五 義経都落ちの事
「とにもかくにも討手を上せよ。」とて、北條四郎時政を大将軍にて、都へのぼる。畠山{*1}は、辞退申したりけれども、重ねて御諚有りければ、武蔵七党を相具して、尾張国熱田の宮に馳せむかふ。「後陣は山田四郎与政、一千余騎にて関東を門出す。」と聞こえけり。
十一月一日、大夫判官、三位をもつて院へ奏聞せられけるは{*2}、「義経、命を棄てて朝敵を退治仕り候ひしは、先祖の恥をきよめんずる事にて候へども、逆鱗を休め奉らんがためなり。しかれば、朝恩として抽賞をも行なはるべき処に、鎌倉の源二位{*3}、義経に野心を存するによつて、追討のために官軍をはなち遣はす由、承り候。所詮、相坂の関より西を賜はるべき由をこそ存じ候へども、四国、九国ばかりを賜はりて、罷り下り候はばや。」とぞ申されける。これによつて理なる朝旨なるべき間{*4}、公卿僉議あり。各、申されけるは、「義経が申す所も不便なれども、これに宣旨を下されば、源二位の憤り深かるべし。また、宣旨を下されずは、木曽が都にてふるまひし如く義経がふるまはば、世は代にても候まじ。所詮とても、源二位、討手を上せ候なる上は、義経に宣旨を賜び下して、近国の源氏どもにおほせ付けて、大物にて討たせらるべく候や。」と、各、申されければ、宣旨を下されけり。
かかりければ、判官は、「西国へ下らん。」とて、出で立ちたまふ。折ふし、西国の兵ども、その数おほく上りたりける中にも、緒方三郎維義{*5}がのぼりけるを召して、「九国を賜はりて下るなり。汝、たのまれてや。」と仰せられければ、維義、申しけるは、「菊池次郎、折節上洛仕りて候なれば、定めて召され候はんずらん。菊池を誅せられば、仰せに随ひ申すべき。」よし申す。判官は、弁慶、伊勢三郎を召して、「菊池と緒方と、いづれにて有るらん。」と仰せられければ、「とりどりにこそ候へども、菊池{*6}こそ、猶も頼もしき者にて候へ。但し、猛勢なることは、緒方、まさりて候らん{*7}。」と申しければ、「菊池、頼まれよ。」と仰せられければ、菊池次郎、申しけるは、「尤も仰せにしたがひ参らせたく候へども、子にて候者を関東へ参らせて候間、父子両方へまゐり候はん事、いかゞ候べきや。」と申しければ、「さらば、討て。」とて、武蔵坊、伊勢三郎を大将軍にて、菊池が宿所へ押し寄せける。菊池は、矢種あるほど射尽くして、家に火をかけて自害してけり。さてこそ緒方三郎、参りけれ。
判官、叔父備前守を伴ひて、十一月三日に都を出でたまふ。「義経が国入りの初めなれば、引きつくろへ。」とて、尋常に{*8}こそ出で立たれけれ。その頃、世にもてなしける磯の禅師が娘に、静といふ白拍子を、狩装束せさせてぞ召し具せられける。我が身は、赤地の錦の直垂に、小具足ばかりにて、黒き馬の太く逞しきに、尾がみ飽くまでたらひたるに{*9}、白覆輪の鞍置きてぞ乗り給ふ。黒糸をどしの鎧著て、黒き馬に白覆輪の鞍おきて乗りたる者、五十騎。萌黄縅の鎧に、鹿毛なる馬に乗つたる者、五十騎。毛つがへにその数うたせて、その後は打ちこみに百騎、二百騎うちける。以上その勢、一万五千余騎なり。
西国に聞こえたる月丸といふ大船に、五百人の勢を取りのせて、財宝を積み、二十五疋の馬ども立てて、四国路を心ざす。舟の中、波の上のすまひこそ悲しけれ。伊勢をの海士のぬれ衣、ほす隙もなきたよりかな。入江入江の葦の葉に、繋ぎおきたる藻刈り舟、荒磯かけて漕ぐときは、渚々に鳴く千鳥、折知りがほにぞきこえける。霞へだてて漕ぐときは、沖に鴎のなく声も、敵の鬨かと思ひける{*10}。風にまかせ、潮にしたがひてこぐほどに、弓手は住吉明神、「ありがたし。」とふしをがみ、右手を見れば西の宮、蘆屋の里、生田の森をよそになし、和田の岬をこぎ過ぎて、淡路の瀬門も近くなる。絵島が磯を右手になして、こがれ行く程に、時雨の隙より見給へば、高き山のかすかに見えければ、船の中にてこれを見て、「あの山は、いづれの国のいづくの山ぞ。」と申しければ、「そんじやうその国{*11}の山。」とまうせども、委しくは知りたる人もなし。
