四 土佐坊義経の討手に上る事
「二階堂の土佐坊召せ。」とて召されけり。鎌倉殿、四間所{*1}におはしまして、土佐坊召され、まゐる。梶原、「土佐、参じて候。」と申しければ、鎌倉殿、「これへ。」と召す。御前にかしこまる。源太{*2}を召して、「土佐に酒飲ませよ。」と御諚ありければ、梶原、殊の外にもてなしけり。鎌倉殿、仰せられけるは、「和田、畠山に仰せけれども、敢へてこれを用ゐず。九郎が都に居て、院の御気色よき儘に、世を乱さんとする間、川越太郎に仰せけれども、『縁あれば。』とて用ゐず{*3}。土佐より外に頼むべき者なし。しかも都の案内者なり。上りて九郎を打ちて参らせよ。その勲功には、安房、上総賜ぶ{*4}。」とぞ仰せられける。
土佐、申しけるは、「かしこまり承り候。『御一門をほろぼし奉れ。』と仰せを蒙り候こそ、歎き入り存じ候。」と申しければ、鎌倉殿、気色、大きにかはり、悪しく見えさせたまへば、土佐、謹んでこそ候ひける。重ねて仰せられけるは、「さては、九郎に組したるにや。」と仰せければ、「詮ずる処、親の首斬るも、君の命なり。上と上との合戦には、侍、命を捨てずしては、討つべきにあらず。」と思ひ、「さ候はば、仰せに随ひ候はん。恐れにて候へば、色代{*5}ばかり。」と申す。
鎌倉殿「さればこそ。土佐より外に、誰か向ふべきと思ひつるに、すこしも違はず。源太、これへ参り候へ。」と仰せられければ、畏まつてぞ居たりける。「ありつる物は、いかに。」と仰せありければ、納殿の方よりして、身は一尺二寸ありける手鉾の、蛭巻白くしたるを、細貝を目貫にしたるを持ちて参る。「土佐が膝の上に置け。」とぞ宣ひける。「これは、大和の千手院につくらせて、秘蔵して持ちたれども、頼朝が敵打つには、束長き物を先とす。和泉判官を討ちしときに、やすく首を取りて参らせたりしなり。これを持ちてのぼり、九郎が首をさし貫き参らせよ。」とぞ仰せられける。情なくぞ聞こえける。
梶原を召して、「安房、上総の者ども、土佐が供せよ。」とぞ仰せられける。承りて、「詮なき多勢かな。させる寄り合ひの楯つき軍{*6}はすまじい。ねらひよりて夜討にせん。」とおもひければ、「大勢は、詮なく候。土佐が手勢ばかりにて上り候はん。」と申す。「手勢は、いか程あるぞ。」と宣へば、「百人ばかりは候らん。」「さては、不足なし。」とぞ仰せられける。土佐、思ひけるは、「大勢を連れ上りなば、もししおほせたらん時、勲功を配分せざらんも悪し。せんとすれば、安房、上総、畠多く、田はすくなし。徳分すくなくて不足なり。」と、酒飲むかた口に案じつゝ、御引出物たまはりて、二階堂に帰り、家の子郎等をよびて申しけるは、「鎌倉殿より勲功をこそ賜はりて候へ。急ぎ京のぼりして、所知入りせん。疾く下りて用意せよ。」とぞ申しける。「それは、常々の奉公か。又、何によりての勲功に候ぞ。」と申せば、「九郎判官殿を討ちて参らせよとの仰せ、承りて候。」といひければ、物に心得たるものは、「安房、上総も、命ありてこそ取らんずれ。生きてふたたび帰らばこそ。」と申す者もあり。あるひは、「主の世におはせば、我等もなどか世にならざるらん。」と勇む者もあり。されば、心はさまざまなり。
土佐は、もとより賢き者なれば、「うち任せての京上りの体にてはかなふまじ。」とて、白布をもつて、皆浄衣を拵へて、烏帽子にしで{*7}を付け、法師には頭巾にしでを付け、引かせたる馬にも尾がみにしで付け、神馬と名づけ、引きける。鎧腹巻を入れたる唐櫃を薦にて包み、注連を引き、熊野の初穂物といふ札を付けたり。鎌倉殿の吉日、判官殿の悪日を選び、九十三騎にて鎌倉を立ちて、その日は酒匂の宿にぞ著きたりける。当国の一の宮と申すは、梶原が知行の処なり。嫡子の源太をくだして、白栗毛なる馬、白葦毛なる馬二匹に、白鞍置かせてぞひきたる。これにもしで付け、神馬と名付けたり。夜を日につぎて打つ程に、九日と申すに京に著く。「未だ日高し。」とて、四の宮河原などにて日を暮らし、九十三騎を三手に分けて、あからさまなるやうにて、五十六騎にて我が身は京へ入りけり。残りは引きさがりて入りにけり。
