七 直江の津にて笈さがされし事
こゝに、越後の国府の守護、鎌倉に上りてなし。浦の代官はらう権頭といふものあり。「山伏つき給ふ。」と聞きて、浦の者どもを催して、櫓櫂などを、ちぎり木、さいぼうにして、網人どもを先として、理非をも弁へぬ奴ばらが二百余人、観音堂をおしまきたり。折節、侍ども、はうばうへ斎料{*1}尋ねに行きければ、判官、たゞ一人おはしける所へ押し寄す。直江の御堂に騒動すること聞こえければ、弁慶、「走り合はん。」といそぐ。
判官、問答し給ひけるは、昨日までは、「羽黒山伏。」と宣ひしが、今は、羽黒近ければ、引き返して、「熊野より羽黒へ参り候が、舟を尋ねてこれに候。先達の御坊は、檀那尋ねにおはしまして候。これは、御留守に候。何事ぞ。」などと問答し給ふところに、武蔵坊、物のかけりたる様にてぞ出で来り、申しけるは、「あの笈の中には、三十三体の聖観音を京より下し参らせ候が、来月四日の頃には、御宝殿に入れ参らせ候はんずるぞ。各、身不浄なる体にて、左右なく近付きて、権現の御本地けがし給ふな。仰せらるべきことあらば、よそにて仰せられ候へ。権現をけがし参らせ給ふな。けがし給ふ程ならば、笈をすゝがざらんより外は有るまじ。」と嚇しけれども、少しも用ゐずして、口々に罵りけり。
権頭、申しけるは、「判官殿、みちみちも陳じて{*2}通り給ふこと、そのかくれなし。これには今ほど、守護こそ留守にて候へども、形のごとくもこの尉が{*3}承つて候間、上つ方まで聞こし召し候はんずることにて候間、かやうに申し候。さ候はば、御心休めに笈一ちやう賜はつて{*4}、見参らせ候はん。」と申しければ、「これは、御本尊の渡らせおはしまし候笈を、不浄なる者に左右なく{*5}探させんこと、恐れにてはあれども、わ殿ばらがうたがひをなし、好む禍ひなれば、罪をかうぶらんは、おのれ等次第よ。すは、見よ。」とて、手にあたる笈一ちやう取つて、投げ出だす。何となく取つて出だしたるが、判官の笈にてぞ有りける。
武蔵坊、これを見て、「あはや。」と思ひける所に、三十三枚の櫛を取り出だし、「これは、いかゞ。」と申しければ、弁慶、あざ笑ひて、「えいえい。方々は、何も知りたまはずや。児の髪をば梳らぬか。」といひければ、権頭、「理。」と思ひければ、傍らに差し置きて、唐の鏡を取り出だし、「これは、山伏の御道具か。」といへば、「児を具したる旅なれば、化粧の具足を持つまじきいはれがあらばこそ。」といひければ、「理。」とて傍らにおき、八尺のかけ帯、五尺の鬘、紅の袴、重の衣を取り出だして、「これは、いかに。児の具足にも、かやうの物のいり候か。」と申しければ、「御不審、尤もにて候。この法師が伯母にて候もの、羽黒山権現の惣の巫{*6}にて候が、『かづら、袴、色よきかけおび、買うて下せ。』と申し候ひし程に、今度の下りに持ちて下り、悦ばせんがため{*7}にて候ぞ。」と云ひければ、「それは、さも候はん。」と申す。
「さ候はば、今一ちやうの笈を御出し候へ。見候はばや。」と申す。「何挺にてもあれ、心に任せて御覧ぜよ。」とて、又一挺投げ出だす。片岡が笈にてぞありける。この笈の中には、兜、小手、すね当、柄もなき鉞をぞ入れたりける。とかくすれども、強くからげたり。暗さは暗し、解きかねてぞ有りける。弁慶は、手を合はせて、「南無八幡。」と祈念して、「その笈には、権現の渡らせ給ひ候。返す返すも不浄にして、罰あたり給ふな。」と申しければ、「御正体にて渡らせ給はば、必ずあけずとも知るべき。」とて、笈のかけ緒を取つて、ひきあげて振りたりければ、小手、臑当、鉞が、かたりひしりと鳴りければ、権頭、胸うち騒ぎ、「かかる事こそ候はね{*8}。げにげに御正体にて渡らせ給ひ候ひけるを。」とて、「それ、受け取り給へ。」と申しければ、弁慶、「さればこそ、さしもいひつる事を。笈すゝがざらんには、左右なく受け取り給ふな{*9}、御坊達。」と言ひければ、左右なく人も受け取らず。「かねて云はぬ事か。すゝがずば、祈れ。清めには、物が多くいらんずるぞ。」と云ひければ、権頭、「理を曲げて、受け取り給へ。」といへば、「笈すゝがずば、権頭がもとに御正体をふり棄て奉りて、我らは羽黒に参りて、大衆を催して、御迎へに参らんずるなり。」と嚇されて、寄せたりける者も一人一人、散り散りにぞなりにける。
