巻第六
一 忠信都へ忍び上る事
さても、佐藤四郎兵衛は、十二月二十三日に都に帰りて、昼は片ほとりに忍び、夜は洛中に入り、判官の御行方を尋ねけり。されども、人まちまちに申しければ、一定をしらず。あるひは吉野川に身を投げ給ひけるとも聞こゆる。あるひは北国にかゝりて、陸奥へ下り給ひけるとも申し、聞きも定めざりければ、都にて日を送る。とかうする程に、十二月二十九日になりけり。一日片時も心安く暮らすべき方もなくて、年の内も今日ばかりなり。明日にならば、新玉の年たち返る春の初めにて、元三の儀式なども、事よろしからず。いづくに一夜をだにも明かすべきともおぼえず。
その頃、忠信、他事なく思ふ女一人、四條室町に小柴入道と申す者の女に、かやと申す女なり。判官、都におはせし時より見初めて、浅からぬ心ざしにて有りければ、判官、都を出でたまひし時も、津国川尻まで慕ひて、「いかならん舟の中、波の上までも。」と慕ひしかども、判官の北の御方、あまた一つ船{*1}に乗り奉り給ひたるも、「あはれ、詮なきことかな。」とおもふに、「我さへ女を具足せんことも、いかゞぞ。」と思ひしかば、飽かぬ名残をふり棄てて、ひとり四国へ下りしが、心ざし未だ忘れざりければ、二十九日の夜うち更けて、女を尋ねて行きけり。女、出であひて、なゝめならず悦びて、我が方に隠しおき、やうやうにいたはり、父の入道にこの事知らせたりければ、忠信を一間なる所に呼びて申しけるは{*2}、「かりそめに出でさせ給ひしよりこの方は、いづくにとも御行方を承らず候ひつるに、物ならぬ入道を頼みてこれまでおはしましたる事こそ、嬉しく候へ。」とて、そこにて年をぞ送らせけり。「青陽の春も来て、嶽々の雪、むら消え、裾野も青葉まじりになりたらば、陸奥へ下らん。」とぞ思ひける。
かかりし程に、「天に口なし。人をもつていはせよ。」と。誰が披露するともなけれども、忠信が都にある由、聞こえければ、六波羅より、「探すべき。」由、披露す。忠信、これを聞きて、「我故に人に恥を見せじ。」とて、正月四日に、「京を出でん。」としけるが、「今日は、日も忌む事有り。」とて、立たざりけり。五日は、女に名残を惜しまれて立たず。六日の暁は、「一定、出でん{*3}。」とぞしける。すべて、男の頼むまじきは女なり。昨日までは連理の契り、比翼の語らひ浅からず。いかなる天魔の勧めにてや有りけん、夜の程に、女、心がはりをぞしたりける。忠信、京を出でて後、東国の住人梶原と申す者、在京したりけるに、初めて見えそめてけり。「今の男{*4}と申すは、世にある者なり。忠信は、落人なり。世にある者と思ひ代ゆべし{*5}。」と思ひ、「この事を梶原に知らせて、討つか搦むるかして、鎌倉殿の見参に入れたらば、勲功、疑ひ有るべからず。」など、「思ひ知らせん。」と思ひけり。
かかりければ、五條西洞院にありける梶原がもとへ、使をぞやりける。急ぎ梶原、女のもとへぞ行きける。忠信をば一間なる所にかくし置き、梶原三郎をぞもてなしける。その後、耳に口をあてて囁きけるは、「呼びたて申す事は、別の仔細なし。判官殿の郎等佐藤四郎兵衛と申す者有り。吉野の軍に討ち漏らされて、過ぎぬる二十九日の暮れ方より、これに在り。明日は、陸奥へ下らんと出で立つ。下りて後、知らせ奉らぬとて恨みたまふな。我と手を砕かずとも、足軽どもさし遣はし、討つか搦むるかして、鎌倉殿の見参に入れて、勲功をも望み給へ。」とぞ申しける。
梶原三郎、これを聞いて、あまりの事なれば、中々、とかく物もいはず。唯うとましきものの、あはれにわりなきを尋ぬるに、稲妻、陽炎、水の上に降る雪、それよりも猶あだなるは、女の心なりけるや。これをば夢にも知らずして、これを頼みて身をいたづらになす忠信こそ無慙なれ。梶原三郎、申しけるは、「承り候ひぬ。景久は、一門の大事を身にあてて、三年在京仕るべく候が、今年は二年になり候。在京の者の、両役{*6}は叶はぬ事にて候。さればとて、忠信追討せよと云ふ宣旨院宣もなし。欲に耽つて合戦に忠を致したりとても{*7}、御諚ならねば御恩も有るべからず。仕損じては、一門の瑕瑾なるべく候間、景久は叶ふまじ。猶も御心ざし切ならん人に仰せられ候へ。」と云ひすて、急ぎ宿所へ帰りつゝ、「色をも香をも知らぬ無道の女。」と思ひ切り、終にこれをばとはざりけり。
