四 忠信吉野にとゞまる事
十六人、思ひ思ひに落ちかゝる所に、音に聞こえたる剛の者あり。先祖を委しくたづぬるに、鎌足大臣の御末、淡海公{*1}の後胤、佐藤のりたかが孫、信夫の佐藤荘司が二男、四郎兵衛藤原忠信と言ふ侍あり。
人も多く候に、御前に進み出で、雪の上にひざまづきて申しけるは、「君の御有様と我らが身を、物によくよく譬ふれば、屠所に赴く羊歩々の思ひ{*2}も、いかでかこれには勝るべき。君は、御心安く落ちさせ給ひ候へ。忠信は、こゝに止まり候て、麓の大衆を待ちえて、一方の防ぎ矢仕り、一まづ落とし参らせ{*3}候はばや。」と申しければ、「尤も心ざしは嬉しけれども、御辺の兄嗣信が、八島の軍の時、義経がために命を捨て、能登殿の矢さきにあたりて亡せしかども、これまで御辺のつき給ひたれば、嗣信も、兄弟ながら未だある心地してこそ思ひつれ。年の内は、思へばいく程もなし。人も命あり。我も長らへたらば、明年の正月の末、二月初めには陸奥へ下らんずれば、御辺も下りて、秀衡{*4}をも見よかし。又、信夫の里にとゞめ置きし妻子をも、今一度見給へかし。」と仰せられければ、「さ承り候ひぬ。治承二年の秋の頃、陸奥を罷り出で候ひし時も、『今日よりして君に命を奉りて、名を後代にあげよ。矢にもあたり、死しけると聞かば、孝養は秀衡が忠を致す{*5}べし。高名度々に及ばば、勲功は君の御計らひ。』とこそ申し含められしか。『命を生きて故郷へ帰れ。』と申したることも候はず。信夫にとゞめ候ひし母一人候も、その時を最期とばかりこそ申し切りて候ひしか。弓箭とる身の習ひ、今日は人の上、明日は御身の上、皆かくこそ候はん。君こそ御心弱く渡らせ給ひ候とも、人々{*6}、それ、よき様に申させ給ひ候へや。」とぞ申しける。
武蔵坊、これを聞きて申しけるは、「弓矢取る者のことばは、綸言に同じ。言葉に出だしつる事をひるがへす事は候はじ。たゞ心安く御暇を賜はりたし。」とぞ申しける。判官、暫く物をも仰せられざりけるが、やゝありて、「惜しむとも叶ふまじ。さらば、心にまかせよ。」とぞ仰せられける。忠信、承りて、嬉しげに思ひて、たゞ一人、吉野の奥にぞ留まりける。されば、夕には月星の光を戴き、朝にはけうくんの霧を払ひ、玄冬素雪の冬の夜も、九夏三伏の夏の朝にも、日夜朝暮、片時もはなれ奉らず仕へ奉りし御主の御名残も、今ばかりなりければ、日頃は、「坂上田村丸、藤原利仁にも劣らじ。」と思ひしが、さすがに今は心細くぞ思ひける。十六人の人々も、面々に暇乞ひして、前後不覚になりにけり。
又、判官、忠信を近く召して仰せられけるは、「御辺が佩きたる太刀は、寸の長き太刀なれば、疲れに{*7}臨んでは叶ふまじ。身の疲れたる時、太刀の延びたるは悪しかりなん。これを以て最期の軍せよ。」とて、金作りの太刀の二尺七寸ありけるに、剣の樋掻きて{*8}、地膚、心も及ばざるを取り出だして賜はりけり。「この太刀、寸こそ短けれども、身においては逸物{*9}にてあるぞ。義経も、身にかへて思ふ太刀なり。それをいかにと言ふに、平家の兵ども、兵船を揃へし時に、熊野の別当の、権現の御剣を申しおろして賜ひしを、信心を致したりしによりてや、三年に朝敵を平らげて、義朝の会稽の恥をもすゝぎたりき。命にかへて思へども、御辺も身にかへれば取らするぞ。義経に添うたりと思へ。」とぞ仰せられける。
四郎兵衛、これを賜はりて戴き、「あはれ、御佩刀や。これ、御覧候へ。兄にて候ひし嗣信{*10}は、八島の合戦に、君の御命にかはり参らせて候ひしかば、奥州の基衡が参らせて候ひし大夫黒といふ馬を賜はりて、冥途までも乗り候ひぬ{*11}。忠信、忠を致し候へば、御秘蔵の御佩刀賜はりて候ひぬ。これを、人の上と思し召すべからず。誰も誰も、皆かくこそ候はんずれ。」と申しければ、おのおの涙をぞ流しける。
