五 忠信吉野山の合戦の事

 それ、師の命に代はりしは、内供智興の弟子証空阿闍梨、夫の命に代はりしは、薫豊が節女なりけり{*1}。今、命を捨て、身を捨てて、主の命に代はり、名を後代に残すべき事、源氏の郎等に如くはなし。上古は知らず、末代にためし有り難し。「義経、今は遙かにのびさせたまふらん。」と思ひ、忠信は、三滋目結の直垂に、緋縅の鎧、白星の兜の緒をしめ、淡海公{*2}より伝はりたるつゞら井といふ太刀、三尺五寸有りけるを佩き、判官より賜はりたる金作りの太刀を佩き添へにし、大中黒の二十四さしたる、上矢にはあをほろ鏑の、目より下六寸ばかり有るに、大の雁股すげて、佐藤の家に伝へてさす事なれば、はちばみの羽をもつてはいだるひとつ中差を、いづれの矢よりも一寸、はずを出だしてさしたりけるを頭高におひなし、ふし木の弓の、ほこ{*3}短く射よげなるを持ち、手勢七人、中院の東谷にとゞまりて、雪の山を高く築きて{*4}、譲り葉榊葉をさんざんに切りさして、前には大木を五、六本楯に取りて、麓の大衆二、三百人を、「今や、今や。」とぞ待ちたりける{*5}。
 されども敵は寄せざりけり。かくて日を暮らすべきやうもなし。「いざや、追ひつき参らせて、判官の御供申さん。」と、陣をさりて二町ばかり尋ね行きけれども、風烈しくて雪ふりければ、その跡も皆白妙になりにければ、力及ばず、前の所へ帰りにけり。酉の時ばかりに、大衆三百人ばかり、谷を隔てて押し寄せて、同音に鬨をぞ作りける。七人も、向ひの杉山の中より、幽かに鬨を合はせけり。さてこそ、「敵、こゝに有り。」とは知られけれ。
 その日は、執行の代官に川つら{*6}法師と申して悪僧有り。よせあし{*7}の先陣をぞしたりける。法師なれども、尋常に出で立ちたり。萌黄の直垂に紫糸の鎧著て、三枚兜の緒をしめて、じんせい作りの太刀はき、石うちの征矢の二十四さしたるを頭高におひなして、二所籐の弓の真中取りて、我に劣らぬ悪僧五、六人前後に歩ませて、まつさきに見えたる法師は、四十ばかりに見えけるが、褐の直垂に黒革縅の腹巻、黒漆の太刀をはき、椎の木の四枚楯つかせ、矢頃にぞ寄せたりける。
 川つら{*8}の法眼、楯のおもてに進み出でて、大音あげて申しけるは、「そもそもこの山には、鎌倉殿{*9}の御弟判官殿の渡らせ給ひ候由、承りて、吉野の執行こそまかり向ひ候へ。わたくしには{*10}何の遺恨候はねば、一まづ落ちさせ給ふべく候か。又、討死遊ばし候はんか。御前に誰がしか御渡り候。よき様に申され候へや。」と、さかさかしげに申したりければ、四郎兵衛、これを聞きて、「あら、事も愚かや。清和天皇の御末、九郎判官殿の御渡り候とは、今まで御辺達は知らざりけるか。日ごろ、よしみ有るは、とぶらひ参らせたらんは、何の苦しきぞ。人の讒言によりて、鎌倉殿御中、当時不和におはしますとも、無実なれば、などか思し召し直し給はざらん。あはれ、末の大事かな。仔細を向うて聞けと言ふ御使、何者とかおもふらん。鎌足の内大臣の御末、淡海公の後胤、佐藤左衛門のりたかには孫、信夫の荘司が二男、四郎兵衛尉藤原忠信と言ふ者なり。後に論ずるな、たしかに聞け、吉野の小法師ばら。」とぞいひける。
 川つら{*11}の法眼、これを聞きて、「賤しげにいはれたり。」と思ひて、悪所もきらはず、谷ごしに喚きてぞかゝる。忠信、これを見て、六人の者どもに逢ひて申しけるは、「これらを近附けては悪しかるべし。御辺達は、これにて敵の問答をせよ。某は、中差二つ三つに弓持つて、細谷川の水上を渡りて、敵のうしろより狙ひより、鏑一つぞかぎりにてあらん、楯ついて居たる悪僧めが首の骨かおしつけかを一矢射て{*12}、残る奴ばら追ひちらし、楯取つてうちかつぎ、中院の嶺に上りて、敵に矢を射尽くさせ、味方も矢種のつきば、小太刀をぬき、大勢の中へ走り入りて、切り死にに死ねや。」とぞ申しける。大将軍がよかりければ、付きそふ若党も、一人として悪きはなし。残りの者ども申しけるは、「敵は大勢にて候に、仕損じ給ふなよ。」と申しければ、「おいて物を見よ{*13}。」とて、中差、かぶら矢一つおつ取り添へて、弓杖つき、一ばんの谷を走りあがりて、細谷川の水上をわたりて、敵のうしろの小暗き所よりねらひよりて見れば、枝は夜叉の頭の如くなるふし木あり。つと上りて見れば、弓手にあひつけて、矢先に射よげにぞ見えたりける{*14}。