かやうに梶原にも疎まれ、腹をすゑかねて、「六波羅へ申さん。」と思ひつゝ、五日の夜に入りて、はした者一人召し具して、六波羅へ参り、江間小四郎を呼び出だして、この由伝へければ、北條殿{*8}にかくと申されたり。「時刻を移さず寄せて捕れ。」とて、二百騎の勢にて四條室町にぞ押し寄せたり。昨日一日、今宵よもすがら、名残の酒とて強ひたりければ、前後も知らず臥したりけり。頼む女は心がはりして失せぬ。常に髪梳りなどしけるはした者の有りけるが、忠信が臥したる所にはしり入りて、荒らかに起こして、「敵よせて候ぞ。」と告げたりける。
二 忠信最後の事
忠信、敵の声におどろき起きあがり、太刀取りなほし、さしくゞみて{*9}見ければ、四方に敵、みちみちたり。遁れて出づべき方なし。内にてひとり言にいひけるは、「初め有るものは、終はり有り。生有るもの、必ず滅す。その期は力及ばずや。屋島、津国、長門の壇の浦、吉野の奥の合戦まで、随分身をばなきものとこそ思ひつれども、その期ならねば今日まで延びぬ。しかりとはいへども、唯今が最期にて有りけるを、驚くこそ愚かなれ。さればとて、犬死すべきやうなし。」とて、ひしひしとぞ{*10}出で立ちける。白き小袖に黄なる大口、直垂の袖を結びて肩にうちこし、咋日みだしたる髪を未だ梳りもせず、とり上げ一所に結ひ、烏帽子引きたて押し揉うで{*11}、盆のくぼに引き入れて、烏帽子懸をもつて額にむずと結ひて、太刀を取りさし、うつぶきて見れば、いまだほの暗くて、物具の色は見えず。敵はむらむらに控へたり。
「中々、なかを通りてまぎれ行かばや。」とぞおもひける。「されども敵、甲胃をよろひ、矢をはげて、駒に鞭を進めたり。追ひかけて散々に射られんず。薄手おうて死にもやらず、生きながら六波羅へ取られなんず。判官のおはする所知らんずらんと問はば、『知らず。』とまうさば、『さらば、放逸に{*12}当たれ。』とて糾問せられ、一旦、『知らず。』と申すとも、次第に性根みだれなん後には、有りのまゝに白状したらば、吉野の奥に留まりて、君に命を参らせたる心ざしも、無になりなんことこそ悲しけれ。いかにもして、こゝをのがればや。」とぞ思ひける。
中門の縁にさし入つて見ければ、上に古りたる座敷有り。ひたと上りて見ければ、上薄く葺きける屋根なれば、「月はもり、星はたまれ。」と葺きければ、所々はまばらなり。すくやか者にて有る間、左右の腕を上げ、家を引きあげ、つと出でて、梢を鳥の飛ぶが如くに、散りにちつてぞ落ちて行く。江馬小四郎、これを見て、「すはや、敵は落つるぞ。たゞ射殺せ。」とて、精兵{*13}どもにさんざんに射さす。手にもたまらざりければ{*14}、矢頃遠くぞなりにける。未だ明けぼのの事なれば、町里小路にはづし置きたる雑車、駒の蹄しどろにして、思ふ様にも駆けざりければ、かくて忠信をぞ失ひける。
そのまゝ落ち行かば、中々しおふすべかりつるに、我が行方を案じ思うて、「片ほとりは、在京の者に下知して、さし塞がれなん。洛中は、北條殿父子の勢をもつて捜されん。とても遁れぬものゆゑに、末々の奴ばらの手にかゝりて射殺されんこそ口惜しけれ。一両年も判官のすみ給ひし六條堀川の御所に参りて、君を見まゐらすると思ひて、そこにてともかくもならばや。」と思ひて、六條堀川の方へぞ行きける。
去年まで住みなれたまひし跡を、帰り来て見れば、今年はいつしか引きかへて、門おしたつる者もなく、縁とひとしく塵積もり、蔀、遣戸、皆くづれたり。御簾をば常に風ぞ巻く。一間の障子の内に分け入りて見れば、蜘蛛の糸をみだしたり。これを見るにつけても、「日頃は、かくはなかりしものを。」とおもひければ、猛き心も前後不覚にこそなりにけれ。見たき所を見廻りて、さて出居にさし出でて、簾所々に切つて落とし、蔀上げて{*15}、太刀取り直し、衣の袖にておし拭ひ、「何にてもあれ。」とひとり言云ひて、北條の二百余騎を唯ひとりして待ちかけたり。「あはれ、敵や。よき敵かな。関東にては鎌倉殿の御舅、都にては六波羅殿。我が身に取りては過分の敵ぞかし。あたら、敵に犬死せんずるこそ悲しけれ。よからん鎧一両、やなぐひ一腰もがな。最後の軍して腹切りなん。」と思ひ居たりけるが、誠にこれは、鎧一両残されし事の有りしぞかし。
