二 義経平家の討手に上り給ふ事

 御曹司、寿永三年に上洛して平家を追ひ落とし、一の谷、八島、壇の浦、所々の忠をいたし、さきがけ身をくだき、終に平家を攻めほろぼして、大将軍前の内大臣宗盛父子を生け捕り、三十人具足して上洛し、院、内{*1}の見参に入つて後、去んぬる元暦元年に、検非違使五位の尉になり給ふ。大夫判官、宗盛父子を具足して、腰越に著き給ひし時、梶原、申しけるは、「判官殿こそ、大臣殿{*2}父子を具足して、腰越に著かせ給ひて候なれ。君は、いかゞ御計らひ候。
 「判官殿は、身に野心をさしはさみたる御事にて候。その儀、いかにと申すに、一の谷の合戦に、城三郎高家、本三位の中将{*3}以下取り奉り、三河殿の御手{*4}に渡りて候を、判官、大きに怒りたまひて、『三河殿は、大方のことにてこそ。義経が手にぞ渡るべきものを{*5}。奇怪の者のふるまひかな。よせて討たん。』と候ひしを、景時が計らひに、土肥次郎{*6}が手に渡してこそ、判官はしづまり給ひしなれ。その上、『平家を打ち取つては、関より西をば義経賜はらん。天に二つの日なし。地に二人の王なしといへども、この後は、二人の将軍やあらんずらん。』と仰せ候ひしぞかし。
 「かくて、武功の達者、一度も馴れぬ船軍にも、風波の難を恐れず、舟ばたを走りたまふこと、鳥の如し。一の谷の合戦にも、城は無双の城なり、平家は十万余騎なり。身方は六万五千余騎なり。城は無勢にて寄せ手は多勢こそ、軍の勝負は決し候に、城は多勢、案内者、寄せ手は無勢、不案内{*7}の者どもなり。たやすく落つべきとも見え候はざりしを、鵯鳥越とて鳥獣も通ひがたき巌石を、無勢にて落とし、平家を終に追ひおとし給ふことは、凡夫のわざならず。今度、八島の軍に、大風にて波おびたゞしくして、船の通ふべきやうもなかりしを、たゞ舟五艘にてはせ渡し、僅かに五十余騎{*8}にて、左右なく八島の城におしよせて、平家の数万余騎を追ひおとし、壇の浦のつめ軍{*9}までも、終に弱気を見せたまはず。『漢土、本朝にも、これほどの大将軍、いかでか有るべき。』とて、東国、西国の兵ども、一同に仰ぎ奉る。
 「野心をさし挟みたる人にておはすれば、人ごとに情をかけ、侍までも目をかけられし間、侍ども、『あはれ、頼むべき主かな{*10}。この殿に命を奉らん事は、塵よりも惜しからじ。』と申して、心をかけ奉りて候。それに、左右なく鎌倉中へ入れまゐらせたまひて御座候はんこと、いぶせく{*11}候。御一期のほど、君の御果報なれば、さりともと存じ候{*12}。御子孫の世には、いかゞ候はんずらん。又、御一期と{*13}申しても、何とか御座候はん。」と申しければ、君、この由を聞こし召して、「梶原が申すことは、偽りなどはあらじなれども、一方を聞きて相はからはんことは、政道のけがるゝ所なり。九郎{*14}が著きたるなれば、明日これにて、梶原に問答せさせ候べし。」とぞ{*15}仰せられける。
 大名小名、これを聞きて、「今の御諚のごとくにては{*16}、判官、もとよりあやまり給はねば、もし助かり給ふことも有りなん。されども景時が、『逆櫓{*17}立てん。』との論のやまざる処に、壇の浦にて互に先がけ争ひて、矢筈を取り給ひしその遺恨に、かやうに讒言まうせば、終にはいかゞあらんずらん。」と申しける。「召し合はせん。」と仰せられいふ時に、梶原、あまなふの宿所に帰りて、偽りまうさぬ由、起請を書きて参らせければ、「この上は。」とて、大臣殿をば腰越より鎌倉にうけ取り、判官をば腰越に止めらる。
 判官、「先祖の恥をきよめ、亡魂の憤りを休め奉る事は本意なれども、随分二位殿{*18}の気色にあひかなひ奉らんとてこそ、身を砕きては振舞ひしか。恩賞に行はれんずるかと思ひつるに、向顔をだにも遂げられざる上は、日ごろの忠も、益なし。あはれ、これは、梶原めが讒言ごさんなれ。西国にて切りも棄つべきやつを、哀憐をたれてたすけ置きて、敵となしぬるよ。」と後悔したまへども、甲斐ぞなき。
 鎌倉には二位殿、川越太郎{*19}を召して、「九郎が、院の御気色よきまゝに、世を乱さんと内々たくむなり。西国の侍ども附かぬさきに、腰越に馳せ向ひ候へ。」と仰せられければ、川越、申されけるは、「何事にても候へ、君の御諚を背き申すべきにては候はねども、且は知ろしめして候やうに、娘にて候者を、判官殿の召しおかれて候間、身に取りてはいたはしく候。他人に仰せ付けられ候へ。」と、申し捨ててぞ立たれける。道理なれば、重ねても仰せ出だされず。
