七 頼朝謀叛の事

 治承四年八月十七日に、頼朝、謀叛起こし給ひて、泉の判官兼隆{*1}を夜討にして、同じき十九日、相模国小早河の合戦にうち負けて、土肥の杉山に引き篭りたまふ。大場三郎、股野五郎{*2}、土肥の杉山を攻むる。二十六日のあけぼのに、伊豆国真鶴が崎より船に乗りて、三浦{*3}を心ざしておし出だす。折節、風烈しくて、岬{*4}へ舟をよせかねて、二十八日の夕暮に、安房国洲の崎といふ処に御舟をはせ上げて、その夜は、滝の口の大明神に御通夜ありて、夜と共に祈誓をぞ申されけるに、「明神の示し給ふぞ。」とおぼしくて、御宝殿の御戸をいつくしき御手にて押し開き、一首の歌をぞあそばしける。
  みなもとはおなじながれぞいはし水たれせき上げよ雲の上まで
兵衛佐殿、夢うちさめて、明神を三度拝し奉りて、
  みなもとはおなじながれぞいはし水せき上げてたべ雲の上まで
と申して、明くれば洲の崎を立ちて、ばんどう、ばんさいにかゝり、真野の館を出で、小湊のわたりして、那古の観音をふし拝み、雀島の大明神の御前にて、かたの如くの御神楽を参らせて、竜島に著き給ひぬ{*5}。
 加藤次、申しけるは、「悲しきかなや。保元に為義、斬られ給ふ。平治に義朝、討たれ給ひて後は、源氏の子孫、皆絶えはてて、弓馬の名埋づんで星霜を送り給ふ。たまたまも源氏、思ひ立ち給へば、不運の宮に与し参らせて{*6}、世を損じ給ふこそかなしけれ。」と申しければ、兵衛佐殿、仰せられけるは、「かく心弱くな思ひそ。八幡大菩薩、いかでか思し召し捨てさせ給ふべき。」と諌め給ひけるこそ、頼もしくおぼゆれ。
 さる程に、三浦の和田小太郎、佐原十郎、栗浜の浦より小舟にとり乗りて、宗徒の輩{*7}三百余人、りよう島へ参りて、源氏につく。安房国の住人町野太郎、案内大夫、これ等二人を大将として、五百余騎馳せ来り、源氏につく。源氏、八百余騎になり、いとゞ力つきて、鞭を上げてうつほどに、安房と上総の境なる、つくしうみの渡りをして、上総国佐貫のえだ浜を馳せ急がせ給ひて、磯が崎をうち通りて、篠部、いかいしりといふ処につき給ふ。上総国の住人、いほう、いなん、庁北、庁南、うさ、山のへ、あひか、くはのかみの勢、都合一千余騎、すゑかはといふ処に馳せ来つて、源氏に加はる。されども、介八郎{*8}は、いまだ見えず。
 私に広常、申しけるは、「そもそも兵衛佐殿の、安房、上総にうち越えて、二箇国の軍兵をそろへ給ふなるに、未だ広常がもとへ御使を賜はらぬこそ心得ね。今日待ち奉りて、仰せ蒙らずは、千葉、葛西を催して、きさうとの浜におし向ひて、源氏を引き立て奉らん。」と議する処に、藤九郎盛長、褐の直垂に、黒革縅の腹巻に、黒つばの矢負ひ、塗篭籘の弓持ちて、介八郎のもとにぞ来りける。「上総介殿に見参。」と申しければ、「兵衛佐殿{*9}の御使。」と申せば、嬉しく思ひ、いそぎ出であひて対面す。御教書{*10}をたまはり拝見して、「『家の子郎等も差し遣はせよ。』と仰せられん。」とこそ思ひつるに、「今まで広常が遅く参るこそ奇怪なれ。」と書き給ひたるをうち見て、「あはれ、殿の御書かな。かくこそあらまほしけれ。」とて、則ち千葉介のもとへ送る。葛西、豊田、うらの守、上総介のもとへ馳せよりて、千葉、上総介を大将軍として三千余騎、開発の浜に馳せ来り、源氏につく。
