五 平泉寺御見物の事

 「横道なれども、いざや、当国に聴こえたる平泉寺を拝まん。」と仰せける。各、心得ず思ひけれども、仰せなれば、「さらば。」とて、平泉寺へぞかゝられける。その日は雨ふり風吹きて、世間もいとゞものうく、夢に辿る心地して、平泉寺の観音堂にぞつき給ふ。大衆ども、これを聞きて、長吏のもとにぞ告げたりける。政所{*1}の勢を催して、寺中と一統になりて僉議しけるは、「当時、関東の山伏禁制にて候に、この山伏は、たゞ人とも見えず。判官は、大津、坂本、荒乳の山も通られて候なり。寄せて見ばや。いかさまにも、これは判官にておはするとおぼえ候。」と僉議す。「尤も。」とて、大衆、出でたつ。
 かの平泉寺と申すは、山門の末寺なり。されば、衆徒の規則も山上に劣らず。大衆二百人、政所の勢も百人{*2}、ひたかぶとにて、夜半ばかりに観音堂にぞ押しかけたる。十余人は、東の廊下にぞ居たりける。判官と北の方は、西の廊下にぞ{*3}おはしたる。弁慶、参りて、「今はこそとおぼえ候{*4}。これは、余の所には似べくも候はず。いかゞ御計らひ候。さりながら、叶はざるまでは、弁慶、陳じて見候はん間、叶ふまじげに候はば、太刀をぬき、『憎い奴ばら。』など申して、飛んでおり候はば、君は、御自害候へ。」とぞ申して出でける。大衆に問答の間、「『にくい奴ばら。』といふ声や{*5}する。」と、耳を立ててぞ聞き給ふ。心細くぞありける。
 衆徒、申しけるは、「そもそもこれは、どこの山伏にて候ぞ。うち任せては、止まらぬ所にて候に{*6}。」と申しければ、弁慶、申しけるは、「出羽国羽黒山の山伏にて候。」「羽黒には誰と申す人ぞ。」「大黒堂の別当に讃岐阿闍梨と申すものにて候。」と答へけり。「少人{*7}をば誰と申し候ぞ。」「坂田次郎殿と申す人の御子息金王殿とて、羽黒山には隠れなき少人にて候ぞ。」といひければ、衆徒、これを聞きて、「この者どもは、判官にてはなきものぞ。判官にておはしまさんには、いかでかこれ程に羽黒の案内をば知り給ふべき。金王と申すは、羽黒に名誉の児にて候なるぞ。」。
 長吏、事を聞きて、座敷に居なほりて、武蔵坊を呼びて、「先達の坊に申すべき事候。」といへば、弁慶も、長吏に膝をくみかけてぞ居たりける。長吏、申されけるは、「少人の事、承り候こそ、心もことばも及ばずおはしまし候なれ。学問の精{*8}は、いかやうにおはしまし候ぞ。」といひければ、「学問においては、羽黒にはならびもおはしまし候はず。申すにつけても、過言にては候へども、容顔においては、山、三井寺にもおはしまし候べき。」と誉めたりけり。「学問のみにも候はず。横笛においては、日本一とも申すべし。」と云ひければ、長吏の弟子に泉美作と申しける法師は、極めて案ふかき、寺中一のえせもの{*9}なり。長吏に申しけるは、「女ならばこそ、琵琶ひくことは常の事にて候。これは女ぞと疑ふ所に、笛の上手と申すこそ怪しく候へ。げに児か、笛を吹かせて見候はん。」と申す。長吏、「げにも。」とて、「あはれ、さ候はば、音に聞こえさせ給ふ御笛を承り候て、世の末の物語にも伝へ候はばや。」とぞ申されける。
 弁慶、これを聞きて、「易きことや。」と返事はしたれども、両眼まつ暗になるやうにぞおぼえける。さてしも有るべきことならねば、「そのやうを少人に申し候はん。」とて、西廊下に参りて、「かかる事こそ候はね。ありてもあらぬことを申して候ほどに、『御笛、遊ばさせまゐらせて、承るべき。』よし、申し候。いかゞ仕るべく候。」と申しければ、「さりとては、吹かずとも出で給へ。」と、判官{*10}、仰せられければ、「あら、心憂や。」とて、衣ひき被き、ふし給ふ。衆徒も、しきりに、「少人の御出で、おそく候。」と申せば、弁慶、「唯今、唯今。」と答へて居たり。