 また、畠山{*20}を召して仰せられけるは、「川越に申し候へば、『親しくなり候とて、叶はじ。』と申す。さればとて、世を乱さんとふるまひ候九郎を、そのまゝ置くべきやうなし。御辺、うち向ひ候べし。吉例なり。さも候はば、伊豆、駿河両国を奉らん。」と仰せられければ、畠山、万に憚らぬ人にて、申されけるは、「御諚、背き難く候へども、八幡大菩薩の御誓ひにも、『人の国より我が国、他人よりも我が人をこそ守らん。』とこそ承り候へ。他人と親しきと、いひ較ぶれば、たとふる方なし。梶原と申すは、一旦の便によりて召しつかはるゝ者なり。彼が讒言により、年ごろの忠{*21}と申し、御兄弟の御中と申し、たとへ御恨み候とも、九国にてもまゐらさせたまひて、見参とて{*22}、重忠に賜はり{*23}候はんずる伊豆、駿河両国を、勧賞の引手物にまゐらせたまひ、京都の守護に置き参らせたまひ候て、御後ろを守らさせたまひて候はん程の御心やすきことは、何事か候べき。」と、憚る所なく申し捨てて、立たれける。
 二位殿、「ことわり。」と思し召しけるにや、その後は、仰せ出ださるゝこともなし。腰越に、このことを聞きたまひて、野心をさしはさまざる旨、数通の起請文を書き進じられけれども、猶ほ御承引なかりければ、重ねて申し状をぞ参らせられける。

三 腰越の申し状の事

  源義経、恐れながら申しあぐる意趣は、御代官{*24}のその一に選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、会稽の恥辱をすゝぐ。勲賞{*25}行はるべき処に、思ひの外、虎口の讒言によつて莫大の勲功を黙止せられ、義経、犯す事なうして咎を蒙り、過誤なしといへども功ありて御勘気を蒙るの間、むなしく紅涙に沈む。讒者の実否をたゞされず、鎌倉中へだに入れられざるの間、素意をのぶるにあたはず、いたづらに数日をおくる。この時に当たつて、長く恩顔を拝し奉らず。骨肉同胞の儀、既に絶え、宿運極めてむなしきに似たるか。はた又、前世の業因を感ずるか。悲しきかな、この條、故亡父{*26}の尊霊再誕の縁にあらずんば、誰人か愚意の悲歎を申しひらかん{*27}。いづれの輩か哀憐を垂れんや。
  事あたらしき申し状、述懐に似たりといへども、義経、身体髪膚を父母に受け、いくばくの{*28}時節を経ずして、故頭殿{*29}御他界の間、孤子となつて、母の懐中に抱かれて、大和国宇多郡竜門の牧に赴きしより以来、一日片時も安堵のおもひに住せず、かひなき命を存すといへども、京都の経廻難治{*30}の間、身を在々所々に隠し、辺土遠国をすみかとして、土民百姓等に服仕せらる。しかれども交契忽ちに純熟して、平家の一族追討のために上洛せしむる。まづ木曽義仲を誅戮の後、平家を攻め傾けんがために、ある時は峨々たる巌石に駿馬に鞭うつて、敵のために命を滅ぼさんことを顧みず。ある時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めん事をいたまずして、屍を鯨鯢の腮にかく。しかのみならず、甲冑を枕とし弓箭を業とする本意、しかしながら亡魂の鬱憤をやすめ奉り、年来の宿望を遂げんと欲する外は、他事なし。
  あまつさへ義経、五位の尉に補任せらるゝの條、当家の重職、何事かこれにしかん。しかりといへども、今、愁へ深く、歎き切なり。仏神の御助けにあらざるより外は、いかでか愁訴を達せん。これによつて、諸寺諸社の牛王宝印の御裏{*31}を以て、全く野心をさし挟まざるむね、日本国中大小の神祇冥道を請じ、おどろかし奉りて、数通の起請文をかき進ず{*32}といへども、猶以て御宥免なし。それ我が国は神国なり。神は非礼をうけ給はず。頼む所、他にあらず。ひとへに貴殿{*33}広大の御慈悲を仰ぎ、便宜を窺ひ上聞に達せしめ、秘計をめぐらし、過誤なきむねに宥ぜられ、芳免に預からば、積善の余慶家門に及び、栄華を長く子孫に伝へ、よつて年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん{*34}。
  書紙につくさず。しかしながら省略せしめ候ひをはんぬ。義経。誠恐謹言。
    元暦二年六月五日  源義経
  進上  因幡守殿
とぞ書かれたる。
 これを聞こし召して、二位殿{*35}を始め奉りて、御前の女房達にいたるまで、涙をぞ流されける。さてこそ暫くさし置かれけれ。
 判官は、都に院{*36}の御気色よくて、「京都の守護には、義経に過ぎたる者あらじ。」との御気色なり。万事あふぎ奉る。
