六 吉野法師判官を追つ掛け奉る事

 さても義経、十二月二十三日に、くうしやうのしやう、しいの嶺、ゆづりはの峠といふ難所を越えて、こうしうが谷に懸り、桜谷と云ふ所にぞおはしける。雪ふり埋づみ、つらゝゐて{*1}、一方ならぬ山路なれば、皆人、疲れにのぞみて、太刀を枕にしなどして、伏したりけり。判官、心もとなく思し召して、武蔵坊を召して仰せられけるは、「そもそもこの山の麓に、義経に頼まれぬべき者{*2}やある。酒を乞ひて、疲れを休めて、一まづおちばや。」とぞ仰せける。弁慶、申しけるは、「誰か心やすく頼まれ参らせ候はんともおぼえず候。但し、この山の麓に、弥勒堂の立たせおはしまし候。聖武天皇の御建立の所にて、南都の勧修坊の別当にてわたらせ給ひ候へば、その代官に御嶽左衛門と申し候者、則ち別当にて候。」と申しければ、「頼む方は有りけるござんなれ{*3}。」と仰せられて、御文あそばして、武蔵坊にたぶ。
 麓に下りて、左衛門にこのよし云ひければ、「程近くおはしましけるに、今まで仰せ蒙らざりけるよ。」とて、身に親しき者五、六人よびて、様々の菓子つみ、酒飯ともに長櫃二合、桜谷へぞ参らせける{*4}。「これ程心やすかりける事を。」と仰せられて、十六人の中に二合の長櫃かきすゑて、酒に望みをなす人もあり、飯をしたゝめんとする人もあり。思ふ様に取りちらして、「行なはん。」とし給ふ所に、東の杉山の方に、人の声幽かに聞こえけるを、「怪し。」とや思し召されけん、「売炭の翁も通はねば、炭焼ともおぼえず。峯の細道遠ければ、賤が爪木の斧の音とも思はれず。」と、うしろをきと見給へば、一昨日、中院谷にて四郎兵衛に討ち洩らされたる吉野法師、未だ憤り忘れずして、甲冑をよろひ、百五十人ばかりぞ出で来たる。
 「すはや、敵よ。」と宣ひければ、骸の上の恥をも顧みず、みな散り散りにぞなりにける。常陸坊は、人よりさきに落ちにけり。あとを顧みければ、武蔵坊も君も、いまだもとの所に、働かずして居給ふ。「我等がこれまで落つるに、この人々、とゞまり給ふは、いかなることをか思し召し候やらん。」と、申しも果てざりけるに、二合の長櫃を一合づゝ取りて、東の磐石へ向けて投げおとし、つみたる菓子をば、雪の底に心しづかにほり埋づみてぞ立ち給ひける。
 弁慶は、遙かの先に延びたる常陸坊に追ひつき、「各、あとを見るに、曇りなき鏡を見るが如し。たれも、命惜しくば、くつをさかさまにはきて、おち給へや。」とぞ申しける。判官、これを聞きたまひて、「武蔵坊は、奇異の事を常に申すぞとよ。いか様に、くつをばさかさまにはくべきぞ。」と仰せければ、武蔵坊、申しけるは、「さてこそ君は、梶原が、『舟に逆櫓。』と云ふ事を申しつるに、御笑ひ候ひつる。」と申せば、「まことに、逆櫓と云ふことも知らず。まして、くつをさかさまにはくといふ事は、今こそ初めてきけ。さらば、善悪{*5}はきて、末代の瑕瑾にもなるまじくば、はくべし。」とぞ宣ひける。弁慶、「さらば、語り申さん。」とて、十六の大国、五百の中国、無量の粟散国{*6}までの、代々の御門の次第次第、その合戦の様を語り居たれば、敵は矢頃に近付けども、真んまるに立ち並びて、しづしづとぞ語らせて、聞き給ふ。
 「十六の大国の内に、西天竺とおぼえて候。しらない国、はらない国と申す国あり。かの国の境に、かうふ山とまうす山あり。麓に千里の広野あり。このかうふ山は、宝の山にて、たやすく人をも入れざりしを、はらない国の王、この山を取らんと思し召して、五十一万騎の軍兵を具して、しらない国へうち入りたまふ。かの国の王も、賢王にて渡らせ給ひける間、かねてこれを知り給ふ事あり。かうふ山の北の腰{*7}に、せんのほらと云ふ所あり。これに千頭の象あり。中に一の大象あり。国王、この象を取りて飼ひ給ふに、一日に四百石をはむ。公卿僉議有りて、『この象をかひたまひては、何の益かましまさん。』と申されければ、御門の仰せには、『かち合戦にあふことなからんや。』と宣旨を下したまひしに、思ひの外に、この戦、出で来にければ、武士を向けられず、この象を召して、御口を象の耳にあてて、『朕が恩を忘るゝな。』と宣旨をふくめて、敵陣へ放ちたまふ。