 泉と申す法師、いひけるは、「さすがに吾が朝には、熊野、羽黒とて、大所にて候ぞかし。それに左右なく名誉の児を、平泉寺にて呼び出だして、さんざんに嘲弄したりけると聞こえん事、この寺の恥にあらずや。少人を出だし奉り、もてなすやうにて、そのついでに吹かせたらんは苦しからじ。」と申しければ、「尤もしかるべし。」とて、長吏のもとに、ねんいち、みたわとて、名誉の児あり。花折りて出でたたせ、若大衆の肩首{*11}に乗りてぞ来りける。
 正面の座敷、長吏、東は政所、西は山伏、本尊を後ろにし奉りて、仏壇の際に南へ向けて、少人の座敷をぞしたりける。二人のちご、座敷になほりければ、弁慶、参りて、「御出で候へ。」と申しければ、北の方、たゞ闇にまよひたる心地して、出で立ちたまふ。昨日の雨にしをれたる顕紋紗の直垂に、下には白なへ色の衣を召したりければ、なほも美しくぞ見え給ひける。御髪尋常に結ひなして、赤木の柄の刀に、だみたる扇さしそへて、御手に横笛持ちて御出であり。御供には十郎権頭、片岡、伊勢三郎。判官殿は、殊に近くぞおはしける。「自然の事{*12}あらば、人手にはかくまじきものを。」とぞ思し召しける。正面に出でたまへば、殊にその時は、火を高く挑げたり。北の方、扇取り直し、衣紋かきつくろひ、座敷に直り給ふ。今までは、かたくなはしき所もおはしまさず。武蔵坊、心安く思ひけり。「何ともあれ、し損ずる程ならば、さし違へて、いかにもならめ。」とおもひければ、長吏に膝をきしりてぞ居たりける。
 弁慶、申しけるは、「ことば候はぬこと{*13}、笛においては日本一ぞかし。たゞし、仔細ひとつ候。この少人、羽黒におはしまし候時も、明け暮れ笛にのみ心を入れて、学問の御心もそらそらに御渡り候ひしほどに、去年の八月に羽黒を出でしとき、師の御坊、『今度の道中、上下向の間、笛を吹かじと云ふ誓ひごとをなし給へ。』とて、権現の御前にて鐘を打たせ奉りて候へば、少人の御笛{*14}をば御免候へかし。これに、大和坊とまうす山伏の候が、笛の上手にて候。常に少人も、これにこそ御習ひ候へ。御代官に、これを参らせ候はばや。」と申しければ、長吏、これを聞きて、感じ申しけるは、「あはれ、人の親の子を思ふみちあり。師匠の弟子を思ふ心ざし、これなり。いかでか御いたはしく、それ程の御誓ひをば、これにて破り参らせ候べき。とくとく御代官にても候へ。」と申しければ、武蔵坊、余りの嬉しさに、腰を抑へ、空へ向ひて溜息ついてぞ居たりける。
 「さうさう参りて、大和坊、御代官に笛を仕れ。」といはれて、判官、仏壇の陰のほの暗き所より出で給ひて、少人の末座にぞゐ給ひける。大衆、「さらば、管絃の具足参らせよ。」と申しければ、長吏のもとより、くさぎのどうの琴一ちやう、錦の袋に入れたる琵琶一面取りよせ、琴をば、「御客人に。」とて、北の方に参らせける。琵琶をばねんいち殿の前に置き、笙の笛は、みたわどのの前におき、横笛は、判官の御前におき、かくて管絃ひときれありければ、面白しとも云ふもおろかなり。唯今までは、合戦の道{*15}にて有るべかりつるに、いかなる仏神の御納受にてや、不思議にぞおぼえし。