権頭一人は、大事になりて、「笈をすゝぎ候はんには、いかやうの事を仕り候ぞ。」といひければ、「権現も、衆生利益の御慈悲なれば、かたの如くにてこそあらんずれ。まづ御幣紙の料に、檀紙百帖、白米三石三斗、黒米三石三斗、白布百端、紺の布百端、鷲の尾百しり、黄金五十両、毛揃へたる馬七疋、荒薦百枚。これ、敷きて積みてまゐらせば、かたの如くなりとも、すゝぎて奉らん。」とぞ申しける。権頭、「いかに思ひ候とも、極めて貧なる者にて候ほどに、叶ひがたく候。悉くにて候はずとも、形の如く申し上げて給ひ候へ。」とて、「米三石、白布三十端、鷲の羽七しり、黄金十両、毛そろへたる神馬三疋。これより外は、持ちたるものも候はず。しかるべく候はば、申し上げて給ひ候へ。」と詫びければ、「いで、さらば、権現の神慮を慰め参らせん。」とて、兜、小手、すねあて、鉞など入れたる笈にむかひて礼拝し、何事をか申し、「むつむつかんかんらんらんそわかそわか。」と申して、「をんころをんころ般若般若心経。」などぞ祈りける。笈を衝き働かして、「権現に、その旨申し上げ候ひぬ。よのためしなれば、かくは取り行ひ候ひぬ。これらは、御辺のはからひにて、羽黒へとゞけ参らせてたび候へ。」とて、権頭がもとにぞ預けける{*10}。
さて、夜も更けければ、片岡、直江の港に下りて見れば、佐渡より渡したりける舟に、苫をもふかず、主もなく、櫓櫂楫なども有りながら、浪に引かれ、ゆられ居たり。片岡、これを見て、「あつぱれ、ものや。この舟を取つて乗らばや。」とおもひて、観音堂にまゐりて、弁慶にかくと云ひければ、「いざ、さらば、この舟に取つて乗り、けさの嵐に出ださん。」とて、港に下り、十余人とり乗りて、押し出だす。めうくわんおんの嶽よりおろしたる嵐に帆引き掛けて{*11}、よな山を過ぎて、かくた山を見つけて、「あれ、見給へや。風は、いまだ荒らし。風弱くならば、櫓を添へて押せや。」とぞ申しける。あをしまの北を見給へば、白雲の、山の腰をはなれて、宙に吹かれて出でくるを、片岡、申しけるは、「国の習ひは知らず。この雲こそ風雲とおぼゆれ。いかゞすべき。」といひも果てねば{*12}、北風吹き来て、陸には砂をあげ、沖には潮をまいてぞ吹きたりける。海士の釣舟の浮きぬ沈みぬを見給ふにも、「我が舟も、かくぞあらめ。」と思ひたまふに、心細くして、はるかの沖に漂ひ給ひけり。「とても叶ふまじくば、唯風に任せよ。」とて、御舟をば佐渡の島へはせ付けて、真帆下ろし、「加茂潟{*13}へ舟を寄せん。」としけれども、浪高くして寄せかねて、松陰が浦へ、はせもて行く{*14}。それも、白山の嶽より颪したる風烈しくて、佐渡の島をはなれて、能登国すゞがみさきへぞ向けたりける。
さる程に、日も暮れがたに成りければ、いとゞ心ぞ違ひける。御幣をはいで{*15}、笈の足に挟みて祈られけるは、「天を祭る事は、さる事にて候へども、この風を和らげて、今一度陸に著けて、ともかくもなさせ給へ。」とて、笈の中より白鞘巻を取り出だして、「八大竜王に参らせ候。」とて、海へ入れ給ふ。北の方も、紅の袴に唐の鏡取りそへて、「竜王に奉る。」とて、海に入れさせ給ひけり。されども風は、やむ事なし。さる程に、日も既に暮れぬれば、たそがれ時にもなりにけり。いとゞ心細くぞおぼえける{*16}。能登国ゆするぎの嶽より、また西風吹きて、舟を東へぞ向けたりける。「あはれ、順風や。」とて、風に任せて吹かれゆく程に、夜も夜半ばかりになれば、風も静まり、浪も和らぎければ、少し人々心安くて、風をはかりに行く程に、暁方に、そことも知らぬ所に御船をはせあげて、陸に上がりて、とまやに立ちよりて、「これをばいづくといふぞ。」と問ひければ、「越後国寺泊。」とぞ申しける。
