七 静若宮八幡へ参詣の事
磯禅師、申しけるは、「少人の事は、思ひ設けたることなれば、さておきぬ。御身、安穏ならば、若宮へ参らんと、かねての宿願なれば、いかでか唯は上り給ふべき。八幡は、あら血{*1}を五十一日忌ませたまふなれば、精進潔斎してこそ参り給はめ。その程は、これにて日数を待ち給へ。」とて、一日一日と逗留有りけり。
さる程に、「鎌倉殿、三島の御社参。」とぞ聞こえける。八箇国の侍ども、御供申しける。御社参の御つれづれに、様々の物語をぞ申しける。その中に川越太郎、静が事を申し出だしたりければ、各、「かやうのついでならでは、いかでか下り給ふべき。あはれ、音に聞こゆる舞を、一番御覧ぜられざらんは、無念に候。」と申しければ、鎌倉殿、仰せられけるは、「静は、九郎に思はれて、身を華飾{*2}にするなる上、思ふ中をさまたげられ、その形見にも見るべき子を失はれ、何のいみじさに{*3}、頼朝が前にて舞ふべき。」と仰せられければ、人々、「これは、尤もの御諚なり。さりながら、いかゞして見んずるぞ。」と申しける。「そもそもいか程の舞なれば、か程に人々、念をかけらるゝぞ。」と仰せられければ、梶原、「舞においては日本一にて候。」とぞ申しける。鎌倉殿、「ことごとしや。いづくにて舞ひて、日本一とは申しけるぞ。」
梶原、申しけるは、「一歳、百日のひでりの候ひけるに、賀茂川、桂川、皆瀬きれて流れず。つゝ井の水も絶えて、国土のなやみにて候ひけるに、時代久しき例文を引きて{*4}、『比叡の山、三井寺、東大寺、興福寺などの有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて仁王経を講じ奉らば、八大竜王も示現納受{*5}垂れ給ふべし。』と申しければ、百人の高僧貴僧を請じ、仁王経を講ぜられしかども、そのしるしもなかりけり。又、ある人、申しけるは、『容顔美麗なる白拍子を百人召して、院、御幸なりて、神泉苑の池にて舞はせられば、竜神、納受し給はん。』と云へば、『さらば。』とて、御幸有りて、百人の白拍子をして舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、そのしるしもなかりけり。『静一人舞ひたりとても、竜神、示現有るべきか。内侍所に召されて、禄重き者にて候に。』と申したりければ、『とても人数なれば、唯舞はせよ。』と仰せ下されければ、静が舞ひたりけるに、しんむしやうの曲といふ白拍子を、なから{*6}ばかり舞ひたりしに、みこしの嶽、愛宕山の方より、黒雲、俄に出で来て、洛中にかゝると見えければ、八大竜王鳴り渡りて、稲妻ひかめきしに、諸人、目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏なりしかば、『さてこそ静が舞に示現{*7}有りける。』とて、『日本一。』と宣旨を賜はりけると承り候ひし。」と申しければ、鎌倉殿、これを聞こし召して、「さても一番見たし。」とぞ仰せられける。
「誰にかいはせんずる。」と仰せられければ、梶原、申しけるは、「景時が計らひにて舞はせん。」とぞ申しける{*8}。鎌倉殿、「いかゞあるべき。」とぞ仰せられける。梶原、申しけるは、「我が朝に住まひせん程の人の、君の仰せをいかでか背き参らせ候べき。その上、既に死罪に定まりしを、景時が申してこそ宥め奉りて候ひしかば、是非とも舞はせ参らせんずる。」と申しければ、「さらば、行きてすかせ。」と仰せられけり。
梶原、行きて、磯禅師を呼び出だして、「鎌倉殿の御酒気にこそ御渡り候へ。かかる所に川越太郎、御事{*9}を申し出だされ候ひつるに、『あはれ、音に聞こえ給ふ御舞、一番見まゐらせばや。』との御気色にて候。何か苦しく候べき。一番御舞ひ候ひて、君に見せ奉りたまへかし。」と申したりければ、この由、静に語れば、「あら、心うや。」とばかりにて、衣引きかづきて伏し給ひけるが、「すべて、人のかやうの道を立てける程の、口惜しき事はなかりけり{*10}。この道ならんには、かかる一方ならぬ嘆きのたえぬ身に、さりとて、『憂き人の前にて舞へ。』などと、たやすく言はれつるこそ安からね。中々つたへ給ふ母の心こそ恨めしけれ。されば、舞はば舞はせん{*11}と思し召しけるか。」とて、梶原には返事にも及ばず。禅師、梶原にこの由を云ひければ、相違して{*12}帰りけり。
