巻第三

一 熊野の別当乱行の事

 義経の御内に、聞こえたる一人当千の剛の者あり。俗姓を尋ぬるに、天児屋根の御苗裔、中関白道隆の後胤、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とぞ申しける。
 かれが出で来る由来を尋ぬるに、二位の大納言と申す人は、公達あまた持ち給ひたりけれど、親に先立ち、皆うせ給ふ。年たけ、齢傾きて、一人の姫君をまうけ給ひたり。天下第一の美人にておはしければ、雲の上人{*1}、「我も、我も。」と望みをかけ給ひけれども、更に用ゐ給はず。大臣師長、ねんごろに申されければ、「さるべき由申されけれども、今年は忌むべき事あり。東の方は叶はじ。明年の春ころ。」と約束せられけり。
 御年十五と申す夏の頃、いかなる宿願にか、五條の天神に参り給ひて、御通夜し給ひたりけるに、「辰巳の方より俄に風吹き来りて、御身にあたる。」と思ひ給ひければ、物狂はしく、いたはりぞ出で来給ひたる。大納言、師長、熊野を信じ参らせ給ひける程に、「今度の病、たすけさせたまへ。明年の春の頃は、参詣をとげて、王子王子の御前にて宿願をほどき候べし{*2}。」と祈られければ、程なく平癒し給ひぬ。その次の年の春、宿願をはらさせ給はんために、参詣あり。師長、大納言殿よりして、百人同者{*3}つけ奉りて、三つの山の御参詣を事ゆゑなく遂げ給ふ。
 本宮せうしやう殿に御通夜ありけるに、別当も入堂したりけり。遙かに夜ふけて、内陣にひそめきたり。「何事ならん。」と、姫君、御覧ずる処に、「別当の参り給ひたる。」とぞ申したる。別当、かすかなる灯火の影よりこの姫君を見奉り給ひて、さしもしかるべき行人{*4}にておはしけるが、未だ懺法だにも過ぎざるに、急ぎ下向して、大衆を呼びて、「いかなる人ぞ。」と問はれければ、「これは、二位の大納言殿の姫君、右大臣殿の北の方。」とぞ申しける。別当、「それは、約束ばかりにてこそあるなれ。未だ近づき給はず候と聞くぞ。さきさき大衆の、『あはれ、熊野に何事も出で来よかし。』と、『人の心をも我が心をも見ん{*5}。』といひしは、今ぞかし。出で立ちて、あしきのなからん所に、同者追ひ散らして{*6}、この人を取りてくれよかし。別当が児にせん。」とぞ宣ひける。
 大衆、これを聞きて、「さては、仏法のあた、王法の敵とやなりたまはんずらん。」と申しければ、「臆病の致す処{*7}にてこそあれ。かかる事を企つるならひ、大納言殿、師長、院の御前へ参り、訴訟申したまはば、大納言を大将として、畿内の兵こそ向はんずらめ。それは、思ひまうけたる事なれ。新宮熊野の地へ、敵に足をふませばこそ。」とぞ宣ひける。先々の僻事と申すは、大衆のおもむきを別当のしづめ給ふだにも、やゝもすれば衆徒、はやりき。いはんやこれは、別当おこし給ふ事なれば、衆徒も、つはものをすゝめけり。
 「我も、我も。」と甲冑をよろひ、先ざまに走り下りて同者を待つ処に、又、あとより大勢、ときを作りて追つかけたり。恥をはづべき侍ども、皆逃げける。衆徒、輿{*8}を取つてかへり、別当に奉る。我がもとは、上下の行所なりければ{*9}、「もし京方の者ありや。」とて、政所におき奉り、もろともに明け暮れひきこもりてぞおはしける。「もし京より返し合はする事もや。」と、用心きびしくしたりけり。されども私の計らひにてあらざれば、急ぎ都へはせ上りて、この由を申したりければ、右大臣殿、大きに憤り給ひて、院の御所に参り給ひて{*10}訴へ申されたりければ、やがて院宣を下して、和泉、河内、伊賀、伊勢の住人どもを催して、師長、大納言殿両大将として、七千余騎にて、「熊野の別当を追ひ出だして、俗別当になせ{*11}。」とて、熊野におしよせ給ひて攻め給へば、衆徒、身を捨てて防ぐ。
 京方、「叶はじ。」とや思ひけん、切部の王子に陣を取つて、京へはや馬を立て、申されければ、合戦、遅々する仔細あり。その故は、公卿僉議有りて、「平宰相信成の御女、美人にておはしまししかば、内へ召されさせ給ひけるを、今この事によつて、熊野山滅亡せられん事、本朝の大事なり。右大臣には、この姫君を内より返し奉りたまはば、何の御憤りか有るべき。又、二位の大納言の御婿、熊野の別当、何か苦しかるべき。年たけたるばかりにてこそあれ、天児屋根の御苗裔、中関白道隆の御子孫なり。苦しかるまじ。」とぞ。せんぎ、事をはりて、切部の王子に早馬を立て、この由を申されければ、右大臣、「公卿僉議の上は、申すに及ばず。」とて、うち捨てて帰りのぼりたまふ。二位大納言は、「われひとりして憤るべきならず。」とて、うち連れ奉りて上洛有りければ、熊野も都も静なりといへども、やゝもすれば兵ども、「我らがする事は、宣旨院宣にも従はばこそ。」と、したんして、いよいよ代を世ともせざりけり。
 さて、姫君は、別当に随ひて年月を経るほどに、別当は六十一、姫君に馴れて子をまうけんずるこそ嬉しけれ。「男子ならば、仏法の種をつがせて、熊野をも譲るべし。」とて、かくて月日を待つ程に、限りある月に生まれずして、十八月にぞ生まれける。