祇園大路を通りて、河原をうち渡りて、東の洞院を下りに打つほどに、判官殿の御内に、信濃国の住人に江田源三といふ者あり。三條京極の女のもとに通ひけるが、堀川殿{*8}を出でて行くほどに、五條の東の洞院にて、はたと行き逢ひたり。人の屋陰のほの暗き処にて見ければ、熊野まうでと見なして、「いづくよりの道者やらん。」と、先陣をとほして後陣を見れば、二階堂の土佐と見なして、「土佐がこのごろ、大勢にて熊野詣ですべしとこそおぼえね。」と思ひ、案ずるに、「吾等が君と鎌倉殿と、御不和になりたまへば、何となくよりて問はばや。」と思ひけれども、「ありの儘には、よもいはじ。なかなか知らぬ由して、土佐が下人めをすかして問はばや。」と思ひて待つ所に、案の如く、後ればせの者ども、「六條の坊門油小路へは、いづ方へ行くぞ。」と問ひければ、しかじかに教へけり{*9}。
江田は、彼が袖をひかへて申しけるは、「これは、いづれの国の誰と申す御大名ぞ。」と問ひければ、「相模国二階堂土佐殿。」とぞ申しける。あとより来るもの申しけるは、「さもあれ、身の一期、見物は京{*10}とこそ聞くに、何ぞ日中に京入りをばし給はで、道にて日をくらし給ふぞ。ことさら重荷は持ちたり、夜は暗し。」と呟きければ、今一人がいひけるは、「心みじかき人のいひやうかな。一日も逗留あらば、見んずらん。」といひければ、今一人の男の申しけるは、「和殿ばらも、今宵ばかりこそ静かならんずれ。明日は、都はくだんの事にて、大乱にてあらんずれ。されば、我々までもいかゞあらんずらんと、恐ろしさよ。」も申しければ、源三、これを聞きて、かれらがあとにつきて、物語をぞしたりける。
「これも、地体{*11}は相模国の者にて候ひしが、主に付きて在京して候が、我が国の人と聞けば、いとゞなつかしく存じ候。」などとすかされ{*12}て、「同国の人と聞けば、申し候ぞ。げに鎌倉殿、『御弟九郎判官殿を討ち参らせよ。』との討手の御使を賜はりて、上られ候。披露は詮なく候{*13}。」と申しける。江田、これを聞きて、我が宿所へ帰るに及ばず、堀川殿に走り参り、この由を申し上ぐ。判官は、少しも騒がず、「さこそあらんずらん。さりながら、御辺、行き向ひて、土佐にいはんずるやうは、『これより関東に下したる者は、京都の仔細を、せんに鎌倉殿へ申すべし。また、関東より上らん者は、最前に義経がもとに来りて、事の仔細を申すべき所に、今まで遅くまゐる、尾篭{*14}なり。きつと参るべき。』と、時刻をうつさず召して参れ。」と仰せられける。
江田、承りて、土佐が宿所、油の小路に行きて見れば、馬ども皆鞍おろし、湯洗ひなどしける。また、傍らを見れば、屈強の兵士五、六十人並み居て、何とは知らず評定しける。土佐坊は、脇息によりかゝりて居ける所へ、江田、つゝと行きて、仰せ含めらるゝ旨をいひければ、土佐、陳じ申しけるやうは、「まづ、珍しう候、江田殿。さて某、上洛のこと、別の仔細にて候はず。鎌倉殿、三つの御山{*15}へ宿願の御事候て、御代官に熊野へ参詣仕り候。鎌倉には、さしたることも候はず。最前に参じ候はんと、随分存じ候ひしに、路次{*16}より風の心地あしく候ゆゑ、今夜養生を仕り、明日参じ御目見えを仕るべき由、申し含め、たゞ今、子にて候者を進じ候はんと存ずる折節、御使に預かり、畏まり入り候由、申させたまへ。」と申しければ、江田は帰りまゐり、この由を申す。判官殿、日頃は侍どもに向ひ、御言葉を荒々しくも宣はざりしかども、唯今は大きに怒つて宣ひけるは、「土佐め程の法師、異議をいはせけるは、ひとへに御辺がをめたるによつてなり。向後の出仕、無益なり{*17}。」と大きに怒り給へば、江田は、御前をまかり立ち、宿所へもかへらず、御前を隔てて居たりけり。
武蔵坊は、御酒宴過ぎし時、我が宿所へ帰りしが、「御内に人も無くおはすらん。」と思ひて参りける。判官、御覧じて、「いしくも参りたまひ候。たゞ今、かかる不思議こそあれ{*18}。『その法師、いそぎ引つ立てまゐれ。』とて、江田源三を遺はして候へば、土佐が返事に随ひて帰り来るなり。御辺、ゆき向つて、土佐を召してまゐれ。」と仰せられければ、「畏まつて承り候。」とて、御前を罷り立ち、思ふ程こそ出で立ちけれ。黒革縅の鎧著、五枚兜の緒をしめ、四尺五寸の太刀をはき、判官殿の秘蔵せられたる大黒といふ名馬に、裸背馬にぞ乗りにける。「人あまたにて叶ふまじ。」と、雑色一人召し具して、土佐が宿へぞうち入りける。