御所には、「今や今や。」と待ち給ひける所に、景時、参りたり。二位殿の御方より、「いかに、返事は。」と御使有り。「『御諚。』と申しつれども、返事だにも申され候はぬ。」と申しければ、鎌倉殿も、「元より思ひつる事を。都に帰りてあらん時、内裏、院の御所にて、『兵衛佐{*13}の、舞まへとはいはざりけるか。』と御尋ねあらん時、『梶原を使にて、舞へと申され候ひしかども、何のいみじさに舞ひ候べきとて、つひに舞はず。』と申さば、頼朝がかひなきに似たり。いかゞ有るべき。誰にてか言はすべき。」と仰せられければ、梶原、申しけるは、「工藤左衛門こそ、都に候ひし時も、判官殿、常に御目かけられし者にて候へ。しかも京童にて、口ききにて候。彼に仰せ付けらるべく候はん。」と申しければ、「祐経召せ。」とて召されけり。その頃、左衛門、塔の辻{*14}に候ひけるを、梶原、つれてぞ参りける。
鎌倉殿、仰せられけるは、「梶原もつていはすれども、返事をだにもせず。御へん行きて、すかして舞はせや。」と仰せられければ、「かかる難儀の御使かな。御諚にてだにも舞ひ給はぬ人を、某申したればとて、舞ひ給はんともおぼえず。かかる御諚こそ大事なれ。」と思ひ煩ひ、急ぎ我が家に帰り、妻女に申しけるは、「鎌倉殿より、いみじき大事を承つて{*15}こそ候へ。梶原を御使にて仰せられつるだにも、もちゐ給はぬ静を、我らに、『参りて、賺して舞はせよ。』と仰せ蒙りたるこそ{*16}、祐経がためには大事に候へ。」といひければ、女房、聞きて、「それは、梶原にもよるべからず、左衛門尉にもよるべからず。情は人のためにもあらばこそ。景時が田舎男にて、骨なき{*17}様の風情にて、『舞をまひ給へ。』とこそ申しつらめ。御身とても、さこそおはせんずらめ。たゞ様々の菓子を用意して、堀殿のもとへ行きて、とぶらひ奉るやうにて、内々こしらへすかし奉らんに、などか叶はざるべき。」と、よに易げに云ひける。
祐経が妻女と申すは、千葉介が在京のとき、まうけたりし京わらはの娘。小松殿{*18}の御内に冷泉殿の御局とて、おとなしき人にてぞ有りける。叔父{*19}伊藤次郎に中を違ひて、本領を取らるゝのみならず、飽かぬ中を引き分けられて、「その本意を遂げん。」と思ひ、「伊豆へ下らん。」としけるを、小松殿、祐経に名残を惜しませ給ひて、『年こそ少しおとなしけれども、これを見よ。』とて、祐経に見え初めて{*20}、互の志深かりけり。治承に、小松殿の隠れさせ給ひて後は、頼む方なかりければ、祐経に具足せられて東国に下りけり。年久しくなりたれども、さすが狂言綺語のたはぶれも未だ忘れざりければ、「すかさん事も易し。」とや思ひけん、いそぎ出で立ち、藤次が宿所に行きけり。
祐経、まづさきに行きて、磯禅師に云ひけるは、「この程、何となくうち紛れ候へば、おろかなり{*21}とぞ思し召され候らん。三島の社へ御参詣にて渡らせ給ひ候ひつる程に、これも召し具せられ、日々の御社参にて渡らせ給へば、精進なくては叶ひ難く候間、うち絶え参り候はねば、返す返す恐れ入りて候。祐経が妻女も都の者にて候。堀殿の宿所まで参りて候。それそれ、禅師、よき様に申させ候へ。」と申して、我が身は帰る体にもてなして、傍らに隠れてぞ候ひける。磯禅師、静にこの由を語れば、「左衛門の常にとぶらひ給ふだに、有り難く思ひ候に、女房の御出でまでは、思ひもよらず候に、これまでの御おとづれ、悦び入りて候。」とて、我が方をこしらへてぞ入れける。藤次が妻女、もろともに行きてぞもてなしける。
