六 静鎌倉へ下る事

 大夫判官、四国へ赴き給ひし時、六人の女房達、白拍子五人、総じて十一人の中に、ことに御心ざし深かりしは、北白河の静と云ふ白拍子、吉野の奥まで具せられたりけり。都へかへされて、母の禅師{*1}がもとにぞ候ひける。判官殿の御子を妊じて、近き程に産をすべきにてありしを、六波羅にこの事聞こえて、北條殿、江間小四郎を召して、仰せ合はせられければ{*2}、「関東へ申させ給はでは、叶ふまじ。」とて、早馬をもつて申されければ、鎌倉殿、梶原を召して、「九郎がおもふ者に、静と云ふ白拍子、近きほどに産すべき由なり。いかゞ有るべき。」と仰せられければ、景時、申しけるは、「異朝をとぶらひ候にも、敵の子を妊じて候女をば、頭を砕き骨をひしぎ、髄を抜かるゝほどの罪科にて候なれば、もし若君にておはしまし候はば、判官殿に似参らせ候とも、又、御一門に似参らせ候とも、おろかなる人にては、よもおはしまし候まじ。君の御代の間は、何事か候べき。君達の御行方こそ、おぼつかなくおもひまゐらせ候へ{*3}。都にて、宣旨院宣を御申し候てこそ下し給ひて、御座近く置きまゐらせさせ給ひ、御産の体御覧じて、若君にて渡らせ給ひ候はば、君の御計らひにて候べし。姫君にて候はば、御前に参らせさせ給ふべし{*4}。」と申したりければ、「さらば。」とて、堀藤次を御使にて、都へ上られけり{*5}。
 藤次、六波羅にも著きしかば、北條殿とうち連れ、院の御所に参りて、この由を奏聞しければ、院宣には、「先の勧修坊の如くには有るべからず。時政が計らひに尋ね出だし、関東へ下すべき。」と仰せ下されければ、北白河にて尋ねけれども、遂に遁るべきにはあらねども、一旦の悲しみを遁れんために、法勝寺なる所に隠れ居たりしを、尋ね出だして、母の禅師もろともに具足して、六波羅に行く。堀藤次請け取りて、下らんとぞしける{*6}。
 磯禅師が心の中こそ無慙なれ。「共に下らん。」とすれば、「眼のあたり、憂き目を見んずらん。」とかなしき。また、「止まらん。」とすれば、たゞひとりさし放つて、遥々と下さん事もいたはしく、それ、人の習ひにて、子五人十人持ちたるも、一人欠くれば{*7}嘆くぞかし。いはんや、自らがたゞひとり持ちたる子なれば、止まりても、絶えて有るべきともおぼえず。さりとても、おろかなる子かや。姿かたちは王城に聞こえたり。能は天下に隠れなし。とにかくに、「もろともに下らん。」とおもひ、預かりの武士の命をも背きて、かちはだしにてぞ下りける。幼少より召し使ひしさいはら、そのこまと申しける二人のはした者{*8}、年ごろ馴れし主の名残を惜しみて、泣く泣く連れてぞ下りける。親家も、道すがら様々にいたはりてぞ下りける。
 とかくして、都を出で、十四日に鎌倉に著きたり。この由、申し上げければ、静を召して、「尋ぬべき事有り。」とて、大名小名をぞ召されける。和田、畠山、宇都宮、千葉、葛西、江戸、河越を初めとして、その数を尽くして参る。鎌倉殿には、門前に市をなして、おびたゞし。二位殿{*9}も、「静を御覧ぜられん。」とて、幔幕を引き、女房、その数参まり給ひけり。藤次ばかりこそ、静を具して参りたれ。鎌倉殿、静を御覧じて、「優なりけり。現在、弟の九郎だにも愛せざりせば{*10}。」とぞ思し召しける御気色に見えたまひけり。母の禅師も、二人のはしたものも、御前にはまゐり得ず、門前に泣き居たり。鎌倉殿、これを聞こし召して、「門前に女の声として、さも高声に泣き叫ぶは、いかなる者ぞ。」と御尋ね有りければ、藤次、承り、「静が母と、二人のはしたにて候。」と申しければ、鎌倉殿、「女は苦しかるまじ。こなたへ召せ。」とて召されけり。
