巻第七
一 判官北国落ちの事
文治二年正月の末になりぬれば、大夫判官は、六條堀川に忍びておはしける時もあり、又、嵯峨の片ほとりに忍びておはしける時もありけるが、都には、判官殿の御故に、人々多く損じければ、「義経ゆゑ、民の煩ひとなり、人あまた損ずるなれば、『いかなる所にもあり。』と聞こえばや{*1}。」とおもはれければ、「今は奥州へ下らばや。」とて、別れ別れになりける侍どもをぞ召されける{*2}。十六人は、一人も心変はりなくてぞ参りける。
「奥州へ下らんと思ふに、いづれの道にかゝりてかよからんずるぞ。」と仰せられければ、各、申しけるは、「東海道こそ名所にて候へ。東山道は節所なれば、自然の事{*3}のあらんずる時は、よけて行くべき方もなし。北陸道越前国敦賀の津に下りて、出羽国の方へ行かんずる船に便船してよかるべし。」とて道を定め、「さて、姿をばいかやうにして下るべき。」と様々に申しける中に、増尾七郎、申しけるは、「御心やすく御下りあるべきにて候はば、御出家候うて御下り候へ。」と申しければ、「終にはさこそあらんずらめども、南都勧修坊{*4}の、千度、『出家せよ。』と教化せられしを背きて、『今、身の置き所なきまゝに出家しける。』と聞こえんも恥づかしければ、このたびはいかにもして、様をもかへず下らばや。」と宣ひければ、片岡、申しけるは、「さらば、山伏の御姿にて御くだり候へ。」と申しければ、「いさとよ、それもいかゞあらんずらん。
「都を出でし日よりして、比叡山王。越前国に気比の社、平泉寺。加賀国、しも白山。越中国に、おき、くかみ。出羽の国には羽黒山とて、山社多き所なれば、山伏の行き逢ひて、一乗菩提の峯、しやかの嶽の有様、八大金剛童子のごしんさし、富士の峯、山伏の礼義などを問ふ時は、誰かきらきらしく答へて通るべき。」と仰せければ、武蔵坊、申しけるは、「それ程の事こそ易く御入り候。君は、鞍馬におはしまししかば、山伏のことは、あらあら御存じ候らん。常陸坊は、園城寺に候ひしかば、申すに及ばず。弁慶は、西塔{*5}に候ひしかば、一乗菩提のこと、あらあら存じて候へば、などか陳ぜで候べき。山伏の勤めには、せんぼふ阿弥陀経をだにも、詳らかに読み候ひぬれば、堅固{*6}苦しくも候まじ。たゞ御思し召し立たせ給へ。」とぞ申しける。
「どこ山伏と問はんずる時は、どこ山伏とかいはんずる。」「越後国直江の津は、北陸道の中途にて候へば、それよりこなたにては、『羽黒山伏の熊野へ参り、下向するぞ。』と申すべき。それよりあなたにては、『熊野山伏の羽黒にまゐる。』と申すべき。」と申しければ、「羽黒の案内知りたらん者やある。『羽黒には、どの坊に誰がしといふ者ぞ。』と問はんずるは、いかゞせんずる。」。弁慶、申しけるは、「西塔に候ひし時、羽黒の者とて、御上の坊に候ひし者、申し候ひしは、大黒塔の別当の坊に荒讃岐と申す法師に、弁慶は、ちとも違はぬ由、申し候ひしかば、弁慶をば荒讃岐と申し候べし。常陸坊をば小先達として、筑前坊。」とぞ申しける。
判官、仰せられけるは、「元より法師なれば、御辺達は、戒名せずとも苦しかるまじ。何ぞ男の頭巾、篠懸、笈かけたらんずるが{*7}、片岡あるひは伊勢三郎、増尾などといひたらんずるは、似ぬことにてあらんずるは、いかに。」「さらば、皆坊号をせよ。」とて、おもひおもひに名をぞ付けける。片岡は京の君、伊勢三郎をば宣旨の君、熊井太郎は治部の君とぞ申しける。さて上野坊、上総坊、下野坊などと云ふ名を付けてぞ呼びける。判官殿は、殊に知る人おはしければ、垢の付きたる白き小袖二つに、矢筈付けたる地白の帷子に、葛大口、村千鳥をいかりにしたる柿の衣に、ふりたる頭巾、目の際までひつこうで、戒名をば大和坊とぞ申しける。おもひおもひの出で立ちをぞしける。
弁慶は、大先達にてありければ、袖短かなる浄衣に、褐の脛巾にごんづ{*8}履いて、袴の括り高らかに結ひて、新宮やうの長頭巾をぞ懸けたりける。岩通しと言ふ太刀、あひちかにさしなして、ほら貝をぞ下げたりける。武蔵坊は、喜三太と云ふ下べを強力になして、かけさせたる笈の足に、猪の目{*9}彫りたる鉞に、刃八寸ばかり有りけるをぞ結ひ添へたる。てんしやう{*10}には四尺五寸の大太刀を、真横様にぞ置きたりける。心つきも出で立ちも、「あはれ、先達や。」とぞ見えける。総じて勢は十六人、笈十挺有り。一挺の笈には鈴、独鈷、花瓶、火舎、閼伽坏、金剛童子の本尊を納れたりけり{*11}。一挺の笈には、折らぬ鳥帽子十頭、直垂、大口等をぞ入れたりける{*12}。残り八挺の笈には、皆鎧腹巻をぞ入れたりける。
