五 関東より勧修坊{*1}を召さるゝ事
南都に判官殿おはします由、六波羅に聞こえければ、北條、大きに驚き、急ぎ鎌倉へ申されけり。
頼朝、梶原を召して仰せられけるは、「南都の勧修坊といふ者、九郎にくみして世を乱すなるが、奈良法師も大勢うたれて有るなり。和泉、河内の者ども、九郎に思ひ付かぬさきに、これ計らへ。」と仰せられければ、梶原、申しけるは、「それこそゆゝしき御大事にて候へ。僧徒の身として、左様のこと思し召し立ち候はんこそ不思議に候へ。」と申す所に、又、北條より飛脚到来して、「判官殿、南都にはおはせず。得業{*2}がはからひにて隠し奉る。」由、申されければ、梶原、申しけるは、「さらば、宣旨院宣をも蒙り給ひて、勧修坊をこれへ下して、判官の御行方、御尋ね候へ。陳状にしたがひて、死罪、流罪にも。」と申しければ、いそぎ堀藤次親家に仰せ付けられ、五十余騎にて馳せ上り、六波羅に著きて、この由を申しければ、北條殿、親家を召し具して、院の御所{*3}に参じて、仔細を申されければ、院宣には、「まろが計らひに有るべからず。勧修坊といふは、当代{*4}の御祈りの師、仏法興隆の{*5}有験、広大慈悲の知識なり。内裏へ巨細申さでは、叶ふまじ。」とて、内裏へ奏聞せられければ、「仏法興隆の有験たる人にても、左様にひが事などを企てんにおいては、朕も叶はせ給ふべからず。頼朝が憤る所、理ならずといふ事なし。義経も、本朝の敵たる上は、勧修坊を渡すべし。」と、宣旨下りければ、時政、悦びをなして、三百余騎にて南都にはせ下りて、勧修坊に宣旨の趣を披露せられたり。
得業、これを聞きて、「世は末代といひながら、王法の尽きぬるこそ悲しけれ。上古は、宣旨と申しければ、枯れたる草木も花咲き実を結び、空とぶ翼も落ちけるとこそ承り伝へしに。されば、今は世もかやうになれば、末の代もいかゞあらんずらん。」とて、涙にむせび給ひけり。「たとひ宣旨院宣なりとも、南都にてこそ屍を捨つべけれども{*6}、それも、僧徒の身として穏便ならねば。東国の兵衛佐は、諸法も知らぬ人にてあるなるに。『あはれ、ついでもがな。関東へ下り、兵衛佐を教化せばや。』と思ひつるに、『下れ。』と宣ふこそ嬉しけれ。」とて、やがて出で立ち給ひけり。
公卿、殿上人の君達、学問の心ざしおはしましければ、師弟の別れを悲しみ、「東国まで御供申すべき。」由を申し給へども、得業、仰せられけるは、「ゆめゆめ有るべからず。身、罪科のために召し下され候間、とがとて、その難をば、いかでか遁れさせ給ふべき。」といさめ給へば、泣く泣くあとに止まり給ふ。「ともかくもなりぬと{*7}聞こし召されば、跡を弔はせたまへ。もしながらへて、いかなる野の末、山の奥にもありと聞きたまはば、跡をとぶらひ渡らせ給へ。」と、泣く泣く契りて出で給ふ。この別れを物に譬ふれば、釈尊の御入滅の時、十六羅漢、五百人の御弟子、五十二類に至るまで悲しみ奉りしも、いかでかこれにはまさるべき。
かくて得業、北條に具せられて、平の京{*8}に入り給ふ。六條の持仏堂に入れ奉りて、やうやうにぞいたはり奉る。江間小四郎{*9}、申しけるは、「何事をも思し召し候はば、承りて、南都へも申すべく候。」と申されければ、「何事をか申すべき。但し、この辺に、年ごろ知りたる方の候。これへ参り候を聞きては、尋ぬべき人{*10}にて候が、来られ候はぬは、いかやうにも世に憚りをなし候ひてとおぼえ候。苦しかるまじく候はば、この人に見参し、下らばや。」と仰せられければ、義時、承り、「御名をば{*11}何と申すぞ。」と言ひければ、「元は黒谷に住み候ひしが、この程は東山に。法然房。」と仰せられければ、「さては、近き所におはしまし候上人の御事候。」とて、やがて御使を奉る。上人、大きに悦び給ひて、急ぎ来り給ふ。