「去年の十一月十三日に都を出でて、四国の方へ下り給ひし時、都の名残を捨てかねて、その夜は鳥羽の湊に一夜宿し給ひたりし時に、常陸坊を召して、『義経が住みたる六條堀川には、いかなる者の住まんずらん。』と仰せければ、常陸坊、申しけるは、『たれか住み候はん。自ら天魔のすみかとこそ成り候はん。』とまうしければ、『義経が住みなれし所に、天魔のすみかとならん事、憂かるべし。主のために、重き甲冑を置きつれば、守りとなりて悪魔をよせぬことの有るなるぞ。』とて、小桜縅の鎧、四方白の兜、山鳥の羽の矢十六さして、丸木の弓一張そへて置かれたりしぞかし。未だ有りもやすらん。」とおもひ、天井にひたひたと上りて、さしのぞきて見れば、巳の時ばかりの事なれば、東の山より日の光さしたる、隙間より入つて輝きたるに、兜の星、金物、巍峨{*16}として見えたり。取り下して、草摺ながに著くだし、矢かき負ひ、弓おしはり、すびき打ちして、「北條殿の二百余騎、遅し。」と待つ所に、間もすかさずおし寄せたり。
先陣は、大庭にこみ入りて、後陣は、門外にひかへたり。江馬小四郎義時、まりのかゝり{*17}を小楯に取つて申されけるは、「きたなし、四郎兵衛。とても遁るまじきぞ。あらはに出で給へ。大将軍は北條殿、かく申すは、江間小四郎義時と言ふ者なり。はやはや出で給へ。」といへば、忠信、これを聞きて、縁の上に立ちたるが、蔀のもと、がばとつき落とし、手矢取つてさしはげ申しけるは、「江馬小四郎に申すべき事有り。あはれ、御辺達は、法を知り給はぬ者かな。保元、平治の合戦と申すは、上と上との御事なれば、内裏にも御所{*18}にも恐れをなし、思ふ様にこそ振舞ひしか。これは、それには似るべくもなし。某と御辺とは、私軍にてこそあれ。鎌倉殿も左馬頭殿{*19}の御君達、我等が殿も御兄弟ぞかし。例へば人の讒言によりて、御中不和になりたまふとも、これぞ讒言無実なれば、思し召し直したらん時は、あはれ、一つのわづらひかな。」といひもはてず、縁より下に飛んでおり、あまおちに立ちて、さし詰めさし詰め散々に射る。江間小四郎、真先かけたる郎等三騎、同じ枕に射伏せたり。二騎に手をおふせければ、池の東のはたを門外へ向けて、嵐に木の葉の散るごとく、むらめかしてぞ退きにける。
後陣は、これを見て、「きたなしや、江間殿。かたきは五騎十騎もあらばこそ。敵は、一人なり。返し合はせ給へや。」といはれて、馬の鼻をとつてかへし、忠信を中にとりこめて、さんざんに攻む。四郎兵衛も、十六{*20}さしたる矢なれば、ほどなく射つくして、箙かなぐりすてて、太刀を抜いて大勢の中に乱れ入りて、手にもたまらずさんざんに切り廻る。馬人のきらひもなく、大勢そこに斬られけり。さて、鎧づきして、身を的にして射させけり。精兵の射る矢は、裏をかく。小兵の射る矢は、筈を返して立たざりけり{*21}。されども隙間に立つも多ければ、夢を見るやうにぞありける。
とてもかくても遁れぬもの故に、「弱りて後、押さへて首を取られんも詮なし。今は、腹切らばや。」と思ひて、太刀をうち振りて、縁につゝとうちのぼり、西に向ひ合掌して申しけるは、「小四郎殿へ申し候。伊豆、駿河の若党の、殊の外の狼藉に見え候を、万事を鎮めて、剛の者の腹切るやうを御覧ぜよや。東国の方へも、主に心ざしも有り、珍事中夭{*22}にも逢ひ、また、敵に首を取らせじとて自害ぜんずる者のために、これこそ末代の手本よ。鎌倉殿にも、自害のやうをも、最期の言葉をも、見参に入れて給べ。」と申しければ、「さらば、静かに腹を切らせて、首を取れ。」とて、手綱をうち捨て、これを見る。
心安げに思ひて、念仏高声に三十遍ばかり申して、「願以此功徳。」と廻向して、大の刀を抜きて、引き合はせをふつと切つて、膝をつい立て、居長高になりて、刀を取りなほし、左の脇の下にがばとさし貫きて、右の方の脇の下へするりと引き廻し、心さきに貫きて、臍の下までかき落とし、刀を押し拭ひてうちみて、「あはれ、刀や。舞房に{*23}誂へて、よくよく作ると言ひたりししるしあり。腹を切るに、少しも物のさはる様にも無きものかな。この刀を捨てたらば、屍にそへて東国まで取られんず。若き者どもに{*24}、よき刀、あしき刀といはれんことも、よしなし。冥途までも持つべき。」とて、おし拭ひて鞘にさして、膝の下に押しかいて{*25}、疵の口を掴みて引きあげ、拳を握りて腹の中に入れて、腹わたをつかみ出だし、縁の上にさんざんにうち散らし、「冥途まで持つ刀をば、かくするぞ。」とて、柄をむなもとへ、鞘は、をり骨{*26}の下へつき入れて、手をむずと組み、死にげもなくて、息強げに念仏申して居たり。