「人をすかさん。」とする事なれば、酒宴はじめて幾程もなかりけるに、祐経が女房、今様をぞ謡ひける。藤次が妻女も催馬楽をぞうたひける。磯禅師、珍しからぬことなれども、きせんと云ふ白拍子をぞ数へ{*22}ける。催馬楽、そのこま{*23}も、主に劣らぬ上手どもなりければ、共にうたひて遊びけり。「春の夜の朧の空に雨ふりて、ことさら世間、静かなり。壁に立ちそふ人も聞け。ひめもすの狂言{*24}は、千年の命を延ぶるなり。我も歌ひて遊ばん。」とて、別れの白拍子をぞかぞへける。音声、文字うつり{*25}、心も言葉も及ばれず。左衛門尉、藤次、壁を隔ててこれを聞いて、「あはれ、うちまかせの座敷ならば、などか推参せざるべき。」とて、心も空にあこがるゝばかりなり。白拍子過ぎければ、錦の袋に入れたる琵琶一面、纐纈{*26}の袋に入れたる琴一ちやう取り出だして、琵琶をばそのこま、袋より取り出だして、緒あはせて、左衛門尉の女房の前におく。琴をばさいばら取り出だし、ことぢ立て、静が前にぞ置きたりける。管絃過ぎければ、また左衛門の女房、心有るさまの物語などせられつゝ、「今やいはまし、今やいはまし。」とぞおもひける。
「昔の京をば、難波の京{*27}とぞ申しけるに、愛宕の郡に都を立てられしより以来、東海道を遙かに下りて、由井のあしかゞより東、相模の国をさかのぼり、由井のこし、ひづめの小林、鶴が岡のふもとに、今の八幡をいはひ奉る。鎌倉殿にも氏神なれば、判官殿を、などか守り奉りたまはざらん。和光同塵は結縁の初め、八相成道は利物の終はり。何事か御祈りの感応なからんや。当国一の無双にて渡らせ給へば、夕は参篭{*28}の輩、門前に市をなす。朝には参詣の輩、肩をならべて踵をつぐ。しかれば、日中には叶ひ候まじ。堀殿の妻女、若宮の案内者にておはしまし候。わらはも、このところの巨細の者{*29}にて候へば、明日まだ夜こめて、御参詣候ひて、思し召す御宿願も遂げさせおはしまし、そのついでに、御かひなさし、法楽{*30}し参らさせたまひ候ひなば、鎌倉殿と判官殿と、御中も直らせおはしまし候て、思し召すまゝなるべし。奥州にわたらせ給ひ候判官殿も、聞こし召し伝へさせ給はば、『我がために丹誠を致しまゐらせ給ふ。』と聞こし召しては、いかばかり嬉しとこそ思し召し候はんずれ。たまたまかかるついでならでは、いかでかさること候べき。理をまげて御参詣候へ。あまりに見奉りてより、いとゞ疎かに思ひまゐらせず候へば、せめての事に申し候なり。御参詣候はば、御供申し候はん。」とぞすかしける。
静、これを聞きて、「げに。」とやおもひけん、母の禅師を招きて、「いかゞ有るべき。」と云ひければ、禅師も、「あはれ、さもあらまほしく。」おもひければ、「これは、八幡の御託宣にてこそ候へ。これ程ふかく思し召しける嬉しさよ。疾く疾く参らせたまへ。」と云ひければ、「さらば、昼は叶ふまじ。寅の時に参りて、辰の時に、かたの如くに舞ひて帰らばや。」とぞ申しける。
左衛門の女房、祐経に、はや聞かせたくて、かくと云はせければ、祐経、壁を隔てて聞く事なれば、使の出でぬまに馬にうち乗り、急ぎ鎌倉殿へ参りて、侍{*31}につと入れば、君を初め参らせて、侍ども、「いかにや、いかにや。」と問ひ給へば、「寅の時の参詣、辰の時に御かひなさし。」と、高らかに申したりければ、鎌倉殿、やがて御参詣有りけり。「静、舞ふなり{*32}。」と聞きて、若宮には門前に市をなす。「拝殿、廻廊の前、雑人ども、えいやづき{*33}をして、物の差別も聞こえ候はず。」と申しければ、小舎人を召して、「放逸にあたり、おひ出だせ。」と仰せける。源太、承りて、「御諚ぞ。」と云ひけれども、用ゐず。小舎人ばら、はういつにさんざんに打つ。男は烏帽子をうち落とし、法師は笠をうち落とさる。疵を蒙るもの、あまた有りけれども、「これ程の見物を、一期に一度の大事ぞ。疵はつくとも入らんず。」とて、身のなり行く末を知らずして、くゞり入る間、中々騒動する事おびたゞし。