判官、仰せられけるは、「何事か思ひおく事のある。」「御いとま賜はり候ひぬ。何事を思ひおくべしともおぼえ候はず。但し、末代までも弓矢の瑕瑾なるべし、すこし申し上げたき事の候へども、恐れをなして申さず候。」と申しければ、「最期にてあるに、何事にても申せかし。」と仰せを蒙り、ひざまづきて申しけるは、「君は、大勢にて落ちさせ給はば、それがしは、こゝに一人とゞまり候べし。吉野の執行、おし寄せ候て、『こゝに九郎判官殿の渡らせたまひ候か。』と申し候はんに、『忠信。』と名乗り候はば、大衆は、極めたる華飾の者{*12}にて候へば、『大将軍もおはしまさざらん所にて、わたくし軍、益なし。』とて帰り候はん事こそ、末代まで恥辱になりぬべく候へ。けふばかり、清和天皇の御号を預かるべく候はん。」とぞ申しける。
「尤もさるべき事なれども、純友、将門も、天命を背き参らせしかば、終に滅びぬ。ましてやいはん、『義経は、院宣にも叶はず、日頃よしみありつる者ども、心変はりしつる上、力及ばず。今日をくらし、夕を明かすべき身にてもなければ、終に遁れなからんものゆゑに、清和の名を許しけり。』といはれん事は、他のそしりをば、いかゞすべき。」と仰せられければ、忠信、申しけるは、「やうにこそより候はんずれ。大衆、おしよせて候はば、箙の矢をさんざんに射つくし、矢種つきば太刀を抜き、大勢の中へ乱れ入り、切りて後、刀をぬき、腹を切り候はん時、『まことにこれは、九郎判官と思ひ参らせ候はんずれ。実には、御内に佐藤四郎兵衛と言ふ者なり。君の御号をかり参らせて、合戦に忠をいたしつるなり。首を取つて、鎌倉殿の見参に入れよ。』とて、腹かき切り死なん後は、君の御号も何か苦しく候はん。」とぞ申しける。「尤も最期の時、かやうにだに申しわけて死に候ひなば、何か苦しかるべき、殿原。」と仰せられて、清和天皇の御号を預かる。これを、現世の名聞、後の世のうつたへとも思ひける。
「御辺が著たる鎧は、いかなる鎧ぞ。」と仰せ有りければ、「これは、嗣信が最後の時、著て候ひし。」と申せば、「それは、能登守の矢にたまらず、徹りたりし鎧ぞ{*13}。頼む所なし。衆徒の中には、聞こゆる精兵の有りけるぞ。これを著よ。」とて、緋縅の鎧に、白星の兜をそへて賜はりけり。著たりける鎧を脱ぎて、雪の上にさし置き、「雑色どもにたび候へ。」と申しければ、「義経も、著替へべき鎧もなし。」とて、召しぞ換へられける。まことにためしなき御事にぞ有りける。
「さて、故郷に思ひ置く事はなきか。」と仰せられければ、「我も人も、衆生界の習ひにて、などか故郷の事を思はざらん。国を出でし時、三歳になり候子を、一人とゞめ置きて候ひしぞ。かの者に心付きて{*14}、『父はいづくにやらん。』と尋ね候べきなれば、聞かまほしくこそ候へ{*15}。平泉出でし時、君ははや御立ち候ひしかば、鳥の鳴きて通るやうに{*16}信夫をうち通り候ひしに、母の所に立ち寄り、暇ごひ候ひしかば、齢おとろへて、二人の子ども{*17}の袖にすがりて悲しみ候ひし事、今の様におぼへ候。『老いの末になりて、我ばかり物を思ふ。子どもに縁のなき身なりけり。信夫の荘司{*18}に過ぎ別れ、たまたま近付きて不便にあたられし{*19}伊達の娘にも過ぎ別れ、一方ならぬ歎きなれども、和殿ばらを成人させて、一所にこそなけれども、国のうちにありと思へば、頼もしくこそ思ひつるに、秀衡、何と思し召し候やらん、二人の子どもを皆御供せさせ給へば、一旦の恨みはさる事なれども、子どもを成人せさせて、人数に思はれ奉るこそ嬉しけれ。隙なく合戦に逢ふとも、臆病の振舞ひして、父のかばねに血をあえし{*20}給ふなよ。高名して、四国、西国の果てにおはすとも、一年二年に一度も、命あらんほどは下りて、見もし見えられよ。一人とゞまりて一人たえたるだに悲しきに、二人ながら遙々と別れては、いかゞせん。』とて、声も惜しまず泣き候ひしを振り捨てて、『さ承り候。』とばかり申してうち出で候よりこのかた、三、四年、終におとづれも仕らず。