四 三の口の関とほり給ふ事

 夜もすでに明けければ、荒乳の山を出で、越前国へ入り給ふ。荒乳の山の北の腰に、若狭へ通ふ道あり。のうみ山に行く道もあり。そこを三の口とぞ申しける。越前国の住人敦賀兵衛、加賀国の住人井上左衛門、両人うけたまはりて、荒乳の山の関屋をこしらへて、夜三百人、昼三百人{*1}の関守をすゑて、関屋の前に乱杭を打ちて、色も白く、向歯のそりなどしたる者をば、道をもすぐにやらず、「判官殿。」とて搦め置きて、糾問してぞひしめきける。みち行く人の、判官殿を見奉りては、「この山伏たちも、この難をば、よも遁れ給はじ。」とぞ申しける。
 聞くにつけても、いとゞ行く先も物憂く思し召しける所に、越前の方より、浅黄の{*2}直垂著たる男の、立て文持ちて忙はしげにてぞ行き逢ひける。判官、これを見給ひて、「なにともきやつは、仔細ありて通る奴にてあるぞ。」と宣ひける。笠の端にて顔かくして、「通さん。」とし給ふ所に、十余人の中を分け入りて、判官の御前にひざまづきて、「かかることこそ候はね。君は、いづくへとて御下り候ぞ。」と申しければ、片岡、申しけるは、「君とは誰そ。この中に、汝に君とかしづかるべき者こそおぼえね。」と云ひければ、武蔵坊、これを聞きて、「京の君の事か、宣旨の君のことか。」といひければ、かの男、「何しにかくは仰せ候ぞ。君をば見知り参らせて候間、かくは申し候ぞ。これは、越後国の住人上田左衛門と申す人の内に候ひしが、平家追討の時も御供仕りて候ひし間、見知り奉り候。壇の浦の合戦の時、越前と能登、加賀三箇国の人数、著到{*3}つけ給ひし武蔵坊と見奉るは、ひが事か。」と申せば、いかに口ききたる弁慶も、力なくて伏目になりにけり。
 「せんなき御事かな。この道の末には、君を待ち参らせ候ものを。たゞこれより御帰り候へかし。この山の峠より東へ向うて、のうみ越にかゝりて、燧が城へ出で、越前国こふにかゝりて、平泉寺を拝み給うて熊坂へ出で、すかうの宮をよそに見て、かなづのうは野へ出で、篠原、安宅のわたりをせさせ給ひて、根上がりの松を眺めて、白山の権現をよそにて礼したまひ、加賀国宮のこしに出でて、大のの渡りしたまひて、あをがさきの橋を越えて、たけの、栗殻山を経て、くろさか口の麓をこいしやうに懸りて、六どうじの渡りして、なごの林を眺めて、いはせの渡り、四十八が瀬を越え、宮崎の郡をいちふりにかゝりて、蒲原、ながいしかと申す難所を経て、能生の山{*4}をよそに伏し拝み給ひ、越後国国府につきて、直江の津より舟に召して、よな山をおきがけに、三十三里のかりや浜、かづき、しらさきを漕ぎ過ぎて、寺泊に舟をつけ、国上、弥彦{*5}を拝みて、九十九里の浜にかゝりて、乗足、蒲原、八十里の浜、せなみ、あらかは、いはふねといふ所に著きて、須戸、鵜渡路は、雪白水に山河増さりて{*6}叶ふまじ。いはひがさきにかゝりて、おちむつや、なかざか、ねんじゆの関、大泉の荘、大ほんじを通らせ給ひて、羽黒の権現をふし拝み参らせ、清河と云ふ所につきて、すぎのをか舟に棹さして、あいかはの津につかせ給ひて、道は又、二つ候{*7}。
 「最上の郡にかゝりて、いなの関をこえて、宮城野の原、躑躅のをか、ちかの塩釜、松島と申す名所名所見たまひては、三日、横道にて候。かなよりの地蔵堂、かめわり山を越えては、むかし出羽の郡司が娘、小野小町と申す者の住み候ひける玉造、むろの里と申す所、また、小町が関寺に候ひけるとき、業平の中将、あづまへ下り給ひけるに、妹の姉葉がもとへ文かきてことづてしに、中将、下り給ひて、姉葉をたづね給へば、『むなしくなりて、年久しく成りぬ。』と申せば、『姉葉がしるしはなきか。』と仰せられければ、ある人、『墓に植ゑたる松をこそ、あねはの松とは申し候へ。』と申しければ、中将、あねはが墓に行きて、松の下に文を埋づめてよみ給ひける歌、
  くり原やあねはの松の人ならばみやこの苞にいざといはましを
とよみ給ひける名木を御覧じては、松山一つだにも越えつれば{*8}、秀衡が館は、近く候。理に枉げて、この道にかゝらせ給ふべし。」と申しければ、判官、これを聞き給ひて、「これは、唯者にてはなし。八幡の御計らひとおぼゆるぞ。いざや、この道にかゝりてゆかん。」と仰せられければ、弁慶、申しけるは、「かゝらせ給ふべき。わざと憂き目を御覧ぜんと思し召されば、かゝらせ給ふべし。きやつは、君を見知り参らせ候においては、疑ひもなき作り事をして、君をたばかり参らせんとこそするとおぼえ候。先へやりても、後へかへしても、よき事はあるまじ。」と申しければ、「よきやうに計らへ。」とぞ仰せられける。
