五 伊勢三郎義経の臣下に初めて成る事
かくて、日も暮れ方になりぬ。賤が庵は軒を並べてありけれども、一夜をあかしたまふべき処もなし。引き入りて、まや{*1}一つあり。情ある住みかとおぼしくて、竹の透垣に槙の板戸をたてたり。池をほり、汀にむれ居る鳥を見給ふにつけても、情ありて御覧ずれば、庭にうち入り、縁のきはにより給ひて、「御内へ、物申さん。」と仰せられければ、十二、三ばかりなるはした者出でて、「何事。」と申しければ、「この家には、おのれより外に、大人しき者はなきか。人あらば、出でよ。云ふべき事あり。」とて返されければ、主にこの由を語る。
やゝありて、年頃十八、九ばかりなる女の童の優なるが、一間の障子のかげより、「何事候ぞ。」と申しければ、「京の者にて候が、当国{*2}の多胡と申す処へ、人をたづねて下り候が、この辺の案内知らず候。日は、はや暮れぬ。一夜の宿をかしたまへ。」と仰せられければ、この女、申しけるは、「やすき程にて候へども、主にて候もの、留守にて候が、今宵夜ふけてこそ来り候はんずれ。人に違ひて、情なき者にて候。いかなることをか申し候はんずらん。それこそ御ため、いたはしく候へ。いかゞすべき。余の方{*3}へも御入り候へかし。」と申しければ、「殿の入らせたまひて、無念のこと候はば{*4}、その時こそ虎ふす野辺にもまかり出で候はめ。」と仰せられければ、女、思ひみだしたり。
御曹司、「今夜一夜は、唯かし給へ。色をも香をも知る人ぞしる。」とて、遠侍{*5}へするりと入りてぞおはしける。女、力及ばず、内に入りて大人しき人に、「いかにせんずるぞ。」と云ひければ、「一河の流れを汲むも、皆これ他生の縁なり。何かくるしく候べき。遠侍には、かなふまじ{*6}。二間所へ請じ奉り給へ。」とて{*7}、様々の菓子を取り出だして、御酒すゝめ奉れども、少しもきこし召し入れたまはず{*8}。女、申しけるは、「この家の主は、世に超えたるえせ者{*9}に候。相構へて相構へて見えさせたまふな。御灯火を消し、障子引き立てて御休み候へ。八声の鳥{*10}も鳴き候はば、御心ざしの方へ、急ぎ急ぎ御出で候へ。」と申しければ、「うけたまはり候ひぬ。」とぞ仰せける。
「いかなる男を持ちて、これ程には怖づらん。おのれが男に越えたる陵が家にだに火をかけ、さんざんに焼き払ひて、これまで来りつるぞかし。ましてやいはん、女の情ありて留めたらんに、男来りて憎げにも申さば、いつのために持ちたる太刀ぞ。これ、ござんなれ。」と思し召し、太刀抜きかけて、膝の下にしき、直垂の袖を顔にかけて、そら寝入りしてぞ待ち給ふ。「立て給へ。」と申しつる障子をば、ことに広くあけ、「消したまへ。」と申しつる火をば、いとゞ高くかき立て、夜のふくるに従ひて、「今や、今や。」と待ちたまふ。子の刻ばかりに成りぬれば、主の男、出で来り、槙の板戸を押し開き、内へ入るを見給へば、年のころ二十四、五ばかりなる男の、葦の落葉つけたる浅葱の直垂に、萌黄縅の腹巻に、太刀佩いて、大の手鉾を杖につき、われに劣らぬ若党四、五人、猪の目ほりたる鉞、刃の薙鎌、長刀、ちぎりき、さいぼう{*11}、手々に持ちて、たゞいま事に逢ひたるけしきにて、四天王のごとくにして出で来る。「女の身にて怖れつるも道理かな。きやつは、けなげ者{*12}かな。」とぞ御覧じける。
