三 忠信が首鎌倉へ下る事
北條殿の郎等、伊豆国の住人みまの弥太郎と申すもの、四郎兵衛が死骸のあたりに立ちよりて、首をかき落とし、六波羅に持参し、「大路をわたして、東国へ下るべき。」とぞ聞こえける。されども、「朝敵の者の、獄門にかけらるべきこそ大路を渡せ。これは、頼朝が敵、義経が郎等をや。別して渡さるべき首ならず。」と、公卿より仰せられければ、北條、「理。」とて渡さず。小四郎、五十騎の勢を具して、首を持たせて関東へ下る。
正月二十日に下著し{*1}、二十一日に鎌倉殿の見参に入れて、「謀叛の者の首取りて候。」と申しければ、「いづくの国、たれがしと申す者ぞ。」と御尋ねある。「判官殿の郎等佐藤四郎兵衛と申す者にて候。」と申しければ、「討手は誰。」と仰せければ、「北條。」とぞ申しける。「初めたる事にてはなけれども、いしうし給ひつる{*2}。」との御気色なり。自害の体、最期の時の言葉、細々と申されければ、鎌倉殿、「あはれ、剛の者かな。人ごとにこの心を持たばや。九郎につきたる若党、一人としておろかなる者{*3}なけれ。秀衡も、見る所有りてこそ、多くの侍の中に、これら兄弟をば附けつらめ。いかなれば、東国にこれ程の者なからん。余の者百人を召し使はんよりも、九郎が心ざしをふつと忘れて、頼朝に仕へば、大国小国は知らず、八箇国{*4}においては、いづれの国にても一国は。」とぞ仰せける。
千葉、葛西、これを承り、「あはれ、由なき者の有様かな。生きてだにも候ならば。」とぞ申しける。畠山、申されけるは、「心及ばず、よくこそ死し候へばこそ、君の御気色よく候へ。生きて捕り、下り参らせ候はんずるに、『判官殿の御行方、しらぬ事はあらじ。』とて、糾問強くせられまゐらせなば、生きたるかひも候まじ。終に死すべき者の、よの侍どもに顔を守られんも、心憂かるべし。忠信程の剛の者、日本を賜ぶとも、判官殿の御心ざしを忘れ参らせて、君に随ひ参らせ候まじきものを。」と、残る所なくぞ{*5}申されける。大井、宇都宮は、袖をひき、膝をさして、「よくよく申し給へるものかな。始めたることにてはなけれども{*6}。」とぞ囁きける。
「後代のためしに、首をば懸けよ。」とて、堀弥太郎承りて、座敷より立ちて、由井の浜、八幡の鳥居の東にぞ懸けられける。三日過ぎて御尋ね有りければ、「未だ浜に候。」と申しければ、「不便なり。国遠ければ、親しき者知らで、取らざるらめ。剛の者の首を久しく晒しては、所の悪魔となる事も有り。首を召し返せ。」とて、ただも捨てられず、左馬頭殿{*7}の御供養に作られたる勝長寿院の後ろに、埋づめさせ給ひける。猶も不便にや思し召されけん、別当の方へ仰せ有りて、一百三十六部の経を書きて供養せられけり。「昔も今も、これ程の弓取あらじ。」とぞ申しける。
四 判官南都へ忍び御出である事
さても判官は、南都勧修坊{*8}のもとへおはしましたりける程に、勧修坊、これを見奉りて大きに悦び、幼少の時より崇め奉りける普賢、虚空蔵の渡らせ給ひける仏殿に入れ奉りて、様々にいたはり奉る。折々ごとに申されけるは、「御身は、三年に平家をせめ給ひ、多くの命を亡ぼし給ひしかば、その罪、いかでかのがれ給ふべき。一心に御菩提心をおこさせ給ひて、高野、粉川に閉ぢこもり、仏の御名を唱へさせ給ひて、今生いく程ならぬ来世を助からんと思し召されずや。」と勧め奉りたまひければ、判官、申させ給ひけるは、「度々仰せ蒙り候へども、いま一両年もつれなき髻つけて、つらつら世の有様も見ん。」とこそ宣ひけれ。されども、「もしや、出家の心出で来給ふ。」と、たつとき法文などを常は説き聞かせ奉り給ひけれども、出家の御心はなかりけり。