 衆徒も、これを見て、「あはれ、笛の音や。ねんいち、みたわ殿をこそ、よき児と有りがたく思ひつるに、今この児と見比ぶれば、同じ口にも云ふべくもなし。」などと、若大衆ども、口々にぞさゝやきける。長吏、寺中にかへり、小夜ふけて、長吏のもとよりやうやうに菓子つみなどして、瓶子そへて観音堂に送りけり。皆、人々疲れ、のぞみければ、「いざや、酒のまん。」とて、とりどりに申しけるを、武蔵坊、「あはれ、詮なき殿ばらかな。ほしさのまゝに、誰も飲まんずる程に、程なく酒気には本性をたゞすものなれば、暫く、『少人に参らせよ。先達の御坊。京の君。』などといふとも、後は味気なき娑婆世界の習ひ、『北の方に今一つ申せ。熊井や、片岡、思ひざしせん。伊勢三郎、もちて来よ。いで、飲まん、弁慶。』などといはん程に、焼野のきゞすの頭を隠して尾を出だしたる様なるべし。酒は、上下向の間、断酒にて候。」とて、長吏のもとへぞかへしける。「希有なる山伏達にて有りけるよ。」とて、急ぎ僧膳{*16}したて、御堂へ送りけり。各、僧膳{*17}したゝめて、夜もあけぼのになりければ、今宵の懺法をぞ読みける。伊勢三郎を使にて、長吏に暇をぞ乞はれける。心ある大衆たち、徒歩にて、むらむらきえ残る雪を踏み分けて、二、三町ぞ送りける。恐ろしく思はれし平泉寺をも、鰐の口のがれたる心地して、足早に通られける。
 かくて、すこうの宮を拝みて、かな津のそば野に著き給ふ。唐櫃あまたかかせて、ひき馬、その数あり。ゆゝしげなる大名五十騎ばかりにぞ逢うたりける。「これは、いかなる人ぞ。」と問ひければ、「加賀国井上左衛門と申す人なり。荒乳の関へ行くぞ。」と申しける。判官、これを聞きたまひ、「あはれ、遁れんとすれども遁れぬものかな。今は、かくぞ。」と宣ひて、刀の柄に手をうちかけ給ひて、北の方の背に背をさし合はせて、笠のはにて顔を隠して、「通さん。」とし給ふ所に、折ふし、風はげしく吹きたりけり。笠のはを吹きあげたりければ、井上、一目見参らせて、判官と御目を見合はせ奉り、馬より飛んでおり、大道に畏まつて申しけるは、「かかる事こそ候はね。途中にて参りあひ参らせ候こそ、無念に存じ候へ。さぶらふ所は井上と申して、程遠き所にて候間、『あなたへ。』とも申さず候{*18}。山伏の色代は、恐れにて候。疾く疾く。」と申して、我が身、馬ひきよせて、左右なくも乗らず。はるかに見送り奉り{*19}、御後ろとほざかる程にもなりぬれば、各、馬にぞ乗りたりける。
 判官は、あまりの事に、行きもやらで、しきりに見かへり給ひつゝ、「七代まで弓箭の冥加あれ{*20}。」とぞ、面々に申しけるぞ哀れなる。その日は、ほそろぎといふ所に、井上、つきて、家の子郎党ども呼びて、申しけるは、「今日行きあひ参らする山伏をば、誰とか見奉る。これは、鎌倉殿の御弟、判官殿よ。あはれ、日頃のやうにおはさんには、国の騒動、道路の大事とこそ成るべきに、この御有様になり給へる御事のいとほしさよ。討ち奉りたらば、千年万年すぐべきか。あまりの痛はしさに、難なく通し奉りてこそ。」と云ひければ、家の子郎党ども、これを聞いて、井上の心の中、「あはれ、情も慈悲も深かりける人や。」と、頼もしくぞおぼえける。
 判官、その日、篠原にとまり給ひけり。明けければ、斉藤別当実盛が手塚太郎光盛に討たれける、あいのいけを見て、安宅のわたりを越えて、ねあがりの松につき給ふ。これは、白山の権現に法施を手向くる所なり。「いざや、白山を拝まん。」とて、岩本の十一面観音に御通夜あり。あくれば白山に参りて、によたいこうの宮を拝み奉らせて、その日は剣の権現に参り給ひて、御通夜ありて、夜もすがら御神楽参らせて、あくれば林六郎光明が背戸を通り給ひて、加賀国富樫といふところも近くなる{*21}。