 鎌倉殿、仰せられけるは、「殿上人には見せ奉らずして、など九郎には見せけるぞ。その上、天下の敵に成り参らせたるものにて有るに。」と仰せられければ、禅師、申しけるは、「静、十五の年までは、多くの人々、仰せられしかども、靡く心も候はざりしかども、院{*11}の御幸に召し具せられ参らせて、神泉苑の池にて、雨の祈りの舞の時、判官殿に{*12}見え初められ参らせて、堀川の御所{*13}に召され参らせしかば、唯かりそめの御遊びのためと思ひ候ひしに、わりなき御心ざしにて、人々、あまた{*14}渡らせ給ひしかども、所々の御住居にてこそ渡らせ給ひしに、堀川殿に取り置かれ参らせしかば、清和天皇の御末、鎌倉殿の御弟にて渡らせ給へば、これこそ身に取りては面目と思ひしに、今かかるべしと、かねては夢にもいかでか知り候べき。」とて、さめざめと泣きければ、御前の人々、これを聞きて、「鎌倉殿の御前をも憚らず、来し方より今までの静が身の上を、おめず臆せず申したり、申したり。」とて、各、讃め給ひけり。
 その後、鎌倉殿、仰せられけるは、「九郎が子を妊じたること、世に隠れなし。只今陳じ申すに及ばず。近き程に産すべきとこそ聞きつれ。頼朝がためには、全く敵の末なれば、静が胎内をあけ、子を取つて失へ、梶原。」とぞ仰せける。静も母も、これを聞きて、とかくの御返事にも及ばず。手に手を取り組み、顔に顔を合はせて、声も惜しまず悲しみけり。二位殿も聞こし召して、「静が心の中、さこそ。」と思ひやられ給ひけん、御幕の内に、御落涙の音、しきりにこそ聞こえけれ。侍ども、承りて、「かかる情なき事こそなけれ。さらぬだに東国は遠国とて、恐ろしき事に云ひ習はし候に、静を失ひて、名を流し給はん事こそ浅ましけれ{*15}。」とぞつぶやきける。
 梶原、この事を聞きて、つい立ち、御前に参り、畏まつてぞ居たりける。人々、これを見て、「あな、心うや。又、いかなる事をか申さんずらん。」と、耳をそばだててぞ聞きけるに、「静の事、承り候。少人こそ限り候はんずれ。母御前をさへ失ひ参らせ給はん事、その御罪{*16}、いかでか遁れさせ給ふべき。胎内に宿る十月を待つこそ久しく候へ。これは既に、来月御産あるべきにて候へば、源太{*17}が宿所を御産所と定めて、若君姫君の左右を申し上ぐべき。」と申したりければ、御前なる人々、袖をひき、膝をさし、「この世の中は、いかさま、末代といひながら、唯事あらじ。これ程に梶原が、人のために憐れみを思ひて申したる事はなし。」とぞ申しあへり。
 静、これを聞き、「都を出でし時よりして、梶原と云ふ名を聞くだにも心憂かりしに、まして景時が宿所に在りて、産の時、自然の事あらば{*18}、冥途の障りとも成るべし。あはれ、同じくは堀殿の承りならば、いかばかり嬉しかりなん。」と、工藤左衛門して申したりければ、鎌倉殿に申し入れければ、「道理なれば、易き事なり。」と仰せられて、堀藤次に{*19}返したぶ。「時に取つて、親家、面目。」とぞ申しける。藤次は、急ぎ宿所に帰りて、妻女に逢ひて云ひけるは、「梶原、既に申し賜はつて{*20}候ひつるに、静の訴訟にて、親家に返し預かり参らせ候ひぬ。判官殿の聞こし召さるゝ所も有り。これにてよくよくいたはり参らせよ。」とて、われは、かたはらに候て、やかたをば御産所と名付けて、心有る女房達十余人付け奉りてぞもてなしける。磯禅師は、都の神仏にぞ祈り申しける。「稲荷、祇園、賀茂、春日、日吉山王七社、八幡大菩薩。静が胎内にある子を、たとひ男子なりとも、女子になして給べ。」とぞ申しける。