二人の知識、御目を見合はせ、互に涙に咽び給ひけり。勧修坊、仰せられけるは、「見参に入つて候事は、悦び入つて候へども、面目なき事の候ぞ。僧徒の身として、謀叛の人に与したりとて、東国まで取り下され候。その難を遁れて帰らんことも、不定なり。されば、古より、『先に立ち参らせば、弔はれ参らせん。先にたたせ給ひ候はば、御菩提を弔ひ参らせん。」と、契り申して候ひしに、先立ち参らせて、とぶらはれ参らせんこそ{*12}、悦び入りて候へ。これを、持仏堂の御前に置かせ給ひ、御目に懸り候はん度ごとに思し召し出だし、後世を弔ひてたまはり候へ。」とて、九條の袈裟をはづし奉り給へば、東山の上人、泣く泣く請け取り給ひけり。東山の上人、紺地の錦の経袋より、一巻の法華経をとり出だし、勧修坊に参らせ給ふ。互に御かたみを取りかはして、上人、帰り給ひければ、得業は六條に止まりて、いとゞ涙に咽び給ひけり。
この勧修坊と申すは、本朝大会の大伽藍、東大寺の院主。当帝{*13}の御師となり、広大慈悲の知識なり。院参したまふ時、腰輿牛車に召されて、あざやかなる中童子、大童子、さるべき大衆、あまた御供して参られし時は、左右の大臣も、各、渇仰し給ひしぞかし。今は、いつしか引きかへて、日ごろ著給ひし素絹の御衣をば召されず。麻の衣の賤しきに、剃らで久しき御髪、護摩の煙にふすぶる御けしき、なかなか尊くぞ見奉る。六波羅を出だし奉りて、見なれぬ武士を御覧じけるだに悲しきに、浅ましげなる伝馬に乗せ奉る。所々の落馬は、目もあてられずおぼえたり。粟田口うち過ぎて、松坂こえて、これや、逢坂の蝉丸の住みたまひし四宮河原をうち過ぎて、逢坂の関を越えければ、小野小町が住みなれし関寺をふし拝み、園城寺を弓手になし、大津、うち出の浜過ぎて、勢多の唐橋ふみならし、野路の篠原も近くなり、忘れんとすれど忘られず、常に都の方をかへりみて行けば、やうやう都は遠くなりにけり。音には聞きけど目にはみぬ小野のすりはり、霞に曇るかゞみ山、伊吹の嶽も近くなる。
その日は堀藤次、鏡の宿にとゞまり、次の日、いたはしくや思ひけん、長者に輿をかりて乗せ奉り、「都を御出での時、かくこそ召させ参らすべく候ひしかども、鎌倉の聞こえ、その憚りにて、御馬を参らせ候はんずるにて候。」と申しければ、得業、「道の程の御情こそ悦び入つて候へ。」と仰せられけるこそ哀れなれ。夜を日につぎて下りけるほどに、十四日に鎌倉に著きたまふ。堀藤次の宿所に入れ奉りて{*14}、四、五日は、鎌倉殿にも申し入れず。
ある時、得業に{*15}申しけるは、「御いたはしく候とて、鎌倉殿にも申し入れず候ひつれども、いつまで申さでは候べきなれば、唯今出仕つかまつり候。今日、御見参有るべきとこそおぼえ候ひぬ。」と申しければ、「おもふも中々心ぐるし。疾くして見参に入り、御問状をも承り候て、愚存の旨を{*16}申したくこそ候へ。」と仰せられければ、藤次、頼朝の御前に参り、この由、申しあぐる。梶原を召して、「今日の中に、得業に尋ね聞くべき事あり。侍ども召せ。」と仰せられければ、承りて召しけるに、侍には誰々ぞ。和田小太郎義盛、佐原十郎、千葉介、笠井兵衛、豊田太郎、宇都宮弥三郎、うなかみの次郎、小山四郎、なかぬまの五郎、小野寺のぜんじ太郎、川越小太郎、同じく小次郎、畠山次郎、稲毛三郎、梶原平三父子ぞ召されける。
鎌倉殿、仰せられけるは、「勧修坊に尋ね問はする座敷には、いづくの程かよかるべき。」。梶原、申しけるは、「御中門の下口{*17}辺こそよく候はん。」と申しければ、畠山、御前にかしこまり、申されけるは、「勧修坊の御座敷のこと承り候に、梶原は、中門の下口と申し上げ候。これは、判官殿にくみし奉りたりといふ、その故とおぼえ候。さすがに勧修坊と申すは、御俗姓{*18}と申し、天子の御師匠と申し、東大寺の院主にておはしまし候。御気色わたらせ給ふによつてこそ、これまでも申し下し参らせ{*19}おはしまして候へ。さこそ遠国にて候とも、座敷、しどろにては、世のきこえも悪しく存じ候。下口などにての御尋ねには、一言も御返事は申され候はじ。たゞ、当座の御対面{*20}や候べからん。」と申されたりければ、「頼朝も、かくこそおもひつれ。」とて、御簾を日頃より高くまかせて、御座敷には紫べりの畳、水干に立烏帽子にて御見参あり。堀藤次、勧修坊を入れ奉る。
