巻第四
一 頼朝義経に対面の事
九郎御曹司、浮島が原に著き給ひ、兵衛佐殿の陣の前、三町ばかり引き退いて陣を取り、しばらく息をぞ休められける。
佐殿{*1}、これを御覧じて、「こゝに白旗白印にて。清げなる武者五、六十騎ばかり見えたるは、誰なるらん。おぼつかなし。信濃の人々は、木曽{*2}に従ひて止まりぬ。甲斐の殿原は、二陣なり。いかなる人ぞ。仮名、実名{*3}を尋ねて参れ。」とて、堀弥太郎を御使にて遣はされ、家の子郎等あまた引き具して参る。間をへだてて弥太郎、一騎すゝみ出で、申しけるは、「『こゝに白じるしにておはしまし候は、誰人にて渡らせ候ぞ。仮名、実名を慥かに承り候へ。』と、鎌倉殿のおほせにて候。」と申しければ、その中に二十四、五ばかりなる男の、色白く尋常なるが、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧の裾金物うちたるを著、白星の五枚兜に鍬形打ちて、猪頚に著{*4}、大中黒の矢おひ、繁籘の弓持ちて、黒き馬の太く逞しきに乗りたるが、歩ませ出でて申しけるは、「鎌倉殿{*5}も知ろしめされて候。童名は牛若と申し候ひしが、近年、奥州に下向仕り候て居候ひつるが、御謀叛のよし承り、夜を日につぎて馳せ参じて候。見参に入れて給び候へ。」と仰せられければ、堀弥太郎、「さては、御兄弟にてましましけり。」と、馬より飛んで下り、御曹司の乳母子佐藤三郎をよび出だして、色代{*6}あり。弥太郎、一町ばかり馬を曳かせけり。
かくて佐殿の御前に参り、この由を申し上げければ、佐殿は、善悪に騒がぬ人にておはしけるが、今度は殊の外嬉しげにて、「さらば、これへおはしまし候へ。見参せん。」とのたまへば、弥太郎、やがて参り、御曹司にこの由を申す。御曹司、大きに悦び、急ぎ参り給ふ。佐藤三郎、同四郎、伊勢三郎{*7}、これ等三騎召し連れて参らるゝ。佐殿御陣と申すは、大幕百八十町ひきたりければ、その内は、八箇国の大名小名、並み居たり。各、敷皮にてぞありける。佐殿、御座敷には畳一畳敷きたれども、佐殿も敷皮にぞおはしける。御曹司、兜を脱ぎて童にもたせ、弓取りなほし、幕のきはに畏まりてぞおはしける。その時佐殿、敷皮をさり、我が身は畳にぞ直られける。「それへ、それへ。」とぞ仰せらるゝ。御曹司、しばらく辞退して、敷皮にぞなほられける。佐殿は、御曹司をつくづくと御覧じて、まづ涙にぞ咽ばれける。御曹司も、そのいろは知らねども、共に涙にむせび給ふ。
互に心のゆく程泣きて後、佐殿、涙を抑へて、「さても、頭殿{*8}におくれ奉りて、その後、御ゆくへを承り候はず。幼少におはし候時、見奉りしばかりなり。頼朝、池の尼{*9}の宥められしによりて、伊豆の配所にて、伊東、北條{*10}に守護せられ、心にまかせぬ身にて候ひし程に、奥州へ御下向の由は、幽かに承りて候ひしかども、おとづれだにも申さず候。兄弟ありと思し召し忘れ候はで、とりあへず御上り候こと、申し尽くしがたく悦び入り候。
「これ、御覧候へ。かかる大事をこそ思ひ企てて候へ。八箇国の人々を初めとして候へども、皆他人なれば、身の一大事を申し合はする人もなし。みな平家に相従ひたる人々なれば、頼朝がよわげを守りたまふらんと思へば、夜もよもすがら平家のことのみ思ひ、またある時は、平家の討手上せばやと思へども、身は一人なり。頼朝自身すゝみ候へば、東国おぼつかなし。代官を上せんとすれば、心やすき兄弟もなし。他人を上せんとすれば、平家と一つになりて、かへつて東国をや攻めんと存ずる間、それも叶ひがたく、今御辺を待ち付けて候へば、故左馬頭殿、よみがへらせ給ひたるやうにこそ思ひ候へ。