土佐が居ける座敷の縁の上にゆらりとあがり、簾をさつとうちあげて、座敷の体を見ければ、郎等ども七、八十人ばかり並み居て、夜討の評定をぞしける。もとより臆せぬ武蔵にて、郎等どもをはたと睨み、「人々、御免候へ。」といふ儘に、銚子、かはらけ蹴ちらかし、土佐が居たる横座に、むずと鎧の草摺を居かけて、座敷の体をねめまはし{*19}、その後、土佐をはたとにらみ、「いかに御辺は、いかなる御代官なりとも、在京あるならば、まづ堀川殿へ参りて、関東の仔細を申さるべきに、今まで遅参は、尾篭の致す所なり。」と、さも荒けなくいひければ、土佐坊、「仔細をいはん。」とする処に、弁慶、いはせも果てず、「申すべき事あらば、君の御前にて、随分陳じ申されよ。出でさせ給へ。」と、手を取つて引きたつる。兵ども、これを見て色を損じ、土佐、思ひ切り給ふ程ならば、打ち合はんずる体なれども、さすがに案ふかき土佐坊にて、さらぬ体にもてなし、「やがて帰らん{*20}。」と申しける程に、侍どもも力及ばず。
「暫く。馬に鞍置かせん。」といひけるを、「弁慶が馬のある上は、唯々これに乗り給へ。」とて、土佐が小腕をむずと取り、引きたつる。土佐も聞こゆる大力なりしかども、弁慶に引き立てられて、縁のきはまで出でにける。武蔵が下人、心得て、縁のきはに馬を引きよせたりければ、弁慶、土佐がよわ腰{*21}むずと抱き、鞍壺にどうと乗せ、我が身も後ろ馬にむずとのり、「手綱、土佐に取らせて叶はじ。」とおもひ、うしろより取り、鞭に鐙を合はせて六條堀河に馳せつき、その由申し上げたりければ、判官、南面の広廂に出で向ひ給ひて、土佐を近く召して、事の仔細を尋ね給ふ。
土佐、陳じ申しけるやうは、「鎌倉殿の御代官に、熊野にまゐり候。江田殿に申し上げ候如く、疾くまゐり候て、鎌倉の様をも申し上げ候はんと存じ候ひつれども、路次より風の心地にて候間、少し看病{*22}仕り、罷り出でんと存じ候ところへ、御使重なり候ほどに、恐れ存じ候て、参りて候。」と申す。判官、聞こし召し、「おのれは、『義経追討の使として上る。』とこそ聞け。勢をばいかほど持ちたるぞ。」と仰せられければ、土佐、謹んで申しけるは、「ゆめゆめ存じよらざることにて候。人の讒言にてぞ候らん。いづれか君にて渡らせたまはぬ。定めて権現も示現しましまし候はん{*23}。」と申せば、「西国の合戦に疵をかうぶり、未だその疵いえぬ輩が、生疵持ちながら熊野参詣に苦しからぬか。」と仰せられければ、「左様の仁、一人も召し具せず候。熊野三つの御山の間、山賊みちみちて候と承り候間、若きやつばらを少々召し具して候。それを人の申し候はん。」判官、仰せられけるは、「汝が下べどもの、『明日、京都は大戦にてあらんずるぞ。』と言ひけるぞ。それはやは争ふ{*24}。」と仰せられければ、土佐、申しけるは、「かやうに人の無実を申し付くるにおいては、私には陳じ開きがたく候。御免蒙り候て、起請を書き候はん。」と申しければ、判官、「『神は非礼をうけ給はず。』といへば、疾く疾く起請を書け。ゆるすべし。」との御諚にて、熊野の牛王七枚に書かせ、「三枚は八幡宮に納め、一枚は熊野に納め、今三枚は土佐が五体に納めよ。」とて、焼きて灰になして飲みにけり。「この上は。」とて許されぬ。
土佐、ゆるされて出でざまに、「時刻うつしてこそ冥罰も神罰も蒙らめ。今宵をば過ごすまじきものを。」と思ひける。宿へ帰りて、「今宵寄せずば、かなふまじき。」とて、各、ひしめきける。判官の御前には、武蔵を始めとして、侍ども申しけるは、「起請と申すは、小事にこそ書かすれ。これ程の大事に、今宵は御用心有るべく候。」と申せば、判官は、「何程のことかあらん。」と宣ひける。「さりながら、今宵はうち解くること候まじ。」と申せば、判官、「今宵何事も有るならば、唯義経にまかせよ。侍どもは、皆々宿々に帰れ。」と宣ひければ、各、宿所へぞ帰りける。判官は、ひねもすの酒盛に酔ひ給ひて、前後も知らず臥したまふ。
その頃、判官は、静といふ遊女を召し置かれたり。賢々しきものにて、「これ程の大事を聞きながら、かやうにうちとけ給ふも、御運の末やらん。」とおもひ、はした者を一人、土佐が宿所へ遣はして、「気色を見てまゐれ。」と有りければ、はした者、行きて見るに、たゞ今兜の緒をしめ、馬ひつ立て、「既に出でん。」とす。「猶も立ち入りて、奥にて見すまし申さん。」とて、ふるひふるひ入るほどに、土佐がしもべども、これを見て、「こゝなる女は、たゞ者ならず。」と申しければ、「さも有るらん。召し捕れ。」とて、かの女をとらへ、上げつ下しつ拷問す。暫くは落ちざりけれども{*25}、あまりにつよく責められて、ありのまゝにぞおちにける。「かやうの者をゆるしては悪しかるべし。」とて、やがて刺し殺してすてにけり。