 三人張りに十三束三つぶせ取つてはげ、思ふさまに引きつめ、鏑もとへからりと引つかけて、暫しかためてひやうど射る。末強に遠鳴りして、楯つきたる悪僧の弓手の小腕を、楯の板をそへて射きり、雁股は手楯に立つ。矢の下にがばとぞ射たふしたる。大衆、大きにあきれたる所に、忠信、弓のもとを敲いて喚くやう、「よしや、者ども。勝つにのりて、大手は進め、からめ手はめぐれや。伊勢三郎、熊井太郎、鷲尾、備前はなきか。片岡八郎よ。西塔武蔵坊はなきか。しやつばら、逃すな。」などと、影もなき人々を呼ばはり、喚きければ、川つら{*15}の法眼、これを聞きて、「まことや、判官の御内には、これらこそ手にもたまらぬ者{*16}どもなれ。矢ごろに近付きては叶ふまじ。」とて、三方へさつと散る{*17}。これをものに譬ふれば、竜田、初瀬のもみぢ葉の、嵐に散るに異ならず。敵追ひちらして、楯取りてうちかつぎ、身方の陣へつきむかへて、七人は、手楯の陰に並み居て、敵に矢をぞ尽くさせける。
 大衆は、手楯を取られ、安からぬ事に思ひ、精兵{*18}をすぐりて矢面に立ち、さんざんに射る。弓の弦の音、杉山にひゞくことおびたゞし。楯の面に矢の当たる事、板屋の上に降る霰、砂子をちらす如くなり。半時ばかり射けれども、答の{*19}矢を射ざりけり。六人の者ども、思ひ切りたる事なれば、「いつのために命を惜しむべき。いざや、軍せん。」とぞ申しける。四郎兵衛、これを聞きて申しけるは、「たゞおきて、矢種をつくさせよ。吉野法師は、今日こそ軍の初めなるらん。やがて矢もなき弓を持ち、その門弟とうずまいたらんずる隙を守り{*20}、さんざんに射はらひて、味方の矢種つきば、打物の鞘をはづし、乱れ入りて討死せよ。」と、いひも果てざりけるに、大衆、所々にたゝずみて居たり。
 「あはれ、ひまや。いざや、いくさせん。」とて、射むけの袖を楯として、さんざんにこそ射たりけれ。暫く有りて、後ろへさつと退きて見れば、六人の郎等も、四人は討たれて二人になる。二人も、思ひ切りたる事なれば、「忠信を射させじ。」とや思ひけん、矢面に立ちてぞ防ぎける。一人は、いはう禅師が射ける矢に、首の骨を射られて死ぬ。一人は、治部法眼がいける矢に、脇つぼ射られて失せにけり。六人の郎等、みな討たれば、忠信一人になりて、「中々えせ方人ありつるは、足にまぎれて悪かりつるに{*21}。」と言ひて、箙をさぐり見ければ、尖り矢一つ、かりまた一つぞ射のこして有りける。「あはれ、よからん敵の来れかし。尋常なる矢一つ射て、腹切らん。」とぞ思ひける。
 川つらの法眼は、その日の矢合はせに仕損じて、何の用にもあはせで、その門弟三十人ばかり、まばらにうずまいて立ちたるうしろより、そのたけ六尺ばかりなる法師の、きはめて色黒かりけるが、装束も真黒にぞしたりける。褐の直垂に、黒革を二寸に切つて、一寸はたゝみて縅したる鎧に、五枚兜のためしたるを猪頚に著なして{*22}、三尺九寸有りけるこくしつの太刀に、熊の皮の後鞘入れてぞはきたりける。さかつら箙、矢くばり尋常なるに、塗箆に黒羽をもつてはぎたる矢の、ふとさは笛竹などのやうなるが、箆巻よりかみ十四束にたぶたぶと切りたるを、つかみさしにさして頭高におひなし、糸包の弓の九尺ばかり有りける四人張りを杖につき、ふしき{*23}にのぼりて申しけるは、「そもそもこのたび、衆徒のいくさを見候に、まことに臆地もなく{*24}しなされて候ものかな。源氏を小勢なればとて、あざむきて{*25}仕損ぜられ候かや。九郎判官と申すは、世に超えたる大将軍なり。召し使はるゝ者、一人当千ならぬはなし。源氏の郎等ども、皆うたれ候ひぬ。味方の衆徒、大勢死に候ひぬ。源氏の大将軍と大衆の大将軍と、運比べの軍仕り候はん。かくまうすは何者ぞやと思し召す。紀伊国の住人鈴木党の中にさる者有りとは、かねて聞こし召してもや候はん。以前に候ひつる、川づらの法眼と申す不覚人には似候まじ。幼少のときよりして、腹悪しきえせ者の名をえ候て、紀伊国を追ひ出だされて、奈良の都東大寺に候ひし、悪僧たつる曲者にて、東大寺も追ひ出だされて、横川と申す所に候ひし。それも寺中を追ひ出だされて、川つらの法眼と申す者を頼みて、この二年こそ吉野には候へ。さればとて、横川より出で来り候とて、その異名を横川の前司覚範と申すものにて候が、中差参らせて、現世の名聞と存ぜうずるに、御調度{*26}給はりては、後世のうつたへとこそ存じ候はんずれ。」と申して、四人張りに十四束を取つてはげ、かなぐり引きによつ引きて、ひやうど放つ。忠信、弓杖つきて立ちけるを、弓手の太刀打をば射て射こし、後ろの椎の木に、沓巻せめて立つ{*27}。