佐原十郎、申しけるは、「あはれ、かねて知り候はば、廻廊の真ん中に舞台を張りて参らせ候はんずるものを。」と申しけり。鎌倉殿、聞こし召し、「あはれ、これは誰が申しつるぞ。」と御尋ね有りければ、「佐原十郎、申して候。」と申す。「さはら、故実の者なり。尤もさるべし。やがて支度して参らせよ。」と仰せられけり。十郎、承りて、急ぎのことなりければ、若宮修理のために積み置かれたる材木を、一時に運ばせて、高さ三尺に舞台をはりて、唐綾、紋紗{*34}を以てぞ包みたる。鎌倉殿、御感有りける。
静を待つに、日は已に巳の時ばかりに成るまで参詣なし。「いかなる静なれば、これ程に人の心を尽くすらん。」などとぞ申しける。遙かに日たけて、輿をかきてぞ出で来る。左衛門尉、藤次が女房もろともにうち連れて、廻廊にぞ詣でたりける。禅師、さいばら、そのこま、その日の役人{*35}なりければ、静と連れ、廻廊の舞台へなほる。左衛門の女房は、同じ姿なる女房達三十余人ひき具して、桟敷{*36}に入りける。静は、神前にむかひて、念誦してぞ居たりける。まづ磯禅師、珍しからねども、法楽のためなれば、催馬楽{*37}につゞみ打たせて、すきもののせうしやと云ふ白拍子を数へてぞ舞ひたりける。心も言葉もおよばれず。「さしも聞こえぬ禅師が舞だにも、これ程に面白きに、まして静が名にし負うたる舞なれば、さこそ面白かるらん。」とぞ申しあひける。
静、「人の振舞ひ、幕の引き様、いかさまにも鎌倉殿の御参詣とおぼえたり。祐経が女房すかして、鎌倉殿の御前にて舞はするとおぼゆる。あはれ、何ともして今日の舞をまはで帰らばや。」とぞ、ちぐさに案じ居たりける。左衛門尉を呼びて申しけるは、「今日は、鎌倉殿御参詣とおぼえ候。都にて内侍所に召されし時は、内蔵頭のぶみつに囃されて舞ひたりしぞかし。神泉苑の池の雨乞の時は、四條のきすはらに囃されてより舞ひ候ひしが、このたびは、御不審の身にて召し下され候ひしかば、つゞみ打ちなどをも連れても下り候はず。母にて候人の、形の如くのかひなさしを法楽せられ候はば、我々は都に上り、又こそつゞみ打ち用意して、わざと下りて、法楽に舞ひ候はめ。」とて、やがて立つけしきに見えければ、大名小名、これを見て、興醒めてぞありける。
鎌倉殿も、聞こし召して、「世間せばきことかな。『鎌倉にて舞はせんとしけるに、つゞみ打ちのなくて遂に舞はざりけり。』と聞こえんことこそ恥づかしけれ。梶原、侍どもの中に、鼓打つべき者や有る。尋ねて打たせよ。」と仰せられければ、景時、申しけるは、「左衛門尉こそ、小松殿の御時、内{*38}の御神楽に召され候ひけるに、殿上に名を得たる小鼓の上手にて候なれ。」と申したりければ、「さらば祐経、打ちて舞はせよ。」と、仰せ蒙りて申しけるは、「あまり久しく仕らで、鼓の手色などこそ、思ふ程に候まじけれども、御諚にて候へば、仕りてこそ見候はめ。たゞし、鼓一ちやうにては叶ふまじ。かねの役{*39}を召され候へ。」と申したり。
「かねは、誰か有るべき。」と仰せられければ、「中沼五郎こそ候へ。」と申しければ、「尋ね、打たせよ。」と仰せければ、「眼病に身を損じて、出仕を仕らず。」と申しければ、「さ候はば、景時仕りて見候はばや。」と申せば、「なんぼうの梶原は銅拍子{*40}ぞ。」と、左衛門に御尋ね有り。「中沼に次いでは梶原こそ。」と申したりければ、「さては苦しかるまじ。」とて、鉦の役とぞきこえける。
佐原十郎、申しけるは、「時の調子は大事のものにて候に、誰にか音とりを吹かせばや。」と申せば、鎌倉殿、「誰か笛吹きぬべきものやある。」とおほせられければ、和田小太郎、申しけるは、「畠山こそ、院の御感に入りし笛にて候へ。」とまうしければ、「いかでか畠山の賢人第一の、『異様の楽党{*41}にならんは、かりそめなり。』とも、よもいはじ。」と仰せられければ、「『御諚。』と申して見候はん。」とて、畠山の桟敷{*42}へ行きけり。畠山にこの仔細を、「御諚にて候。」と申しければ、畠山、「君の御内きりせめたる{*43}工藤左衛門、つゞみ打ちて、八箇国の侍の所司梶原が銅拍子合はせて、重忠が笛吹きたらんずるは、族姓{*44}正しき楽党にてぞあらんずらん。」とうち笑ひ、「仰せに従ひ参らすべき。」由を申し給ひつゝ、三人の楽党は、所々より思ひ思ひにいで立ち、出でられけり。