かやうに出で立ち給ふ事は、正月の末、御吉日は二月二日なり。判官殿の、「奥州に下らん。」とて、侍どもを召して、「かやうに出で立つといへども、猶も都に思ひ置く事のみ多し。中にも、一條今出川の辺にありし人は、未だありもやすらん。『具して下らん。』などいひしに、知らせずして下りなば、さこそ名残も深く候はんずらめ。苦しかるまじくば、具して下らばや。」と宣ひければ、片岡、武蔵坊申しけるは、「御供申すべきものは、皆これへ参り候。今出川には、誰か御渡り候やらん。北の御方のこと候やらん。」と申しければ、この頃の御身にては、さすがに、「そよ。」とも仰せられかねて、つくづくとうち案じ給ひてぞおはしける{*13}。
弁慶、申しけるは、「事も事にこそ、より候はんずれ{*14}。山伏の頭巾篠懸に笈かけて、女房をさきに立てたらんずるは、さしも尊き行者にも見え候まじ。又、敵に{*15}追ひかけられんその時は、女房を静かに歩ませ奉り、さきに立てたらむは、よかるまじく候。」と申しけるが、「思へばいとほしや。この人は、久我大臣殿の姫君。九つにて父大臣殿には後れ参らさせ給ひぬ。十三にて母北の方に後れ給ひぬ。その後は、乳母の十郎権頭より外に頼む方ましまさず。容顔いつくしく、御情深く渡らせたまひけれども、十六の御年までは{*16}かすかなる御住まひなりしを、いかなる風の便りにか、この君{*17}に見そめられ参らせ給ひしよりこの方、君より外に又、知る人も渡らせ給はぬぞかし。惆悵{*18}の藤は、松に離れて便りなし。三従の女は、男に離れて力なし。
「又、奥州へ下り給ひたるとても、情も知らぬ東女を見せ奉らんもいたはしく、御心の中も推量に、朧気ならでは{*19}、よも仰せられ出ださじ。さらば、具し奉りて下らばや。」と思ひければ、「あはれ、人の御心としては、上下の分別は候はず。移れば変はる習ひの候に、さらば、入らせおはしまして{*20}、事の体を御覧じて、誠にも下らせおはしますべきにても候はば、具足し参らせ給ひ候へかし。」と申しければ、判官、よに嬉しげにて、「いざ、さらば。」とて、柿の衣の上に薄衣かづき給ひて御出である。武蔵も、浄衣に衣かづきして、一條今出川の久我大臣殿の古御所へぞおはしましける。
荒れたる宿のくせなれば、軒のしのぶに露おきて、籬の梅も匂ひあり。かの源氏の大将の、荒れたる宿を尋ねつゝ、露分け入り給ひける古きよしみも、今こそ思ひ知られける{*21}。判官をば、中門の廊に隠し奉りて、弁慶は、御妻戸の際にまゐり、「人や御渡り候。」と問ひければ、「いづくより。」とこたふる。「堀川の方より。」と申しければ、御妻戸をあけて見給へば、弁慶にてぞありける。日頃は、人づてにこそ聞き給ひしに、余りの御嬉しさに、北の方、簾の際に寄り給ひて、「人は、いづくにぞ{*22}。」と問ひ給へば、「堀川に渡らせたまひ候が、『明日は、陸奥へ御下り候と申せ。』と仰せの候ひつるは。『日頃の御約束には、いかなる有様もしてこそ{*23}具足しまゐらせ候はん。』と申しては候へども、路々も差し塞がれて候なれば、人をさへ具足しまゐらせて、憂き目を見せ候はん事、痛はしく思ひまゐらせ候へば、『義経、御さきに下り候て、もし長らへて候はば、来年春の頃は、必ず御迎ひに人をまゐらせ候べし。それまでは、御心永く待たせおはしまし候へと申せ。』とこそ、仰せられ候ひつれ。」と申しければ、「この度だにも具して下り給はぬ人の、何の故にか、わざと迎ひには給はるべき。
「あはれ、下りつき給はざらん先に、老少不定の習ひなれば、ともかくもなりたらば、とても遁れざりけるもの故に、『など具して下らざりけん。』と、後悔したまひ候とも、かひあらじ。御心ざしありし程は、四国西国の波の上までも具足せられしぞかし。されば、いつしか変はる心の怨めしさよ。大物の浦とかやより都へ帰されしその後は、思ひ絶えたる言の葉を、又廻り来て{*24}、とかく慰め給ひしかば、心弱くもうち解けて、二度うき言の葉にかゝりぬるこそ悲しけれ。申すにつけて、いかにぞやとおぼゆれども、知られず知られで、我いかにもなりなば、後世までも、げに残すは罪深きことと聞くほどに、申し候ぞ。
