二 大津次郎の事

 こゝに又、うき事ぞ出で来たる。「天に口なし、人をもつていはせよ。」と。誰が披露するとしもなけれども、「判官、山伏になりて、その勢十余人にて、都を出で給ふ。」と聞こえしかば、大津の領主山科左衛門、園城寺の法師をかたらひて、城郭を構へて相待つ。されども判官は、大津のなぎさに大きなる家あり。これは、塩津、海津、山田、矢走、粟津、松本に聞こえたる商人の宗徒の者、大津次郎と申す者の家なり。弁慶、宿を借らせけるは、「羽黒山伏の、熊野に年篭りして、下向し候。宿をたび候へ。」と借らせたりければ、宿づたふ習ひなれば、左右なく{*1}宿を参らせたり。さ夜うち更けて、せんぼふ阿弥陀経を同音にぞよみ給ひける。これぞ勤めの始めなる。
 大津次郎は、左衛門の召しにて城にあり。大津次郎が妻、物ごしに見奉りて、「あら、いつくしの山伏児や。遠国の道者とは宣へども、衣裳のいつくしさよ。いかにも只人にはあらず。但し判官殿、山伏になりて下り給ふなるに、山伏大勢とゞめて、城に聞こえては、身のためも大事なり。次郎を呼びて、この事を知らせて、判官にてましまさば、城まで申さずとも、私にも討ちても搦めても、鎌倉殿の見参に入れて、勲功に与かりたらば、しかるべき。」と思ひければ、城へ使を遣はして、男{*2}を呼び寄せて、一間なる所へ招きて云ひけるは、「時しもこそ多けれ、今夜しもわれわれ、判官殿に宿を借しまゐらせて候は、いかゞせんずる。御辺の親類、我が兄弟を集めて、搦めばや。」とぞ申しける。男、申しけるは、「『壁に耳、石に口。』と云ふ事あり。判官殿にておはすればとて、何か苦しかるべき。搦め参らせたればとて、勲功もあるまじ。誠の山伏にて渡らせ給ふに付いては、金剛童子の恐れもあり。げに又、判官殿にておはしませばとて、忝くも鎌倉殿の御弟にてましませば、恐れあり。我が思ひかゝり奉りても、たやすかるべき事ならず。かしがまし、かしがまし。」とぞいひける。
 女、これを聞きて、「ぢたい、わ男は、妻子に甲斐甲斐しくあたるばかりを本とする男なり。女の申す事は、上つ方の御耳に入らぬ事やある。城へ出で、さらば参りて申さん。」とて、小袖取つてうちかけ、やがて走り出でてぞ{*3}行きける。大津次郎、これを見て、「きやつを放し立てては悪しかりなん。」とや思ひけん、門の外に追ひつきて、「汝{*4}、今に始めたる事か。風になびく苅萱、男に従ふ女。」とて、ひき伏せて、心のゆくゆくぞさやなみける{*5}。かの女は、極めたるえせ者なりければ、大路に倒れて喚きけるは、「大津次郎は、極めたるひが事の奴にて候ぞ。判官の方人するぞ。」とぞ申しける。所の者、これを聞きて申しけるは、「大津次郎の女こそ、例の酔狂ひして、男に打たるゝとてをめくは。又多くの法師の歎きともならんや。唯放し合はせて打たせよ。」とて、とりさふる者なければ、ふすふす{*6}打たれて臥しにけり。
 大津次郎は、直垂取りて著て、御上に参りて、火うち消して申しけるは、「かかる口惜しき事こそ御座候はね。女めが、物に狂ひ候。これ、聞こし召され候へ。何とも御渡り候へ。今夜はこれにて明かさせたまひて、明日の御難をば、何として遁れさせ給ひ候べき。これに山科左衛門と申す人、城郭を構へて判官殿を待ち申し候。急ぎ御出で候へ。これに小舟を一艘持ちて候に、召され候ひて{*7}、客僧達の御中に、舟に心得させたまひて候はば、急ぎ御出で候へ。」と申しける。弁慶、申しけるは、「身に誤りたる事は候はねども、左様に所に煩ひ候はんずるには、取りおかれ候ては、日数も延び候はんず。さ候はば、暇を申す。」とて、出でたまひければ、「舟をば海津の浦にめし捨てて、とく荒乳の山を越えて、越前国へ入らせ給へ。」と申しける。判官、出でさせ給へば、大津次郎も船津に参り、御船をこしらへてぞ参らせける。