かの男、「二間{*13}に人あり。」と見て、沓脱ぎに上り、あがりける。大の眼を見開きて、太刀取り直し、「これへ。」とぞ仰せられける。男は、けしからず思ひて、返事も申さず。障子引き立てて、足ばやに内に入る。「いか様に女に逢うて、にくげなる事いはれんずらん。」と思し召して、壁に耳をあてて聞き給へば、「や、御前、御前。」と押し驚かせば、暫しは音もせず。遙かにして寝覚めたる風情して、「いかに。」といふ。「二間にねたる人、誰。」といふ。「我知らぬ人なり。」とぞ申しける。「されども、知られず知らぬ人をば、男のなき跡に、誰がはからひに置きたるぞ。」と、世に憎気に申しければ、「あは、事こそ出で来たるぞ。」と聞こし召しけるほどに、女、申しけるは、「知らぬ人なれども、『日は暮れぬ。行き方は遠し。』とうちわび給ひつれども、人のおはしまさぬ跡に留めまゐらせては、御言葉の末も知り難く侍れば、『叶はじ。』と申しつれども、『色をも香をも知る人ぞしる。』と仰せられつる御言葉に恥ぢて、今夜の宿をまゐらせつるなり。いかなる事ありとも、今宵ばかりは何か苦しかるべき。」と申しければ、男、「さてもさても和御前をば{*14}、志賀の都のふくろ心は東の奥のものにこそ思ひつるに、『色をも香をもしる人ぞ知る。』と仰せられけることばの末をわきまへて、宿を貸しぬるこそやさしけれ。何事有りとも苦しかるまじきぞ。今宵一夜はあかさせ参らせよ。」とぞ申しける。御曹司、「あはれ、しかるべき仏神の御恵みかな。憎げなることをだにもいはば、ゆゝしき大事は出で来ん。」と思し召しける。
主、いひけるは、「いかさまにもこの殿は、たゞ人にてはなし。近くは三日、遠くは七日のうちに、事に逢うたる人{*15}にてぞあるらん。我も人も、世になし者の珍事中夭{*16}に逢ふ事、つねの習ひなり。御酒を申さばや。」とて、様々の菓子どもを調へて、はしたものに瓶子いだかせて、女を先に立てて二間にまゐり、御酒すゝめ奉る。されども敢へてきこし召したまはず。主、申しけるは、「御酒きこし召し候へ。いかさま、御用心とおぼえ候。姿こそあやしの男にて候とも、某、かくて候上は、御宿直仕り候ふべし。人はなきか。」と呼びければ、四天の如くなる男、五、六人出で来る。「御客人をまうけ奉るぞ。御用心とおぼえ候。今宵は寝られ候な。御宿直仕れ。」といひければ、「承り候。」とて、蟇目のおと、弓の弦おし張りなんどして御宿直仕り、我が身も出居{*17}の蔀あげて、灯台二所に立てて、腹巻取つて側におき、弓おし張り、矢束解いて押しくつろげて、太刀取つて膝の下に置き、あたりに犬の吠え、風の木末をならすをも、「誰、あれ斬れ。」とぞ申しける。その夜は寝もせで明かしける。御曹司、「あはれ、きやつは健気ものかな。」と思し召しけり。明くれば、「御立ちあらん。」としたまふを、様々に申しとゞめ奉り、かりそめのやうになりつれども、こゝに二、三日とゞまりたまひけり。
あるじの男、申しけるは、「そもそも都にては、いかなる人にて渡らせ給ひ候ぞ。我等も、知る人の候はねば、自然の時{*18}は尋ねまゐらすべし。今一両日も御逗留候へかし。」と申す。「東山道へかゝらせ給ひ候はば碓氷の峠、東海道にかゝらば足柄まで、送りまゐらすべし。」と申しければ、「都になからん者ゆゑに、尋ねられんといはんも詮なし。この者を見るに、二心なんどはよもあらじ。知らせばや。」と思し召し、「これは、奥州の方へ下るものなり。平治の乱に亡びし下野の左馬頭{*19}がすゑの子に牛若とて、鞍馬に学問して候ひしが、いま男になりて、左馬九郎義経と申す者なり。奥州へ秀衡を頼みて下り候。今、自然として{*20}知る人になりたることのうれしさ。」と仰せければ、主の男、「こはいかに。」といふまゝに、御前へまゐりて、御袂にしかと取りつき、何ともものをばいはずして、はらはらとぞ泣き居たり。