「過ぎぬる夏の頃より、心乱れて苦しく候ひしを、『唯ならぬ。』とぞや{*25}人の申し候ひしが、月日に添へて、ゆふべも苦しくなりまされば、その隠れあるまじ。六波羅へもきこえて、兵衛佐殿は情なき人と聞けば、取りも下されざらん。北白河の静は、歌をうたひ、舞もまへばこそ、一の咎はのがれけれ。我々は、それにも似べからず。たゞ今憂き名を流さん事こそ悲しけれ。何と云ひても、人の心強きなれば力なし{*26}。」とうちくどき、涙もせきあへず仰せければ、武蔵坊も、涙に咽び給ひけり。
灯火のあかりにて、常に住みなれ給ひつる御障子の引手のもとを見ければ、御手跡とおぼえて、
つらからば我も心の替はれかしなどうき人の恋しかるらむ
とぞ遊ばされたりけるを、弁慶、これを見て、「未だ御事を{*27}ば忘れまゐらせさせ給はざりける。」と哀れにて、急ぎ判官にかくと申せば、判官、「さらば。」とておはして、「御心短かの御恨みかな。義経も、御迎へにまゐりて候へ。」とて、つと入り給ひたりければ、夢の心地して、問ふに辛さの御涙、いとどせきあへ給はず。
判官、「さても義経が今の姿を御覧ぜられば、日頃の御心ざしも興さめてこそ思し召され候はめ{*28}。あらぬ姿にて候ものを。」と仰せられければ、「あらましに聞きし御姿の、様の変はりたるやらん。」と仰せられければ、「これ御覧じ候へ。」とて、上の衣をおしのけ給ひたれば、柿の衣に小袴、頭巾をぞ著給ひける。北の方、見習はせたまはぬ御心に、疎からば、恐ろしくもおぼえぬべけれども、「さて、我をばいか様に出で立たせて具し給ふべきぞや。」と仰せられければ、武蔵坊、「山伏の同道には、少人{*29}の様にこそ作りなし参らせ候はんずれ。容顔も御つくろひ候はば、苦しくも御渡らせ{*30}候まじく候。御年の程も、よき程に見えさせおはしまし候へば、つくろひ申すべく候が、たゞ御振舞ひこそ御大事にて候はんずれ。北陸道と申すは、山伏の多き国にて候へば、花の枝などを、「これ、少人へ。」とまゐらせいはん時は、男子の言葉をならはせ給ひて、衣紋かき繕ひ、姿を男のごとくに御振舞ひ候へ。この年月のやうに、たをやかに物恥づかしき御心づき、御振舞ひにては、堅固{*31}叶はせたまひ候まじく候。」と申しければ、「されば、人の御徳に、習はぬ振舞ひをさへして、下らんずるとおもふなり。はや夜も更くるに、とくとく。」と仰せられければ、弁慶、御介錯にぞまゐりける。
いはつきといふ刀をぬきて、清水を流したる御髪のたけに余るを、御腰にくらべて、情なくも、ぶつと切る。すそをば細く刈りなして、高く結ひ上げて、薄化粧に御眉細く作り、御装束は、匂ふ色に花やうをひき重ねて、うら山吹一かさね、唐綾の御小袖、袴、浅葱のかたびらを上にぞ著せ奉る。白き大口、顕紋紗の直垂をきせ奉り、綾の脛巾に草鞋はかせ奉る。袴のくゝり高く結ひ、しらうちでの笠を著せ奉る。赤木の柄の刀に、だみたる扇さしそへ、遊ばさねども漢竹の横笛{*32}を持ち奉る。紺地の錦の経袋に法華経の五の巻を入れて、かけさせ奉る。我が御身一つだにも苦しかるべきに、万の物を取りつけ奉りたれば、しどけなげにぞ見え給ふ。これやこの、王昭君が胡国の夷に具せられて下りけん心の中も、今こそ思ひ知られける{*33}。
かやうに出で立ち給ひて、四間の御出居{*34}に灯火あまたかき立てて、武蔵坊を傍らに置きて、北の方をひき立て、御手を取りてあなたこなたへ歩ませ奉り、「義経、山伏に似るや。人は児に似たるぞ。」と仰せける。弁慶、申しけるは、「君は、鞍馬に渡らせたまひしかば、山伏にも馴れさせ給ひ候ひつれば、申すに及ばず。北の方は、いつ習はせおはしまさねども、御姿、少しも児に違はせおはしまし候はず。何事も、戒力{*35}と申す御事にて渡らせ給ひ候ひける。」と申す内にも、哀れを催す涙のしきりにこぼれけれども、さらぬ体にてぞありける。