左衛門尉は、紺葛{*45}の袴に、とくさ色の水干に立烏帽子、紫檀の胴に羊の革にて張りたる鼓の、六つの緒の調べを{*46}かき合はせて、左の脇にかいはさみて、袴のそば高らかに差し挟み、上のまつ山、廻廊の天井に響かせ、手色打ちならして、残りの楽党を待ちかけたり。梶原は、紺葛{*47}の袴に山鳩色の水干、立烏帽子、南鐐をもつて作りたる{*48}黄金のきくがた打つたる銅拍子に、たくぼくの緒を入れて、祐経が右の座敷に直りて、鼓の手色に従ひて、鈴虫などの鳴くやうに合はせて、畠山を待ちけり。畠山は、幕の綻びより、座敷の体をさしのぞきて、別して色々しくも出で立たず。白き大口に、白き直垂に紫革の紐付けて、折ゑぼしのかたかたをきつと引き立てて、松風と名付けたる漢竹の横笛{*49}を持ち、袴のそば、たからかに引きあげて、幕さつと引きあげ、つと出でたれば、大の男の重らかに歩みなして舞台にのぼり、祐経が左の方にぞ居直りける。名を得たる美男なりければ、「あはれなり。」とぞ見えける。その年二十三にぞ成りける。鎌倉殿、これを御覧じて、みすの内より「あはれ、楽党{*50}や。」とぞ誉めさせ給ひける。「時に取つては興深し。」とぞ見えける。
静、これを見て、「よくぞ辞退したりける。同じくは舞ふとも、かかる楽党{*51}にてこそ舞ふべけれ。心軽くも舞ひたりせば{*52}、いかに軽々しくあらん。」とぞ思ひける。禅師をよびて、舞の装束をぞしたりける。松にかゝれる藤の花、池の汀に咲きみだれ、そら吹く風は山かすみ、初音ゆかしきほとゝぎすの声も、折知り顔にぞおぼえける。静がその日の装束には、白き小袖一かさね、唐綾を上にひきかさねて、白き袴ふみしだき、わりびし縫ひたる水干に、たけなる髪を高らかに結ひなして、この程の歎きに面やせて、薄げしやう眉細やかに作りなし、皆紅の扇を開き、宝殿{*53}に向ひて立ちたり。
さすが鎌倉殿の御前にての舞なれば、面はゆくや思ひけん、舞ひかねてぞ休らひける。二位殿は、これを御覧じて、「去年の冬、四国の波の上にてゆられ、吉野の雪に迷ひ、今年は海道{*54}の長旅にて、やせ衰へて見えたれども、静を見るに、『我が朝に女あり。』とも知られたり。」とぞ仰せられける。静、その日は、白拍子は多く知りたれども、ことに心にそむものなれば、しんむしやうの曲と云ふ白拍子の上手なれば、心もおよばぬ声色にて、はたとあげてぞ歌ひける。上下、「あ。」と感ずる声、雲にも響くばかりなり。近きは聞いて感じけり。声も聞こえぬも、「さこそ有るらめ。」とてぞ感じける。しんむしやうの曲、なからばかり数へたりける所に、祐経、「心なし。」とやおもひけん、水干の袖をはづして、せめをぞ打ちたりける{*55}。静、「君が代」を歌ひあげたりければ、人々、これを聞き、「情なき祐経かな。今一折舞はせよかし。」とぞ申しける。
「詮ずる所{*56}、敵のまへの舞ぞかし。思ふ事を歌はばや。」と思ひて、
しづやしづしづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな
吉野山みねの白雪ふみわけて入りにし人のあとぞ恋しき
と歌ひたりければ、鎌倉殿、みすを、さと下し給ひけり。鎌倉殿、「白拍子は、興さめたるものにて有りけるや。今の舞ひやう歌ひ様、けしからず。頼朝、田舎に住み馴れしかば、『聞き知らじ。』とて歌ひける。『賤のをだまき繰り返し。』とは、『頼朝が世つきて、九郎が世{*57}になれ。』とや。」
あはれ、
おほけなくおぼえし人の跡たえにけり
と歌ひたりければ、御簾を高らかにあげさせ給ひて、かるがるしくも誉めさせ給ふものかな{*58}。