「おもふ所に著きたるや。」と悦びて、その夜の内にくがみといふ所に上がりて、みくらまちに宿をかり、明くれば、弥彦の大明神を拝み奉りて、九十九里の浜にかゝりて、蒲原のたちを越えて、八十八里の浜などといふ所を行き過ぎて、あらかいの松原、いはふねを通りて、せなみといふ所に、左やなぐひ、右うつほ、せんがかけはしなどといふ名所名所を通り給ひて、念じゆの関守きびしくて、通るべきやうもなければ、「いかゞせん。」と仰せられければ、武蔵坊、申しけるは、「多くの難所を遁れて、これまでおはしましたれば、今は何事か候べき。さりながら、用心はせめ。」とて{*17}、判官をば下種山伏に作りなし、二挺の笈を嵩高に持たせ奉り、弁慶、大のしもと、杖につき、「歩めや、法師。」とて、しとどうちて行きければ、関守ども、これを見て、「何事の咎にて、それ程にさいなみ給ふ。」と申しければ、弁慶、答へけるは、「これは、熊野の山伏にて候が、これに候山伏は、子々相伝のものにて候が、きやつをうしなうて候ひつるに、この程見付けて候間、いかなる咎をもあててくれうず候。誰か咎め給ふべき{*18}。」とて、いよいよ隙なく打つてぞ通りける。関守ども、これを見て、なんなく木戸をあけてぞ通しける。
程なく出羽国へ入り給ふ。その日は、はらかいといふ所につき給ひて、明くれば、かさどり山などといふ所を過ぎ給ひて、たかはの郡三世の薬師堂に著き給ふ。こゝにて雨ふり、水まさりければ、二、三日御逗留ありけり。こゝに、田川{*19}の郡の領主、田川の太郎実房といふ者あり。若かりし時より、あまた子を持ちたりけるが、皆さきだてて、十三になる子一人もちたりけるが、瘧病{*20}をして、万事限りになりにけり。羽黒近き所なれば、しかるべき山伏など請じて祈られけれども、その験もなし。この山伏達おはする由を伝へ聞きて、郎党どもに申しけるは、「熊野、羽黒とて、いづれも威光は劣らせ給はぬ事なれども、熊野の権現と申すは、今一しほ尊き御事なれば、行者達も、さこそおはすらん。請じ奉りて、験者一座せさせ奉りて見ばや。」とぞ申しける。妻女も、子の{*21}痛はしさに、「急ぎ御使を参らせ給へ。」とて、実房が代官に大内三郎といふ者を、三世の薬師堂へ参らする。
客僧達へ、かくと{*22}申しければ、判官、仰せられけるは、「請用{*23}は得たけれども、我らが不浄の身にては、何を祈りても、その験やあるべき。詮もなからぬもの故に、行きても何かせん。」と仰せられければ、武蔵坊、申しけるは、「君こそ不浄に渡らせ給へ。我等は都を出でしより、精進潔斎もよく候へば、たとひ験徳の程はなくとも、我らが祈り候はん景気の恐ろしさに、などか悪霊も死霊も顕はれざるべき。たまたま請用にて候に、たゞ御出で候へかし。」と申して、各、よりあひ笑ひ戯れければ、「これは、秀衡が知行の所にて候へば、定めてこれも{*24}、祗候の者にて候はめ。何か苦しく候はん。知らせ給へ。」と申しければ、弁慶、聞きて、「あはれや、殿。親の心を子知らずとて、人の心は知りがたし。自然の事あらば、後悔さきに立つべからず。君の御下著の後、実房、参らぬ事はあらじ。その時のもの。いぬにも知らすべからず{*25}。」とぞ申しける。
「さて、祈り手は、誰をかすべき。護身{*26}は、君。数珠おしもみて候はんためには、弁慶に過ぎ候まじ。」とて、出で立ち給ひけり。御供には武蔵坊、常陸坊、片岡、十郎権頭四人、田川がもとへ入らせたまふ。持仏堂に入れ奉る。田川、見参に入りけり。子をば、めのとに介錯せさせて、具してぞ出で来りたる。験者、はじめ給ふに、よりまはし{*27}に、十二、三ばかりなる童をぞ召されける。判官、護身{*28}し給へば、弁慶、数珠をぞ{*29}おし揉みける。この人々、祈り給ひけるけしき、心中のおそろしさにや、口はしる。幣帛も静まりければ、悪霊も死霊も立ちさり、病人、即ち平癒す。験者、いよいよ尊くぞ見え給ふ。その日は留め奉りけり。日々に起こりける瘧病は、今は相違なし。いとゞ信心まさり、喜悦、なゝめならず。かりそめなれども、権現の御威光の程も思ひ知られて、尊く思し召しけり。御祈りの布施とて、鹿毛なる馬に黒鞍おきて参らせける。砂金百両、「国の習ひ候。」とて、鷲の羽百しり、残る四人の山伏に小袖一重ねづゝまゐらせて、三世の薬師堂へ送り奉る。使、帰りけるに、「御布施賜はり候事は、さる事に候へども、これも道の習ひ{*30}にて候へば、羽黒山に暫く参篭し候はんずれば、下向の時賜はるべく候。その間、預け申し候べし。」とて返されけり。
