六 如意の渡りにて義経を弁慶うち奉る事
夜も明けければ、如意の城を舟に召して、「渡りをせん。」としたまふに、渡し守をば平権頭とぞ申しける。彼が申しけるは、「暫く。申すべき事候。これは、越中の守護ちかき所にて候へば、かねて仰せかうぶりて候ひし間、『山伏五人三人は、いふに及ばず。十人にならば、所へ仔細を申さで渡したらんは、ひが事ぞ。』と仰せ付けられて候。既に十七、八人御渡り候へば、怪しく思ひ参らせ候。守護へそのやうを申し候て、渡しまゐらせん。」と申しければ、武蔵坊、これを聞きて、妬げに思ひて、「や、殿。さりともこの{*1}北陸道に、羽黒の讃岐坊を見知らぬ者や有るべき。」と申しければ、中乗り{*2}に乗りたる男、弁慶をつくづくと見て、「げにげに見参らせたるやうに候。一昨年も、さをとゝしも、上下向ごとに、『御幣。』とて申し下し給はりし御坊や。」と申しければ、弁慶、嬉しさに、「あ{*3}、よく見られたり、よく見られたり。」とぞ申しける。
権頭、申しけるは、「こざかしき男の云ひやうかな。見知り奉りたらば、わ男が計らひに渡し奉れ。」と申しければ、弁慶、これを聞きて、「そもそもこのなかにこそ、『九郎判官よ。』と、名をさして宣へ。」と申しければ、「あの舳に村千鳥の摺の衣めしたるこそ、怪しく思ひ奉れ。」と申しければ、弁慶、「あれは、加賀の白山より連れたりし御坊なり。あの御坊故に、所々にて人々に怪しめらるゝこそ詮なけれ。」と云ひけれども、返事もせで、うちうつぶきて居給ひたり。弁慶、腹立ちたる姿になりて、走りよりて、舟ばたを踏まへて、御腕を掴んで肩に引つかけて、浜に走りあがり、砂の上にがばと投げ捨て、腰なる扇ぬき出だし、いたはしげもなく続けうちに散々にぞ打ちたりける。見る人、目もあてられざりけり。北の方は、余りの御心うさに、声を立てても悲しむばかりに思し召しけれども、さすが人目の繁ければ、さらぬやうにておはしけり。
平権頭、これを見て、「すべて羽黒の山伏程、情なき者はなかりけり。『判官にてはなし。』と仰せらるれば、さてこそ候はんずるに、あれ程にいたはしく情なく打ち給へるこそ心うけれ。せんずる所、これは、某が打ち参らせたる杖にてこそ候へ。かかる御いたははしきことこそ候はね。これに召し候へ。」とて、舟をさし寄する。楫取、のせ奉りて申しけるは、「さらば、はや舟賃なして越し給へ。」といへば、「いつの習ひに羽黒山伏の舟賃なしけるぞ。」と言ひければ、「日頃取りたる事は無けれども、御坊の余りに放逸におはすれば、取りて{*4}こそ渡さんずれ。疾く舟賃なし給へ。」とて、舟を渡さず。
弁慶、「わ殿がやうに吾等に当たらば、出羽国へ一年二年の内に来らぬ事は、よもあらじ。坂田の湊は、この少人の父坂田次郎殿の領なり。唯今あたり返さんずるものを{*5}。」とぞ嚇しけれども、権頭、「何とも宣へ。舟賃取らでは、えこそわたすまじけれ。」とて渡さず。弁慶、「いにしへとられたる例はなけれども、このひが事したるによつて、取らるゝなり。」とて、「さらば、それ、たび候へ。」とて、北の方の著給へる帷子の尋常なるを脱がせ奉りて、渡し守に取らせけり。権頭、これを取りて申しけるは、「法にまかせて取りては候へども、あの御坊のいとほしければ、参らせん。」とて、判官殿にこそ奉りけれ。武蔵坊、これを見て、片岡が袖をひかへて、「をこがましや。唯あれもそれも、おなじ事ぞ。」とさゝやきける{*6}。
かくて、六だうじを越えて、なごの林をさして歩み給ひける。武蔵、忘れんとすれど、忘られず、走りよりて、判官の御たもとに取り付きて、声を立てて泣く泣く申しけるは、「いつまで君をかばひ参らせんとて、現在の主を打ち奉るぞ。冥見の恐れも恐ろしや。八幡大菩薩もゆるし給へ。浅ましき世の中かな。」とて、さしも猛き弁慶も、伏し転び泣きければ、侍ども、一所に並み居て、消え入るやうに泣き居たり。判官、「これも、人のためならず。か程まで果報つたなき義経に、かやうに心ざし深き面々の、行く末までもいかゞと思へば、涙のこぼるゝぞ。」とて、御袖を濡らし給ふ。各、この御ことばを聞きて、なほも袂を絞りけり。
かくする程に、日も暮れければ、泣く泣くたどり給ひけり。ややありて北の方、「三途の河を渡るこそ、著たる物をはがるゝなれ。少しもたがはぬ風情かな。」とて、磐瀬の森につき給ふ。その日は、こゝにとまりたまひけり。あくれば、黒部のやどにすこし休ませ給ひて、くろべ四十八が瀬の渡りをこえ、いちふり、しやうと、うたのわき、蒲原、なかはしといふ所を通りて、いはとのさきといふ所につきて、海人の苫屋に宿をかりて、夜とともに御物語有りけるに、浦の者ども、かぢめ{*7}といふものをかづきけるを見給ひて、北の方、かくぞ思ひつゞけ給ひける。
よもの海なみのよるよる来つれども今ぞはじめてうきめ{*8}をば見る
弁慶、これを聞きて、忌々しくぞ思ひければ、かくぞ続け申しける。
浦のみちなみのよるよる来つれども今ぞはじめてよきめをば見る
かくて、いはとのさきをも出で給ひて、越後の国府直江の津、花園の観音堂と云ふ所につき給ふ。この本尊と申すは、八幡殿{*9}、阿倍貞任を攻め給ひし時、本国の御祈祷のために、直江次郎と申しける有徳の者に仰せ付けて、三十領の鎧を賜びて建立したまひし、源氏重代の御本尊なりければ、その夜はそれにて夜もすがら御祈念ありけり。
校訂者注
1:底本は、「さりとも北陸道に、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
2:底本は、「中乗(なかの)り」。底本頭注に、「舟車などの中央に乗ること。」とある。
3:底本は、「目(め)よく見られたり」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
4:底本は、「取りこそ渡(わた)さんずれ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
5:底本は、「あたり返(かへ)さんずるもの。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
6:底本は、「さゝやける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
7:底本頭注に、「搗布。海藻の一種。」とある。
8:底本頭注に、「憂き目と海藻のめとを言懸けた。」とある。
9:底本頭注に、「〇八幡殿 源義家。」「〇阿倍貞任云々 後三年の役のこと。」とある。
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