 四郎兵衛、これを見て、「はしたなく射たるものかな。保元の合戦に、鎮西八郎御曹司の、七人張りに十五束をいて遊ばしたりしに、鎧著たる者を射ぬきたまひしが、それは上古のこと。末代には、いかでかこれ程の弓勢有るべしともおぼえず。一の矢射損じて、二の矢をば、たゞ中を射んとや思ふらん。胴中射られて叶はじ。」と思ひければ、尖り矢をさしはげて、あててはさしゆるし、あててはさしゆるし、二、三度しけるが、「矢頃は少し遠し、風は谷より吹きあぐる、思ふところへは、よも行かじ。たとへあてたりとも、大力にて有るなれば、鎧の下にさねよき腹巻などや著たるらん、裏かかせずしては、弓矢{*28}の疵に成りなん。主を射ば、い損ずる事も有るべし。弓を射ばや。」とぞ思ひける。
 「大唐の養由は、柳の葉を百歩に立てて、百矢を射けるに百矢あたりけるとかや。我が朝の忠信は、こうかいを五段に立てて射はづさず。まして弓手の物をや。矢頃はすこし遠けれども、何しに射はづすべき。」とぞ思ひける{*29}。はげたる矢をば雪の上に立て、小がりまたをさしはげて、小引きに引きて待つところに、覚範、一の矢を射損じて、念なく思ひなして、二の矢を取つてつがひ、そゞろ引くところを、よつ引いてひやうど射る。覚範が弓の鳥うちを、はたと射られて、弓手へ投げ捨て、腰なる箙かなぐりすて、「我も人も、運のきはめは、前業、限り有り。さらば見参せん。」とて、三尺九寸の太刀抜き、稲妻の様にふりて、真向にあてて、喚きてかゝる。
 四郎兵衛も、思ひまうけたる事なれば、弓と箙をなげ捨てて、三尺五寸のつゞら井と言ふ太刀抜きて、待ちかけたり。覚範は、象の牙を磨くが如く、喚いてかゝる。四郎兵衛も、獅子のいかりをなして待ちかけたり。近付くかとすれば、はやりきつたる太刀の左手も右手もきらはず、薙打ちにさんざんに打ちてかゝる。忠信も、入りちがへてぞ切り合ひける。打ち合はする音のはためく事、御神楽の銅拍子を打つが如し。敵は、太刀をもつて開いたる脇の下より、つとよりて、荒鷹の鳥やをくゞらんとする様に、錏をかたぶけ、乱れ入りてぞ切りたりける。大の法師、攻め立てられて、額に汗をながし、「今は、かう{*30}。」とぞ思ひける。忠信は、酒飯もしたゝめずして、けふ三日に成りければ、打つ太刀も弱りける。大衆は、これを見て、「よしや、覚範。勝つにのれ。源氏は、うけ太刀に見え給ふぞ。すきなあらせそ。」と、力をそへてぞ切らせける。しばしは進みて切りけるが、いかゞしたりけん、これもうけ太刀にぞ成りにける。
 大衆、これを見て、「覚範こそ受け太刀に見ゆれ。いざや、下り合ひて助けん。」といひければ、「尤もさ有るべし。」とて、おりあふ大衆は、誰々ぞ。いわう禅師、常陸禅師、主殿のすけ、やくいのかみ、かへり坂の小ひじり、治部法眼、山科法眼とて、究竟のもの七人、喚きてかゝる。忠信、これを見て、夢を見る様に思ふ所に、覚範、叱つて申しけるは、「こはいかに。衆徒、狼藉に見え候ぞや。大将軍の軍をば、放ちあはせて{*31}こそ物を見れ。落ち合ひては、末代の瑕瑾にいはんずるためかや。末の世の敵と思はんずるぞや。」と申す間、「おち合ひたりとても、嬉しともいはざらんもの故に、ただ放ち合はせて物を見よ。」とて、一人も落ち合はず{*32}。