鎌倉殿、思し召しけるは、「何ともあれ、僧徒なれば、糾問は叶ふまじ。言葉をもつて、責めふせて問はんずるものを。」と思し召しけり。得業、御座敷に居なほりたまひけれども{*21}、とかく仰せ出だされたることもなく、笑ひて、大の御眼にて、はたと睨ませ給ひてぞおはしける。得業、これを見給ひて、「あはれ、人の心の中も、さこそ有るらめ{*22}。」とおもはれければ、手を握りて膝の上におきて、鎌倉殿をつくづくと守りて、「御問状も陳状も、さこそあらんずらん。」とおぼえて、人々、固唾をのみ居たりけり。頼朝、堀藤次を召して、「これが勧修坊か。」と仰せられければ、親家、かしこまつてぞ候ひける。
しばらくありて、鎌倉殿、仰せられけるは、「そもそも僧徒の身と申すは、釈尊の教法学びて、死生の肝心{*23}に入つしよりこの方、戒行{*24}を正しく、三衣を墨に染めて、仏法を興隆{*25}し、経論諸教のまへに眼をさらし、無縁の人を弔ひ、結縁の者を導くこそ、僧徒の法とは申し候へ。何ぞ謀叛の者に{*26}くみして、世をくつがへさんとの計略、世にかくれなし。九郎、天下の大事になり、国土の乱をたくむ者を入れ立てて、あまつさへ、奈良法師を、『我に与せよ。』とのたまふに、用ゐざる者をば、九郎にはなち合はせて斬らせたまふ條、甚だ穏しからず{*27}。それを不思議と思ふ所に、猶ほもつて、『四国西国の軍兵を一つになし、中国畿内の者どもを召して、召されんにまゐらざる者をば、片岡、武蔵など申す荒者どもをさし遣はし、追討して御覧ぜよ。他所は知らず、東大寺興福寺は、得業がはからひなれば、叶へざらんときは討死せよ。』なんどと勧めたまひたること、もつての外におぼえて候に、人をつけて都まで送られ候ひけるは、九郎がありかにおいては知りたるらん。虚言をかまへず、正直に申され候へ。その旨なくば、すくやかならん小舎人めらに仰せ付けて、糾問をもつて尋ねん時、頼朝こそ、全くひが事の者にはあるまじけれ。」と、したゝかに問はれければ、勧修坊は、とかくの返事にも及ばず。
はらはらと涙をながし、手をにぎりて膝の上におき、「万事をしづめて、人々、聞き給へ。そもそも、聞きもならはぬ言葉かな。和僧は、いかに。得業と名字を呼びたりとも、不覚人{*28}にては、よもあらじ。和僧と宣ひたればとて、高名も有るまじ。都にて聞きしには、『国の将軍と成りて、かかる果報にも生まれけり。情もおはする。』と聞きしに、果報は、生まれ付きの物なり。殿のためにても、いやいやの弟{*29}九郎判官には、遙かに劣り給ひたる人にて有りけるや。申すに付けて、詮なき事にては候へども、平治に御辺の父下野左馬頭、衛門督にくみして、京の軍にうち負けて、東国の方へ落ち給ひし時、義平も斬られぬ、朝長も死しぬ{*30}。明くる正月の初めには、父を討たれしに、御辺の命を死しかねて、美濃国伊吹山の辺を迷ひありき、ふもとの者どもに生けどられ、都までひき上せ、源氏の名を流し、すでに誅せられ給ふべかりしが、池殿の哀れみ深くして、死罪を申し宥められて、弥平兵衛に預けられ{*31}、永暦の八月の頃かとよ、伊豆の北條なごやの蛭が島といふ所に流され、二十一年の星霜を経て、田舎人と成りて、さこそ頑なはしくおはらすらめと思ひしに、少しも違はざりけり。あら、むざんや。九郎判官と向背{*32}し給ふこと、ことわりかな。