二 弁慶生まるゝ事

 別当、この子の遅く生まるゝ事、不思議に思はれければ、産所に人を遣はして、「いかやうなる者。」と問はれければ、生まれ落ちたる不思議は、世の常の二、三歳ばかりにて、髪は肩のかくるゝ程に生ひて、奥歯、むか歯{*12}は、特に大きく生ひてぞ生まれけれ。別当にこの由を申しければ、「さては、鬼神ござんなれ。しやつを置いては、仏法の仇となりなんずるぞ。水の底にふしづけにもし、深山に磔にもせよ。」とぞ宣ひける。母、これを聞き、「それは、さる事なれども、親となり子と成る事も、この世一つならぬことぞと承る。忽ちにいかゞ失はん。」となげき入りてぞおはしける処に、山の井の三位といひける人の北の方は、別当の妹なりしが、別当に、をさなき人の御不審をとひ給へば、「人の生まるゝと申すは、九月、十月にてこそ極めて候へ。既にこの者は、十八月に生まれて候へば、助け置きても親のあたとも成るべく候へば、助け置く事候まじ。」と宣ひける。
 をば御前、聞き給ひて、「腹の内にて久しくして生まれたる者、親のために悪しからんには候はず。それ、唐の黄石が子、腹の内にて八十年の齢を送り、白髪生ひて生まれける。年は二百八十歳。たけ低く色黒くして、世の人には変はりけり。されども八幡大菩薩の御使者、あら人神といはゝれ給ふ{*13}。唯みづからに賜はり候へ。京へ具して上り、よくば男になして、三位殿に奉るべし。悪しくは法師にもなして、経の一巻も読ませたらば、そうとうの身となりて、かへつて親をも導くべし。」と、うちくどき申されければ、「さらば。」とて、叔母に取らせける。
 産所に行きて、産湯をあびせて、鬼若と名を付けて、五十一日過ぎければ、京へ具して上り、乳母を付けて、もてなしかしづける程に、鬼若、五歳にては、世の人、十二、三ほどに見えける。六歳の時、疱瘡といふものをして、いとゞ色も黒く、髪は生まれたるまゝなれば、肩より下へおひ下りて、「髪のふぜいも、男になして叶ふまじ{*14}。法師になさん。」とて、比叡の山の学頭、西塔桜本の僧正のもとに申されけるは、「三位殿のためには、養子にて候。学問のために奉り候。みめかたちは、参らするにつけて恥ぢ入りて候へども、心はさかさかしく候。文の一巻もよませ給び候へ。心の不定{*15}に候はんは、直させ給ひて、いか様にも御計らひに任せ候。」とて、上せけり。