 かくて、秋も暮れ、冬の初めにもなりしかば、梶原が憤りやすからずして、しきりに讒言申しければ、二位殿、「さも。」とや思はれける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「〇院 後白河上皇。」「〇内 後鳥羽天皇。」とある。
 2:底本頭注に、「内大臣宗盛。」とある。
 3:底本頭注に、「平重衡。」
 4:底本は、「三河殿(みかはどの)の手」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇三河殿 頼朝の弟三河守範頼。」とある。
 5:底本頭注に、「重衡以下の捕虜は義経の手に渡るべきに範頼の手に渡つて奇怪の事であるの意。」とある。
 6:底本頭注に、「土肥実平。」とある。
 7:底本は、「寄手(よせて)は無案内(ぶあんない)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補い、改めた。
 8:底本は、「五千余騎」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 9:底本は、「つめ軍(いくさ)」。底本頭注に、「敵を追ひつめて戦ふこと。」とある。
 10:底本は、「主(しう)かなと、この殿(との)に」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。
 11:底本頭注に、「厭はしく気の晴れない。」とある。
 12:底本頭注に、「頼朝一代の間は頼朝の幸運だからそれでも別段の事もあるまいがの意。」とある。
 13:底本は、「御一言(おんひとこと)申しても、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 14:底本頭注に、「義経。」とある。
 15:底本は、「と仰せられける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 16:底本は、「ごとくにてぞ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 17:底本は、「逆櫓(さかろ)」。底本頭注に、「八島の戦ひに梶原が艫にも舳にも艪をつけ舷に楫を設けて進退に自由にしようと提議して義経に排せられた事。」とある。
 18:底本頭注に、「頼朝。但し頼朝正二位になつたのは文治五年で此の時は二位ではなかつた。」とある。
 19:底本頭注に、「武蔵の士。川越太郎重房。」とある。
 20:底本頭注に、「畠山重忠。」とある。
 21:底本頭注に、「義経が数年来の中を尽したこと。」とある。
 22:底本頭注に、「見参の贈物としての意。」とある。
 23:底本は、「賜ひ候はんずる」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 24:底本は、「代官」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 25:底本は、「勲功(くんこう)に行はる」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 26:底本頭注に、「故父義朝。」とある。
 27:底本頭注に、「故父の尊霊が再び生まれ出て来られる機縁がなければこの悲歎を申し述べられない。」とある。
 28:底本は、「いくばく時節」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 29:底本頭注に、「故左馬頭義朝。」とある。
 30:底本頭注に、「〇経廻 廻りあるくこと。」「〇難治 難治。難義。」とある。
 31:底本は、「牛王宝印の裏」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 32:底本は、「進(しん)ずると雖も、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 33:底本頭注に、「因幡守大江広元をいふ。」とある。
 34:底本は、「得んこと書紙に」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。
 35:底本頭注に、「頼朝。」とある。
 36:底本頭注に、「後白河院。」とある。