「あら、無慙や。こなたより問ひ奉らずば、いかでか知り奉るべきぞ。」と申しける。「我等がためには重代の君にて御わたり候ものを。かくまうせば、いかなる者ぞと思し召すらん。親にて候ひしものは、伊勢国二見の者にて候。伊勢のかんらひ{*21}義連と申して、大神宮の神主にて候ひけるが、一年、都にて清水に詣で給ひしに、下向の折節、九條の上人と申すに乗り合ひ{*22}し、これを罪科にて、上野国成島と申す処に流され参らせて、年月を送りしに、故郷を忘れんそのために、妻子をまうけて候ひしが、やがて懐妊仕り、七月になり候に、かんらひ終に御赦免もなく、この処にてむなしくなる。その後、母にて候者の胎内に宿りながら父に別れて、果報拙き者なりとて棄て置き候を、母方の伯父にて候者、不便のことと思ひて育てられ、成人し、十三と申すに、『元服せよ。』と申し候ひしに、『我が父といふもの、いかなる人にてありけるや。』と母に問ひしとき、母は涙に咽び、とかくの返事も申さず。
「暫くありて、『汝が父は、伊勢国二見の浦の人とかや。名は、伊勢のかんらひ義連といひしなり。左馬頭殿の、ことに不便に思し召されしに、思ひの外の事ありて、この国に有りし時、おのれを懐妊して、七月と申すに、遂にむなしく成りしなり。』と申ししかば、父は伊勢のかんらひといひければ、我をば伊勢三郎と申し、父が義連と名のれば、我は義盛と名のり候。この年ごろ、平家の世になり、『源氏はみな滅びはてて、たまたま残りとゞまり給ひしも、おし篭められ、散り散りにならせ給ふ。』と承りしほど、たよりも知らず候へば、尋ねまゐらする事もなし。心に物を思ひしに、唯今君を拝み参らせ候こと、三世の契りと申しながら、ひとへに八幡大菩薩の御引き合はせとこそ存じ候へ。」とて、来し方行く末の物語どもを、たがひに申し給ひつゝ、たゞかりそめのやうにありしかども、その時御目に懸かり参らせて、また心なく{*23}して御供申し、奥州へくだり、治承四年、源平の乱れ出で来しかば、御身に添ふ影の如くにて、鎌倉殿の御中不快にならせたまひし時までも{*24}、奥州に御供して、名を後代にあげたりし伊勢三郎義盛とは、その時の宿の主なり。
義盛、内に入りて、女房に向つて、「いかなる人ぞとおもひしに、我がためには相伝の御主にて渡らせたまひけるぞや。されば、これより御供して、奥州へくだるべし。和御前は、これにて明年の春のころまで待ち給へ。もしその頃も過ぎ行かば、はじめて人にも見えたまへ{*25}。たとひ人に見えたまふとも、義盛がこと忘れ給ふな。」と申しければ、女房、泣くより外のことぞなき。「たゞかりそめの旅だにも、主の跡は物憂きに、飽かで別るゝ面影を、いつの世にかは忘るべき。」と、歎けど甲斐ぞなかりける。剛の者の癖なれば、一筋に思ひ切りて、やがて御供してぞ下りける。
下野の室の八島をよそに見て、宇都宮の大明神を伏し拝み、行方の原にさしかゝり、実方の中将の、「あたりの野辺の白ま弓、おしはりすびきし肩にかけ、なれぬほどはいづれをそれん、馴れての後は、そるぞ悔しき。」とながめけん、あたりの野辺を見て過ぎ、浅香の沼のあやめ草、影さへ見ゆる浅香山、まづまづ馴れにし信夫の里のすり衣、など申しける、名所名所を見たまひて、伊達郡あつかしの中山越えたまひて、まだ曙の事なるに、道行き通るを聞きたまひて、「今追ひついて、物問はん。この山は、当国の名山にてあるなるに。」とて、追つついて見たまへば、御先に立ちたる吉次にてぞ有りける。商人の習ひにて、こゝかしこにて日を送りける程に、九日先に立ち参らせたるが、今追ひつき給ひける。