かくて、田川をもたち給ひ、大泉の荘、大ほんじを通らせたまひ、羽黒の御山、よそにて拝み給ふにも、御参篭の御心ざしはおはしましけれども、御産の月、既にこの月に当たらせ給ふに、万おそれをなして、弁慶ばかり御代官に参らせらる。残りの人々は、につけのたかうらへかゝりて、清河に著き給ふ。弁慶は、あけなみ山に懸かりて、清河へ{*31}参り合ふ。その夜は五所の王子の御前に、一夜の御通夜あり。この清河と申すは、羽黒権現の御手洗なり。月山の禅定より{*32}北の腰に流れ落ちけり。熊野にはいはた河、羽黒には清河とて、流れきよき名河なり。これにて垢離をかき、権現をふし拝み奉る。無始の罪障も消滅するなれば、こゝにては王子王子の御前にて、御神楽など参らせて、思ひ思ひの馴れこまひ{*33}し給へば、夜もほのぼのと明けにけり。やがて御船に乗り給ひて、清川の船頭を、いや権頭とぞ申す。御舟支度して参らせけり。水上は、雪しる{*34}、水量まさりて、御舟を上せかねてぞありける。これや、このはるちうさのせうせう、しやうのさらしまといふ所に流されて、「月影のみよする、はたなかい河のみなかみ。稲舟のいつらしかは、最上河のはやき瀬ぞ。こともしらぬひばの声、霞のひまに紛れる。」と歌ひしも、今こそ思ひ知られけれ。
かくて、御舟をのぼする程に、禅定{*35}より落ちたぎる滝あり。北の方、「これをば何の滝といふぞ。」と問ひ給へば、「白糸の滝。」と申しければ、北の方、かくぞつゞけ給ふ。
もがみ河せゞの岩浪せきとめよよらで{*36}ぞとほるしらいとの滝
もがみがは岩こすなみに月さえてよる{*37}おもしろき白糸のたき
と口ずさみつゝ、鎧の明神、兜の明神伏し拝み参らせて、たかやりのせと申す難所を上せ煩ひておはする所に、上の山のはに猿の声のしげければ、北の方、かくぞ続け給ひける。
ひきまはすうちはは弓にあらねどもたがやで猿をいて見つるかな
かくてさし上らせ{*38}給ふ程に、みるたから、竹くらべの杉などといふ所を見給ひて、やむけの大明神を伏し拝み奉り{*39}、あい河の津に著きたまふ。判官、「よりみちは二日なるが、湊にかゝりては、三日にまはる道にて候に、亀割山をこえて、へむらの里、姉葉の松へ出でては、すぐに候。いづれをか御覧じて通らせ給ふべき。」と仰せられければ、「名所名所を見たけれども、一日も近く候なれば、亀割山とやらんにかゝりてこそ行かめ。」とて、かめわり山へぞ懸かり給ひける。
校訂者注
1:底本は、「はうばう斎料(ときれう)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇斎料 僧家の食事に充てる材料又はその金。」とある。
2:底本頭注に、「途中の処々うまく言ひのべて。」とある。
3:底本は、「こむせうが」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
4:底本は、「賜ひて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
5:底本は、「左右(さう)なく」。底本頭注に、「むやみに。無造作に。」とある。
6:底本は、「僧のいち」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
7:底本は、「悦(よろこ)ばせん為」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
8:底本頭注に、「これはいけない。」とある。
9:底本頭注に、「笈の浄めをしなければ容易く受取るな。」とある。
10:底本は、「預けけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
11:底本は、「嵐(あらし)におひかけて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