 桜本にて学文する程に、精{*16}、月日のかさなるに随ひて、人に勝れてはかばかし。学文、世にこえて器用なり。されば衆徒も、「形はいかにも悪かれ、学文こそ大切なり。」とて、いよいよ指南し給ひける。かくて学文に心をだにも入れなばよかるべきに、力も強く{*17}、骨もふとく逞しくなる儘に、師の仰せにも随はず。児、法師ばらを語らひて、人も行かぬ御堂のうしろの山の奥などへ伴ひ行きて、腕おし、頚引き、相撲などぞ好みける。
 衆徒、この事を聞きて、「わが身こそいたづら者にならめ{*18}、人の処に学文する者をだに、すかし出だして不定になす事、謂はれなし。」とて、僧正のもとに訴訟の絶ゆる事なし。かく訴へ来る者をば、かたきの様に思ひ、その人の方へ走り入りて、蔀、妻戸をさんざんにうち破りけれども、悪事もぶよう{*19}も鎮むべきやうぞなき。その故は、父は熊野の別当なり。養父は山の井殿、祖父は二位の大納言、師匠は三千坊{*20}の学頭の児にてある間、「手をもさしては、よき事あるまじ。」とて、唯うち任せてぞ狂はせける。されば、相手はかはれども、鬼若はかはらず。いさかひの絶ゆることなし。拳をにぎり、人をはり{*21}ければ、人々、路次をもすぐにとほりえず。たまたま逢ふ者も、道を避けなどしければ、その時は異議なくとほして後、逢ひたる時、取つて押さへて、「さもあれ、過ぎし頃は、行きあひ参らせて候に、道をよけられしは、何の遺恨にて候ひけるぞ。」といひければ、恐ろしさに膝ふるひなどする者を、腕ねぢ、こぶしをもつて押し倒し、ねぢたふしなどするほどに、逢ふ者の不祥{*22}にてぞありける。
 衆徒、これを僉議して、「僧正の児なりとも、山の大事にて有るぞ。」とて、大衆三百人、院の御所へ参りて申しければ、「それ程のひが事の者をば、急ぎ追ひ失へ。」と院宣有りければ、大衆悦び、山上へ帰る所に{*23}、公卿僉議ありて、「古き日記見給へば、『六十一年に、山上にかかる不思議の者出で来ければ、朝家の祇祷になる事有り。院宣にてこれを鎮めつれば、一日のうちに天下無双の願所、五十四箇所亡ぶ{*24}。』といふことあり。今年、六十一年に相当たる。唯捨て置け。」とぞ仰せける。衆徒、憤り申しけるは、「鬼若一人に三千人の衆徒と思し召しかへられ候こそ遺恨なれ。さらば、山王の御輿をふり奉らん。」と申しければ、神には御領を参らせ給ひければ、衆徒、「この上は。」とてしづまりけり。
 「この事、鬼若に聞かすな。」とて、かくし置きたりしを、いかなる嗚呼の者か知らせけん、「これは、遺恨なり。」とて、いとどさんざんに振舞ひける。僧正、もてあつかひて、「あらば有ると見よ。なくばなしと見よ」とて、目も見せ給はざりけり。