吉次、御曹司を見付け参らせて、世に嬉しくぞ思ひける。御曹司も、御覧じて嬉しくぞ思し召す。「陵が事は、いかに」と申しければ、「頼まれず候間、家に火をかけて、散々に焼き払ひ、これまで来たるなり。」と仰せられければ、吉次、今の心地して{*26}、恐ろしくぞおもひける。「御供の人は、いかなる人ぞ。」と申せば、「上野の足柄の者ぞ。」と仰せられける。「今は、御供もいるまじ。君、御著き候ひて後、尋ねて下り給へ。跡に妻子の歎き給ふべきも、いたはしくこそ候へ。自然の事{*27}候はん時こそ御供候はめ。」とて、やうやうに止めければ、伊勢三郎をば上野へぞかへされける。それよりして、治承四年を待たれけるこそ久しけれ。
かくて、夜を日についで下りたまふ程に、武隈の松、阿武隈川と申す名所名所を過ぎて、宮城野の原、躑躅の岡をながめて、千賀の塩竃へ詣で給ふ。あたりの松、籬の島を見て、顕仏上人の旧跡、松島を拝ませ給ひて、紫の大明神の御前にぞ参り給ひ、御祈誓申させ給ひて、姉葉の松をうちながめ、栗原にも著き給ふ。吉次は、栗原の別当の坊に入れ奉りて、我が身は平泉へぞ下りける。
六 義経秀衡に御対面の事
吉次は、急ぎ秀衡にこの由申しければ、折節、風の心地し伏したりけるが、嫡子元吉の冠者泰衡、二男泉冠者基衡を呼びて申しけるは、「さればこそ、過ぎし頃、黄なる鳩来りて、秀衡が家の内に飛び入ると夢に見えたりしかば、『いかさま、源氏のおとづれうけたまはらん瑞相やらん。』と思ひつるに、頭殿の公達の御下りあるこそうれしけれ。かき起こせ。」とて、人の肩を押さへて、烏帽子取つて引つこみ{*28}、直垂取つてうちかけ申しけるは、「この殿は、幼くおはするとも、狂言綺語の戯れも、仁義礼智信も、正しくぞおはすらん。この程のいたはり{*29}に、さこそ家の内も見苦しかるらん。庭の草取らせよ。泰衡、基衡、はやはや出でて、御迎ひに参れ。事々しからぬ様にてまゐれ。」と申されければ、畏まつて承り、その勢三百五十余騎、栗原寺へぞ馳せ参る。御曹司の御目にかゝる。栗原の大衆五十人、送り参らする。
秀衡が申しけるは、「これまで遥々御入り候事、返す返す畏まり入り存じ候。両国を手に握りて候へども、思ふやうにも振舞はれず候。今は何の憚りか候べき。」とて、泰衡を呼びて申しけるは、「両国の大名{*30}、三百六十人をすぐりて、日々の埦飯{*31}を参らせて、君を守護し奉れ。御ひきでものには、十八万騎持ちて候郎等を、十万をば二人の子どもに賜ひ候へ。今八万をば君に奉る。君の御事は、さて置きぬ。吉次が御供申さでは、いかでか御下り候べき。秀衡を秀衡と思はん者は、吉次に引出物せよ。」と申しければ、嫡子泰衡、白皮百枚、鷲の羽百しり、良き馬三十疋、白鞍置きてぞ引きにける。二男基衡も、これに劣らず引出物しけり。その外、家の子郎等、「我劣らじ。」と引きにける。秀衡、これを見て、「獅子の皮も鷲の尾も、今はよも不足あらじ。御辺の好む物なれば。」とて、貝摺りたる唐櫃の蓋に、砂金一蓋入れてぞ取らせける。吉次、「この君の御供し、道々の難を遁れたるのみならず、徳つきて{*32}、かかる事にも逢ひけるものよ。ひとへに多聞{*33}の御利生。」とぞ思ひける。かくて、「商ひせずとも、よきもとでを儲けたり。不足あらじ。」と思ひ、京へ急ぎ上りけり{*34}。
かくて、今年も暮れければ、御年十七にぞ成り給ふ。さても年月を送り給へども、秀衡も、申す旨もなし。御曹司も、「いかゞあるべき。」とも仰せ出だされず。「中々都にだにもあるならば、学問をも遂げ、見たきことをも見るべきに。かくても叶ふまじ。都へ上らばや。」とぞ思ひける。「泰衡にいふとも叶ふまじ。知らせずして上らばや。」と思し召し、「かりそめの歩きのやうにて、京へ上らせ給ふ。」とて、伊勢三郎がもとにおはして、暫くやすらひて、東山道にかゝり、木曽の冠者{*35}のもとにおはして、謀叛の次第を仰せ合はされて、都に上り、片ほとりの山科に知る人ありける処に渡らせ給ひて、京の機嫌{*36}をぞ窺ひ給ひける。