 富樫介と申すは、当国の大名なり。鎌倉殿より仰せは蒙らねども、「内々用心して、判官を待ち奉る。」とぞ聞こえける。武蔵坊、申しけるは、「君は、これより宮腰へ渡らせおはしませ。弁慶は、富樫が館のやうを見て参り候はん。」と申しければ、「たまたま、あるとも知られで通る道の有るに、よりては、何のせんぞ。」と仰せられければ、弁慶、申しけるは、「中々行きてこそよく候へ。山伏、大勢にて通ると聞こえ{*22}、大勢にて追ひ掛けられては悪しく候はんずれば、弁慶ばかり罷り候はん。」とて、笈とつて引つかけて、只ひとり行きける。
 とがしが城を見れば、三月三日のことなれば、傍らには鞠、小弓の遊び、かたはらには鳥合はせ、又、管絃、酒盛とうちみえて、酒に酔ひたる所もあり。武蔵坊、左右なく{*23}館のうちに入りて、侍の縁のきはを通りて、内をさしのぞき見ければ、管絃、たゞ今さかりなり。武蔵坊、大の声をあげて、「修行者の候。」と申しける。管絃の調子も、それにけり。「御内、たゞいま機嫌あしく候。」と申しければ、「上つ方こそ候とも、御後見の御方に、それ申して給び候へや{*24}。」とて、しひて近くぞよりたりける。中間雑色、二、三人出でて、「罷り出でられ候へ。」と云ひけれども{*25}、聞きも入れず。「狼籍なり。」「さらば、掴んで出だせ。」とて、左右の腕に取り付きて、おせどもへせども、すこしも働かず。「さらば、所にな置きそ。放逸にあたりて出だせ{*26}。」とて、大勢近付きければ、拳を握りて、さんざんにはりければ、あるひは烏帽子打ちおとされ、髻かゝへて間所{*27}に入るもあり。「こゝなる法師の狼籍するぞ。」とて騒動す。
 富樫介も、大口に押入烏帽子きて、手矛を杖につきて、さぶらひにぞ出でにける。弁慶、これを見て、「これ、御覧ぜられ候へ。御内の者ども、狼籍し候。」とて、やがて縁にぞ上りける。富樫、これを見て、「いかなる山伏ぞ。」といへば、「これは、東大寺勧進の山伏にて候。」「いかに御身一人はおはするぞ。」「同行の山伏多く候へども、さきさま宮腰へ通し候ひぬ。これは、御内勧進のために参りて候。をぢにて候美作阿闍梨と申すは、東山道を経て、信濃国へ下り候。この僧は、讃岐阿闍梨と申し候が、北陸道にかゝり、越後に下り候。御内の勧進は、いかやうに候べき。」と申しければ、富樫、「よくこそ御出で候へ。」とて、加賀の上品五十匹。女房の方より、「罪障懺悔のために。」とて、白袴一腰、八花形に鋳たる鏡。さては、家子郎党、女房達、下女に至るまで、思ひ思ひに勧進に入り、総じて冥帳{*28}につく、百五十人。「勧進の物は、唯今賜はるべく候へども、来月中旬に上り候はんずれば、その時賜はり候はん。」とて、預け置きてぞ出でにける。馬に乗せられて、宮腰まで送られけり。行きて、判官を尋ねたてまつれども、見えたまはず。それより大野の湊にてまゐりあひけり。「いかに今まで久しく、いかに。」と仰せられければ、「さまざまにもてなされて、夜もすがら経をよみなどして、馬にてこれまで送られて候。」と申しければ、武蔵を人々、上げつ下しつ守りける{*29}。
 その日は、たけのはしにとまり給ひて、明くれば倶利迦羅山を越えて、はせこえが谷を見たまひて、「これは、平家の多く亡びし所にてあるなるに。」とて、各、阿弥陀経を読み、念仏まうし、かの亡魂を弔ひてぞ通られける。とかくし給ふ程に、夕日、西にかゝりて、たそがれ時にも成りければ、まつなかの八幡の御前にして、夜を明かし給ひけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「〇大衆 僧徒。」「〇長吏 寺務を総理する役僧。」「〇政所 寺社で其の寺領社領に関する事務などを掌る所。」とある。