土佐が勢百騎、白川のいんぢ{*26}五十人相かたらひ、京の案内者として、十月十七日の丑の刻ばかりに、六條堀川におしよせたり。かくて堀川の御所には、「今宵は夜も更け、何事もあらじ。」と、各、宿へ帰る。武蔵坊、片岡両人は、六條なる女のもとへ行きて、なし。佐藤四郎、伊勢三郎は、室町なる女のもとへ行きて、なし。根尾、鷲尾{*27}は、堀川の宿へ行きて、なし。その夜は、下べに喜三太と申す者ばかりぞ候ひける。判官も、その夜は更くるまで酒もりして、前後も知らず臥し給ひける。かかる処に、土佐が大勢押し寄せ、鬨をどつとつくる。
静は、ときの声におどろき、判官殿をおしうごかして、「敵の寄せたる。」と申せども、前後も知らず臥し給ふ。唐櫃のふたをあけて、御きせなが{*28}を取り出だし、御身に投げかけたりければ、かつぱと起き給ひ、「何事やらん。」と宣へば、「敵の寄せて候ぞ。」と申しければ、「あはれ、女の心ほど、けしからぬものはなし。思ふに、土佐めこそ寄せつらん。人人は、おはせぬか。あれ、追ひはらへ。」と宣ひけり。「侍一人もなし。宵に御いとま給はりて、皆々、宿へ帰り給ひぬ。」と申しければ、「さぞ有るらん。さるにても、男はなきか。」と仰せられければ、女房達、走り回りて、下べに喜三太ばかりなり。
「喜三太、参れ。」と召されければ、南面の沓ぬぎに畏まつてぞ候ひける。「近う参れ。」と召しけれども、日頃参らぬ所なれば、左右なく{*29}参り得ず。「きやつは、何とて参らぬ。」と仰せければ、蔀の際まで参りたり。「義経が出でんほど、出で向ひて、義経を待ちつけよ。」と仰せられける。「承り候。」とて、大引両の直垂に、逆沢潟の腹巻著て、長刀ばかりをおつ取り、下へ飛んで下りけるが、「あはれ、御出居{*30}の方に、御弓の候らん。」と申せば、「入りて見よ。」と仰せける。走り入りて見ければ、白箆に鵠の羽を以てはぎたる、くつまきの上十四束に拵へて、白木の弓、握り太なるを添へてぞ置きたる。「あはれ、ものや。」とおもひて、出居の柱におしあてて、「えいや。」と張り、鐘を撞くやうに、弦打ち{*31}ちやうちやうとして、大庭にぞ走り出でけり。下臈なれども、弓矢取る事は、純友、将門、養由にも劣らぬほどの上手なり。四人張りに十四束をぞ射ける。「我がためには、よし。」と悦びて、門外に出で向つて、貫の木{*32}を外し、戸びらの片方おし開き、見ければ、隈なき月に、兜の星もきらきらとして、内兜すきて、射よげにぞ{*33}見えたりける。
片膝つき、矢つぎ早に、指しつめ引きつめさんざんに射る。土佐が真つ先かけたる郎等五、六騎射おとし、やにはに二人ぞ失せにける。土佐、「叶はじ。」とや思ひけん、さつと引きにけり。「土佐、きたなし。かくて鎌倉殿の御代官はするか。」とて、戸びらの陰にひかへたり。土佐、これを聞き、「かく宣ふは、誰人ぞ。名乗り給へ。かく申すは、鈴木党{*34}に、土佐坊昌俊なり。鎌倉殿の御代官。」と名乗りけれども、「敵のきらふ事もありなん。」と、音もせず。
かくて判官は、大黒といふ馬に金覆輪の鞍おかせて、赤地の錦の直垂に、緋縅の鎧著、鍬形打つたる白星の兜の緒をしめ、金作りの太刀はいて、切斑の征矢おひて、重籐の弓の真ん中にぎり、馬引きよせ、召して大庭にかけ出で、鞠のかゝり{*35}にて喜三太を召しければ、喜三太、申しけるは、「下なき下郎の、今夜のさきがけ承りて候なり。生年二十三。我と思はん者は、よりて組め。」とぞ申しける。
土佐、これを聞きて、安からず思ひければ、戸びらの隙より狙ひよりて、十三束よつぴき、ひやうと射る。喜三太が弓手の太刀打ちを、はぶくらせめて、つと射通す。かいかなぐりて棄て{*36}、喜三太、弓をがはと投げすて、大長刀の真ん中取つて、戸びらを左右へおし開き、「よれや、者ども。」と待つ所に、敵、轡を並べて、をめいてかけ入る。諸手開いてさんざんに斬る。馬の平首、胸板、前の膝をさんざんに斬られて、馬倒れければ、主はさかさまに落つる所を、長刀をおつ取りのべ、ずんど切つてぞ落としける。その外、向ふ者ども、重手を負ひて引き退く。されども大勢にて攻めければ、走り帰りて御馬の口にすがる。さしのぞき御覧ずれば、胸板より下は、血にぞなりたる。「おのれは手を負うたるか。」「さん候。」と申す。「大事の手ならば、退け。」とおほせられければ、「合戦の庭に出でて死するは、弓矢の面目なり。」と申しければ、「きやつはけなげ者。」とぞ{*37}宣ひける。「何ともあれ、おのれと義経とだにあらば。」とぞ仰せられける。されども判官も、かけ出で給はず。土佐も、左右なくかけも入らず。