 武蔵坊、立ちそひて、「どの山を、どのはざまにかゝりて行かんずるぞ。」と問ふやうにもてなし、弓手の腕をさしのべて、たて首を掴み、さか様に取つて伏せ、こはむねを踏まへて、刀をぬきて、むなもとにさしあてて、「おのれ、有りのまゝに申せ。」と責めければ、震ひ震ひ申しけるは、「誠には、上田左衛門が内に候ひしが、恨むること候て、加賀国井上左衛門が内に候{*9}。『君を見知りまゐらせて候。』と申して候へば、『罷り向ひまゐらせて、賺しまゐらせ候へ。』と仰せられ候へども、いかでか君をばおろかに存じ参らすべき。」と申しければ、「それこそ己が後ろごとよ。」とて、まん中二刀さし貫き、首掻き放し、雪の中に踏み込みて、さらぬ体にてぞ通り給ふ。井上が下人平三郎と云ふ男にてぞありける。「余りに下郎の口ききたるは、かへつて身を食む。」とは、これなり。
 さて十余人の人々、「とてもかくても。」とうちふてて、関屋{*10}をさしてぞおはしける。十町ばかり近づきて、勢を二手に分けたりけり。判官殿の御供には武蔵坊、片岡、伊勢三郎、常陸坊、これを初めとして七人。今一手には、北の方の御供して、十郎権頭、根尾、熊井、亀井、駿河、喜三太御供にて、そのあひ五町ばかりぞ{*11}隔てける。先の勢は、木戸口に行き向ひたりければ、関守、これを見て、「すはや。」といふこそ久しけれ、百人ばかり、七人をなかに取りこめて、「これこそ判官殿よ。」と申しければ、繋ぎ置かれたる者ども{*12}、「行方も知らぬ我らに憂き目を見せ給ふ、これこそ判官の正身よ。」と喚きければ、身の毛もよだつばかりなり。
 判官、進み出でて仰せられけるは、「そもそも羽黒山伏の、何事をして候へば、これ程に騒動せられ候やらん。」と宣へば、「何條、羽黒山伏。判官殿にてこそおはしませ。」と申しければ、「この関屋の大将軍は、誰殿と申すぞ。」と問ひ給へば、「当国の住人敦賀兵衛、加賀国の井上左衛門と申す人にて候へ。兵衛は、今朝下り候ひぬ。井上は、金津におはする。」と申しければ、「主もおはせざらんところにて、羽黒山伏に手かけて、主に禍ひかくな。その儀ならば、この笈の中に羽黒の権現の御正体、観音のおはしますに、この関屋を御むろ殿とさだめて、八重のしめを引きて、御榊をふれ。」とぞ仰せられける。関守ども、申しけるは、「げに判官にておはしまさずは、そのやうをこそ仰せらるべく候に、主に禍ひをかくべからんやうは、いかにぞ。」と咎めける。弁慶、これを聞きて、「かたの如く先達候はんずる上は、小法師ばら{*13}が申す事を御咎め候ては、詮なし。やあ、大和坊。そこ退き候へ。」とぞ申しける。いはれて、関屋の縁にぞ{*14}居たまへる。これこそ判官にておはしましけれ。
 弁慶、申しけるは、「これは、羽黒山の讃岐坊と申す山伏にて候が、熊野に参りて年篭りして、下向申し候。九郎判官殿とかやをば、美濃国とやらん、尾張国とやらんより生け捕りて、都へ上るとやらん承り候ひしが、羽黒山伏が判官といはるべきやうこそなけれ。」と云ひけれども、何と陳じたまへども、弓に矢をはげ、太刀長刀の鞘をはづしてぞ居たりける。あとの人々も、七人連れてぞ来たりける。いとゞ関守ども、「さればこそ。」とて、「大勢の中に取り篭めて、たゞうち殺せ。」と喚きければ、北の方、消え入る心地し給ひけり。
 ある関守、申しけるは、「暫く静まり給へ。判官ならぬ山伏殺して、後の大事なり。関手を乞うて見よ。昔より今に至るまで、羽黒山伏の渡し賃、関手なす事はなきぞ。判官ならば、仔細を知らずして、関手をなして通らんと急ぐべし。現の山伏ならば、よも関手をばなさじ{*15}。これをもつて知るべき。」とて、さかさかしげなる男、進み出でて申しけるは、「所詮山伏なりとても、五人三人こそあらめ、十六、七人の人々に、いかでか{*16}関手を取らではあるべき。関手なして通り給へ。鎌倉殿の御教書にも、甲家乙家を嫌はず{*17}関手を取りて、関守どもの兵粮米にせよと候間、関手を賜はり候はん。」とぞ申しける。