我等が先祖八幡殿{*11}の、後三年の合戦にむなうの城を攻められしに、多勢皆亡ぼされて、無勢になりて、栗屋川のはたにおり下りて{*12}、幣帛を捧げて王城をふし拝み、「南無八幡大菩薩。御擁護をあらためず、今度の寿命を助けて本意をとげさせて給べ。」と祈誓せられければ、まことに八幡大菩薩の感応にやありけん、都におはする御弟刑部丞{*13}は、内裏に候ひけるが、俄に内裏をまぎれ出で、『奥州のおぼつかなき。』とて、二百余騎にて下られける。路次にて勢うち加はり、三千余騎にて栗屋川に馳せ来て、八幡殿と一つになりて、終に奥州をしたがへ給ひける。その時の御心も、頼朝、御辺を待ちえ参らせたる心も、いかでかこれにまさるべき。今日より後は、魚と水とのごとくにして、先祖の恥をすゝぎ、亡魂{*14}の憤りを休めん。」と宣ひもあへず、涙を流し給ひけり。御曹司は、とかくの御返事{*15}もなくして、袂をぞしぼられける。これを見て、大名小名、たがひの心の中おしはかられて、みな袖をぞ濡らされける。
暫くありて、御曹司、申されけるは、「仰せの如く、幼少の時、御目にかゝりて候ひけるやらん。配所へ御下りの後は、義経も山科に候ひしが、七歳の時鞍馬へ参り、十六までかたの如く学問を仕り、さては京都に候ひしが、内々平家、方便をつくる{*16}由承り候間、奥州に下向仕りて、秀衡を頼み候ひつるが、御謀叛の由承りて、取りあへずはせまゐる。今は、君を見奉り候へば、故頭殿の御見参に入り候心地してこそ候へ。命をば故頭殿に参らせ候、身をば君にまゐらする上は、いかゞ仰せに従ひ参らせでは候べき。」と申しも敢へず、又涙をながし給ひけるこそ哀れなれ。
さてこそ、この御曹司を大将軍にて上せ給ひけり。
校訂者注
1:底本は、「佐殿(すけどの)」。底本頭注に、「兵衛佐殿。頼朝。」とある。
2:底本頭注に、「源義賢の子義仲。」とある。
3:底本は、「仮名実名(けみやうじつみやう)」。底本頭注に、「通称と名乗りと。」とある。
4:底本は、「猪頚(ゐくび)に著(き)、」。底本頭注に、「冑を仰のきて著る。」とある。
5:底本頭注に、「頼朝。」とある。
6:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。」とある。
7:底本頭注に、「〇佐藤三郎 継信。」「〇同四郎 忠信。」「〇伊勢三郎 義盛。」とある。
8:底本は、「頭殿(かうのとの)」。底本頭注に、「左馬頭義朝。頼朝義経の父」とある。
9:底本頭注に、「清盛の義母。頼盛の母。」とある。
10:底本頭注に、「〇伊東 伊東祐親。」「〇北條 北條時政。」とある。
11:底本頭注に、「源義家。」とある。
12:底本は、「おし下りて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
13:底本は、「刑部丞(きやうぶのじよう)」。底本頭注に、「新羅三郎義光。義家の弟。」とある。
14:底本頭注に、「為義義朝などが平家のために怨みを懐いて死んだその霊を慰めよう。」とある。
15:底本は、「とかくの返事(へんじ)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
16:底本頭注に、「義経を除かうと手立てをする。」とある。
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