巻第五
一 判官吉野山に入り給ふ事
都に春はきたれども、吉野はいまだ冬ごもる。いはんや年の暮れなれば、谷の小川もつららゐて{*1}、一方ならぬ山なれども、判官、あかぬ名残を捨てかねて、静をこゝまで具せられたりける。様々の難所を経て、一二のはざま、三四の峠、杉の壇と云ふ所まで分け入りたまひけり。
武蔵坊、申しけるは、「この君の御供申し、不足なく見する{*2}ものは、面倒なり。四国の供も、一舟に十余人取り乗り奉り給ひて、心安くもなかりしに、この深山まで具足し給ふこそ心得ね。かく御供してありき、麓の里へ聞こえなば、いやしき奴ばらが手にかゝりなどして、射殺されて、名を流さん事は口惜しかるべし。いかゞ計らふ、片岡。いざや、一まづ落ちて、身をも助からん。」と申しければ、「それもさすがあるべき。いかゞぞ。たゞ、目な見合はせそ{*3}。」とこそ申しける。判官、聞き給ひ、苦しきことにぞ思し召しける。「静が名残を捨てじ。」とすれば、かれらとは{*4}中をたがひぬ。また、「彼等が中を違はじ。」とすれば、静が名残、捨て難く、とにかくに心を砕き給ひつゝ、涙に咽び給ひけり。
判官、武蔵を召して仰せられけるは、「人々の心中を、義経、知らぬ事はなけれども、わづかの契りを捨てかねて、これまで女を具しつるこそ、身ながらも、げに心得ね。これより静を都へ返さばやとおもふは、いかゞあるべき。」。武蔵坊、畏まつて申しけるは、「これこそゆゝしき御はからひ候よ。弁慶も、かくこそ申したく候ひつれども、恐れをなし参らせてこそ候へ。かやうに思し召し立ちて、日の暮れ候はぬさきに、疾く疾く御急ぎ候へ。」と申せば、「何しに返さんといひて、又思ひ、かへさじといはん事も、侍どもの心中、いかにぞや。」と思はれければ、力及ばず。
「静を京へ返さばや。」と仰せられければ、侍二人、雑色三人、御供申すべき由を申しければ、「ひとへに義経に命をくれたるとこそおもはんずれ{*5}。道の程、よくよくいたはりて、都へ帰りて、各は、それよりしていづ方へも。心に任すべし。」と仰せを蒙りて、静を召して仰せけるは、「武運つきて、都へ返すにはあらず。これまでひき具足したりつるも、心ざしおろかならぬ故。心苦しかるべき旅の空に、人目をかへり見ず具足しつれども、よくよく聞けば、この山は役の行者のふみ初めたまひし菩提の峯なれば、精進潔斎せでは、いかでか叶ふまじき峯なるを、我が身の業におかされてこれまで具し奉る事、神慮の恐れあり。これより帰りて、禅師のもとに忍びて、明年の春を待ち給へ。義経も、明年の春、げに叶ふまじくば出家をせんずれば、人も心ざしあらば{*6}、共に様をもかへ、経をも読み、念仏をも申さば{*7}、今生後生、などか一所にあらざらん。」と仰せられければ、静、聞きもあへず、衣の袖を顔にあてて{*8}、泣くより外の事ぞなき。
「御心ざし尽きせざりし程は、四国の波の上までも具足せられ奉る。契りつきぬれば、力及ばず。唯憂き身の程こそ、思ひ知りて悲しけれ。申すに付けてもいかにぞや、過ぎにし夏の頃より、唯ならぬ事{*9}とかや申すは、産すべきものにも早定まりぬ。世に隠れもなき事にて候へば、六波羅へも{*10}鎌倉へも聞こえんずらん。東の人は情なきと聞けば、今に取り下されて、いかなる憂目をか見んずらん。唯思し召し切りて、これにていかにもなし給へ{*11}。御ためにも、みづからがためにも、なかなか生きて物思はんよりも。」と、かきくどき申しければ、「唯都へ上り給へ。」と仰せられけれども、御膝の上に顔をあて、声を立ててぞ泣きふしける。侍どももこれを見て、皆袂をぞ濡らしける。
判官、びんの鏡{*12}を取り出だして、「これこそ朝夕、顔を映しつれ。見ん度に、義経を見ると思ひて見給へ。」とて賜びにけり。これ賜はりて、今なき人の様に、胸にあててぞ焦がれける。涙の隙よりかくぞ詠じける。
見るとても嬉しくもなします鏡こひしき人の影をとめねば
とよみたれば、判官、枕を取り出だして、「身をはなさで、これを見給へ。」とて、かくなん。
いそげども行きもやられず草枕しづかに馴れし心ならひに