 弁慶、いひけるは、「事新しき事を承り候ものかな。いつの習ひに、羽黒山伏の関手なす法やある。例なきことは叶ふまじき。」といひければ、関守ども、これを聞きて、「判官にては{*18}おはせぬ。」と云ふもあり、あるひは、「判官なれども、世に越えたる人にておはしませば、武蔵坊などいふ者こそ、かやうに陳ずらめ。」など申す{*19}。又、ある者、出でて申しけるは、「さ候はば、関東へ人を参らせて、左右を承り候はん程{*20}、これに留め置き候はん。」と申しければ、弁慶、「これは、金剛童子の御計らひにてこそ。関東の御使、上下の程、関屋の兵粮米にて、道饌{*21}食はで、御祈祷申して、心安く暫く休みて下るべし。」とて、ちつとも騒がず、十挺の笈をば関屋の内に取り入れて、十余人の人々、むらむらと内に入つて、つくとしてぞ居たる。
 猶も関守、怪しくおもひけり。弁慶、関守に向つて、問はず語りをぞ申し居たる。「この少人は、出羽国の坂田次郎殿と申す人の君達、羽黒山にて金王殿と申す少人なり。熊野にて年篭りして、都にて日数をへて、北陸道の雪きえて、山家山家に伝ひて、粟の斎料などたづねて、斎食{*22}などなりとも取りて下るべく候ひつるに、余りにこの少人、故郷のことをのみ仰せられ候間、いまだ雪も消え候はねども、この道に思ひ立ち候て、いかゞせんと歎き候ひつるに、これにて暫く日数を経候はんことこそ嬉しく候へ。」と、物語などして、草鞋をぬぎて洗足し、思ひ思ひに寝ぬ起きぬなど、したり顔に振舞ひければ、関守ども、「これは、判官殿にては{*23}おはせぬ気なり。たゞ通せや。」とて、関の戸を開きたれども、急がぬ体にて、一度には出でずして、一人づゝ、二人づゝ、静かにたち休らひたち休らひぞ出で給ふ。
 常陸坊は、人より先に出でたりけるが、あとをかへり見ければ、判官と武蔵坊が、未だ関の縁にぞ居給へり。弁慶、申しけるは、「関手御免候上、判官にてはなしといふ仰せ、かうぶり候ひぬ。かたがたもつて喜び入つて候へども、この二、三日、少人に物参らせ候はず候へば、心苦しく候。関屋の兵粮米、少し賜はり候て{*24}、少人に参らせて通り候はばや。かつうは御祈祷、かつうは御情にてこそ候へ。」と云ひければ、関守ども、「物もおぼえぬ山伏かな。判官かと申せば、口ごはに返事し給ふ。又、斎料乞ひ給ふ事は、いかゞ。」と申しければ、長しき者{*25}、「まことは御祈祷にてこそあれ。それ、参らせよ。」と云ひければ、唐櫃の蓋に白米一ふた入れて参らせける。弁慶、これを取つて、「大和坊、これを取れ。」といひければ、傍らよりさし出でて、請け取り給ひけり。
 弁慶、長押の上につい居て、腰なる法螺貝取り出だし、おびたゞしく吹きならし、首にかけたる大苛高の数珠{*26}とつておし揉みて、尊げにぞ祈りける。「日本第一大りやう権現、熊野は三所権現、大峯八大金剛童子、葛城は十万の満山の護法神{*27}、奈良は七堂の大伽藍、初瀬は十一面観音、稲荷、祇園、住吉、賀茂、春日大明神、比叡山王七社の宮。願はくは、判官、この道にかけ参らせて、荒乳の関守の手にかけて留めさせ奉り、名を後代に上げて、勲功大魁{*28}ならば、羽黒山の讃岐坊が験徳の程を見せ給へ。」とぞ祈りける。関守ども、これを聴聞し、さも頼もしげにぞ思ひける。心中には、「八幡大菩薩。願はくは、送り護法、迎ひ護法{*29}となりて、奥州まで左右なく届け奉り給へ。」と祈りける心の中こそ、哀れなる祈りとはおぼゆれ。夢に道行く心地して、荒乳の関をも通り給ふ。
 その日は、敦賀の津に下りて、せいたい菩薩の御前にて、一夜御通夜有りて、出羽へ下る舟を尋ね給へども、未だ二月の初めの事なれば、風烈しくして、行き通ふ舟もなかりけり。力及ばず、夜を明かして、木辺といふ山を越えて、日数も経れば、越前国の国府にぞつき給ふ。それにて三日、御逗留ありけり。

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校訂者注
 1:底本は、「昼(ひる)二百人」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 2:底本は、「あさぎ直垂(ひたゝれ)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改め、補った。