さても命、死にかねて、世間の無常を観じて申しけるは、「あはれなりける娑婆世界の習ひかな。老少不定のさかひ、げに定めなかりけり。いかなる者の、矢一つに死をして、あとまでも妻子に憂目見すらん。忠信、いかなる身を持つて、身を殺すに死にかねたる業のほどこそ悲しけれ。これも唯、余りに判官を恋しと思ひ奉る故に、これまで命は長きかや。これぞ判官の賜びたりし御佩刀、これを御かたみに見て、冥途も心安く行かん。」とて、ぬいて置きたりける太刀を取つて、先を口にふくみて、膝をおさへて立ちあがり、手をはなつてうつぶしに、がばと倒れけり。鍔は口にとゞまり、きつさきは鬢の髪をわけて、後ろにするりとぞ通りける。惜しかるべき命かな。文治二年正月六日の辰の刻に、終に人手にかゝらずして、生年二十八にて失せにけり。
校訂者注
1:底本は、「一船(いつせん)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
2:底本は、「申しけるに、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
3:底本は、「一定(いちぢやう)出でんと」。底本頭注に、「きつと出ようと。」とある。
4:底本頭注に、「〇今の男 梶原。」「〇世にある者 時めいて栄えてゐる者。」とある。
5:底本は、「世にある者なり。思ひ替へじとおもひ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補い、改めた。
6:底本は、「りやうやく」。底本頭注に従い改めた。
7:底本は、「致(いた)したるとても、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
8:底本は、「江間(えま)小四郎を呼(よ)び出して、其の由伝(つた)へければ、北條殿(ほうでうどの)に」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇江間小四郎 北條義時。義時は江馬小次郎と称した。」「〇北條殿 北條時政。」とある。
9:底本頭注に、「身を屈めて。」とある。
10:底本は、「ひらひらとぞ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
11:底本は、「おしもうで」。底本頭注に従い改めた。
12:底本は、「はういつに」。底本頭注に、「放逸に。乱暴に。」とある。底本頭注に従い改めた。
13:底本は、「精兵(せいびやう)」。底本頭注に、「弓勢の強い兵。」とある。
14:底本頭注に、「敏捷で、且勇敢であつたから。」とある。
15:底本は、「蔀(しとみ)あけて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
16:底本は、「ぎが」。底本頭注に、「巍峨。け高くいかめしきさま。」とあるのに従い改めた。
17:底本頭注に、「蹴鞠をする所に植ゑた木。」とある。
18:底本頭注に、「〇上と上との御事 天皇と上皇とをいふ。」「〇御所 上皇の仙洞御所。」とある。
19:底本頭注に、「〇鎌倉殿 頼朝。」「〇左馬頭殿 義経。」とある。
20:底本は、「十四」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
21:底本頭注に、「〇鎧づき 隙間のないやうにするため、鎧をゆり上げること。」「〇筈を返し 矢筈をはねかへして。」とある。
22:底本は、「ちんじちうよう」。底本頭注に、「珍事中夭。非常の災難をいふ。」とある。
23:底本は、「あ刀(かたな)や、まうふさに」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
24:底本は、「若(わか)き者ども、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
25:底本は、「おしかくいて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除し、改めた。
26:底本頭注に、「腰の骨。」とある。
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