 「大象、いかりをなして、悪象なれば、天に向ひて一声吠えければ、大なるほら貝を千揃へて吹くが如し。その声、骨髄にとほり、譬へ難し。左の足を出だして、そなたをふみければ、一度に五十人の武者をふみ殺す。七日七夜の合戦に、五十一万騎、皆討たれぬ。供奉の公卿、侍三人、上下十騎に討ちなされ、かうふ山の北のこしへ逃げこもり給ふ。頃は神無月二十日あまりの事なれば、麓に紅葉ちりしきて、むらむら雪のあけぼのを踏みしだきて落ち行く{*8}。国王、御身を助けんためにや、くつをさかさまにはきておち給ふ。さきは後、後は先にぞなりにける。追手、これを見て、『これは、いわうの賢王にてましませば、いかなる計略にてやあるらん。この山は、虎ふす山なれば、夕日、西に傾きては、我等が命もはかり難し。」とて、麓の里にぞ帰りける。国王、御命を助かり給ひて、我が国へ帰りて、五十六万騎の勢を揃へて、今度の合戦にうち勝つて、悦びかさね給ひしも、くつをさかさまにはき給ひし謂はれなり。
 「異朝の賢王も、かくこそましませしか。君は、本朝の武士の大将軍、清和天皇の十代の御末になりたまへり。『敵驕らば、我おごらざれ。敵おごらずば。我おごれ。』と申す本文{*9}あり。人をば知るべからず。弁慶においては。」とて、真先にはいてぞ進みける。判官、これを見給ひて、「奇異の事をおぼえけるものかな。いづくにてこれをば習ひけるぞ。」と仰せられければ、「桜本僧正のもとに候ひし時、法相三論の遺教の中に書きて候。」と申しけり。「あはれ、文武二道の碩学や。」とぞ讚めさせ給ふ。武蔵坊、「我より外に、心も剛に、案もふかき者あらじ。」と自称して、心しづかに落ちけるに、大衆、程なくぞ続きける。
 その日の先陣は、治部法眼ぞしたりける。衆徒に逢うて申しけるは、「こゝに不思議のあるは、いかに。今まで谷へ下りてある跡の、今はまた、谷よりこなたへ来る。いかゞ。」と申しければ、後陣にいわう禅師といふ者、走りよりて、これを見て、「さる事有らん。九郎判官と申すは、鞍馬そだちの人なり。文武二道にこえたり。つきそふ郎等、一人当千ならぬはなし。その中に、法師二人あり。一人は、園城寺の法師に常陸坊海尊とて、修学者なり。一人は、桜本僧正の弟子、武蔵坊と申すは、異朝、我が朝の合戦の次第を、めいめいに存じたる者にてある間、かうふ山の北の腰にて、一つの象にせめ立てられて、くつをさかさまにはきおちたる、はらない国の帝の先例をひきたる事も有らん。すきな有らせそ。たゞ追ひかけよや。」と申しけり。矢頃になるまでは、音もせず。近付きて、同音に鬨をどつと作りければ、十六人、一同におどろく所に、判官、「もとよりいふ事を聞かで。」と宣ひければ、聞かぬよしにて、錏をかたむけて、揉みにもうでぞ落ち行きける{*10}。
 こゝに難所一つあり。吉野川の水上、白糸の滝とぞ申しける。上を見れば、五丈ばかりなる滝の、糸を乱したるが如し。下を見れば、三丈れきれきとある紅蓮の淵。水上はとほし。雪のしたゝりに水量まさりて、瀬々の岩間をたゝく波、ほうらいをくづすが如し。こなたもむかひも、水の面は、二丈ばかりなる磐石の、屏風を立てたるが如し。秋の末より冬の今まで、降りつむ雪は消えもせで、雪も冰も、ひとへに箔をのべたるが如し。
 武蔵坊は、人より先に川のはたに行きて見ければ、いかにして行くべきとも見えず。されども、「人をいためん。」とや思ひけん、又、例の事なれば、「これ程の山川を遅参し給ふか。こゝを越し給へや。」とぞ申しける。
 判官、宣ひけるは、「何としてこれをば越すべきぞ。たゞ思ひ切つて腹切れや。」とぞ宣ひける。弁慶、申しけるは、「人をば知るべからず。武蔵は。」とて、川の端へよりけるが、左右眼をふさぎ、祈誓申しける。「源氏をまもり給ふ八幡大菩薩は、いつの程に、我が君をば忘れ参らせ給ふぞ。安穏に守り、納受し給へ{*11}。」と申し、目を開き見たりければ、四、五段ばかり下に、興ある節所あり{*12}。走りよりて見れば、両方さし出でたる山。さきの如くに、水は深くたぎりて落ちたるが、向ひを見れば、岸の崩れたる所に、竹の一叢生ひたる中に、殊に高くおひたる竹三本、末は一つに結ぼほれて、日頃ふりたる雪に押されて、河中へ撓みかゝりたるが、竹の末には、瓔珞をさげたるに似たる垂冰ぞ下がりける。判官も、これを見たまひて、「義経とても、越えつべしとはおぼえねども、いでや、瀬ぶみして見ん。越しそんじて川へ入らば{*13}、誰も、つゞきて入れよ。」と仰せければ、「さ承り候ひぬ。」とぞ申しける。