二位殿より御引出物、色々賜はりしを、判官殿御祈りのために若宮の別当に参りて、堀藤次が女房、もろともにうちつれてぞ帰りける。
明くれば、「都に。」とて上り、北白河の宿所に帰りてあれども、物をもはかばかしく見入れず。憂かりし事の忘れ難ければ、「とひくる人も物うし。」とて、たゞ思ひ入りてぞ有りける。母の禅師も慰めかねて、いとゞ思ひ深かりけり。あけくれ持仏堂にひき篭り、経をよみ、仏の御名を唱へて有りけるが、「かかる浮世に長らへても何かせん。」とや思ひけん、母にも知らせず、髪を切りてそりこぼし、天竜寺{*59}の麓に草の庵を引きむすび、ぜんじもろともに行なひすましてぞ有りける。姿心、人にすぐれたり。惜しかるべき年ぞかし。十九にて様をかへ、次の年の秋の暮れには、思ひや胸に積もりけん、念仏申し、往生をぞ遂げにける。「聞く人、貞女の心ざし感じける。」とぞ{*60}聞こえける。
校訂者注
1:底本は、「あらち」。底本頭注に、「分娩の時に出る生血。」とあるのに従い改めた。
2:底本は、「くわしよく」。底本頭注に、「僭越不遜。」とある。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
3:底本は、「何のいみじきに」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
4:底本は、「じたい久しきれいもん、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改め、補った。
5:底本は、「じげんなふじゆ」。底本頭注に、「示現納受。神仏が霊験を現はし示して祈願をうけ入れられること。」とある。
6:底本頭注に、「半分。」とある。
7:底本は、「じげん」。
8:底本は、「と申しける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
9:底本頭注に、「静殿の御事。」とある。
10:底本頭注に、「白拍子などいふ事をしてゐる位くやしい事はない。」とある。
11:底本頭注に、「御諚に従つて母が静に舞を舞はさせようと。」とある。
12:底本頭注に、「案に相違して。」とある。
13:底本頭注に、「源頼朝。」とある。
14:底本は、「たうのつし」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
15:底本頭注に、「非常な容易ならぬ事の御命令を蒙つて。」とある。
16:底本は、「蒙りたること、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
17:底本は、「こつなき」。底本頭注に、「無骨な。」とあるのに従い改めた。
18:底本頭注に、「平重盛。」とある。
19:底本は、「をうぢ」。底本頭注に、「〇伊藤次郎 河津次郎伊東祐親。工藤祐経の父祐継庶子で家を継ぎ、祐親は嫡孫で祐継の弟となつたので祐経の叔父といふわけである。」とあるのに従い改めた。底本頭注に、「〇本領を取らるゝ 祖父に父が分け与へられ父から相伝へた領地伊東の荘を横領され。」とある。
20:底本頭注に、「妻となつて。」とある。
21:底本は、「疎(おろ)かなるとぞ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
22:底本頭注に、「謡ふ。」とある。
23:底本頭注に、「静に伴つて来た召使の女。」とある。
24:底本頭注に、「歌謡音曲。」とある。
25:底本は、「別(べつ)の白拍子(しらびやうし)をぞかぞへける。おんじやう、もじうつり、」。底本頭注およびに『義経記』(1992年岩波書店刊)本文および頭注に従い改めた。底本頭注に、「〇もじうつり 節まはし。」とある。
26:底本は、「かうけつ」。底本頭注に、「纐纈。しぼり染。」とあるのに従い改めた。
27:底本は、「なんばの京」。底本頭注に、「難波の京で大阪をいふ。」とあるのに従い改めた。底本頭注に、「〇愛宕の郡に都 山城愛宕の郡に平安京を創められ。」