 かくて月日重なれば、その月にもなりにけり。静、思ひの外に、堅牢地神も憐れみ給ひけるにや、痛むこともなく、「その心{*21}つく。」と聞きて、藤次の妻女、禅師、もろともにあつかひけり。殊更、御産も平安なり。少人、泣き給ふ声を聞きて、禅師、余りの嬉しさに、白き絹におし巻きて見れば、祈る祈りはむなしくて、三身相応したる若君にてぞおはしける。唯一目見て、「あな、心憂や。」とてうち伏しけり。静、これを見て、いとゞ心も消えて思ひけり。「男子か、女子か。」と問へども、答へねば、禅師の抱きたる子を見れば、男子なり。一目見て、「あら、心うや。」とて、衣をかづきて伏しぬ。やゝ有りて、「いかなる十悪五逆の者の、たまたま人界に生を受けながら、月日の光をも定かに見奉らずして、生まれて一日一夜をだにも過ごさで、やがて冥途に帰らんこそ無慙なれ。前業、限り有る事なれば、世をも人をも恨むべからずとおもへども、今の名残、別れの悲しきぞや。」とて、袖を顔におし当ててぞ泣き居たり。
 藤次、御産所に畏まりて申しけるは、「『御産の左右を申せ。』と、仰せ蒙り候間、唯今参りて申し候はんずる。」と申しければ、「とても遁るべきならねば{*22}、疾く疾く。」とぞ云ひける。親家、参り、この由を申したりければ、安達新三郎を召して、「藤次が宿所に静が産したり。頼朝が鹿毛の馬に乗りて行き、由井の浜にて失へ。」と仰せられければ、清常、御馬賜はつてうち出で、藤次の宿所に参りて、禅師に向ひて、「鎌倉殿の御使に参りて候。少人は、若君にて渡らせられ給ひ候由、聞こし召して、『抱きそめ参らせよ。』との御諚にて候。」と申しければ、「あはれ、はかなき清常かな。すかさば誠と思ふべきかや{*23}。親をさへうしなへとおほせられし敵の子、殊に男子なれば、『疾く失へ。』とこそ有るらめ。暫し。最期の出で立ち{*24}せさせん。」と申されければ、新三郎、岩木ならねば、さすが憐れに思ひけるか、心弱く待ちけるが、「かくて心よわくて叶ふまじ。」とおもひ、「ことごとしく候。御出で立ちも、いり候まじ。」とて、禅師が抱きたるを奪ひ取り、脇に挟み、馬にうち乗り、由井の浜にはせ出でけり。
 禅師、悲しみけるは、「長らへて見せ給へと申さばこそ、ひが事ならめ。今一度いとけなき顔を見せ給へ。」と悲しみければ、「御覧じては、中々思ひ重なり給ひなん。」と、情なき気色にて、霞を隔て遠ざかる。禅師は、草履をだにもはきあへず、薄絹かづかず、そのこまばかり具して、浜の方へぞ下りける。堀藤次も、禅師をとぶらひて、あとにつきてぞ下りける。静も共に慕ひけれども、堀が妻女、申しけるは、「産の別れなり。」とて、様々に諌め、取り止めければ、出でつる妻戸の口に倒れ伏してぞ悲しみける。禅師は、浜に尋ね、馬の跡を尋ぬれども、少人の死骸もなし。「今生の契りこそ少なからめ、むなしき姿を今一度見せ給へ。」と悲しみつゝ、渚を西へ歩みける所に、稲瀬川の端には、真砂に戯れて、子どもあまた遊びけるに逢うて、「馬に乗りたる男の、くが{*25}と泣きたる子や棄つる。」と問へば、「何は見わけ候はねども、あの汀の材木の上にこそなげ入れつれ。」と云ひける。藤次が下人、下りて見ければ、唯今までは蕾む花のやうなりつる少人の、いつしか今は引きかへてむなしき姿{*26}を、尋ね出だして磯禅師に見せければ、おしまきたる衣の色は変はらねども、あとなき姿と成りはてけるこそ悲しけれ。