 判官、その日の装束は、赤地の錦の直垂に、紅末濃の鎧に、白星の兜の緒をしめ、金作りの太刀はき、大中黒の矢、かしら高に負ひなし、弓に熊手を取りそへ、弓手の{*14}脇にかい挟み、川の端に歩みよりて、草摺からんで、錏をかたぶけ、えい声を出だしてはね給ふ。竹の末に、かばと飛び付きて、左右なくするりと渡り給ふ。草摺濡れたりけるを、さつさつとうちはらひ、「そなたより見つるよりは、物にてはなかりけり{*15}。続けや、殿ばら。」と仰せをかうぶり、越すものは誰々ぞ。片岡、伊勢、熊井、備前、鷲尾、常陸坊。雑色駿河次郎、下部に喜三太。これ等を初めとして、十六人が十四人は越えぬ。今二人は向ひにあり。一人は根尾十郎、一人は武蔵坊なり。
 根尾、「こえん。」とする所に、武蔵坊、射向の袖をひかへて申しけるは、「御辺の膝のふるひやうを見るに、けんご{*16}叶ふまじ。鎧ぬぎて越せよや。」と申しける。「皆人の著てこゆる鎧を、それがし一人脱ぐべき様は、いかに。」と云ひければ、判官、これを聞き給ひて、「何事を申すぞ、弁慶。」と問ひ給へば、「根尾に、『鎧ぬぎて渡れ。』と申し候ひし。」と申せば、「和君がはからひに、平に脱がせよ。」とぞ仰せける。みな人は、三十にも足らぬ、すくやか者どもなり。根尾は、その中に老体なり。五十六にぞ成りにける。「理をまげて、都にとゞまれ。」と度々仰せけれども、「君にてわたらせ給ひし程は、御恩にて妻子を助け、君、又かくならせ給へば、我、都にとゞまりて、初めて人に追従せん事、詮なし{*17}。」とて、思ひ切りてぞこれまで参りける。仰せに従ひて、鎧に具足をぬぎ置き、かくても、「叶ふべし。」ともおぼえねば、弓の弦をはづし集めて、一つに結び、端をむかひに投げこして、「そなたへ引け。強くひかへよ。」「ちやうど取りつけ{*18}。」とて、下ののろき淵を{*19}、水につけてぞ引きこしける。
 弁慶、ひとり残りて、判官の越え給ひつる所をばこさず、川上へ一段ばかり上りて、岩角にふり積みたる雪を、長刀の柄にてうちはらひて申しけるは、「これ程の山川をこえかねて、あの竹に取り付き、がたりびしりとし給ふこそ見苦しけれ。そこ、のき給へ。この川、さうなくはねこえて、見参に入らん。」と申しければ、判官、これを聞き給ひて、「義経をへんしゆ{*20}するぞ。目な見やりそ。」と仰せられて、つらぬき{*21}の緒の解けたるを、「結ばん。」とて、兜の錏をかたぶけておはしけるとき、「えいや、えいや。」といふ声ぞ聞こえける。水は早く、岩波にたゝきかけられ、たゞ流れに流れ行く。
 判官、これを御覧じて、「あはや、仕損じたるは。」と仰せられて、熊手を取りなほし、川ばたに走りより来て、とほるあげまき{*22}に引つかけ、「これ、見よや。」と仰せられければ、伊勢三郎、つと寄りて、熊手の柄をむずと取る。判官、さしのぞきて見給へば、鎧著て人にすぐれたる大の法師を、熊手にかけて中にひつさげたりければ、水たぶたぶとしてぞ引きあげける。稀有{*23}の命生きて、御前に苦笑ひしてぞ出でにける。判官、これを御覧じて、あまりにくさに、「いかに。口のききたるには似ざりけり。」と仰せられければ、「あやまちは常の事。『孔子の倒れ{*24}。』と申す事、候はずや。」と、狂言をぞ申しける。