両方、しばし休らふ所に、武蔵坊、六條の宿所に臥したりけるが、「今宵は何とやらん、夜こそ寝られね。さても、土佐こそ京に有るぞかし。殿の方、おぼつかなし。めぐりて帰らばや。」と思ひければ、草摺のしどろなる、ひやうし鎧のさねよきに、太刀はき、棒うちつきて、高足駄はきて、殿の方へからりからりとしてぞ参りける。「大御門は、貫の木さゝれたり。」と思ひて、小門よりさし入り、御馬屋の後ろにて聞きければ、大庭に馬の足音、六種震動の如し。「あら、心憂や。早、敵のよせたりけるものを。」と思ひて、御馬屋にさし入りて見れば、大黒はなし。「今宵の軍に召されける。」と思ひて、東の中門につと上りて見れば、判官、喜三太ばかり御馬ぞひにて、唯一騎ひかへ給へり。弁慶、これを見て、「あら、心安や。さりながら、憎さも憎や。さしも人の申しつるを聞き給はで。胆つぶし候はん。」とつぶやき言して、縁の板ふみならし、西へ向きて、どうどうと行きける。
判官、「あはや。」と思し召して、さしのぞき見たまへば、大の法師の鎧著たるにぞありける。「土佐めが、後ろより入りけるか。」とて、矢さしはげて、馬うちよせ、「あれに通る法師は、誰なるらん。名のれ。名のらで、あやまちせられ候な。」と仰せられけれども、札よき鎧なりければ、「さうなく裏はかかじ{*38}。」とおもひて、音もせず。「射損ずることも有り。」とおぼしめし、矢をば箙にさし、太刀のつかに手をかけ、すはとぬいて、「誰ぞ。名のらで斬らるゝな。」とて、やがて近付きたまへば、「この殿は、打ち物取つては、樊噲、張良にも劣らぬ人ぞ。」と思ひて、「遠くは音にも聞き給へ。今は近し、目にも見給へ。天児屋根の御苗裔、熊野別当弁せうが嫡子に、西塔の武蔵坊弁慶とて、判官の御内に一人当千の者にて候。」とぞ申しける。
判官、「興ある法師のたはぶれかな。時にこそよれ。」とぞ{*39}おほせられける。「さは候へども、仰せ蒙り候へば、こゝにて名乗り申すべき。」と、猶もたはぶれをぞ申しける。判官、「されば、土佐に寄せられたるぞ。」弁慶、「さしも申しつることを聞こし召し入れたまはで、御用心も候はで。左右なくきやつばらを門外まで、馬の蹄を向けさせぬるこそ安からず候へ。」と申しければ、「いかにもして、きやつを生け取りて見んずる。」と仰せられければ、「唯置かせ給へ。しやつがあらん方に弁慶向ひて、つかんで見参に入れ候はん。」と申しければ、「人を見て人を見るにも、弁慶が様なる人こそなけれ。喜三太めに軍させたる事はなけれども、軍には誰にも劣らじ。大将軍は御辺に奉るぞ。軍は喜三太にせさせよ。」と仰せられける。
喜三太は、櫓に上りて、大音あげて申しけるは、「六條殿に、夜討ち、入りたり。御内の人々はなきか。在京の人はなきか。唯今参らぬ輩は、明日は謀叛の与党なるべし。」と呼ばはりける。こゝに聞き付け、かしこに聞き付け、京白川、一つになりて騒動す。判官殿の侍どもを初めとして、こゝかしこより馳せ来る。土佐が勢を中にとり篭めて、散々に攻む。片岡八郎、土佐が勢の中にかけ入りて、首二つ、生け捕り三人して見参に入る。伊勢三郎、生け捕り二人、首三つ取つて参らする。亀井六郎{*40}、備前平四郎、二人うちて参る。彼等を初めとして、生け捕り、ぶん取り、思ひ思ひにぞしける。
その中にも軍のあはれなりしは、江田源三にてとゞめたり。宵には御不審{*41}にて、京極にありけるが、「堀川殿に軍有り。」と聞きて、馳せまゐり、敵二人が首取りて、「武蔵坊、明日見参に入れて給び候へ。」といひて、また軍の陣に出でけるが、土佐が射ける矢に、首の骨、箆中せめて{*42}ぞ射られける。はげたる矢をうち上げて、「引かん、引かん。」としけるが、唯弱りにぞ弱りける。太刀を抜き、杖につき、はふはふ参りて、「縁へ上がらん。」としけれども、上がりかねて、「誰か御渡り候。」と申しければ、御前なる女房、立ち出でて、「何事ぞ。」と答へければ、「江田源三にて候。大事の手負うて、今を限りと存じ候。見参に入れてたび候へ。」と申しければ、判官、これを聞きたまひて、浅ましげに思し召して、火をともし、差し上げて御覧ずれば、黒つばの矢のおびたゞしかりけるを射立てられてぞ伏したりける。