「判官と申すは、情もあり、心も剛なり。慈悲深くおはしまし候なり。治承四年の秋の頃、奥州より、馬の腹筋はせきり{*33}、駿河国浮島が原におり居て、一方の大将軍請け取りて、一張の弓を脇に挟み、三尺の剣をはきて、西海の波にたゞよひ、野山を家とし、命を捨て身を忘れ、いつしか平家を討ち落として、御身を、『せめて一両年、世にあらせ奉らばや。』と、骨髄をくだき給ひしに、人の讒言、今に初めたる事にては候はねども、深き心ざしを忘れて、兄弟の中不和に成り給ひしことのみこそ、甚だ以ておろかなれ。親は一世の契り、主は三世の契りと申せども、これが初めやらん、中やらん、終はりやらん、我も知らず。兄弟は、後生までの契りとこそ承り候へ。その中をたがへ給ふとて、殿をば、『人の数にておはせぬ人。』と{*34}、世には申すげにこそ候へ。
「去年十二月二十四日の夜うち更けて、日頃は千騎万騎を引き具してこそおはしまし候ひしに、侍一人をだにも具せず、腹巻ばかりに太刀はきて、あみ笠といふ物うちき、『万事を頼む。』とておはしたりしかば、いにしへ見ず、知らぬ人なりとも、いかでか一度の慈悲を垂れざらん。一度はくんこう望み、いかなる時は祈りしぞ。いかなる時は討ち奉るべき。これをもつて較量{*35}し給へ。あらぬ様に、人申したりし事のもれ候。げにこそ、去年の冬の暮れに、『出家し給へ。』と、度々勧め申ししかども、『その梶原がために、出家はしたくもなし。』と宣ひ候ひつる。その頃、判官殿佩きたまひし太刀を奮ひ取り奉らんとて、悪僧ども、斬られ参らせて候ひしを、人の和讒{*36}を構へて申し候ひつらん。まつたく、『奈良法師、くみせよ。』と申したること、更になし。
「その中夭{*37}に、南都を落ち給ひし間、『心の中、いかばかりやる方もなくおはしますらん。』と存じ候ひて、いさめたる事候ひし。『四国九国の者を召し候へ。東大寺、興福寺は、得業が計らひなり。君は、天下に御おぼえもいみじくて、院の御感{*38}にも入らせ給ひて候へば、在京して、日本を半国づつ知行したまへ。』と、勧め申せしかども、得業が心を景迹{*39}して、出で給へば、中々恥づかしくこそ思ひ奉り候ひしか。君にも知られぬ宮づかへにては候へども、殿の御ためにも祈りしぞかし。平家追討のために、西国に赴きたまひしに、渡辺にて、『源氏の祈りしつべき者や有る。』と尋ねられ候ひけるに、いかなるをこの者が見参に入れて候、得業を見参に入れて候ひければ、『平家を呪詛して、源氏を祈れ。』と仰せられ候ひしに、その罪のがれなんと、度々辞退申ししかば、『御坊も、平家と一つになるか。』と、仰せられ候ひし恐ろしさに、源氏を祈り奉りし時も、『天に二つの日、照らしたまはず。二人の国王なし。』とこそ申し候へども、『我が朝を御兄弟、手に握り給へ。』とこそ祈り参らせしに、判官は、生れ付き不運の人なれば、終に世にも立ち給はず。日本国、残る所なく、殿一人して知行し給ふ事、これは、得業が祈りの感応する所にあらずや。これより外は、いかに糾問せらるゝとも、申すべき事候はず。かたの如くも智恵ある者に物を思はするは、何の益か有るべき。いかなる人、承りにて候ぞ{*40}。疾く疾く首をはねて、鎌倉殿の憤りを休め奉り給へや。」と、残る所もなく宣ひて、はらはらと泣き給へば、心有る侍ども、袖をぬらさぬ人はなし。
頼朝も、御簾をさつとうちおろし給ひて、万事、御前鎮まりぬ。やゝ有りて、「人や候。」と仰せられければ、佐原十郎、和田小太郎{*41}、畠山、三人御前に畏まつてぞ候ひける。鎌倉殿、高らかに仰せられけるは、「かかることこそなけれ。六波羅にて尋ね聞くべかりしを、梶原、申すに付けて、御坊をこれまで呼び下し奉りて、さんざんに悪口せられ奉りたるに、頼朝こそ、返事に及ばず、身の置き所なけれ。あはれ、人の陳状や。尤もかくこそ陳じたくあれ。誠の上人にておはしましける人かな。理にてこそ、日本第一の大伽藍の院主とも成りたまひけれ。朝家の御祈りにも召されける、理。」とぞ感ぜられける。