 兵衛佐殿、四万余騎になりて、上総の館につきたまふ。かくする程にこそ久しけれ。されど八箇国は、源氏に心ざしある国なりければ、「我も、我も。」と馳せ参る。常陸国には、しらと、行方、志田、東條、佐竹の別当秀義、たけちの平武者太郎、しほぢ道綱。上野国には大胡太郎、山かみさゑよりの小太郎重房、同じく喜三郎重義。党{*11}には丹、横山、馳せ参る。畠山、稲毛は、未だ参らず。秩父の荘司、小山田の別当は、在京によりて参らず。相模国には本間、渋谷、馳せ参る。大場、股野、山内は参らず。
 治承四年九月十一日、武蔵と下野の境なる松戸の荘市河といふ処に著き給ふ。御勢、八万九千とぞ聞こえける。こゝに、坂東に名を得たる大河、一つあり。この河の水上は、上野国刀根の荘、藤原といふ処より落ちて、水上とほし。末にくだりては、在五中将{*12}の墨田河とぞ名付けたる。海より潮さしあげて、水上には雨ふり、洪水、岸を浸して流れたり。ひとへに海を見る如く、水にせかれて五日逗留し給ふ。江戸太郎{*13}、墨田のわたり両処に陣取りて、櫓をかき{*14}、やぐらの柱には馬をつないで、源氏を待ちかけたり。兵衛佐殿は、これを御覧じて、「きやつが首取れ。」と宣へば、急ぎやぐらの柱を切りおとして筏にし、市河に参り、葛西の兵衛について、「見参に入るべき。」由、申したりけれども、用ゐ給はず。重ねて申しければ、「いかさまにも、頼朝をそねむと思ふぞ。伊勢加藤次、心ゆるすな。」と仰せられける。
 江戸太郎、色を失ひける処に、千葉介、「近所に有りながら、いかゞ有るべき。常胤{*15}、申さん。」とて、御前にかしこまつて、不便の事を申しければ、佐殿、仰せられけるは、「江戸太郎、八箇国の大福長者と聞くに、頼朝が多勢、この二、三日、水にせかれて渡しかねたるに、水のわたりに浮橋を組んで、頼朝が勢{*16}、武蔵国王子、板橋につけよ。」とぞ宣ひける。江戸太郎、承りて、「首を召さるゝとも、いかでか渡すべき。」と申す処に、千葉介、葛西兵衛を招きて申しけるは、「いざや、江戸太郎を助けん。」とて、両人が知行所は、今井、栗河、かめなし、うしまと申す処より、海人の釣舟を数千艘上せて、石浜と申す処は江戸太郎が知行所なり。折節、西国舟の著きたるを数千艘あつめ、三日の内に浮橋をくみて、江戸太郎に合力す。佐殿、御覧じ、「神妙{*17}なる。」由、仰せられ、さてこそ、ふとひ、墨田うち越えて、板橋につき給ひけり。

八 頼朝謀叛により義経奥州より出で給ふ事

 さる程に、佐殿の謀叛、奥州に聞こえければ、御弟九郎義経、元吉の冠者泰衡{*18}を召して、秀衡に仰せけるは、「『兵衛佐殿こそ謀叛をおこして、八箇国を従へて、平家を攻めんとて、都へ上り給ふ。』と承りて候へ。義経、かくて候こそ心苦しく候へば、追ひ付き奉りて、一方の大将軍をも望まばや。」とぞ仰せられける。秀衡、申しけるは、「今まで君の思し召し立たぬ御事{*19}こそ、ひが事にて候へ。」とて、泉の冠者{*20}を呼びて、「関東に事出で来、源氏、うちいで給ふなり。両国の兵ども催せ。」とぞ申しける。御曹司、仰せられけるは、「千騎万騎も具したく候へども、事延びて叶ふまじ。」とて、うち出で給ふ。とり敢へざりければ、まづかつがつ三百余騎を奉りける。
 御曹司の郎等には西塔の武蔵坊、また園城寺法師の尋ねて参りたる常陸房、伊勢三郎、佐藤三郎次信、同じく四郎忠信、これらを先として三百余騎、馬の腹筋馳せ切り、脛砕くるをも知らず、揉みにもうで馳せ上る。あつかしの中山馳せ越えて、安達の大城戸{*21}うち通り、行方の原、しゝちを見たまへば、「勢こそまばらに成りたるぞ。」と仰せられけるに、「あるひは馬の爪かかせ、あるひは脛を馳せ砕きて、少々道にとゞまり、これまでは百五十騎御座候。」と申しければ、「百騎が十騎にならむまでも、打てや者ども。後をかへり見るべからず。」とて、とゝろがけ{*22}にて歩ませける。木津川をうち過ぎて、さけはしの宿に著きて、馬を休めて、絹河のわたりして、宇都宮の大明神ふし拝み参らせ、室の八島をよそに見て、武蔵国足立郡、こかは口につき給ふ。御曹司の御勢、八十五騎にぞなりにける。
