三 秀衡が子ども判官殿に謀叛の事

 かくて入道、死しけれども、かはる事もなく、兄弟の子ども、うちかへうちかへ判官殿へ出仕して、その年も暮れにけり。明くる二月の頃、泰衡が郎等、何事をか聞きたりけん、夜ふけ、人静まりてひそかに来り、泰衡にいひけるは、「判官殿、泉の御曹司{*1}と一つにならせ給ひ、御内を打ち奉らんと用意にて候。合戦の習ひ、人に先をせられぬれば、悪しき御事にて候なり。急ぎ御用意あるべし。」と語りける程に、泰衡、聞いて安からぬ事に思ひ、「さらば、用意すべし。」とて、二月二十一日、「入道の仏事孝養を営まん。」と用意しけるが、仏事をばさし置き、一腹の舎弟泉の冠者を夜討にしけるこそうたてけれ。
 それを見て、兄の錦戸、ひつめの五郎、弟のともとしの冠者{*2}、「このこと、人の上ならず。」とて、各、心々になりにけり。「六親不和にして三宝の加護なし。」とは、これをいふなり。判官も、「さては、義経にも思ひかゝらん。」とて、武蔵坊を召して、廻文を書かせらる。九州には、「菊地、原田、臼杵、緒方、急ぎまゐるべき。」由を仰せられて、雑色駿河次郎に給びぬ。夜を日につぎて京に上り、「筑紫へ下らん。」とす。いかなる者かいひけん、このよし、六波羅に聞きて、駿河を召し取りて、下べ二十余人さしそへて、関東へ下されけり。
 鎌倉殿、廻文を御覧じて、大きに怒り、「九郎は{*3}、不思議の者かな。同じ兄弟といひながら、頼朝を度々思ひかへるこそ不思議なれ。秀衡も死去しつ、奥も傾きぬに{*4}、攻めんに何程の事あるべき。」と仰せありければ、梶原、御前に候ひけるが、「仰せにて候へども、愚かの御計らひにて候や。宣旨なつて、秀衡を召されけるに、昔、将門八万余騎、今の秀衡十万八千余騎にて、片道を賜はらば、参るべき由申しけるに、さては、叶はずとて止められ、遂に京を見ず{*5}とこそ承りて候へ。秀衡一人にても妨げ候はば、念珠{*6}、白河両関を固め、判官殿の御下知に従ひて、軍を仕り候はば、日本国の勢をもつて、百年二百年戦ひ候とも、一天四海、民の煩ひとはなり候とも、うち従へん事、叶ひ候まじ。たゞ泰衡を御すかし候て、御曹司{*7}を討ちまゐらさせたまひ、その後、御攻め候はば、しかるべく候はんずる。」由を申しければ、「尤もしかるべし。」とて、頼朝、「私の下知{*8}ばかりにて、叶ふまじ。」とて、院宣を申されけり。「泰衡が義経を討ちたらば、本領に常陸国をそへて、子々孫々に至るまで賜ふべき。」由なり。鎌倉殿、御下知をそへて遣はさる。
 泰衡、いつしか故入道{*9}の遺言を背きて、領承申しぬ。但し、「御せんじを賜ひて討ち奉るべき。」由、申しければ、「さらば。」とて、安達四郎清忠を召して、「この二、三年、知行をいくまみたるらん。検見{*10}に罷り下るべき。」由、仰せ出ださる。「承り候。」とて、清忠、奥{*11}へぞ下りける。さる程に、泰衡、俄に狩をぞ始めける。判官も、出でて狩し給ふ。清忠、紛れ歩きて見奉るに、疑ひなき判官殿にておはします。軍は、文治五年四月二十九日巳の時と定めけり。この事、義経は、夢にも知り給はず。
 かかりし所に、民部権少輔基成と言ふ人あり。平治の合戦の時、うせ給ひし悪右衛門督信頼の兄にておはします。「謀叛の者の一門なれば。」とて、東国に下られたりけるを、故入道{*12}、情をかけたまへり。その上、秀衡が、基成の女に具足して、子どもあまたあり。嫡子二男泰衡、三男泉三郎忠致、これ等三人が祖父なり。されば、人、重くし奉り、「少輔の御寮。」とぞ申す{*13}。この子どもより先に、嫡子錦戸太郎頼衡とて、極めてたけ高く、ゆゝしく芸能もすぐれ、大の男の剛のもの、強弓精兵にて{*14}、謀りごとかしこくあるを、嫡子に立てたりせばよかるべきに、「男の十五より内にまうけたる子をば、嫡子には立てぬことなり。」とて、当腹の二男を嫡子に立てける。入道、おもへば、あへなかりけり。
 この基成は、判官殿に浅からず申し承り候はれけり。この事、ほのかに聞きて、あさましく思ひて、「孫どもを制せばや。」と思はれけれども、「恥づかしくも、所領を譲りたる事もなし。我さへ彼等に預けられたる身ながら、勅勘の身なり。院宣くだる上、何と制すとも、叶ふまじ。」あまり思へば悲しくて、判官殿へ消息を奉る。「殿を、関東より、『うち奉れ。』とて、院宣下りぬ。この間の狩をば、栄耀{*15}の狩と思し召すや。命こそ大切に候へ。一まづ落ちさせ給ふべく候やらん。殿の親父義朝は、舎弟信頼に与せられ、謀叛のために同科{*16}の死罪に行なはれ給ひぬ。また基成、東国に遠流{*17}の身となり、御辺もこれに御渡り候へば、千々の縁深かりけりと思ひ知られて候ひつるに、又おくれ参らせて歎き候はん事こそ、口惜しく候へ。同じ道に御供申し候はんこそ本意にて候べきに、年老い、身かひがひしくも候はで、かひなき御孝養を申さん事、行くもとまるも同じ道。」とかきくどき、泣く泣く遣はされけり。
 判官、この文を御覧じて、御返事には、
  文、悦び入り候。仰せの如く、いづ方へも落ちゆくべきにて候へども、勅勘の身として、空を飛び地をくゞるとも、叶ひ難く思へば、こゝにて自害を仕るべし。さればとて、錆矢の一つも放つべきにても候はず。この御恩、今生にては、むなしくなりぬ。来世にては、必ず一仏浄土の縁となり奉るべし。これは、一期のひき{*18}にて候。御身を放さず御覧候へ。
と、唐櫃一合、御返事に添へて遣はされけり。その後も、文ありけれども、「自害の用意仕る。」とて、御返事に及ばず。
 されば、産して七日になりたまふ北の方を呼び出だして、申されけるは、「義経は、関東より院宣下りて、失はるべく候。昔より、女の罪科といふ事なし。他所へ渡らせ給ひ候へ。義経は、心静かに自害の用意を仕るべし。」と宣へば、北の方、聞こし召しもあへず、袖を顔におしあてて、「いとけなきより、片時も放れじと慕ひし乳母の名残をふりすてて、つき奉りて下りけるは、かやうに隔て奉らんためかや。女の習ひ、片思ひこそ恥づかしく候へども、人の手に懸けさせ給ふな。」と{*19}、御傍をはなれ給はず。判官も、涙にむせび給ひ、御ことばもなく、持仏堂の東の正面をしつらひて、入れ奉り給ひけり。