判官、「いかに、人々。」と仰せられければ、息の下にて申すやう、「御不審蒙りて候へども、今は最期にて候。御赦免蒙り、よみぢを心安く参り候はばや。」と申しければ、「もとより汝、久しく勘当すべきや。たゞ一旦のことをこそいひつるに。」と仰せられて、御涙にむせび給へば、源三、よに嬉しげにうち頷きたり。鷲尾七郎、近くありけるが、「いかに、源三。弓矢取るものの、矢一筋にて死するは、むげなる事{*43}ぞ。故郷へ何事も申し遺はさぬか。」といひければ、返事にも及ばず。「和殿の枕におはしまし候は、君にて御座候。」と申しければ、源三、息の下より申しける。「まさしく君の御膝もとにて死に候へば、一期の面目なり。今は、何事をかおもひ置くことの候べき。なれども、過ぎにし春の頃、親にて候者の信濃へ下りしに、『かまへて暇申して、冬の頃は下れ。』と申し候間、『承る。』と申して候ひしに、下人がむなしき骨を持ちて下り、母に見せて候はば、さこそ悲しみ候はん。つらつらこれをこそ不便におもひ候へとよ。君、都におはしまさんほどは、常の仰せを蒙りたく候へ{*44}。」と申せば、「それ、心やすく思ひ候へ。常々問はするぞ{*45}。」と仰せられければ、よに嬉しげにて涙を流しける。「限り。」と見えしかば、鷲尾、よりて念仏をすゝめければ、高声に申し、君の御膝の上にして、生年二十五にて失せにけり。
判官、弁慶、喜三太を召して、「軍はいかやうにしなしたるぞ。」と仰せられければ、「土佐が勢は、二、三十騎ばかりこそ。」と申せば、「江田を打たせたるが安からぬに、土佐めが一類、一人も洩らさず、命な殺しそ。生け捕りてまゐらせよ。」と仰せられける。喜三太、申しけるは、「敵、射ころすこそやすけれ。生きながら取れと仰せ蒙り候こそ、もつての外の大事なれ。さりながらも。」とて、大長刀を持ちて走り出でければ、弁慶、「あはや、きやつに先せられてかなはじ。」と、鉞ひつさげて飛んで出づ。
喜三太は、卯の花垣のさきをつい通りて、泉殿の縁のきはを、西をさしてぞ出でける。こゝに、黄月毛なる馬に乗つたる者、馬に息をつかせて、弓杖にすがりてひかへたり。喜三太、はしりよりて、「こゝにひかへたるは、誰。」と問ひければ、「土佐が嫡子、土佐太郎、生年十九。」と名乗つて歩ませ{*46}むかふ。「これこそ喜三太よ。」とて、つとよる。「叶はじ。」とや思ひけん、馬の鼻を返して落ちけるを、「余すまじ。」とて追つかけたり。早打ちの長馳せしたる馬の、夜もすがら軍にはせめたりけり、揉めども{*47}もめども、一所にて踊るやうなり。大長刀をもつて開いてちやうど斬る。左右のからすがしら{*48}、つと斬る。馬、さかさまに転びければ、主は馬より下にぞしかれける。取りておさへて、鎧の上帯解きて、疵一つもつけず、搦めて参るを、下べに仰せて、御馬屋の柱に立ちながら結ひつけさせられける。
弁慶、喜三太に先をせられて、安からず思ひて走りまはる所に、南の御縁に伏縄目の鎧著たる者、一騎ひかへたり。弁慶、はしりよりて、「誰。」と問ふ。「土佐がいとこ、いほうの五郎盛直。」とぞ申しける。「これこそ弁慶よ。」とて、つとよる。「叶はじ。」とや思ひけん、鞭を当ててぞ落ちける。「きたなし。余すまじ。」とておつかけ、大まさかりをもつて、開いてちやうど打つ。馬のさんづに、ゐのめ{*49}の隠るゝ程打ちこみ、「えい。」といひてぞ引きたりける。馬、こらへずして、どうど臥す。五郎を取つて押さへ、上帯にてからめて参りける。土佐太郎と一所につなぎ置く。
昌俊は、身方の打たれ、あるひは落ち行くを見て、「我は、太郎、五郎を捕られて、生きて何かせん。」とやおもひけん、その勢十七騎にて、思ひ切つて戦ひけるが{*50}、「叶はじ。」とや思ひけん、かち武者かけちらして、六條河原まで打つて出で、十七騎が、十騎は落ちて、七騎になる。鴨川を上りに、鞍馬をさして落ち行く。別当は、判官殿の御師匠、衆徒は、契りふかくおはしければ、「後は知らず。判官殿の思し召す処もこそあれ。」とて、鞍馬百坊おこつて、追手と一つになりて尋ねけり。判官、「無下なる者どもかな。土佐めほどの者をにがしける無念さよ。しやつを逃がすな。」と仰せられければ、堀川殿をば在京の者どもに守護させて、判官の侍、一人も残らず追ひかけける。