去年の春のころ、わざと人を下して、『嗣信、討たれ候ひぬ。』と告げて候ひしかば、身もたえなんと悲しみ候ひけるが、『嗣信{*21}がことは、さて力及ばず。明年の春の頃にもなりなば、忠信が下らんと言ふ嬉しさよ。はや今年の月日も過ぎよかし。」などと待ち候なるに、君の御下り候はば、母にて候者、急ぎ平泉へまゐり、『忠信は、いづこに候ぞ。』と申さば、嗣信{*22}は八島、忠信は吉野にて討たれける。』と承りて、いかばかり歎き候はんずらん。それこそ罪深くおぼえて候へ{*23}。君の御下り候て、御心安く渡らせおはしまし候はば、嗣信、忠信が孝養は候はずとも、母一人、不便の仰せをこそ預かりたく候へ{*24}。」と申しも果てず、袖を顔におしあてて泣きければ、判官も涙を流し給ふ。十六人の人々も、皆鎧の袖をぞ濡らしける。
「さて、一人留まるか。」と仰せられければ、「奥州より連れ候ひし若党、五十余人候ひしが、あるひは死し、あるひは故郷に返し候ひぬ。今、五、六人候こそ、死なんと申すげに候へ。」「さて、義経が者は、留まらぬか。」と仰せられければ、「備前、鷲尾こそ、『とゞまらん。』と申し候へども、『君を見つぎ参らせ{*25}たまへ。』とて、留めまうさず。御内の雑色二人も、『何事もあらば、一所にて候。』と申し候間、とゞまりげに候。」と申しければ、判官、聞こし召して、「彼等が心こそ神妙なれ。」とぞ仰せける。
校訂者注
1:底本頭注に、「鎌足の子 不比等。」とある。
2:底本は、「羊(ひつじ)、夫婦(ふうふ)の思ひも、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
3:底本頭注に、「逃げ延びさせ奉り。」とある。
4:底本頭注に、「鎮守府将軍陸奥守藤原秀衡。平泉に居た。」とある。
5:底本頭注に、「真心をこめてする。」とある。
6:底本頭注に、「義経の傍に居る人々に対していひかけたのである。」とある。
7:底本は、「ながれに」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
8:底本は、「けんのひかきて、」。底本頭注に、「剣形の樋即ち刀身に細長い溝を掻き彫つて。」とあるのに従い改めた。
9:底本は、「一物(いつぶつ)」。底本頭注に、「すぐれたもの。逸物。」とあるのに従い改めた。
10・21・22:底本は、「次信(つぎのぶ)」。
11:底本頭注に、「藤原清衡の子陸奥押領使基衡が義経に献上した馬。八島の戦ひに嗣信の供養に義経が僧に布施した。」とある。
12:底本頭注に、「僭越不遜の者。」とある。
13:底本は、「鎧(よろひ)の、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
14:底本頭注に、「物の分別がついて。」とある。
15:底本は、「聞かまほしく候へ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
16:底本頭注に、「鳥が鳴いて空を飛び過ぎるやうに早く。」とある。
17:底本頭注に、「嗣信と忠信。」とある。
18:底本は、「信夫(しのぶ)の荘司(しやうじ)」。底本頭注に、「〇 佐藤元治。嗣信忠信の老母からいへば夫。」とある。
19:底本は、「不便(ふびん)にあたられし」。底本頭注に、「憫れに思つて待遇された。」とある。
20:底本頭注に、「血を注ぐ意で恥しむるをいふ。」とある。
23:底本頭注に、「母に先だつて死んで嘆きをかける不孝こそ罪深く存じます。」とある。
24:底本頭注に、「憫れみの御言葉をいたゞきたい。」とある。
25:底本は、「みつぎ参らせ」。底本頭注に、「見とゞけ奉り。」とあるのに従い改めた。
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