武蔵坊は、船ばたを枕にして臥したりけるが、がはと起きて、舟のへいたにつたつて{*12}、たゞ一目見て申しけるは、「遠くもなかりけるものを、遠き様に見なし給ひけり。あれこそ播磨国書写の嶽の見ゆるや。」とぞ申しける。「山は書写の山なれども、義経、心にかゝることのあるは、この山の西の方より、黒雲の俄に山上へきれてかゝる。日も西にかたぶき候はば、定めて大風吹くべしとおぼゆるぞ。自然に{*13}風落ち来らば、いかなる島かげ、荒磯にも、舟を馳せあげて、人の命を助けよ。」とぞ仰せられける。
弁慶、申しけるは、「この雲のけしきを見候に、よも風雲にては候まじ。君は、いつの程に思し召し忘れ給ひて候ぞ。平家を攻めさせ給ひしとき、平家の公達、多く波のそこに屍を沈め、苔の下に骨を埋づみ給ひしとき、仰せられ候ひしことは、今のやうにこそ候へ。『源氏は、八幡の護りたまへば、ことに重ねて日にそへ、安穏ならん。』と仰せられし。いか様にも、これは君の御ため、悪風とこそ思ひ候へ。あの雲くだけて御舟にかゝらば、君もわたらせ給ふまじ{*14}。我等も二度故郷へ帰らん事、不定なり。」とぞ申しける。判官、これを聞こし召して、「何かさることのあらん。」とぞ仰せられける。
弁慶、申しけるは、「君は、度々弁慶が申す事を御用ゐ候はでこそ{*15}、御後悔候へ。さ候はば、見参に入れ候はん。」とて、揉み烏帽子引きこうで、太刀長刀は持たざりけり。白箆にくゞひの羽にてはぎたる矢に、白木の弓取りそへ、舟の舳に突つ立つて、人に向つて物を云ふ様に、かきくどきて申す様、「天神七代、地神五代は神の御世。神武天皇より四十一代の御門{*16}より以来、保元、平治とて両度の合戦。知らず、これら両度にも、鎮西八郎{*17}御曹司こそ、五人張りに十五束を射たまひ、名をあげ給ひし。それより後は、絶えて久しくなりたり。さては源氏の郎等の中に、弁慶こそ、かたの如くも弓矢取つて、人数にいはれたれ。風雲の方へ、さゝへて射んずる程に、風雲ならば、射るとも消えうせじ。天のまつりごとにてある間、平家の悪霊ならば、よもたまらじ{*18}。それにしるしなくば、神を崇め奉り、仏を尊み参らせて、祈り祭りもよもあらじ。源氏の郎等ながら、俗姓正しき侍ぞかし。天児屋根の御苗裔、熊野別当弁せうが子に、西塔の武蔵坊弁慶。」と名乗つて、矢つぎ早にさんざんに射たりければ、冬の空の夕日あかりのことなれば、潮もかゞやきて{*19}、中差し、いづくにおちつくとは見えねども、死霊なりければ、かき消すやうに失せにけり。船の中にはこれを見て、「あら、恐ろしや。武蔵坊だになかりせば、大事出で来たらん。」とぞ申し合ひける。
「押せや、者ども。」とて漕ぐ程に、淡路国みつしまの東をかすかに見てゆく程に、さきの山の北の腰に、また黒雲の車輪の様なるが出で来る。判官、「あれは、いかに。」と仰せられければ、弁慶、「これこそ風雲よ。」と申しも果てぬに、大風おちきたる。頃は十一月下旬{*20}のことなれば、霰まじりて降りければ、東西の磯も見えわかず。麓には風はげしく、津国武庫山おろし、日の暮るゝにしたがひて、いとゞ烈しくなりにけり{*21}。判官、楫取水手に仰せられけるは、「風の強きに、沖中にひけよ。」と仰せられければ{*22}、帆を下さんとすれども、雨に濡れて、せみもとつまりて、さがらず。
弁慶、片岡に申しけるは、「西国の合戦の時、度々大風に逢ひしぞかし。綱手をさげて引かせよ。苫を捲きてつけよ。」と下知しければ、綱をさげ、苫をつけけれども、少しもしるしなし。川尻{*23}を出でし時、西国船の石多く取り入れたりければ、葛をもつて中を結ひ、投げ入れたりけれども、綱も石も底へは沈みかねて、上に引かれて行く程の大風にてぞありける。舟の腹を叩く波の音に驚き、馬どものいばふこそおびたゞしき。今朝までは、「さりとも。」と思ひける人、舟底にひれ伏して、黄水をつく{*24}こそ悲しけれ。これを御覧じて、「たゞ帆の中を破つて、風を通せ。」とて、薙鎌をもつて帆の中をさんざんに破つて、風を通せども、へさきには白波たてて、千の鉾をつくが如し{*25}。さる程に、日も暮れぬ。