さる程に、二月二日まだ夜深に、「今出川を出でん。」としたまふに、西の妻戸に人の音しける。「いかなる者なるらん。」と御覧ずれば、北の方の御めのと十郎権頭兼房、白き直垂に褐の袴きて、白髪まじりの髻引き乱し、頭巾うちき、「年より候とも、是非とも御供申し候はん。」とて参りたり。北の方、「妻子をば誰に預け置きて参るべき。」と宣へば、「相伝の御主を妻子に思ひかへ参らすべきか。」と申しもあへず、涙にむせびけり。六十三に成りけるまゝに、よきたけな山伏{*36}にてぞありける。兼房、涙を押さへて申しけるは、「君は、清和天皇の御末、北の方は、久我殿の姫君ぞかし。たゞかりそめに花、紅葉の御遊び、御物詣なりとも、ようの御車などこそ召さるべきに、はるばる東の路に、かちはだしにて出でたち給ふ御果報の程こそ、目も当てられず悲しけれ{*37}。」と、涙を流しければ、残りの山伏どもも、「理なり。誠に、世には神も仏もましまさぬか。」とて、各、浄衣の袖をぞ絞りける。
御手に手を取り組みて歩ませ奉れども、いつか習はせ給はねば、たゞ一所にぞおはしける{*38}。面白き事どもを語り出だして、御心を慰め奉りて、進め給ひけり。まだ夜ぶかに今出川をば出でさせ給ひけれども、八声の鳥もしどろに鳴きて、寺々の鐘の声、はやうちならす程に明けけれども、やうやう粟田口まで出で給ふ。武蔵坊、片岡に申しけるは、「いかゞせん。いざや、北の方の御足、早くなし奉るべし。」片岡に、「申せ。」と云ひければ、御前に参りて申しける様は、「かやうに御渡り候はば、道行くべしとも存じ候はず。君は、御心静かに御下り候へ。我らは御さきに下り候て、秀衡に御所造らせて、御迎へにまゐり候はん。」と申して、御さきに立たせ給ひければ、判官の仰せには、「いかに人の御名残{*39}惜しく思ひ参らせ候へども、これらに捨てられては叶ふまじ。都の遠くならぬ先に、兼房、御供して帰れ。」と仰せられて、捨て置きて進み給へば、さしも忍び給ひし御人の、御声を立てて仰せられけるは、「今より後は、道遠しとも悲しむまじ。誰に預け置きて、いづくへ行けとて捨て給ふぞ。」とて、声を立てて悲しみ給へば、武蔵、又立ち帰り、具足し奉りける。
粟田口を過ぎて、松坂近くなりければ、春の空の曙に、霞にまがふ雁の、かすかに鳴きて通りけるを聞き給ひて、判官、かくぞ続け給ふ。
みこしぢのやへの白雲かきわけてうらやましくも帰るかりがね
北の方も、かくぞつゞけ給ふ。
春をだに見すててかへる雁金のなにのなさけに音をばなくらむ
ところどころうち過ぎければ、逢坂の蝉丸の住み給ふ藁屋のとこを来て見れば、垣根にしのぶまじりの忘れ草うち交じり、荒れたる宿の事なれば、「月の影のみ昔に変はらじ。」と思ひ知られて哀れなり{*40}。軒のしのぶを取り給ひて奉り給へば、北の方、都にて見しよりも、忍ぶ哀れのうち添ひて、いとゞ哀れに思し召して、かくぞ続け給ふ。
住みなれし都を出でてしのぶ草おくしら露はなみだなりけり
かくて、大津の浦も近くなる。春の日の長きに、ひめもす「歩む、歩む。」とし給へども、関寺の入相の鐘、「今日も暮れぬ。」とうちならし、あやしの民の宿借る程になりぬれば、大津の浦にぞかかり給ひける。
校訂者注
1:底本は、「聞き、見ばや」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
2:底本は、「侍共(さぶらひども)を召(め)されける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
3:底本頭注に、「〇節所 切所。険要。」「〇自然の事 万一の事。もしもの事。」とある。
4:底本は、「くわんじゆ坊」。底本頭注に従い改めた。
5:底本頭注に、「〇君 義経。」「〇常陸坊 海尊。」「〇園城寺 三井寺。」「〇西塔 比叡山西塔宝幢院。」とある。
6:底本頭注に、「必ず。」とある。
7:底本は、「男(をとこ)の頭巾(ときん)すゞかけ笈(おひ)かけたらんずるか、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇男の 僧でない俗人。」とある。
8:底本は、「かちんの脛巾(はゞき)に、ごんづはいて、」。底本頭注に、「〇かちん 褐色。濃い紺色。」「〇脛巾 脚絆。」「〇ごんづ 乳と紐を布にこしらへた藁草履。」とあるのに従い改めた。
9:底本は、「下部(しもべ)を、強力(がうりき)になして、かけさせたる笈(おひ)の足(あし)に、ゐのめ」。底本頭注に、「〇強力 修験者の伴ふ下僕。」「〇ゐのめ 鉞に彫つた飾り。猪の目。」とあるのに従い改めた。
10:底本頭注に、「笈のてつぺん。」とある。