夜は、御つれづれなるまゝに、勧修坊の門外にたゝずみ、笛を吹き鳴らし、なぐさませ給ひける程に、その頃、奈良法師の中に但馬阿闍梨と言ふもの有り。同宿に和泉、美作、弁君、これら六人、くみして申しけるは、「我等、南都にて悪行無道なる名を取りたれども、別にし出だしたる事もなし。いざや、夜々たゝずみて、人の持ちたる太刀を奪ひて、我等が重宝にせん。」とぞ言ひける。「尤もしかるべし。」とて、夜々、人の太刀を取りありく。樊噲が謀りごとをなすも、かくやらん。
但馬阿闍梨、まうしけるは、「日頃はありともおぼえぬ冠者、きはめて色白く、せいの小さきが、よき腹巻著て、黄金作りの太刀の心も及ばぬを佩き、勧修坊の門外によなよなたゝずむぞ。おのれが太刀やらん。主にも過分したる太刀なり{*9}。いざ寄りて取らん。」とぞ申しける。美作、申しけるは、「あはれ、詮なき事を宣ふものかな。この程、九郎判官殿の、吉野の執行{*10}に攻められて、勧修坊を頼みておはすると聞く。たゞ置かせたまへ。」と申せば、「それは、臆病のいたる所ぞ。など取らざらん。」といへば、「それはさる事にて、便宜悪しくては、いかゞ有るべからん。」と申しければ、「さればこそ、毛を吹きて疵を求むるにてあれ。人のよこがみを破るになれば{*11}、さこそあれ。」とて、勧修坊のほとりを狙ふ。「各六人、築土の陰のほの暗き所に立ちて、太刀の鞘に腹巻の草摺をなげかけて、こゝなる男の、『人を打つぞや。』といはば、各、声に付きて走り出で、『いかなるしれ者ぞ。仏法興隆の所に、たびたび慮外して罪作るこそ心えね。命な殺しそ。侍ならば、もとゞりを切つて寺中を追へ{*12}。凡下ならば、耳鼻を削りておひ出だせ。』とて、取らぬは不覚人ども。」とて、ひしひしと出で立ち進みけり{*13}。
判官は、いつもの事なれば、心をすまして笛を吹き給ひておはしけり。興がる風情{*14}にて通らんとする者有り。判官の太刀の尻鞘に、腹巻の草摺をはらりとあてて、「こゝなる男の、人を打つぞや。」といひければ、残りの法師ども、「さないはせそ。」とて、三方より追ひかゝりたり。「かかる難こそなけれ。」と思し召し、太刀ぬいて、築土をうしろにあてて待ちかけたまふ所に、長刀さし出だせば、ふつと切り、長刀小反刀の間に{*15}四つ、切り落とし給へり。かやうにさんざんに切り給へば、五人をば同じ枕に切りふせ給ふ。
但馬は、手を負うて逃げて行くを、切所に追つかけ、太刀のむね{*16}にてたゝき伏せ、生けながらつかんで取り給ふ。「おのれは、南都にて何と言ふものぞ。」と問ひたまへば、「但馬阿闍梨。」と申しければ、「命は惜しきか。」と宣へば、「生を享けたる者の、命惜しからぬ者や候。」と申しければ、「さては、聞くには似ず、汝は不覚人{*17}なりけるや。頭を切りて捨てばやと思へども、おのれは法師なり、某は俗なり。俗の身として僧を斬らんこと、仏を害し奉るに似たり。おのれをば助くるなり。この後、かやうの狼藉すべからず。明日、南都にて披露すべき様は、『それがしこそ、源九郎と組んだりつれ。』といはば、『さて剛の者。』といはれんずるぞ。『しるしはいかに。』と人とはば、『なし。』と答へては、人、用ゐるべからず。これをしるしにせよ。」とて、大の法師を取つてあふのけ、胸をふまへ、刀をぬきて、耳鼻を削りて放されけり。「中々死にたらばよかるべし。」と、歎きけれども甲斐ぞなき。その夜、南都をばかき消す様にぞ失せにける。