 忠信は、「にくし。きやつ、一ひきひきて見ばや。」とぞ思ひける。持ちたる太刀をうち振りて、兜の鉢の上にがらりと投げかけて、すこしひるむ所を、はきぞへの太刀を抜きて、走りかゝりてちやうどうつ。内兜へ太刀の鋒先を入れたりけり。「あはや。」と見ゆる所を、錏を{*33}傾けてちやうどつく。鉢つけをしたゝかにつかれけれども、頚には仔細なし。忠信は、三、四段{*34}ばかりひいて行く。大のふし木の有り。たまらず{*35}ゆらりとぞ越えにける。覚範、おひかけて、むずと打つ。打ちはづして、ふし木に太刀を打ちつらぬきて、「抜かん、抜かん。」とする隙に、忠信、三、四段ばかりするすると飛びて、さしのぞきて見れば、下は四十丈ばかりなる磐石なり。これぞ、竜返しとて、人も向はぬ難所なり。弓手も妻手も、足のたてどもなき深き谷の、面を向くべきやうもなし。敵は、後ろに雲霞の如くに続きたり。「こゝにて斬られたらば、『あへなく討たれたる。』とぞいはれんずる。かしこにて死したらば、『自害したり。』といはん。」と思ひて、草摺つかんで、磐石に向ひて、えい声を出だしてはねおりけり。二丈ばかり飛び落ちて、岩のはざまに足ふみ直し、兜の錏おしのけて見れば、覚範も、谷をのぞきてぞ立ちたりける{*36}。「まさなく見えさせ給ふぞや。返し合はせ給へや。君の御供とだに思ひ参らせ候はば、西は西国の博多の津、北はほくさん佐渡の島、東は蝦夷の千島までも、御供申さんずるぞ。」と、申しも果てず、えいごゑを出だして跳ねたりけり。
 いかゞしたりけん、運のきはめの悲しさは、草摺をふし木の角に引きかけて、まつさかさまにどうどころび、忠信が打物ひつさげて待つ所へ、のさのさと転びてぞ来りける。起きあがる所を、もつて開いてちやうどうつ。太刀は聞こゆる宝物なり、腕は強かりけり。兜の真向はたとうちわり、しや面をなからばかりぞ切り付けける。太刀を引けば、かばとふす。「起きん、起きん。」としけれども、唯弱りに弱りて、膝を押さへて唯一声、「うん。」とばかりを最後にて、四十一にてぞ死ににける{*37}。思ふ所に切りふせて、忠信は、しばし休みて、押さへて首をかき落とし、太刀のさきにさし貫きて、中院の峯に上りて、大の声を以て、「大衆の中に、この首見知りたる者や有る。音に聞こえたる覚範が首をば、義経が取つたるぞ。門弟あらば、取つて孝養せよ。取らせん。」とて、雪の中へぞなげ捨てける。
 大衆、これを見て、「覚範さへも叶はず。まして我ら、さこそあらんず。いざや、麓に帰りて、後日の詮議にせん。」と申しければ、「きたなし。共に死なん。」と申す者もなくて、「この議に同ず。」とぞ申して、大衆は麓に帰りければ、忠信、ひとり吉野に捨てられて、東西を聞きければ{*38}、甲斐なき命生きて、「我を助けよ。」と言ふ者も有り。むなしきやからも有り。忠信、郎等どもを見けれども、一人も息の通ふ者なし。頃は二十日のことなれば、暁かけて出づる月、宵はいまだくらかりけり。忠信は、「必らず死なれざらん命を、死なんとせんも詮なし。大衆と寺中の方へ行かん。」とぞ思ひける。
 兜をばぬいで{*39}高紐にかけ、乱したる髪を取りあげ、血の付きたる太刀拭ひ、うちかつぎ、大衆より先に寺中の方へぞ行きける。大衆、これを見て、声々に喚きける。「寺中の者どもは、聞かざるかや。九郎判官殿は、山の軍にまけ給ひて、寺中へ落ち給ふぞ。それ、遁し奉るな。」とぞ喚きける。風は吹く、雪は降る。人々、これを聞き付けず。忠信は、大門にさし入りて、御在所の方をふし拝み、南大門をまつ下りに行きけるが、左の方に大いなる家有り。これは、山科法眼と申す者の坊なり。さし入りて見れば、方丈には人一人もなし。厨の傍らに、法師二人、児三人居たり。様々の菓子どもつみて、瓶子の口包ませ、立てたりけり。
 四郎兵衛、これを見て、「これこそよき所なれ。何ともあれ、おのれらが酒もりの銚子は、それんずらん。」と、太刀うちかたげて、縁の板を荒らかにふみて、内につと入る。児も法師も、いかでか驚かで有るべき。腰やぬけたりけん、取る物も取りあへず、高這ひにして三方へ逃げちる。忠信は、思ふ座敷にむずと居なほり、菓子ども引きよせて、思ふ様にしたゝめて、疲れを休めて居ける所に、大衆は、声々にこそをめきけれ。忠信、これを聞きて、提子{*40}、杯とりまはらんほどに、「時刻うつしては叶ふまじ。」と思ひ、酒に長じたる男にて、瓶子のくびに手を入れて、かたはらを引きこぼしてうち飲みて、兜は膝の上にさし置き、少しも騒がず、火にて{*41}額をあぶりけるが、重き鎧は著たり、雪をば深くこぎたり。軍疲れに酒は飲みつ、火にはあたる。敵のよせて喚くをば夢にも知らず、眠り居たりけり。大衆は、こゝに押し奇せて、「九郎判官、これに御渡り候か。出でさせ給へ。」と云ひける声に驚き、兜を著、火うち消し、「何に憚るぞや。心ざしの有る者は、こなたへ参れや。」と申しけれども、命を二つ持ちたらばこそ左右なく{*42}も入らめ、唯外にうずまいて居たり{*43}。