 皆人は、思ひ思ひに落ち行けども、武蔵坊は、落ちもせず。一むらありける竹の中に分け入りて、三本おひたる竹の本に、物をいふ様にかきくどき申しけるは、「竹も生ある物、我も生ある人間。竹は根ある物なれば、青陽の春も来らば、又、子をもさしかへて見るべし。我等は、この度死しては二度帰らぬ習ひなれば、竹を切るぞ。我等が命に代はれ。」とて、三本の竹を切り、本には雪をかけ、末をば水にかけてぞ出だしたりける。判官に追ひ付き参らせて、「あとを、かやうにしたゝめたる。」と申しける。判官、あとをかへりみ給へば、山川なれば、たぎりて落つるむかしの事を思し召し出だして、感じ給ひける。「歌を好みしきよちよくは、舟に乗りて翻し、笛を好みしほうちよは、竹に乗りてくつがへす。大国の穆王は、壁に上りて天にあがり、ちやうはくばうは、浮き木に乗りて巨海{*25}を渡る。義経は、竹馬に乗りて今の山川を渡る。」とぞ宣ひて、上の山にぞあがり給ふ。あの谷の洞に、風少しのどけき所あり。「敵、川を越えば、下がり矢、さきに一矢いて、矢種つきば、腹をきれ。きやつばら渡りえずは、嘲弄してかへせや。」とぞ仰せける。
 大衆、程なく押しよせ、「かしこうぞ越え給ひたり。こゝや越ゆる、かしこや越ゆる{*26}。」と、口々にのゝしりけり。治部法眼、申しけるは、「判官なればとて、鬼神にても、よもあらじ。越えたる所はあるらん。」と、向うを見れば、靡きたる竹を見つけて、「さればこそ。」と思ひて、「これに取り付き越えんには、誰か越えざらん。よれや、者ども。」とぞ申しける。鉄漿黒なる法師、腹巻に袖付けて著たるが、手鉾長刀、脇に挟みて、三人、手に手を取りくみて、えい声を出だしてぞはねたりける。竹の末に取りつきて、「えいや。」と引きたりければ、武蔵が唯今、本を切つてさしたる竹なれば、引きかづくとぞ見えし。岩波にたゝきこめられて、二度とも見えず、底の水屑となりにけり。向うには、上の山にて十六人、同音にどつと笑ひ給へば、大衆、あまり安からずして、音もせず。
 ひたかのぜんじ、申しけるは、「これは、武蔵坊といふをこの者めが所為にてあるぞ。暫くゐては、中々、をこの者がまし。又、水上を廻らんずるは、日数をへてこそ廻らんずれ。いざや、帰りて僉議せん。」とぞ申しける。「きたなし。ついでにはね入つて死なん。」といふ者、一人もなし。「尤もこの義につけや{*27}。」とて、もとのあとへぞ帰りける。判官、これを御覧じて、片岡を召して仰せけるは、「吉野法師にあうて、いはんずるやうは、『義経が、この川を越えかねてありつるに、これまで送りこしたるこそ嬉しけれ。』と云ひ聞かせよ。のちのためもこそあれ。」と仰せければ、片岡、白木の弓に大のかぶら取りてつがひ、谷ごしに一矢射かけて、「御諚ぞ、御諚ぞ。」と云ひかけけれども、聞こえぬ様にしてぞ行きける。
 弁慶は、濡れたる鎧著て、大きなるふし木にのぼりて、大衆を呼びて申しけるは、「情ある大衆あらば、西塔に聞こえたる武蔵が乱拍子見よ。」とぞ申しける。大衆、これを聞き入るゝ者もあり。「片岡、はやせや。」と申しければ、まことや、中差にて弓の本をたたいて、万歳楽とぞはやしける。弁慶、折ふし舞ひたりければ、大衆も行きかねて、これを見る。舞はおもしろくありけれども、笑ひ事をぞ歌ひける。
  春は桜の流るれば  吉野川とも名付けたり
  秋は紅葉のながるれば  竜田川ともいひつべし
  冬も末になりぬれば  法師ももみぢて流れたり
と、をり返しをり返し舞うたれば、たれとはしらず、衆徒の中より、「をこの奴にてあるぞや。」とぞいひける。「おのれども、何ともいはばいへ。」とて、その日はそこにて暮らしけり。
 たそがれ時にもなりしかば、判官、侍どもに仰せけるは、「そも御嶽左衛門は、いしう心ざし有りて参らせつる酒肴を、念なく{*28}追ひちらされたるこそ本意なけれ。誰か、その用意相かまへたる者有らば{*29}、参らせよ。つかれ休めて、一まづおちん。」とぞ仰せける。「皆人は、敵の近付き候間、先にと急ぎ候ひつる程に、相構へたる者も候はず。」と申しければ、「人々は、たゞ後を期せぬぞ{*30}とよ。義経は、我が身ばかりは構へて持ちたるぞ。」とて、「間同じ様に立ちたまふぞ{*31}。」と見えしに、いつの程にか取り給ひけん、たちばな餅を二十ばかり、檀紙に包みて、引き合はせより{*32}取り出ださせ給ひけり。弁慶を召して、「これ、一つづゝ。」と仰せければ、直垂の袖の上におきて、譲り葉を折りて敷き、「一つをば、一乗の仏に奉る。一つをば、菩提の仏に奉る。一つをば、道の神に奉る。一つをば、山神護法{*33}に。」とて置きたりけり。餅も、見れば十六あり。人も十六人。君の御前に一つさし置き、残りをば面々にぞ配りける。「今一つ残るに、仏の餅とて四つ置きたるに取り具して、五つをば某が得分にせん。」と申す。