 2:底本は、「政所(まんどころ)の勢(ぜい)もひたかぶと」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇ひたかぶと 悉く揃つて甲冑に身を固めてゐること。」とある。
 3:底本は、「西の廊下(らうか)に坐(おは)したる。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 4:底本頭注に、「此の度こそは危急だと思はれる。」とある。
 5:底本は、「声する」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 6:底本頭注に、「〇うち任せては 普通ひと通りでは。」「〇止まらぬ所 山伏の来かゝらぬ所。」とある。
 7:底本は、「少人(せうじん)」。底本頭注に、「稚児。」とある。
 8:底本は、「せい」。底本頭注に従い改めた。
 9:底本頭注に、「〇案ふかき 思慮の深い。」「〇えせもの 如何はしいやつ。」とある。
 10:底本は、「と仰(おほ)せられければ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 11:底本頭注に、「〇花折りて 衣装いでたちを花やかにして。」「〇肩首 肩車。」とある。
 12:底本頭注に、「万一の事。」とある。
 13:底本頭注に、「いふまでもなき事。」とある。
 14:底本は、「少人(せうじん)の笛(ふえ)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 15:底本は、「かせんの道」。底本頭注に従い改めた。
 16・17:底本は、「そうぜん」。底本頭注に従い改めた。
 18:底本頭注に、「〇程遠き云々 居所は遠方である故其処へ御立寄り下さいとも申しませぬ。」「〇色代 挨拶。」とある。
 19:底本は、「はるかに送(おく)り」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 20:底本頭注に、「〇七代まで云々 井上某の七代の子孫まで武道に於て幸福であれよ。冥加は神仏が冥々の中に加護せられる事。」「〇面々 義経一行が各自に。」とある。
 21:底本は、「みやしの六郎光(みつ)あきらが、せとを通(とほ)り給ひて、加賀(の)国富樫(とがし)といふところも近(ちか)くなり、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 22:底本は、「聞えば、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。
 23:底本は、「相違(さうゐ)なく」。底本頭注に、「さうなくの誤りか。」とあるのに従い改めた。底本頭注に、「〇侍 侍所即ち侍の出仕して詰める所。」とある。
 24:底本頭注に、「主人は病気でも執事の人に修行者の来た事を申して下され。後見は鎌倉時代に幕府の執権をいふ。」とある。
 25:底本は、「云ひければ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 26:底本頭注に、「〇所にな置きそ 遠慮するな。」「〇放逸に云々 存分に手荒くして逐ひ出せ。」とある。
 27:底本は、「間所(かんじよ)」。底本頭注に、「人の居らぬ所。」とある。
 28:底本頭注に、「〇勧進に入り 寄附して。」「〇冥帳 冥福を祈るため金品を喜捨した人を記す帳簿。」とある。
 29:底本は、「守(まぼ)りける」。底本頭注に、「見てゐた。」とある。