四 鈴木三郎重家高館へ参る事

 重家を御前に召され、「そもそも吾殿は、鎌倉殿より御恩を賜ふに、世になき義経{*20}がもとに遥々と来り、いく程なく、かやうの事出で来るこそ不便なれ。」と宣へば、鈴木、申しけるは、「さん候。鎌倉殿より、甲斐国にて所領一所賜はりて候ひしが、寝てもさめても君の御事、片時も忘れ参らせず。余りに御面影身にしみて、参りたく存じ候ひしほどに、年頃の妻子など、熊野の者にて候ひしを、送りつかはし候て、今は今生に思ひおく事、いさゝかも候はず。但し、すこし心にかゝることの候は、一昨日著き申すみちにて、馬の足を損じ候て、痛み候へども、御内の案内いかゞと存じ、申し入れず候。今かく候へば、しかるべき。これこそ期したる弓矢{*21}にて候へ。たとひこれに参りあひ候はずとも、遠き近きの差別にてこそ候へ。君、討たれさせ給ひぬと承りて候はば、何のために命をかばひ候べき。所々にて死し候はば、死出の山路も{*22}はるかに後れ奉るべきに、これにて心安く御供仕り候はん。」とて、世に心地よげに申しければ、判官も、御涙に咽び、うち頷き給ひけり。
 さて鈴木、申し上げけるは、「下人に腹巻ばかりこそ著せて下りて候へ。討死の上、具足の善悪は、いり候まじく候へども、後に{*23}きこえ候はんこと、無下に候はんか。」と申しければ、「鎧は、あまたさせたる。」とて、しきめにまきたる赤糸縅の究竟の鎧を取り出だし、御馬にそへ下さる。腹巻は、舎弟亀井に取らせけり{*24}。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「泰衡弟泉三郎忠衡。御曹司は部屋住の公達。」とある。
 2:底本頭注に、「〇錦戸 庶兄西木戸太郎国衡。」「〇ひつめの五郎 弟通衡か。」「〇ともよしの冠者 弟頼衡か。」とある。
 3:底本は、「九郎不思議」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇不思議 奇怪。」とある。
 4:底本は、「奥(おく)も傾(かたぶ)かぬに、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 5:底本頭注に、「宣旨が下つて秀衡を召されたが、北陸道七国半分を賜はらば上洛しませうと御答へ申して聞き入れられず遂に上洛しなかつた。」とある。
 6:底本「二 秀衡死去の事」頭注に従い改めた。
 7:底本頭注に、「義経。」とある。
 8:底本頭注に、「頼朝個人の命令。」とある。
 9:底本頭注に、「秀衡。」とある。
 10:底本は、「検見(けんみ)」。底本頭注に、「物事を調べ見る役。」とある。
 11:底本頭注に、「奥州。」とある。
 12:底本頭注に、「秀衡。」とある。
 13:底本は、「人をも具(ぐ)し奉り、少輔(せう)の御料(ごれう)とぞ申す。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 14:底本は、「大(だい)の男(をとこ)剛(がう)のもの、強弓(つよゆみ)せいびやうにて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補い、底本頭注に「〇せいびやう 精兵。」とあるのに従い改めた。
 15:底本は、「えいえう」。底本頭注に従い改めた。
 16:底本は、「謀叛(むほん)の為にひくわの死罪(しざい)」。底本頭注に、「〇謀叛の為 義朝が信頼に党して平治の乱を起したので。」とある。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 17:底本は、「東国(とうごく)に落つるの身」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 18:底本頭注に、「一生の引出物。」とある。
 19:底本は、「懸(か)けさせ給ふ、御傍を」。底本頭注及び『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 20:底本頭注に、「落ちぶれた義経。」とある。
 21:底本は、「期(ご)したる弓矢(ゆみや)」。底本頭注に、「覚悟し予期した戦争。」とある。
 22:底本は、「死出(しで)の山路(やまぢ)を」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 23:底本は、「後はきこえ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇具足の善悪云々 甲冑のよい悪いに拘らず六具揃つたものを著せたい。」「〇後はきこえ云々 後後の評判になるのもまづい事でもありませう。」とある。
 24:底本は、「取らせける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。