 「もしや、もしや。」と浜の砂の暖かなる上に、衣のつまをうち敷きて置きたりけれども、事きれ果てて見えしかば、「取りて帰りて、母に見せて悲しませんも、中々罪深し。」と思ひて、「こゝに埋づまん。」とて、浜の砂を手にて掘りたれども、「こゝも、浅ましき牛馬の蹄の通ふ所。」とて、痛はしければ、さしも広き浜なれども、捨て置くべき所もなし。唯、むなしき姿を抱きて、宿所にぞ帰りける。静、これを請け取り、生をかへたる者を、隔てなく身にそへて悲しみけり。「あいしやうとて、親の嘆きは、殊に罪深き事にて候ものを。」とて、藤次が計らひにて、少人の葬送、故左馬頭殿{*27}のために建立せられける勝長寿院の東に埋づみて帰りけり。「かかる物うき鎌倉に、一日にても有るべき様なし。」とて、「急ぎ都へ上らん。」とぞ出で立ちける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「静の母は磯禅師といふ。」とある。
 2:底本は、「仰(おほ)せ合(あ)はせられけるは、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇北條殿 時政。」とある。
 3:底本頭注に、「〇君の御代云々 義経の忘形見の子が居ても頼朝の代の間は何事もあるまいけれど。」「〇君達の御行方 頼朝の後その子息たちの将来が心配である。」とある。
 4:底本は、「参らさせ給ふべし。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 5:底本は、「上(のぼ)らせられける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 6:底本は、「下らんとしける」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 7:底本は、「かくれば」。底本頭注に従い改めた。
 8:底本頭注に、「下婢。」とある。
 9:底本頭注に、「頼朝の妻政子。」とある。
 10:底本は、「いうなりけり。」。底本頭注に従い改めた。底本頭注に、「〇現在、弟の九郎云々 現在の弟の義経さへ静を愛しなかつたならば頼朝自ら愛しもしようと思つた養子である。」とある。
 11:底本頭注に、「後白河上皇。」とある。
 12:底本は、「判官(はうぐわん)に」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 13:底本頭注に、「義経の館。」とある。
 14:底本頭注に、「いひよる人々数多く。」とある。
 15:底本頭注に、「静を殺して其のために関東の荒武者の無情冷酷といふ評判の立つのは残念だ。」とある。
 16:底本は、「その罪」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇少人こそ云々 子どもは殺すべきである。」とある。
 17:底本頭注に、「景時の子景季。」とある。
 18:底本頭注に、「万一の事があつたら。即ち産で死にもしたならば。」とある。
 19:底本は、「堀藤次(ほりのとうじ)返(かへ)したぶ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 20:底本は、「申し給ひて」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 21:底本頭注に、「産気。」とある。
 22:底本は、「遁(のが)るまじきことならねば、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 23:底本頭注に、「欺きだましたら誠と思ひませうか、その手には乗らぬ。」とある。
 24:底本頭注に、「死装束。」とある。
 25:底本頭注に、「稚児のなく声。」とある。
 26:底本頭注に、「死骸。」とある。
 27:底本頭注に、「源義朝。」とある。