三 弁慶山門を出づる事

 鬼若、僧正のにくみ給へる由を聞きて、「頼みたる師の御坊だに、かやうに思はれんに、山に有りても{*25}詮なし。目にも見えざらん方へ行かん。」と思ひ立ちて出でけるが、「かくては、いづくにても、山門の鬼若とぞいはれんずらん。学文に不足なし。法師になりてこそ行かめ。」とおもひて、髪剃り、衣を取りそへて、美作治部卿といふ者の湯殿にはしり入りて、盥の水にて手づから髪を洗ひ、所々を自剃り{*26}にしたりける。かの水に影をうつして見ければ、頭は丸くぞ{*27}見えける。「かくては叶はじ。」とて、「戒名{*28}をば何とかいはまし。」と思ひけるが、「昔、この山に悪を好む者あり。西塔の武蔵坊とぞ申しける。二十一にて悪をしそめて、六十一にて死にけるが、端座合掌して往生を遂げたると聞く。我もその名を付いて呼ばれたらば、剛{*29}になることもあらめ。西塔の武蔵坊といふべし実名は、父の別当は弁せうと名のり、その師匠はくわん慶なれば、弁せうの弁とくわん慶の慶とを取つて、弁慶。」とぞ名乗りける。昨日までは鬼若、今日はいつしか武蔵坊弁慶とぞ申しける。
 山上を出で、小原の別所と申す処に山法師の住みあらしたる坊に、誰とむるとはなけれども、暫くは尊げにてぞ居たりける。されども、児なりし時だにも、みめわろく、心異相{*30}なれば、人、もてなさず。まして訪ひ来る人もなければ、こゝをも幾程なくあくがれ出でて、「諸国修行に。」とて、また出で、津国河尻に下り、難波潟を眺めて、兵庫のしまなどいふ処をとほりて、明石浦より船に乗りて、阿波国について、焼山、鶴が峯を拝みて、讚岐の志度の道場、伊予のすかうに出でて、土佐の幡多まで拝みけり{*31}。かくて正月も末に成りければ、また阿波国へぞ帰りける。

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校訂者注
 1:底本は、「雲(くも)の上人(うへびと)」。底本頭注に、「殿上人。」とある。
 2:底本頭注に、「〇王子々々 熊野行幸の時御休所毎に臨時熊野本社を移した所。京都から熊野までに九十九の王子社があつた。」「〇宿願をほどき 神仏の立願叶つて礼参りする。願ほどきをする。」とある。
 3:底本は、「同者(どうじや)」。底本頭注に、「同行の者。」とある。
 4:底本は、「行人(ぎやうにん)」。底本頭注に、「行者。修行者。」とある。
 5:底本頭注に、「大衆が別当に対する誠意を示さうと。」とある。
 6:底本は、「同者を射ちらして、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 7:底本は、「致る処」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 8:底本頭注に、「姫君の乗つた輿。」とある。
 9:底本頭注に、「別当の許は上の者下の人の修行する処である。」とある。
 10:底本は、「憤り給ひて、訴(うつた)へ申され」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 11:底本は、「則ち別当になせ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「前歯。」とある。
 13:底本は、「いはれ給ふ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 14:底本頭注に、「俗人にしてはかなふまい。」とある。
 15:底本は、「不定(ふぢやう)」。底本頭注に、「戒を犯して他人に知れないこと。仏語。」とある。
 16:底本は、「せい、」。底本頭注に、「精。熟練して巧みなこと。」とある。底本頭注に従い改めた。
 17:底本は、「よかるべき。力もよく、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補い、改めた。
 18:底本は、「いたづら者ならめ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 19:底本頭注に、「不用。乱暴不都合。又ぶゆで武勇とするも通ずる。」とある。
 20:底本頭注に、「比叡山延暦寺に三千もある僧舎。」とある。
 21:底本頭注に、「人を打ち。」とある。
 22:底本は、「不祥(ふしやう)」。底本頭注に、「縁起のわるいことの義で不幸。」とある。
 23:底本は、「仏所に」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 24:底本は、「五十四箇所ぞといふことあり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い補った。
 25:底本頭注に、「比叡山延暦寺に居ても。」とある。
 26:底本は、「おしぞりにしたりける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 27:底本は、「丸く見えける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 28:底本頭注に、「法師名。」とある。
 29:底本は、「がう」。底本頭注に従い改めた。
 30:底本は、「いさう」。底本頭注に従い改めた。
 31:底本は、「幡多(はた)又をがみけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。