「この人を、鎌倉にせめて三年とゞめ奉りて、この所を仏法の地となさばや。」と仰せければ、和田小太郎、佐原十郎承り、勧修坊に申しけるは、「『東大寺と申すは、星霜久しくなりて、利益候所なり。今の鎌倉と申すは、治承四年の冬の頃、始めて立てし所なり。十悪五逆、破戒無慙の輩のみ多く候へば、これに、せめては三年渡らせおはしまして、御利益候へかしと申せ。』と候。」と申したりければ、得業、「仰せはさることにて候へども、一両年も鎌倉に有りたくも候はず。」とぞ仰せられける。重ねて、「仏法興隆のためにて候。」と申されければ、「さらば、三年はこれにこそ候はめ。」と仰せられけり。鎌倉殿、大きに悦び給ひて、「いづくにかすゑ奉るべき。」と仰せられしかば、佐原十郎、申しけるは、「あはれ、よきついでにて候ものかな。大御堂の別当になし参らせ給へかし。」と申されたりければ、「いしく{*42}申したり。」とて、佐原十郎、初めて奉行を承りて、大御堂の造営を仕り、勝長寿院のうしろに桧皮の御山荘を作りて、入れ奉り、鎌倉殿も、日々の御参詣にてぞ候ひける。門外に鞍置き馬、たち止む暇なし。鎌倉は、これぞ仏法の初めなり。
折々ごとに、「判官殿、御中直り給へ。」と仰せられければ、「易き事にて候。」とは申し給ひけれども、梶原平三、八箇国の侍の所司{*43}なりければ、景時父子が命に随ふ者、風に草木の靡く風情なれば、鎌倉殿も、御心に任せ給はず。
かくて、秀衡が存生の程は、さて過ぎぬ。死去の後は、嫡子元吉の冠者{*44}がはからひと申して、「文治五年四月二十四日に、判官、討たれ給ひぬ。」と聞こし召しければ、「誰故に、今まで鎌倉に長らへけるぞ。か程うき鎌倉殿に、暇乞ひも無益。」とて、急ぎ上洛あり。院も、なほ御たつとみ深くして、東大寺に帰りて、この程すたれたる所ども、造営し給ひ、「人の訪ひくるも、ものうし。」とて、閉門しておはしけるが、自筆に二百三十六部の経を書き、供養して、判官の御菩提を弔ひて、我が御身をば、水食を止めて、七十余にて往生をぞ遂げられける。
校訂者注
1:底本は、「くわんじゆ坊」。底本「四 判官南都へ忍び御出ある事」頭注に従い、以下すべて同様に改めた。
2:底本は、「とくこ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い、以下すべて同様に改めた。
3:底本頭注に、「後白河法皇の仙洞御所。」とある。
4・13:底本頭注に、「今上。」とある。
5:底本は、「仏法興隆(ぶつぽふこうりう)有験(うげん)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
6:底本は、「捨(す)てべけれども、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
7:底本頭注に、「死罪に行はれたと。」とある。
8:底本は、「平(たひら)の京(きやう)」。底本頭注に、「平安京即ち京都。」とある。
9:底本頭注に、「北條義時。」とある。
10:底本は、「尋(たづ)ねべき人」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
11:底本は、「『名を何と」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
12:底本は、「参らせんこと、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
14:底本は、「入り奉りて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
15:底本は、「とくこ申しけるは、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