校訂者注
1:底本頭注に、「雨下。棟の前後両方に葺きおろしにした家作り。」とある。
2:底本頭注に、「上野国。」とある。
3:底本頭注に、「外の方へ。」とある。
4:底本頭注に、「主人がお帰りになつて泊められぬといふ様な遺憾な事があつたらば其の時こそ。」とある。
5:底本は、「遠侍(とほさぶらひ)」。底本頭注に、「中門の廊などに設けられた警固の武士の詰所。」とある。
6:底本頭注に、「遠侍ではしかたがあるまい。」とある。
7:底本は、「一間所(ひとまどころ)へ請(しやう)じ奉り、様々の」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
8:底本頭注に、「召しあがらず。」とある。
9:底本頭注に、「見苦しき者。馬鹿者。」とある。
10:底本は、「八声(やこゑ)の鳥」。底本頭注に、「暁方に鳴く鶏。」とある。
11:底本頭注に、「〇ちぎりき 乳切木。棒の如き杖。」「〇さいぼう 撮棒。木又は鉄の棒。」とある。
12:底本頭注に、「健気な者、殊勝な勇ましい男。」とある。
13:底本頭注に、「柱間の二つある座敷。」とある。
14:底本は、「和御前(わごぜ)をば」。底本頭注に、「〇和御前を云々 そなた。御身。御身を東国の辺鄙なはての者と思つた。」とある。
15:底本頭注に、「事変に逢つた人。陵介の館に火を放つた事が義経の顔色にでも顕はれたのであらう。」とある。
16:底本は、「ちうじちうやう」。底本頭注に、「珍事中夭。非常の災難。一大事変。」とあるのに従い改めた。
17:底本は、「出居(でゐ)」。底本頭注に、「客に応接する室。」とある。
18:底本頭注に、「万一の時。」とある。
19:底本頭注に、「下野守左馬頭源義朝。」とある。
20:底本頭注に、「偶然の事で。」とある。
21:底本頭注に、「かんなぎ。覡、神を斎き祀り神楽を奏しなどする者。」とある。
22:底本頭注に、「乗物に乗つて出逢ふこと。貴人に対して下車しなかつたので。」とある。
23:底本頭注に、「二心なく。」とある。
24:底本頭注に、「義経兄頼朝と不和になつたこと。」とある。
25:底本頭注に、「他の人に再婚せよ。」とある。
26:底本頭注に、「陵の介の館に放火したのを今現在の事の様な気がして恐れた。」とある。
27:底本頭注に、「万一の事。」とある。
28:底本頭注に、「烏帽子引かぶり。」とある。
29:底本頭注に、「病気。」とある。
30:底本頭注に、「領地の大きな地頭などをいふ。」とある。
31:底本は、「埦飯(わうばん)」。底本頭注に、「飯盛の飯の義で、飯盛振舞の略。盛んなる饗応。」とある。
32:底本頭注に、「利益を得て。」とある。
33:底本頭注に、「鞍馬の本尊多聞天。」とある。
34:底本は、「商(あきな)ひを仕り候とも、よき資本(もとで)を儲(まう)けたり。不足(ふそく)あらじと思ひ、京へ急(いそ)ぎ上りたまひけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改め、削除した。
35:底本頭注に、「為義の孫義仲をいふ。冠者は元服して冠を著けた若者。」とある。
36:底本頭注に、「時機。様子。」とある。
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