 皆人々、これを賜はつて{*34}、手々に持ちてぞ泣きける。「あはれなりける世の習ひかな。君の君にて渡らせ給はば、これ程に{*35}心ざしを思ひ参らせば、毛よき鎧、骨強き馬などを賜はつて{*36}こそ、御恩のやうにも思ひまゐらせ候べきに、これを賜はつて{*37}、しかるべき御恩の様に思ひなし、悦ぶこそ悲しけれ。」とて、鬼神をあざむき、妻子をもかへり見ず、命をも塵芥とも思はぬ武士ども、みな鎧の袖をぞ濡らしける。心の中こそ悲しけれ。判官も、御涙をながし給ふ。
 弁慶も、しきりに涙はこぼるれども、さらぬ体にもてなし、「この殿ばらの様に、人の参らせたる物を、持ちて賜べばとて{*38}、泣かれぬものを泣かんとするは、をこの者にてこそあれ。かひなきは、力に及ばざる事なり。身を助け候はんばかりに、我、もちたり。殿ばらも、手々に取りて持たぬこそ不覚なれ。ことならねども{*39}、これにもちて候。」とて、餅二十ばかりぞ取り出だしける。君も、「いしうしたり。」と思し召しけるに、御前にひざまづきて、左の脇の下より、黒かりけるものの大いなるを取り出だし、雪の上にぞ置きたりける。片岡、「何なるらん。」と思ひて、さしよりて見れば、くり形うちたる小筒に{*40}、酒を入れて持ちたりけり。懐より土器二つ取り出だし、一つをば君の御前にさし置きて、三度参らせて、筒うちふりて申す様、「飲み手は多し。酒は、筒にてちひさし。思ふ程あらばこそ。少しづゝも。」とて飲ませ、残る酒をば、もちたる土器にて、さしうけさしうけ三度飲みて、「雨もふれ、風も吹け、今夜は思ふことなし。」とて、その夜はそれにて夜をあかす。
 明くれば十二月二十三日なり。「さのみ山路はもの憂し。いざや、麓へ{*41}。」と宣ひて、麓をさして下り、北の岡、しげみが谷といふ所までは出で給ひたりけるが、里近かりければ、賤の男賤の女も、軒をならべたり。「落人のならひは、鎧を著ては叶ふまじ。我ら、世にだにもあらば、鎧も心に任せぬべし。命にすぎたる物あらじ。」とて、しげみが谷の古木の本に、鎧腹巻十六領ぬぎ捨てて、方々にぞ落ち給ふ。「明年の正月の末、二月の初めには奥州へ下らんずれば、その時必ず、一條今出川の辺にて行きあふべし。」と仰せければ、承りて、おのおの泣く泣くたち別れ、あるひは木幡、櫃河{*42}、醍醐、山科へ行く人も有り。鞍馬の奥へ行くもあり。洛中に忍ぶ人も有り。判官は、侍一人も具し給はず、雑色をも連れ給はず。敷妙{*43}と申す腹巻めし、太刀、脇に挟み、十二月二十三日の夜うち更けて、南都の勧修坊得業{*44}のもとへぞおはしける。

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校訂者注
 1:底本は、「凍冰(つらゝ)ゐて、」。底本頭注に、「冰がはりつめて。」とある。
 2:底本頭注に、「たよられて引きうけてくれる者。」とある。
 3:底本頭注に、「こそあるなれの約。であるよな。」とある。
 4:底本は、「参らせけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「よいわるいはとにかく。」とある。
 6:底本頭注に、「小さな国。仏教の語。」とある。
 7:底本頭注に、「北の麓近い所。」とある。
 8:底本頭注に、「夜明けにむらむらに積つた雪を踏みちらして。」とある。
 9:底本は、「本文(ほんもん)」。底本頭注に、「古書にあつて典拠とすべき文句。」とある。
 10:底本頭注に、「〇聞かぬよしにて 聞かぬふりして。」「〇錏をかたむけて 頭を斜に俯伏して、敵を避けるさまである。」「〇揉みにもうで 入り乱れ乱れ合ひ押し合つて。」とある。