先にも舟が行かねば、篝火もたかず。後にも舟のつづかねば、海士の焼く火も見えざりけり。空さへ曇りたれば、四三の星も見えず。唯長夜の闇に迷ひける。せめて我が身ひとりの事ならば、いかゞせん。都におはしましける時、人知れず情深き人にておはしまししかば、忍びて通ひ給ひける女房、二十四人とぞ聞こえし。その中にも御心ざし深かりしは、平大納言の御娘、大臣殿の姫君、唐橋の大納言、鳥飼の中納言の御娘{*26}、この人々は、皆さすがに優なる御事にてぞおはしける。その外、静などを初めとして白拍子五人、総じて十一人、一つ舟にぞ乗り給へる。都にては皆、心々におはしけれども、一所にさし集ひ、「中々都にて、とにもかくにもなるべかりしを。」と悲しみ給ひけり。
判官、心もとなさに立ち出で給ひて、「今宵は何時にかなりぬらん。」と宣へば、「子の時の終はりには成りぬらん。」と申せば、「あはれ、疾くして夜の明けよかし。雲を一目見て、とにもかくにもならん。」などと仰せられける。「そもそも侍の中にも、下べの中にも、器量の者やある。帆柱に上りて、薙鎌にてせみの綱を切れ{*27}。」とぞ仰せられける。弁慶、「人は、運のきはめに成りぬれば、日頃おはせぬ心のつかせ給へる。」と呟きければ、判官、「それは、『必らず御辺に上れ。』といはばこそ。御辺は、比叡の山そだちの者にて、叶ふまじ。常陸坊は、近江の水海にて、小舟などにこそ調練したりとも、大船にはかなふまじ。伊勢三郎は、上野の者、四郎兵衛は、奥州の者なり。片岡{*28}こそ、常陸国鹿島行方といふ荒磯にぞ生したるものなり。志田三郎、浮島にありけるときも、常に行きて遊びけるに、『源平の乱出で来候はば、葦の葉を舟にしたりとも、異朝へも渡りなん。』と歎じける。片岡、上れ。」と仰せられければ、「承りて候。」とて、やがて御前を立ちて、小袖、直垂ぬぎ、手綱二筋をよりて胴に巻き、髻引き崩して{*29}押し入れ、烏帽子に額結ひて、やいばの薙鎌とつて手綱にさし、大勢の中をかき分けて、柱よせに上り、手を掛けて見ければ、大の男の合はせて抱くに、さしも合はぬほどなり。「柱の高さは、四、五丈もあらん。」と思ふ程なり。武庫山よりおろす嵐につめられて、雪と雨とに濡れて冰り{*30}、たゞ銀箔を延べたるにぞ似たりける。いかにもして上るべきともおぼえず。
判官、これを見給ひて、「あゝ、したり、片岡。」と力を添へられて、「えい。」と声を出だし、上ればするりと落ち、上ればするりと落ち、二、三度しけるが、命を捨ててのぼりける。二丈ばかり上りて聞きければ、物の音、舟の中にこたへて、地震の如くに鳴りて聞こえければ、「あはや、何やらん。」と聞く所に、浜浦より立ちたる風の、時雨につれてきたる{*31}。「それ、聞くや、楫取。後ろより風の来るぞ。波をよく見よ、風をきらせよ。」といひも果てざりければ、吹きもて来て、帆にひしひしとあつるかとすれば、風につきてさゞめかし走りけるが、いづくとは知らず、二所に物のはたはたと鳴りければ、舟の中に同音に、「わつ。」とぞ喚きける。帆柱は、せみの本より二丈ばかりおきて、下をふつと折れにけり。柱、海に入りければ、舟は浮き、先につと、はせ延びけり。片岡、するりと下りて、舟ばりを踏みはり、ないがまを八の綱手に引きかけて、かなぐり落ちたりければ{*32}、折れたる柱を風に吹かせて、夜もすがら波にゆられける{*33}。