11:底本は、「納(い)れたりける。」。底本頭注に、「〇火舎 香炉。」「〇あかつき 閼伽坏。閼伽の水を入れて仏に奉る器。」および『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
12:底本は、「大口(おほくち)等(など)を入れたりける」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
13:底本は、「うち案(あん)じ給ひておはしける。弁慶(べんけい)申しけるは、「事も事にこそ候はんずれ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
14:底本は、「事も事にこそ候はんずれ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
15:底本は、「敵(かたき)追(お)ひかけられん」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
16:底本は、「御年(おんとし)は」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
17:底本頭注に、「義経。」とある。
18:底本は、「ちうちやう」。底本頭注に従い改めた。
19:底本は、「朧気(おぼろげ)ならでは」。底本頭注に、「〇朧気ならでは 朧気ならずの略。朧気ならでは一通りの事ではの意。」とある。
20:底本頭注に、「久我の大臣の姫君の家へ御出でになつて。」とある。
21:底本頭注に、「光源氏が父宮に後れて零落された常陸宮の姫君末摘花君を訪ねられたこと源氏物語蓬生の巻にある。」とある。
22:底本頭注に、「義経は何処に。」とある。
23:底本は、「有様(ありさま)にてこそ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
24:底本は、「又(また)廻(めぐ)り来(きた)る、とかく慰(なぐさ)め給ひしかば、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
25:底本は、「唯(たゞ)ならぬとかや」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇唯ならぬ 懐妊をいふ。」とある。
26:底本頭注に、「義経が冷淡であるから何ともせんかたがない。」とある。
27:底本頭注に、「義経の御事を。」とある。
28:底本は、「思召(おぼしめ)され給はめ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
29:底本頭注に、「稚児。寺ちご。」とある。
30:底本は、「苦(くる)しくも渡(わた)らせ候まじく候。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
31:底本頭注に、「必ず。」とある。
32:底本は、「やう笛(でう)」。底本頭注に従い改めた。底本頭注に、「〇だみたる 彩りたる。彩色絵のある。」「〇遊ばさねど 笛は吹かれないが。」とある。
33:底本は、「さこそと思ひ知られけれ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
34:底本は、「四間(よま)の御出居(おんで)ゐ」。底本頭注に、「〇四間 正殿に接する間。」「〇御出居 客に対面する室。」とある。
35:底本は、「かいりき」。底本頭注に、「戒力。戒律を守つた力の義であるがこゝは仏の力を云ふ。」とあるのに従い改めた。
36:底本頭注に、「年の盛りすぎた山伏。」とある。
37:底本は、「悲し」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
38:底本頭注に、「歩みの捗らぬをいふ。」とある。
39:底本頭注に、「恋しき人の御名残。」とある。
40:底本は、「哀(あは)れなる。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
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