 山科法眼、申しけるは、「落人を寺中に入れて、夜を明かさん事も心得ず。我等、世にだにもあらば、これ程の家、一日に一つづゝも作りけん。唯焼き出だして討ち殺せ。」とこそ申しける。忠信は、内にてこれを聞きて、「敵に焼き殺されて、有りといはれんずるは、口惜しかるべし。手づから焼け死にけるといはれん。」と思ひて、屏風一双に火を付けて、天井へ投げあげたり。大衆、これを見て、「あはや、内より火を出だしたるぞ。出で給はん所を射ころせ。」とて、矢をはげ、太刀長刀をかまへて待ちかけたり。
 焼きあげて、忠信は、広縁に立ちて申しけるは、「大衆ども、万事をしづめてこれを聞け。まことに判官殿とおもひ奉るかや。君は、いつか落ちさせ給ひけん。これは、九郎判官殿にては渡らせたまはぬぞ。御内に佐藤四郎兵衛藤原忠信といふものなり。我がうち取り、人の討ち取りたるなどと、後日に争ふべからず。唯今腹を切るぞ。くびを取りて、鎌倉殿の見参に入れよや。」とて、刀を抜き、左の脇にさし貫く様にして、刀をば鞘にさして、内へ飛んで帰り、走り入り、内殿のひきばし{*44}取つて、天井へ上りて見ければ、東の鵄尾は、未だ焼けざりけり。せき板をがばとふみはなして、飛んで出で、見ければ、山を切りて崖作りにしたる楼なれば、山と坊との間、一丈あまり{*45}には過ぎざりけり。「これ程の所をはね損じて、死する程の業になりては、力及ばず。八幡大菩薩、示現を垂れたまへ。」と祈誓して、えい声を出だして跳ねたりければ、うしろの山へ左右なくとび付きて、上の山にのぼり、松の一むら有りける所に、鎧ぬぎ、兜の鉢を枕にして、敵の慌てふためく有様を見てぞ居たりける。
 大衆、申しけるは、「あら、恐ろしや。判官殿かと思ひつれば、佐藤四郎兵衛にてありけるもの。たばかられ、多くの人を討たせつるこそ安からね。大将軍ならばこそ、首を取つて鎌倉殿の見参にも入れめ。にくし。たゞ置きて焼き殺せや。」とぞいひける。火も消え、焔も静まりて後、「やけたる首をなりとも、御坊の見参に入れよ。」とて、手々にさがせども、死骸も知れざりければ、焼けたる首もなし。さてこそ大衆は、「人の心は、剛にても剛なるべきものなり{*46}。死してののちまでも、屍の上の恥を見えじとて、塵灰に焼け失せたるらめ。」と申して、寺中にぞ帰りける。
 忠信、その夜は、蔵王権現の御前にて夜をあかし、鎧をば権現の御前にさし置きて、二十一日の明けぼのに、御嶽を出でて、二十三日の暮れほどに、危き命いきて、二たび都へぞ入りにける。

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校訂者注
 1:底本は、「それ師(し)の命(めい)に代(かは)りしは、ないこうちせうの弟子(でし)、せうくう阿闍梨(あじやり)、夫(をつと)の命(いのち)に代(かは)りしは、とうふがぜんぢになりけり」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 2:底本は、「淡海公(たんかいこう)」。底本頭注に、「藤原不比等。」とある。
 3:底本頭注に、「弓のほこは弓の幹。」とある。
 4:底本は、「つきて、」。底本頭注に従い改めた。
 5:底本は、「待ちたりけるが、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。
 6・8・11・15:底本は、「川(かは)くら」。
 7:底本頭注に、「寄手。」とある。
 9:底本頭注に、「頼朝。」とある。
 10:底本は、「わたくしらは」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 12:底本頭注に、「〇鏑一つ云々 鏑矢だけで悪僧の首を射よう。」「〇おしつけ 鎧の背の上部にある板。」とある。
