巻第八

一 嗣信兄弟御弔ひの事

 さる程に、判官殿、高館にうつらせ給ひて後、佐藤荘司が後家のもとへも、折々御使つかはされ、憐れみ給ふ。人々、奇異の思ひをなす。ある時、武蔵を召して仰せられけるは、「嗣信、忠信兄弟があとを弔はせ給ふべき。」由、仰せられける。そのついでに、「四国西国にて討死したる者ども、忠の浅深にはよるべからず。死後なれば、冥帳に入れて弔へ。」と仰せ下さるゝ。弁慶、涙をながし、「尤も忝き御こと候。上として、かやうに思し召さるゝこと、まことに延喜天暦の帝と申すとも、いかでか{*1}かやうには渡らせおはしまし候はん。急ぎ思し召し立ちたまへ。」と申しければ、「さらば、貴僧たちを請じ、仏事とり行ふべき。」よし、仰せ付けらる。武蔵、この事、秀衡に申しければ、入道も、かつうは御心ざしの程を感じ、かつうは彼等が事を今一しほ不便に思ひ、しきりに涙にぞ咽びける。
 兄弟の母尼公の方へも、御使有りけり{*2}。孫ども、後家ども引き具して参る。御心ざしの余りに、御自筆にも法華経遊ばされ、弔はせ給ふ。有り難きためしには、人々、申しあへり。尼公、申されけるは、「兄弟の者の孝養、まことに身において有りがたき御心ざし、又は死後の名、何事かこれにこえ申すべき。これ程の御心ざしを、この世に長らへて候はば、いかばかりかたじけなく思ひ参らせ候はんと、いよいよ涙つくし難く候。されども今は、思ひきり参らせ候。幼き者ども{*3}を、あひつゞき君へまゐらせ候はん。いまだ童名にて候。」と申しければ、判官、「それは、秀衡が名をもつくべけれども、兄弟の者どもの名残形見なれば、義経、名をつけべし。さりながらも、秀衡に聞かせよ。」と仰せられて、御使有りければ、「入道、内々申し上げたき折節候。恐れ入るばかりに候。」と申しければ、「さらば秀衡、計らひて。」と宣へば、秀衡、承り申して、髪取りあげ、烏帽子きせ、御前に畏まる。
 判官、御覧じて、嗣信が若をば佐藤三郎義信、忠信が子をば佐藤四郎義忠と付けたまふ。尼公、なゝめならず喜び、「いかに、泉三郎。かねて申せし物、我が君へ奉れ。」と申しければ、佐藤の家に伝はれる重代の太刀を進上す。北の方へは唐綾の御小袖、巻絹など取りそへて奉る。その外、侍達にもそれぞれに参らせける。尼公、いとゞ涙にむせび、「あはれ、同じくは、兄弟の者ども御供して下り、御前にて孫どもに烏帽子を著せなば、いかばかり嬉しからまし。」と、流涕、こがれければ、二人の嫁も、なき人の事を一しほ思ひ出だし、別れし時のやうに、声もをしまず悲しみけり。君も、哀れに思し召し、御涙を流させ給ふ。御前なりし人々、秀衡は申すにおよばず、袂を顔におしあてて、おのおの涙をぞ流しける。
 判官、杯取りあげたまひ、義信に下さる。杯の敬拝{*4}、当座の会釈、まことにおとなしく見えければ、「嗣信に、よくも似たるものかな。汝が父、八島にて義経が命に代はりたりしをこそ、源平両家の目の前、諸人の目を驚かし、類あらじと言ひしが、まことに我が朝の事はいふに及ばず、唐土天竺にも、主君に心ざし深きもの多しといへども、かかるためしなしとて、三国一の剛の者といはれしぞかし。今日よりしては、義経を父と思へ。」と仰せられて、御座近く召されて、おくれの髪を撫でさせたまひ、御涙せきあへ給はず。その時亀井、片岡、伊勢、鷲尾、増尾十郎、権頭、あらき弁慶をはじめとして、こゑを立ててぞ泣きにける。
 暫くありて御涙をとゞめ、義忠に御杯下され、「汝が父、吉野山にて大衆追つ懸けたりしに、義経をかばひて、一人峯に留まらんといひしを、義経も、留めん事を悲しみ、一処にと千度百度いひしに、侍のことばは綸言にも同じ、なほし汗の如しとて、已に自害せんとせしまゝに、力及ばず{*5}一人峯に残し置きたりしに、数百人の敵を六、七騎にて禦ぎ、あまつさへ、鬼神のやうにいはれし横川の覚範をうち取り、都に上り、江間小四郎{*6}を引きうけ、そこをも斬りぬけしに、普通の者ならば、それよりこれへ下るべきに、義経を慕ひ、在りかを知らずして、六條堀河のふるき宿所にかへり来て、義経を見ると思ひて、こゝにて腹を切らんとて、自害したりし心ざし、かれといひこれと言ひ、兄弟の者の心ざしを、いつの世に忘るべき。ためし少なき剛の者とて、鎌倉殿{*7}も惜しみ給ひ、孝養し給ふと聞く。汝も、忠信に劣るまじき者かな。」とて、又御落涙ありけり。
 判官、伊勢三郎を召して、小桜縅、卯の花縅の鎧を二人に下されけり。尼公、なみだを止めて、「あら、有り難の御諚や。さぶらひ程{*8}、剛にても剛なるべき者はなし。我が子ながらも剛ならずば、か程までは御諚も有るまじ。汝等も、成人仕り、父どもが如く、君の御用に立ち、名を後代にあげよ。不忠を仕らば、父どもに劣れる者とて、傍輩達に笑はれんぞ。後ろ指をさされば{*9}、家の疵なるべし。御前にて申すぞ。よく承り留めよ。」とぞ申しける。おのおの、これを聞きて、「兄弟が剛なりしも道理かな。只今尼公の申すやう、さしも猛き人かな。」と、おのおの感じ申しける。