それのみならず、財宝をその数取り出だして賜びけり。その中に、殊に秘蔵せられたりける、紫檀の胴に羊の革にて張りたりける、啄木のしらべの鼓を賜はりて、仰せられけるは、「この鼓は、義経、秘蔵して持ちつるなり。白河院の御時、法住寺の長老の入唐の時、二つの重宝を渡されけり。名曲といふ琵琶、初音といふ鼓、これなり。名曲は、内裏にありけるが、保元の合戦の時、新院{*13}の御前にて焼けてなし。初音は、讚岐守正盛{*14}に賜はつて、秘蔵して持ちたりけるが、正盛死去の後、忠盛、これを伝へて持ちたりけるを、清盛の後は誰か持ちたりけん、八島の合戦の時、わざとや海に入れられけん、また、取り落としてやありけん、波にゆられてありけるを、伊勢三郎、熊手にかけて取りあげたりしを、義経取つて、鎌倉に奉る。」とぞ宣ひける。
静、泣く泣くこれを賜はりて、持ちけり。「今は何と思ふとも、留まるべきにあらず。」とて、是非を二つに分けけり{*15}。判官、思ひ切りたまふ時は、静、思ひきらず。静、思ひ切る時は、判官、思ひ切り給はず。互に、行きもやらず、帰りては行き、行きては帰り、し給ひけり。峯に上り、谷に下りて行き給ふ程に、姿の見え給ふ程は、静、はるばると見送りけり。たがひに姿の見えぬ程に隔てば、山彦の響く程にぞ喚きける。五人の者ども、やうやうに慰めて、三四の峠までは下りけり。
二人の侍、三人の雑色をよびて{*16}語りけるは、「各、いかゞはからふ。判官も、御心ざしは深く思ひ給ひつれども{*17}、御身の置き所なく思し召して、行き方知れず失せさせ給ふ。われとても、麓に下り、落人供し歩き{*18}ては、いかでかこの難所をばのがるべき。これは、麓近き所なれば、捨ておき奉る{*19}とても、いかにもして麓に帰り給はぬ事は、よもあらじ。いざや、一まづ落ちて身を助けん。」とぞいひける。恥をも恥と知り、又、情をも捨てまじき侍だにも、かやうにいひければ、まして次の者ども{*20}は、「いかにも御計らひ候へかし。」といひければ、ある枯木の下に敷皮敷き、「こゝに暫く御休み候へ。」とて、申しけるは、「この山の麓に、十一面観音の立たせ給ひて候所あり。親しく候者の、別当にて候へば、尋ねて下り候て、御身の様を申し合はせて、苦しかるまじきに候はば、入れ参らせて、暫く御身をもいたはり参らせて、山づたひに都へ送り参らせたくこそ候へ。」と申しければ、「ともかくもよき様に、各、計らひ給へ。」とぞ宣ひける。
校訂者注
1:底本頭注に、「冰が張つて。つらゝは冰柱。」とある。
2:底本頭注に、「満足な目を見せる。」とある。
3:底本頭注に、「〇それもさすが さうではあるもののそんなにも出来まい、どうだらうぞ。」「〇目な見合はせそ 静の顔を見るな。」とある。
4:底本は、「かれらは中をたがひぬ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
5:底本頭注に、「静を護衛する危険な事に当らうといふ侍や雑色の心を義経が感謝したのである。」とある。
6:底本頭注に、「おん身も志あらば。」とある。
7:底本は、「申さばや。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。
8:底本は、「衣(きぬ)の袖(そで)に顔(かほ)をあてて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
9:底本頭注に、「懐妊をいふ。」とある。
10:底本頭注に、「〇世に隠れもなき事 静と義経との仲らひが世に隠れない事。」「〇六波羅 六波羅探題をいふ。京畿関西の諸政兵馬を掌る役。」とある。
11:底本頭注に、「殺して下されの意。」とある。
12:底本頭注に、「びんかがみ。鬢をうつして見る小さな鏡。」とある。
13:底本頭注に、「崇徳上皇。」とある。
14:底本頭注に、「平忠盛の父で清盛の祖父。」とある。
15:底本頭注に、「事の道理と情が許さぬ無理とを判別した。」とある。
16:底本頭注に、「侍が雑色を呼んで。」とある。
17:底本は、「深(ふか)く給ひつれども」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
18:底本は、「落人供(おちうどとも)し歩(あり)き」。底本頭注に、「逃亡者の供して歩いて。」とある。
19:底本頭注に、「静を捨ておき。」とある。
20:底本頭注に、「身分の低い者ども。」とある。
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