 3:底本頭注に、「出陣の時馳せ集まつた軍勢の名を書き留めること。」とある。
 4:底本は、「のうみの山」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 5:底本は、「くりみやいし」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 6:底本は、「すと、うとみちは、ゆきしろみづに山河まさりて」。『義経記』(1992年岩波書店刊)本文および頭注に従い改めた。
 7:底本は、「二つと、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 8:底本は、「越えつれ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 9:底本は、「上田左衛門に候ひしが、恨むること候て、加賀国井上左衛門が内に候ひしを、見知り」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改め、補った。
 10:底本頭注に、「〇とてもかくても どうでもかうでも。」「〇うちふてて 不敵な心を起して。」「〇関屋 関所の番所。」とある。
 11:底本は、「五町ばかり隔(へだ)てける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 12:底本頭注に、「嫌疑によつて留めおかれた者。」とある。
 13:底本は、「山法師(やまほふし)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改め、補った。
 14:底本は、「関屋(せきや)の縁(えん)に居たまへる、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 15:底本は、「関手(せきて)をばなさじと、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。「〇関手 関銭。関所を通る人から徴収した金銭。」とある。
 16:底本は、「いかで関手を」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 17:底本は、「かうけをつけきらはず、」。底本頭注に、「〇かうけ云々 権貴の人でも卑しい家柄の人でも。」とある。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改め、補った。
 18:底本は、「判官(はうぐわん)にておはせぬ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 19:底本は、「なぞ申す。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 20:底本頭注に、「とかくの御差図を承る間。」とある。
 21:底本は、「道(だう)せんくはで、」。底本頭注および『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 22:底本は、「さいじき」。底本頭注に従い改めた。底本頭注に、「〇斎料 僧の食事にあてる材料又は食。」とある。
 23:底本は、「判官殿(はうぐわんどの)にておはせぬ気(げ)なり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇おはせぬ気 おありでない様子。」とある。
 24:底本は、「賜ひ候て、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 25:底本は、「長敷物(をさしきもの)」。底本頭注に、「頭らしき者。」とあるのに従い改めた。
 26:底本は、「大苛高(おほいらたか)の数珠(ずじゆ)」。底本頭注に、「粒の大きく平たい珠数。」とある。
 27:底本は、「ごほふ神、」。底本頭注に従い改めた。
 28:底本は、「たいくわい」。底本頭注に従い改めた。
 29:底本は、「送りこう迎ひこう」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。