土佐は、鞍馬をもおひ出だされて、僧正が谷にぞこもりける。大勢つゞいて攻めければ、鎧をば貴船の大明神にぬぎて参らせ、主は大木のうつろにぞ{*51}逃げ入りける。弁慶、片岡、土佐を失ひて、「何ともあれ、これを逃しては、君の御気色もいかゞ。」とて、こゝかしこを尋ねありく程に、喜三太は、むかひなる{*52}伏木に上りて立ちたり。「鷲尾殿の立ちたまへる後ろの大木のうつろに、物のはたらくやうに候こそ、あやしくおぼえ候。」と申せば、太刀うち振りて見れば、土佐は、「叶はじ。」とや思ひけん、木のうつろより、つと出でて、真下にくだる。弁慶、これを見て、大手を広げて、「いかに、土佐。いづくまで。」とて追つかく{*53}。土佐も、きこゆる足早きものなれば、弁慶より三段ばかりさきだつ。はるかなる谷の底にて、「片岡、こゝに待つぞ。たゞ追ひ下せ。」とぞ{*54}申しける。この声を聞きて、「かなはじ。」とやおもひけん、岨を{*55}かい回りて上りけるを、忠信が、大雁股をさしはげて、「あますまじ。」とて、下り矢先に小引きに引きて、さしあてたり。土佐は、腹をも切らずして、武蔵坊にさうなく取られにけり。さて、鞍馬へ具して行き、東光坊より大衆五十人付けてぞ送られける。
「土佐を搦めて参りて候。」と申しければ、大庭に引きすゑさせ、縁に出でさせ給ひて、「いかに、昌俊。起請は、書くよりして、しるし有るものを、何しに書きたるぞ。生きて帰りたくば、帰さんずるぞ。いかに。」と仰せられければ、頭、地に付けて、「『猩々は、血を惜しむ。犀は、角を惜しむ。日本の武士は、名を惜しむ。』と申す事の候。生きて帰りて、侍どもに二度面をむくべしとも、おぼえ候はず。唯御恩には、疾く疾く首を召され候へ。」とぞ申しける。判官、聞こし召して、「土佐は、剛の者にて有りけるや。さてこそ鎌倉殿の頼み給ふらめ。大事の囚人を切るべきやらん、切るまじきやらん。それ、武蔵、はからへ。」と仰せられければ、「大力を獄屋に篭め置きて、ふみ破りては、詮なし。やがて斬れ。」とて、喜三太に縄どりさせて、六條河原に引き出だし、駿河次郎は太刀どりにて、斬らせけり。
相模八郎、同太郎は十九、いほうの五郎は三十三にて斬られけり。打ち洩らされたる者ども、下りて鎌倉殿に参りて、「土佐は仕損じ、判官殿に斬られ参らせ候ひぬ。」と申せば、「頼朝が代官に上せたる者を、押さへて切るこそ遺恨なれ。」と仰せられければ、侍ども、「斬り給ふこそことわりよ。現在の討手なれば。」と、皆人々ぞ{*56}申しける。
校訂者注
1:底本は、「よき所」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
2:底本頭注に、「梶原景時の長子景季。」とある。
3:底本頭注に、「〇和田 義盛。」「〇畠山 重忠。」「〇九郎 義経。」「〇川越太郎 重房。」「〇縁あればとて 川越太郎重房は義経の舅で義理の親子であるからとて。」とある。
4:底本は、「安房、上総を賜はるべき。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
5:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。会釈。」とある。
6:底本は、「させる寄合(よりあひ)の、楯(たて)つき軍(いくさ)」。底本頭注に、「〇させる寄合 その様な寄せ合はせの。」「〇楯つき軍 対抗戦。」とある。
7:底本頭注に、「注連縄などに下げる切つた紙。」とある。
8:底本頭注に、「義経の邸。」とある。
9:底本は、「教へける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
10:底本頭注に、「一生涯で見物するに京が第一等である。」とある。
11:底本は、「地体(ぢたい)」。底本頭注に、「本来。もと。」とある。
12:底本は、「賺され」。底本頭注に、「だまされ。」とある。
13:底本頭注に、「告げひろめられては困りまする。」とある。
14:底本頭注に、「〇せんに 先に。まづ。」「〇最前に 最初に。」「〇尾篭 をこのあて字を音読したので、無礼の意。」とある。
15:底本頭注に、「熊野の本宮 新宮 那智。」とある。
16:底本頭注に、「途中。」とある。
17:底本頭注に、「〇をめたる 臆した。怖れひるんだ。」「〇向後 以後。今より後。」「〇出仕無益なり 勤めに出ること無用である。出勤するに及ばない。」とある。
18:底本頭注に、「〇いしくも 神妙にも。奇特にも。よくも。」「〇不思議 奇怪な事。」とある。