さる程に、暁にもなりければ、宵の風は静まりたるに、又、風吹き来る。弁慶、「これは、いづくより吹きたる風やらん。」といへば、五十ばかりになる楫取、出でて、「これは又、昨日の風よ。」と申せば、片岡、申しけるは、「あは、男。よく見て申せ。昨日は北の風。吹きかはす風ならば、巽か南にてぞあるらん。風下は、津国にてぞあるらん。」と申せば、判官、仰せられけるは、「御辺たちは{*34}、案内を知らぬものなり。彼等は案内者なれば、唯帆をひきて吹かせよ。」とて、やほ{*35}の柱を立てて、やほを引きて走らかす。
暁になりて、知らぬ干潟に御舟をはせ据ゑたり。「潮は満つるか、引くか。」「ひき候。」と申せば、「さらば、潮満つるを待て。」とて、舟の端、波にたゝかせて、夜の明くるを待ち給へば、陸の方に大鐘の声こそ聞こえけれ。判官、「鐘の声の聞こゆるは、渚の近きとおぼゆるぞ。誰かある。舟に乗りて、行きて見よ。」と仰せられければ、「いかなる人にか承るべき。」と、片唾をのむ所に、「幾度なりとも、器量の者こそ行かんずれ。片岡、行きて見よ。」と仰せられける。
承りて、逆沢潟の腹巻著て、太刀ばかり佩いて、屈竟の舟乗りなりければ、端船に乗り、左右なく磯に押し寄せて、あがりて見れば、海士の塩やく苫屋の軒を並べたり。片岡、「寄りて{*36}問はばや。」と思ひけれども、我が身は心うちとけねば、苫屋の前をうち過ぎて、一町あがりて見れば、大いなる鳥居あり。鳥居につきて行きて見れば、ふりたる神を祝ひまゐらせたる所なり。片岡、近付きて拝み奉れば、齢八旬にたけたる老人、唯一人たゝずみにけり。
「これは、どの国のいづくの所ぞ。」と問ひければ、「こゝに迷ふは常の事、国に迷ふこそ怪しけれ。さらぬだに、この所は二、三日騒動する事のあるに。判官の、昨日こゝを出でて、四国へとて下り給ひしが、夜の間に風かはりたり。この浦にぞ著きたまふらんとて、当国の住人豊島蔵人、上野判官、小溝太郎承りて、陸にあがり、五百匹の名馬に鞍置きて、磯には三十艘の杉舟に掻楯をかき、判官を待ちかけたり。もしその方ざまの人ならば、急ぎ一まづ落ちて、遁れ給へ。」と仰せられければ、片岡、さらぬ体にて申しけるは、「これは、淡路国の者にて候が、一昨日の釣にまかり出で、大風にはなされて、たゞ今こゝに著きて候なり。ありのまゝに知らせ給へ。」と申しければ、古歌をぞ詠じ給ひける{*37}。
いさり火のむかしの光ほの見えて蘆屋のさとにとぶ蛍かな
と詠じて、かきけすやうに失せにけり。後に聞きければ、住吉の明神をいはひ奉りたる処なり。「憐れみを垂れ給ひける。」とぞおぼえける。
片岡、やがて帰りまゐりて、この由申しければ、「さては、舟をおし出だせ。」と仰せられけれども{*38}、潮は干たり、御舟を出だしかねて、心ならず夜をぞ明かしける。
校訂者注
1:底本頭注に、「重忠。」とある。
2:底本頭注に、「〇大夫判官 五位検非違使尉源義経。」「〇院 後白河院。」とある。
3:底本頭注に、「頼朝。」とある。
4:底本は、「と申されける。これによつて理(ことわり)なるてうしなるべき間、」。底本頭注に、「〇てうし 朝旨を下さるべきに由つて。」とある。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補い、底本頭注に従い改めた。
5:底本頭注に、「豊後の人。寿永二年院宣によつて九州に在る平家を討つた。」とある。
6:底本は、「菊地」。
7:底本は、「緒方こそまさりて候らん。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。
8:底本頭注に、「立派に。すぐれて。」とある。
9:底本は、「たゝひたるに」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
10:底本は、「敵(てき)の鬨(とき)の声(こゑ)かと思ひける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。