判官は、この中夭に{*18}あはせ給ひて、勧修坊に帰りて、持仏堂に得業{*19}をよび奉りて、暇申して、「これにて年を送りたく思ひ候へども、存ずる旨候間、都の方へ罷り出で候。この程の御情、尽くし難くおぼえ候。もし浮世に長らへ候はば、申すに及ばず。また、死して候と聞こし召し候はば、後世をたのみ奉る。師弟は三世の契りと申し候へば、来世にて必ず参会し奉り候べし。」とて、「出でん。」とし給へば、得業は、「いかなる事ぞや。暫くこれにおはしまし候べきかと存じ候ひつるに、思ひの外、御出で候はんずるこそ心得難く候へ。いかさま、人の中言{*20}に付きて候とおぼえ候。たとひいかなる事を人申し候とも、身として用ゐるべからず。しばしはこれにおはしまして、明年の春の頃、いづ方へもわたらせたまへ。ゆめゆめ叶ひ候まじ。」と、御名残をしきまゝに、とめ奉り給へば、判官、申されけるは、「今宵こそ名残をしく思し召され候とも、明日、門外に候事、御覧じ候ひなば、義経が愛想もつきて思し召されんずる。」と仰せられければ、勧修坊、これを聞きて、「いか様にも、今宵中夭に逢はせたまふとおぼえて候。この程、わか大衆ども、朝恩のあまりに、夜な夜な人の太刀を奪ひ取るよし、承り候ひつるが、御佩刀は、世にきこえたりければ、取り奉らんとて、しやつばらが斬られまゐらせて候らん。それに付きては、何事の御大事か候べき。
「聊爾{*21}に聞こえ候はば、得業がためにふしふしなるやうも候らん{*22}。定めて関東へも訴へ、都に北條おはしまし候へば、時政、私にも叶ふまじとて、関東へ仔細を申されんずらん。鎌倉殿も、左右なく宣旨院宣なくては、南都へ大勢をば、よも向けられ候はじ。その程の儀にて候はば、御身、平家追討の後は、都におはしまして、一天の君の御おぼえもめでたく、院{*23}の御感にも入り給ひしかば、宣旨院宣も申させ給はんに、誰か劣るべき。御身は都に在京して、四国九国の軍兵を召さんに、などか参らで候べき。畿内中国の軍兵も、一統になりて参るべし。鎮西の菊池、原田、松浦、うすき、べつきの者ども召されんずるに、参らずば、片岡、武蔵などのあら者どもをさし遣はし、少少追討し給へ。
「他所は、みだるゝことも候ひなん。半国一つになり、荒乳の山、伊勢の鈴鹿山を切りふさぎ、逢坂の関を一つにして、兵衛佐殿{*24}の代官、関より西へ入れん事、有るべからず。得業もかく候へば、興福寺、東大寺、山、三井寺、吉野、十津川、鞍馬、清水{*25}、一つにして参らせん事は、易き事にてこそ候へ。それも叶ふまじく候はば、得業が一度の恩をも忘れじと思ふ者、二、三百人も候。彼等を召して城郭を構へ、櫓をかき、御内に候一人当千の兵どもをめし具し、やぐらへ上りて弓取りて候はば、心剛なる者どもに軍せさせ、よそにてものを見候べし。自然{*26}、味方ほろび候はば、幼少の時より頼み奉る本尊の御前にて、得業、持経せば、御身は念仏申させたまひて、腹を切らせたまへ。得業も剣を身に立てて、後生までも連れ参らせん。今生は御祈りの師、来世は善智識にてこそ候はんずれ。」と、誠に頼もしげにぞ申されける。
これについても、暫くあらまほしく思はれけれども、「世の人の心知りがたく、我が朝には義経より外はと思ひつるに、この得業は、世に越えたる剛の人にておはしける。」と思し召されければ、やがてその夜の内に、南都をば出でさせたまひけり。いかでかひとりは出だし参らせんなれば、我がために心やすき御弟子六人つけ奉り、京へぞ送り奉りける。「六條堀川なる所にしばらく待ち給へ。」とて、行き方知らず失せ給ひぬ。六人の人々、むなしくぞ帰りける。
それより後は、勧修坊も、判官の御行方をば知り奉らず。されども、奈良には人多く死しぬ。但馬や披露したりけん、「判官殿、勧修坊のもとにて謀叛を起こして、かたらふ所の大衆したがはぬをば、得業、判官にはなちあはせ奉る。」とぞ風聞しける。
校訂者注
1:底本は、「正月二十日に京(きやう)を出(い)でて、同じく二十一日に下著(げぢやく)し、鎌倉殿の」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除し、改めた。