19:底本頭注に、「睨みまはし。」とある。
20:底本頭注に、「土佐が堀川殿へ行かうとして家来にいう語。」とある。
21:底本頭注に、「腰の左右の細い所。」とある。
22:底本頭注に、「療養。」とある。
23:底本頭注に、「〇何れか君云々 頼朝も義経もどちらも我が主君である。」「〇権現も示現云々 熊野権現も神の霊験を示し現はれられるだらう。」とある。
24:底本は、「それはや争ふ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
25:底本頭注に、「白状しなかつたが。」とある。
26:底本頭注に、「印地。印地打。児童が礫を投げ合ふことから転じてならず者 あぶれ者。」とある。
27:底本頭注に、「〇武蔵坊 弁慶。」「〇片岡 片岡八郎弘常。」「〇佐藤四郎 忠信。」「〇伊勢三郎 義盛。」「〇鷲尾 鷲尾三郎経春。」とある。
28:底本頭注に、「大将のきる鎧。」とある。
29:底本頭注に、「容易に。たやすく。」とある。
30:底本は、「出居(でゐ)」。底本頭注に、「客に応接する座敷。」とある。
31:底本は、「弦打(つるうち)」。底本頭注に、「弦をひき鳴らすこと。」とある。
32:底本は、「貫(くわん)の木(き)」。底本頭注に、「門戸を鎖し固める横木。」とある。
33:底本は、「射よげにこそ見えたりける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
34:底本は、「すゝき党」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
35:底本頭注に、「蹴鞠をする場所の垣に植ゑた木。」とある。
36:底本頭注に、「〇はぶくらせめて 矢に矧いだ矢羽までにせまつて。」「〇かいかなぐり 荒らゝかに引きのけて。」とある。
37:底本は、「『彼奴(きやつ)は健気者(けなげもの)。』と宣ひける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
38:底本頭注に、「たやすく裏へ矢が通るまいと。」とある。
39:底本は、「とおほせられける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
40:底本頭注に、「重清。」とある。
41:底本頭注に、「嫌疑を蒙ることから転じて勘気を蒙ること。」とある。
42:底本は、「首(くび)の骨(ほね)の中せめて」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
43:底本頭注に、「甚だつまらぬこと。」とある。
44:底本頭注に、「母に対して平素御言葉をかけて下されたい。」とある。
45:底本は、「問はする。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
46:底本頭注に、「馬を歩ませ。」とある。
47:底本頭注に、「馬を駆けさせようといらだちあせつたが。」とある。
48:底本頭注に、「馬の後脚の外部に面した節。」とある。
49:底本頭注に、「〇さんづ 馬の臀びやくゑのうしろ。」「〇ゐのめ 鉞の頭の彫りこみ。」とある。
50:底本は、「戦ひける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
51:底本は、「うつろに逃(に)げ入りける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇うつろ 空洞。」とある。
52:底本は、「むかひに見え候伏木」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
53:底本は、「追つかくる。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
54:底本は、「と申しける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
55:底本は、「そばを」。底本頭注に、「岨。山の嶮しい所。」とある。底本頭注にに従い改めた。
56:底本は、「と、皆人々申しける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
コメント