 11:底本頭注に、「祈願の旨を聞き入れ給へ。」とある。
 12:底本頭注に、「〇四五段 一段は六間。」「〇節所 難所。要害の場所。」とある。
 13:底本頭注に、「〇瀬踏み 先に立つてまづ試みること。」「〇越しそんじ 越しそこなつて。」とある。
 14:底本は、「弓手(ゆんで)を脇(わき)にかい挟(はさ)み、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 15:底本頭注に、「造作も面倒もなかつた。」とある。
 16:底本頭注に、「必ず。」とある。
 17:底本は、「初(はじ)めて人(ひと)に追従(つゐしよう)せん事なし。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇初めて人に 新たな人。」「〇追従 人につき従ふこと。」とある。
 18:底本頭注に、「〇強くひかへよ 強くつかまへよ。」「〇ちやうど取りつけ きちんとはつたと取りつけよ。」とある。
 19:底本は、「したのもろきふちを、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 20:底本頭注に、「へんしふで偏執の意か。かたいぢにおしつける意であらう。」とある。
 21:底本頭注に、「甲冑著用の時にはく沓。熊の毛皮でつくる。」とある。
 22:底本頭注に、「鎧に通してある揚巻結びの紐をいふか。揚巻は鎧の背の逆板におもしと飾りとをかねてつけるもの。」とある。
 23:底本は、「けうの命」。底本頭注に従い改めた。
 24:底本は、「孔子のさはれ」。底本頭注に従い改めた。
 25:底本は、「こかい」。底本頭注に従い改めた。
 26:底本頭注に、「〇かしこうぞ云々 巧みに越えられた。」「〇爰や越ゆる云々 此処を越えようか、彼処を越えようか。」とある。
 27:底本頭注に、「いざや帰りて僉議せんといふことに賛成せよと云つて。」とある。
 28:底本頭注に、「〇いしう 殊勝に。」「〇念なく 無念にも。」とある。
 29:底本は、「相かまへたる参らせよ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 30:底本頭注に、「後の事を考へぬぞ。」とある。
 31:底本頭注に、「退却する時には誰とも同じやうに立たんと見えたが。」とある。
 32:底本は、「引合(ひきあはせ)に」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 33:底本は、「さんじんごわう」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 34:底本は、「給ひて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 35:底本は、「これに」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 36・37:底本は、「賜ひて」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 38:底本は、「持ちてたべとて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 39:底本頭注に、「たいした事ではないが。」とある。
 40:底本は、「小つゞみに」。底本頭注に従い改めた。
 41:底本は、「いざや麓。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 42:底本は、「とつがは、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 43:底本は、「しきたん」。底本頭注に従い改めた。
 44:底本は、「とくこ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い、以下すべて同様に改めた。