 かくて大津次郎、山科左衛門のもとに走り帰りて申しけるは、「『海津の浦に、弟にて候者、中夭{*8}に逢ひて、疵を蒙りて候。』と承り候間、暇申して、別の事候はずば、やがてこそまゐり候はん。」と申しければ、「それ程の大事は、疾く疾く。」とぞ申しける。大津次郎、家に帰りて、太刀取つて脇に挟みて、矢かき負ひ、弓おし張り、御舟にをどり入つて、「御供申し候はん。」とて、大津の浦をおし出だす。瀬田のかは風烈しくて、舟に帆をぞ掛けたりける{*9}。大津次郎、申しけるは、「こなたは、あはづ大わうの立てたまふ石のたうさん。こゝに見え候は、辛崎の松。あれは、此叡山。」と申す。山王の御宝殿を顧み給へば、「そのゆくさきは、竹生島。」と申して、拝ませ奉る。
 風に任せて行く程に、夜半ばかりに西近江、いづくとも知らぬ浦を過ぎゆく程に、磯浪の聞こえければ、「こゝは、いづくぞ。」と問ひ給へば、「近江国堅田の浦。」とぞ申しける。北の方、これを聞こし召して、かくぞ続け給ひける。
  鴫がふすいさはの水のつもりゐて堅田の浪のうつぞやさしき
白鬢の明神を、よそにて拝み奉り、参河の入道寂照{*10}が、
  うづらなく真野の入江のうら風にをばななみよる秋の夕暮
と云ひけん古き心も、今こそ思ひ知られけれ。
 今津の浦をこぎ過ぎて、海津の浦にぞ{*11}著きにける。十余人の人々をあげ奉りて、大津次郎は、御暇申すなり。こゝに、不思議なる事あり。南より北へ吹きつる風の、今又、北より南へぞ吹きける。判官、仰せられけるは、「きやつは、同じつぎの者{*12}ながらも、情あるものかな。知らせばや。」と思し召し、武蔵坊を召して、「知らせて下らば{*13}、後聞きて、哀れとも思ふべし。知らせばや。」と宣へば、弁慶、大津次郎を招きて、「わ君なれば、知らするぞ。君にて渡らせ給ふなり。道にてともかくもならせ給はば、子孫の守りともせよ。」とて、笈の中より、萌黄の腹巻に小覆輪の太刀を取り添へてぞ賜びにける。大津次郎、これを賜はつて{*14}、「いつまでも御供申したく候へども、なかなか君の御ため、あしく候はんずれば、暇申して、いづくにも君の渡らせおはしまさん所を承りて、参りて見参らせ候はん。」とて帰りけり。下臈なれども、情ありてぞおぼえける。
 大津次郎は、家に帰りて見ければ、女は、一昨日の腹をすゑかねて、未だ臥してぞ居たりける。大津次郎、「や、御前、御前。」といひけれども、音もせず。「あはれ、わ女は、せんなき事を思ふなり。山伏止めて、判官殿と号して、既に憂き目を見んとせしよな。舟に乗せて海津の浦まで送り、船賃などと責めければ、法もなく物をいひつる間、憎さに、かなぐり取りたる物を見よ。」とて、太刀と腹巻とを取り出だして、かばと置きければ、寝乱れ髪の隙より、恐ろしげなる眼しばたゝき、さすがに今は、心地取り直したる気色にて、「それも、わらはが徳にてこそあれ。」とて、大笑みにゑみたる面を見れば、余りにうとましくぞありける。
 男、いふとも、女の身にては、「いかゞ。」など制しこそすべきに、思ひ立ちぬるこそ恐ろしけれ。

三 荒乳山の事

 判官は、海津の浦を立ち給ひて、近江国と越前の堺なる、荒乳の山へぞかゝり給ふ。をととひ都を出で給うて、大津の浦につき、昨日は御舟に召され、舟心にそんじ給ひて、歩み給ふべきやうぞなき。
 荒乳の山と申すは、人跡たえて、古木たち枯れ、巌石峨々として、路すなほならぬ山なれば、岩角をそばだてて、木の根は枕を並べたり。いつ踏み習はせ給はねば、左右の御足より流るゝ血は、紅を注ぐが如くにて、あらちの山の岩角、染めぬ所ぞなかりける。少々の事こそ柿の衣にもおそれけれ{*15}、見奉る山伏ども、あまりの御痛はしさに、時々かはりがはりぞ負ひ奉りける。かくて、山深く分け入り給ふ程に、日も既に暮れにけり。路のほとり二町ばかり分け入つて、大木の下に敷皮をしき、笈をそばだてて、北の方を休め奉る。