2:底本頭注に、「感心にも立派に討ちなされた。」とある。
3:底本頭注に、「劣つた者。つまらぬ者。」とある。
4:底本頭注に、「関東八箇国。」とある。
5:底本は、「残(のこ)る所なく申されける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇残る所なく 心に思ふ事を残る所なく悉く。」とある。
6:底本頭注に、「畠山の直言は今に始まつた事ではないが。」とある。
7:底本は、「左馬頭殿(さまのかみどの)」。底本頭注に、「義朝。」とある。
8:底本は、「くわんじゆ坊」。底本頭注に従い、以下すべて同様に改めた。
9:底本頭注に、「〇おのれが太刀やらん 彼の自身の太刀であらう。」「〇主にも過分云々 持主の身分にも過ぎた太刀である。」とある。
10:底本は、「吉野の修行(しゆぎやう)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
11:底本頭注に、「〇毛を吹きて云々 強ひて人の欠点を指摘する意であるが、こゝは前に便宜悪しくてはと云ふに対して注意して敵の隙を求める意であらう。」「〇よこがみ云々 無理を押し通すことだから。」とある。
12:底本は、「寺中(ぢちう)へ追(お)へ、」。底本頭注に従い改めた。底本頭注に、「〇癡者 馬鹿者。」「〇慮外して 無礼なことをして。」「〇寺中を追へ 寺から追ひ出せ。」とある。
13:底本は、「出であひ進(すゝ)みよりける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
14:底本は、「けうがる風情(ふせい)」。底本頭注に、「面白いと感じてゐる様子で。」とある。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
15:底本は、「長刀(なぎなた)こぞりはの間に、」。底本頭注に従い改めた。底本頭注に、「〇こぞりは 小薙刀をいふだらう。長刀と小反刃との間位の長さに切り落とした。」とある。
16:底本頭注に、「〇切所 要害の場所。」「〇太刀のむね 太刀の背。」とある。
17:底本は、「不覚人(ふかくじん)」。底本頭注に、「卑怯未練な者。」とある。
18:底本は、「失せにけり。判官はこのちうように」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
19:底本は、「とくこ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い、以下すべて同様に改めた。
20:底本は、「中言(ちうげん)」。底本頭注に、「中に居て告げ口すること。」とある。
21:底本は、「何事の大事(だいじ)か候べき。れうじに聞え候はば、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)及び底本頭注に従い補い、改めた。
22:底本頭注に、「何やかやの事件ともなるかも知れぬ。」とある。
23:底本頭注に、「〇一天の君 後鳥羽天皇。」「〇院 後白河上皇。」とある。
24:底本は、「兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)」。底本頭注に、「頼朝。」とある。
25:底本頭注に、「〇山 比叡山延暦寺。」「〇三井寺 園城寺。」「〇鞍馬 松尾山鞍馬寺。」「〇清水 洛東清水寺。」とある。
26:底本頭注に、「若し万一に。」とある。
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