 板橋に馳せつきて、「兵衛佐殿は。」と問ひ給へば、「一昨日こゝを立たせ給ひて候。」と申す。武蔵の国府の六所の町につきて、「佐殿は。」と仰せければ、「一昨日通らせ給ひて候。相模の平塚に。」とぞ申しける。平塚につきて聞き給へば、「はや足柄を越え給ひぬ。」とぞ聞こえける。いとゞ心もとなくて、駒を早めて打ち給ひける程に、足柄山うち越えて、伊豆の国府に著きたまふ。「佐殿は、昨日こゝを立ち給ひて、駿河国千本の松原、浮島が原に。」と申しければ、「さては、程近し。」とて、駒を早めてぞ急がれける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「伊豆の目代。」とある。
 2:底本頭注に、「〇大場三郎 景親。」「〇股野五郎 景尚。景親の弟。」とある。
 3:底本頭注に、「三浦半島。」とある。
 4:底本頭注に、「三浦の南端三崎。」とある。
 5:底本頭注に、「〇洲の崎、小湊、那古、竜島 いづれも安房海岸の地名。」とある。
 6:底本頭注に、「〇源氏思ひ立ち 源頼政兵を挙げたことをいふ。」「〇不運の宮 高倉宮以仁王。」とある。
 7:底本は、「宗徒(むねと)の輩(ともがら)」。底本頭注に、「重だつたる者。」とある。
 8:底本は、「介(すけの)八郎」。底本頭注に、「上総介平広常。」とある。
 9:底本は、「兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)」。底本頭注に、「源頼朝。」とある。
 10:底本は、「御教書(みげうしよ)」。底本頭注に、「御命令書。」とある。
 11:底本頭注に、「地方豪族で族類広く兵士の一団をなしてゐるもの。」とある。
 12:底本頭注に、「在原業平。但し隅田河は業平が名付けたのではない。」とある。
 13:底本は、「逗留(とうりう)し給ひ、すむだのわたり」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改め、補った。
 14:底本頭注に、「物見の高櫓を造り。」とある。
 15:底本は、「成胤(なりたね)申さん」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 16:底本は、「頼朝(よりとも)に、加勢(かせい)を武蔵(の)国」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 17:底本は、「神妙(しんべう)」。底本頭注に、「殊勝。奇特。」とある。
 18:底本頭注に、「藤原秀衡の子。」とある。
 19:底本は、「立たぬ事」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 20:底本頭注に、「秀衡の三男泉三郎忠衡。」とある。
 21:底本は、「大城(おほき)うち通(とほ)り、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 22:底本頭注に、「どんどん駆け。」とある。