二 秀衡死去の事

 文治四年十二月十日の頃より、入道、重病をうけて、日数かさなりて弱り行けば、耆婆、扁鵲が術だにも、あへて叶ふべきと見えざれば、秀衡、女、子息、その外所従をあつめて、泣く泣く申されけるは、「限りある業病をうけ、命を惜しむなど聞きし事、きはめて人の上にてだにも、いふかひなき事に思ひつるに、身の上になりて、思ひ知られたるなり。その故は、入道、この度命を惜しく存ずる事は、判官殿、入道を頼みに思し召して、遙かの道を妻子具しておはしたるに、せめて十年心安くふるまはせ奉らで、今日明日に入道死ぬるならば、闇の夜にともしびを失ふ如くに、山野に迷ひ給はん事こそ口をしく存ずれ。こればかりこそ、今生に思ひ置くこと、冥途のさはりとおぼゆれ。されども、叶はぬならひなれば、力なし。判官殿に参り、最期の見参申したく存ずれども、余りに苦しく、合期ならず{*10}。「これへ。」と申さんは、その恐れあり。この旨を御耳に入れ奉れよ。
 「又、各、この遺言を用ゐるべきか。用ゐるべきにあらば、いふべき事を静かにきくべし。」と宣へば、各、「いかでか背き申すべき。」と申しければ、苦しげなる声にて、「それがし死したらば、定めて鎌倉殿より、『判官殿、討ち奉れ。』との御教書下るべし。『その勲功には、常陸を賜ふべき。』とあらんずるぞ。相構へてそれを用ゐるべからず。入道が身には、出羽奥州、過分の所にてあるぞ。いはんや親にも、よもまさじ。各が身をもつて他国を賜はらん事、叶ふべからず。鎌倉よりの御使なりとも、首を切れ。両三度に及びて御使を斬るならば{*11}、その後は、よも下されじ。たとひ下さるゝとも、大事にてぞあらんずらん。その用意をせよ。念珠、白河両関をば、錦戸{*12}に防がせて、判官殿をおろかになし奉るべからず。過分の振舞、あるべからず。この遺言をだにも違へずは、末世といふとも、汝等が末の世は安穏なるべしと心得よ。生を隔つとも。」といひ置きて、これを最期の言葉にて、十二月二十一日の曙に、終にはかなくなりぬ。
 妻子眷属、泣き悲しむといへども、かひぞなき。判官殿へこの由、申されければ、驚き思し召して、馬に一鞭をすゝめて、急ぎおはしたり。むなしき死骸に抱きつかせ給ひて、仰せられけるは、「境はるかの道を凌ぎて、これまで下る事も、入道を頼みてこそ下り候へ。父義朝には、二歳にて別れ奉りぬ。母は、都におはすれども、平家に渡らせ給へば、互に心よからず。兄弟ありといへども、幼少より方々に有りて、寄り合ふこともなく、あまつさへ、あはれみを垂れ給ふべき頼朝には不和なり。いかなる親の歎き、子の別れといふとも、これには過ぎじ。」と悲しみ給ふ事、かぎりなし。「たゞ義経が運のきはむる所。」とて、さしもにたけき御心を引きかへて、深くぞ歎き給ひける。亀割山にて生まれ給へる若君も、判官殿と同じやうに、白き衣を召して、野べの送りをし給へり。見奉るに、いとゞ哀れぞ増さりける。「同じ道に。」と悲しみ給へども、むなしき野辺に只一人、送り棄ててぞ帰り給ふ。あはれなりし事どもなり。

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校訂者注
 1:底本は、「いかで斯様(かやう)には」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 2:底本は、「有りける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「嗣信忠信の遺子。」とある。
 4:底本は、「けうはい」。底本頭注に、「きやうはいであらう。敬拝。」とあるのに従い改めた。
 5:底本頭注に、「やむを得ず。」とある。
 6:底本頭注に、「北條義時。」とある。
 7:底本頭注に、「頼朝。」とある。
 8:底本は、「さぶらひは」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 9:底本は、「さされ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 10:底本は、「合期(がふご)ならず」。底本頭注に、「思ふやうにならぬ。」とある。
 11:底本は、「御使きたるならば、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 12:底本頭注に「〇ねんし 念珠の関であらう。」とあるのに従い改めた。底本頭注に、「〇錦戸 西木戸太郎国衡。秀衡の庶長子で泰衡等の庶兄。」とある。