 13:底本頭注に、「予め心にかけ用意して出来ばえを見よ。」とある。
 14:底本は、「射よげにぞ見えたりけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 16:底本頭注に、「吾等の手には支へきれぬ勇者である。」とある。
 17:底本は、「さつとぞ散りにけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 18:底本は、「精兵(せいびやう)」。底本頭注に、「弓勢の強いもの。」とある。
 19:底本は、「射けれども矢を」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い補った。
 20:底本頭注に、「隙を見はつて。」とある。
 21:底本頭注に、「〇えせ方人 よくもない身方。」「〇足にまぎれて 足にまとつて。」とある。
 22:底本頭注に、「〇ためしたる 錏や鎧の箭が射貫かぬかをためしたもの。」「〇猪頚に著 兜を仰のきてかぶる。」とある。
 23:底本頭注に、「倒れた木。」とある。
 24:底本頭注に、「言ふがひなく。」とある。
 25:底本頭注に、「侮つて。」とある。
 26:底本は、「御手(おんて)はず」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 27:底本は、「沓巻(くつまき)せめて立つ」。底本頭注に、「沓巻まで押しせまつて。沓巻は鏃の本を糸で巻いた所。」とある。
 28:底本は、「弓前(きうせん)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 29:底本は、「思ひけるが、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。
 30:底本頭注に、「もうこれまでと。これきりと。」とある。
 31:底本頭注に、「互にはなれあつて。」とある。
 32:底本は、「たちあはず。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 33:底本は、「所を、傾(かたむ)けて」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 34:底本は、「三四段(たん)」。底本頭注に、「一段は六間。」とある。
 35:底本頭注に、「滞らずするすると。」とある。
 36:底本は、「立ちたりけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 37:底本は、「死しにける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 38:底本頭注に、「彼方此方を気をつけて聞くと。」とある。
 39:底本は、「ぬいて」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 40:底本は、「提子(ひさげ)」。底本頭注に、「鉉ある鍋の如き金属具。酒などを入れて提げゆき、又あたゝめるに用ゐる。」とある。
 41:底本は、「火には」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 42:底本は、「左右(ざう)なく」。底本頭注に、「事もなくやすやすと。」とある。
 43:底本は、「うづまいて居たり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 44:底本頭注に、「引きのけるやうにした梯子。」とある。
 45:底本は、「一町あまり」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 46:底本は、「かうにても、かうなるべき者なり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。