とある。
 8:底本は、「寝(い)ねたりし。あはれ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 9:底本頭注に、「万一の事のある折、下野国に居りまするから御尋ね下さいと陵の兵衛が申した。」とある。
 10:底本頭注に、「時世に逢つて繁昌して。」とある。
 11:底本は、「遠侍(とほざぶらひ)」。底本頭注に、「中門の傍にあつて警固の侍の詰めてゐる処。」とある。
 12:底本は、「五十ばかり」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 13:底本頭注に、「何となく品よく立派な。」とある。
 14:底本頭注に、「かういふ事があつては大変だの意。」とある。
 15:底本頭注に、「平重盛。」とある。
 16:底本頭注に、「〇兄弟誅せられ 頼朝範頼義経など兄弟。」「〇七條朱雀の方 義経の母常磐をいふ。清盛常磐を寵して七條朱雀に住はせた。」「〇ほうじ はうし。芳志。」とある。「ほうじ」は、底本頭注に従い改めた。
 17:底本頭注に、「清盛が死んで後。」とある。
 18:底本頭注に、「たよりにならぬ者だから執念深く思ひ残ることもない。」とある。
 19:底本は、「うせ給ひける。かくて行(ぎやう)には、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。