12:底本頭注に、「いひも果てぬに。」とある。
13:底本は、「まぼろしかもかたへ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
14:底本は、「はせもて行き、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
15:底本頭注に、「御幣を作つて。」とある。
16:底本は、「心細(こゝろぼそ)く覚(おぼ)えける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
17:底本は、「と、判官(はうぐわん)をば」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
18:底本頭注に、「〇くれうず候 くれようとするので御座います。」「〇誰か咎め云々 呵責するのを誰が非難せられませうか。」とある。
19:底本は、「たがは」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い、以下同様にすべて改めた。
20:底本は、「ぎやへい」。底本頭注に、「瘧病。おこり。」とあるのに従い、以下同様にすべて改めた。
21:底本は、「此の」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
22:底本は、「かく申しければ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
23:底本は、「請用(しやうよう)」。底本頭注に、「加持祈祷などの為に験者を迎へること。」とある。
24:底本頭注に、「田川の太郎実房。」とある。
25:底本頭注に、「〇御下著 平泉へ到著するをいふ。」「〇いぬにも云々 人は勿論、犬にも知らすな。」とある。
26・28:底本は、「ごしん」。底本頭注に、「護身法を行ふ役だらう。行者を護つて一切の魔障を除くため印を結び真言を誦する役。」とある。
27:底本頭注に、「よりまし。病気のもとである物怪がよりつく人。」とある。
29:底本は、「数珠おし揉みける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
30:底本は、「たうの習(なら)ひ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
31:底本は、「残(のこ)りの人々には、つけのたかうらへかゝりて、清河(きよかは)に著(つ)き給ふ。弁慶(べんけい)はあけなみ山に懸りて、よかはへ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)本文及び頭注に従い改めた。
32:底本は、「みたらしなり。つき山のぜんぢやうより、」。底本頭注に、「〇みたらし 御手洗。神仏を拝む時みそぎをして手水を使ふ所。」「〇つき山 月山。羽前国。月山神社がある。」「〇ぜんぢやう 信者が登山して禅定即ち修行する所か。山上か。山頂か。」とあるのに従い改めた。
33:底本頭注に、「互に馴れ合つた寄合講の舞ひ遊び。」とある。
34:底本頭注に、「雪解の水。」とある。
35:底本は、「せんぢやう」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
36:底本頭注に、「立寄らでに白糸の縁で縒ると言ひ懸けたのである。」とある。
37:底本頭注に、「夜と縒ると言懸け。」とある。
38:底本は、「さし上(のぼ)せ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
39:底本は、「伏(ふ)し拝(をが)み奉る、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
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