11:底本頭注に、「何それの国。」とある。
12:底本頭注に、「〇へいた 舳板。舟の舳艫に板を亘して棚としたもの、踏立板。」「〇つたつて つゝ立つてであらう。」とある。
13:底本頭注に、「万一に。若しも。」とある。
14:底本頭注に、「御生存あるまい。御無事ではあるまい。」とある。
15:底本は、「御用ゐ候はで、御後悔(ごこうくわい)候へ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
16:底本は、「四十一代の御門(みかど)」。底本頭注に、「四十一代は持統天皇であるが或は四十代天武天皇の時からのつもりか。」とある。
17:底本頭注に、「為朝。」とある。
18:底本頭注に、「我が矢先には堪へられまい。」とある。
19:底本は、「潮もかゞきやて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
20:底本は、「十一月(しもつき)下旬」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
21:底本は、「なりにける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
22:底本は、「仰(おほ)せられけれ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
23:底本頭注に、「摂津国淀川の河口。」とある。
24:底本は、「黄水(わうすゐ)をつく」。底本頭注に、「胃から黄水を嘔吐した。」とある。
25:底本は、「つくが如く、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
26:底本頭注に、「〇平大納言 時忠。」「〇鳥飼の中納言 維実。」とある。
27:底本頭注に、「〇器量の者 物の用に立つ才能ある者。」「〇せみ 帆柱の上にある滑車。」とある。
28:底本頭注に、「〇常陸坊 海存。」「〇伊勢三郎 義盛。」「〇四郎兵衛 兵衛尉佐藤四郎忠信。」「〇片岡 八郎広常。」とある。
29:底本は、「ひきぐして」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
30:底本は、「濡(ぬ)れて冰(こほり)は」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
31:底本は、「時雨(しぐれ)につれしきたる。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
32:底本頭注に、「〇舟ばり 舟の中にわたした横木。」「〇かなぐり落ち 荒らかに落ちた。」とある。
33:底本は、「終夜(よもすがら)波(なみ)にゆられける程に、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
34:底本は、「御辺(ごへん)だちは」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
35:底本頭注に、「弥帆。大船の本帆の外に舳の方に張る帆。」とある。
36:底本は、「より問はばや」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
37:底本は、「詠じ給ひけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
38:底本は、「仰せられければ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
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