16:底本は、「愚僧(ぐそう)の旨(むね)の申したくこそ候へ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
17:底本は、「御中門(ごちうもん)の下口辺(しもぐちへん)」。底本頭注に、「〇御中門 表門と寝殿との間にある門。」「〇下口 うしろの入口。」とある。
18:底本は、「御学匠(おんがくしやう)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
19:底本頭注に、「〇御気色わたらせ給ふ 御機嫌にさはられたによつて。」「〇申し下し参らせ 京から鎌倉へ下向していたゞいて。」とある。
20:底本頭注に、「此の席での御面会。」とある。
21:底本は、「居なほりたまひけれ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
22:底本は、「人の御心の中も、さこそ有らめ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除し、改めた。
23:底本は、「ししようのかんじん」。底本頭注に従い改めた。
24:底本は、「いきよう」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
25:底本は、「こうりう」。底本頭注に従い改めた。
26:底本は、「者とくみして、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
27:底本は、「おだし」。底本頭注に従い改めた。
28:底本頭注に、「不注意なあさはか者。」とある。
29:底本頭注に、「ずつと末の弟。」とある。
30:底本頭注に、「〇下野左馬頭 下野守左馬頭源義朝。」「〇衛門督 左衛門督藤原信頼。」「〇義平 義朝の長子。」「〇朝長 義朝の次子。」とある。
31:底本頭注に、「〇池殿 池禅尼。清盛の継母。尾張守頼盛の母。」「〇弥平兵衛 清盛の頼盛の家人宗清。」とある。
32:底本は、「敬拝(きやうはい)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
33:底本頭注に、「馬を急ぎ馳せて。」とある。
34:底本頭注に、「〇殿をば 頼朝を。」「〇人の数にておはせぬ人 人として数へられぬ非道な人。」とある。
35:底本は、「けうりやう」。底本頭注に、「較量。推察。」とあるのに従い改めた。
36:底本は、「わざん」。底本頭注に、「一方に親しんで他方を陥れる讒言。和讒。」とあるのに従い改めた。
37:底本は、「ちうよう」。底本頭注に、「ちうえうか。中夭。非常な災難。」とある。
38:底本は、「君は天下の御おぼえのいみじくて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇天下の御おぼえ 主上の御寵愛。」「〇院の御感 後白河法皇の御気にいられて。」とある。
39:底本は、「きやうしやく」。底本頭注に、「景迹。事情の経過について推察すること。」とある。
40:底本頭注に、「誰が君命をうけた担任者であるか。」とある。
41:底本は、「和田(わだの)小三郎、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
42:底本頭注に、「よく。」とある。
43:底本は、「しよし」。底本頭注に、「〇しよし 所司。侍所の次官で取締役。」とあるのに従い改めた。底本頭注に、「〇梶原平三 景時。」とある。
44:底本頭注に、「秀衡の嫡子は伊達次郎藤原泰衡で元吉の冠者はその弟高衡である。」とある。
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