28:底本に、「〇ぶさう 無双。」「〇さんろう 参篭。」とあるのに従い改めた。
29:底本は、「こさいの者」。底本頭注に、「大小の事を委しく知つてゐる者。」とある。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
30:底本頭注に、「〇かひなさし 腕を上げおろしすることで舞を舞ふをいふ。」「〇法楽 神仏の心を慰めるために行ふ音曲舞踊。」とある。
31:底本頭注に、「〇鎌倉殿 頼朝の館。」「〇侍 侍が出仕して詰めてゐる所。」とある。
32:底本は、「舞(ま)ひぬる」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
33:底本頭注に、「えいやと掛け声をして。」とある。
34:底本頭注に、「〇しゆり 修理。」「〇もんしや 紋紗。模様を織り出した紗。」とあるのに従い改めた。
35:底本頭注に、「役を受持つて技をする者。」とある。
36・42:底本は、「座敷(ざしき)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
37:底本は、「佐原」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
38:底本頭注に、「〇小松殿の御時 平重盛の邸に居た時。」「〇内 内裏。」とある。
39:底本頭注に、「鉦鼓を打つ役であるが、ここは銅拍子をかねと云つたのであらう。銅拍子は真鍮製の鐃鈸の形した楽器。」とある。
40:底本は、「どびやうし」。底本頭注に従い改めた。
41・50・51:底本は、「がくたう」。底本頭注に従い改めた。
43:底本頭注に、「頼朝公の家臣で寵愛されて時めいて居る。」とある。
44:底本は、「ぞくしやう」。底本頭注に従い改めた。
45:底本は、「こんくず」。底本頭注に従い改めた。
46:底本は、「したんの唐(たう)羊(ひつじ)の革(かは)にて張(は)りたる、鼓(つゞみ)のむつの緒(を)を調(しら)べを」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
47:底本は、「こん葛(くず)」。底本頭注に従い改めた。
48:底本は、「なんれうをもつてつゞりたる」。底本頭注に、「〇なんれう 南鐐。質の良い銀」とあるのと、『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い、改めた。
49:底本は、「やうでう」。底本頭注に従い改めた。
52:底本は、「舞ひたりけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
53:底本は、「はうでん」。底本頭注に従い改めた。
54:底本頭注に、「東海道。」とある。
55:底本頭注に、「〇心なし ながく舞はせるのは心なしと。」「〇せめ 迫め。終りの調子。」とある。
56:底本は、「せんずる所」。底本頭注に従い改めた。
57:底本頭注に、「義経の世。」とある。
58:底本頭注に、「〇おほけなく云々 身にあまつてふさはしからず思つた人即ち義経の跡たえて行くへもわからぬの意。前に昔を今と歌つて頼朝不興になつたので静が人の跡たえと歌つて頼朝の気色がなほつたのである。此の辺言葉足らず、恐らく脱文があらう。」「〇二位殿 頼朝の妻政子。」とある。
59:底本は、「てんりう寺」。底本頭注に「洛外嵯峨の天竜寺。」とあるのに従い改めた。
60:底本は、「遂(と)げにけり。聞く人貞女(ていぢよ)の心ざし、感(かん)じけるとも聞えける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
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