 北の方、「おそろしの山や。これをば何山といふやらん。」と問ひたまへば、判官、「これは、昔はあらしいの山{*16}と申しけるが、当時はあらちの山と申す。」と仰せければ、「面白や。昔はあらしいの山といひけるを、何とてあらちの山と名づけけん。」と宣へば、「この山は、あまり巌石にて候程に、東より都に上り、京より東に下る者の、足を踏み損じて血を流す間、あらちの山とはまうしけるなり。」と宣へば、武蔵坊、これを聞きて、「あはれ、これ程跡形なき事を仰せ候御事は候はず。人の足より血を踏み垂らせばとて、あら血の山と申し候はんには、日本国の巌石ならん山の、あらちの山ならぬことは候はじ。この山の仔細は、弁慶こそよく知りて候へ。」と申しければ、判官、聞き給ひて、「それ程知りたらば、しらぬ義経にいはせんよりも、など疾くよりは申さぬぞ。」と仰せければ、「弁慶、申し候はんずる所を、君の遮りて仰せ候へば、いかでか弁慶、申すべき。
 「この山をあら血の山と申す事は、加賀の国に、しも白山と申すに、女体こうの、りうぐうの宮とておはしましけるが、志賀の都にして、辛崎の明神に見えそめられ参らせ給ひて、年月を送り給ひける程に、懐妊、既にその月近くなり給ひしかば、『同じくは我が国にて誕生あるべし。』とて、加賀国へ下り給ひける程に、この山の禅定{*17}にて、俄に御腹の気、つき給ひけるを、明神、「御産近づきたるにこそ。」とて、御腰を抱き参らせたまひたりければ、即ち御産なりてけり。その時、産のあら血{*18}をこぼさせ給ひけるによりて、あら血の山とは申し候へ。さてこそあらしいの山、あら血の山のいはれ、知られ候へ。」と申しければ、判官、「義経も、かくこそ知りたれ{*19}。」とて、笑ひ給ひけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「〇宿づたふ習ひ 僧には次々と宿々で宿をかす習慣。」「〇左右なく 事なく。」とある。
 2:底本頭注に、「夫。大津次郎をいふ。」とある。
 3:底本は、「走(はし)り出(い)でて行きける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 4:底本は、「よかれ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「気の晴れるまで打擲した。さやなみはさいなみで叱責するをいふ。」とある。
 6:底本頭注に、「〇とりさふる 仲裁して支へとめる。」「〇ふすふす 打擲する音。」とある。
 7:底本は、「召(め)されて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 8:底本は、「ちうよう」。底本頭注に、「中夭。非常な不運の災難。」とある。
 9:底本は、「帆(ほ)をあげたりける」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 10:底本頭注に、「〇白鬢の明神 近江国比良山の麓。」「〇参河の入道寂照 大江定基の法名。」「〇うづらなく云々 金葉集に見えて源俊頼の歌である。」とある。
 11:底本は、「海津(かいづ)の浦に著(つ)きにける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇海津の浦 近江国琵琶湖の北岸。越前街道に当る。」とある。
 12:底本頭注に、「〇つぎの者 下賤の者。」とある。
 13:底本は、「知らせで下らば、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 14:底本は、「給ひて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 15:底本頭注に、「女人を負ふなどは精進潔斎すべき山伏の柿の衣に対して恐れたが。」とある。
 16:底本は、「あらしい山」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 17:底本は、「せんぢやう」。底本頭注に、「山頂か、山上か。或は禅定で登山者の禅定修行する所か。」とあるのに従い改めた。底本頭注に、「〇御腹の気 御産気。」とある。
 18:底本頭注に、「〇あら血 分娩の時に出る血。」とある。
 19:底本は、「かくこそ知りたり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。