五 衣川合戦の事
さる程に、寄せ手、長崎大夫のすけを初めとして三万余騎、一手になりて押し寄せたり。「今日の討手は、いかなる者ぞ。」「秀衡が家の子、長崎太郎太夫。」と申す。「せめて、泰衡、錦戸などにてもあらばこそ、最後の軍をもせめ。東の方の奴ばらが郎等に向ひて、弓を引き、矢を放さんこと、有るべからず。」とて、「自害せん。」と宣ひけり。
こゝに、北の方の乳母親に十郎権頭{*1}、喜三太二人は、家の上にのぼりて、遣戸格子を小楯にして、散々に射る。大手には武蔵坊、片岡、鈴木兄弟、鷲尾、増尾、伊勢三郎、備前平四郎、以上、人々八騎なり。常陸坊を初めとして、残り十一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出でけるが、そのまゝ帰らずして、失せにけり。いふばかりなき事どもなり。
弁慶、その日の装束には、黒皮縅の鎧の裾金物平たく打つたるに、黄なる蝶を三つ二つ打つたりけるを著て、大薙刀の真ん中握り、うちいたの上に立ちけり{*2}。「囃せや、殿ばら達。東の方の奴ばらに、もの見せん。若かりし時は叡山にて、よしある方には詩歌管絃の方にも許され、武勇の道には、悪僧の名を取りき。一手舞うて、東の方の賤しき奴ばらに見せん。」とて、鈴木兄弟に囃させて、
うれしや滝の水、鳴るは滝の水 日は照るとも、絶えずとうたり
東の奴ばらが鎧兜を首もろともに 衣川に切り流しつるかな
とぞ舞うたりける。
寄せ手、聞きて、「判官殿の御内の人々{*3}程、剛なる事はなし。寄せ手三万騎に、城の内は、僅か十騎ばかりにて、何程の立て合ひせんとて舞まふらん。」とぞ申しける。寄せ手の者、申しけるは、「いかに思し召し候とも、三万余騎ぞかし。舞も、おき給へ。」と申せば、「三万も、三万によるべし。十騎も、十騎によるぞ。己等が軍せんと企つる様の可笑しければ、笑ふぞ。叡山、春日山の麓にて、五月会に競馬をするに、少しも違はず。可笑しや。鈴木、東の方の奴ばらに、手なみの程を見せてくれうぞ。」とて、打物ぬきて鈴木兄弟、弁慶、轡を並べて、錏を傾けて、太刀を兜の真向にあてて、どつと喚きてかけたれば、秋風に木の葉を散らすに異ならず。寄せ手の者ども、元の陣へぞ引き退く{*4}。「口には似ざる者や。勢にこそよれ。不覚人どもかな。返せや、返せや。」と喚きけれども、返し合はする者もなし。
かかりける所に、鈴木三郎、てる日の太郎と「組まん。」と、「わ君は、たそ。」「御内の侍に、てるひの太郎高治。」「さて、わ君が主こそ鎌倉殿の郎等よ。わ君が主の祖父清衡、後三年の戦ひのとき、郎等たりけるとこそ聞け。その子に武衡、その子に秀衡、その子に泰衡。されば、我らが殿には、五代の相伝の郎等ぞかし。重家は、鎌倉殿には重代の侍なり。されば、重家がためには、あはぬ敵なり。されども、弓矢とる身は、逢ふを敵。面白し。泰衡が内には、恥ある者とこそきけ。それが、恥ある武士に後ろをみする事や有る。きたなしや、とゞまれ、とゞまれ。」といはれて、返し合はせ、右の肩を切られて、引きて退く。鈴木、すでに弓手に二騎、馬手に三騎切りふせ、七、八騎に手負はせて、我が身も痛手負ひ、「亀井六郎、犬死すな。重家は、今は、かうぞ。」と、これを最後の言葉にて、腹かき切つてふしにけり。
「紀伊国藤代を出でし日より、命をば君に奉る。いま思はず一所にて死し候はんこそ、嬉しく候へ。死出の山にては、かならず待ち給へ。」とて、鎧の草摺かなぐりすてて、「音にも聞くらん、目にも見よ。鈴木三郎が弟に亀井六郎、生年二十三。弓矢の手なみ、日頃人に知られたれども、東の方の奴ばらは、いまだ知らじ。始めてもの見せん。」と、いひもはてず{*5}、大勢の中へわつて入り、弓手にあひつけ馬手にせめつけ斬りけるに、面を向ふるものぞなき。敵三騎打ちとり、六騎に手をおうせて、我が身も大事の疵あまたおひければ、鎧の上帯おしくつろげ、腹かき切つて、兄のふしたる所に、同じ枕に伏しにけり。
さても武蔵は、かれにうち合ひ、これに打ちあひする程に、咽笛うちさかれ、血出づる事は限りなし。世の常の人などは、血酔ひなどするぞかし。弁慶は、血の出づれば、いとゞ血そばへして{*6}、人をも人とも思はず。前へ流るゝ血は、鎧の働くに従ひて、赤血{*7}になりて流れける程に、敵、申しけるは、「こゝなる法師、あまりのもの狂はしさに、前にも母衣かけたるぞ。」と申しけり{*8}。「あれ程のふて者{*9}に、寄り合ふべからず。」とて、手綱を控へてよせず。弁慶、度々の戦になれたる事なれば、倒るゝやうにては、起き上がり起き上がり、河原を走りありくに、面を向ふる人ぞなき。さる程に、増尾十郎も討死す。備前平四郎も、敵あまた討ちとり、我が身も疵あまた負ひければ、自害して失せぬ。片岡と鷲尾、一つになりて戦ひけるが、鷲尾は、敵五騎討ち取りて死にぬ。片岡、一方すきければ、武蔵坊、伊勢三郎と一所にかゝる。伊勢三郎、敵六騎討ち取り、三騎に手負はせて、思ふやうに軍して、深手負ひければ、暇乞ひして、「死出の山にて待つぞ。」とて、自害してんげり。
弁慶は、敵逐ひ払ひて、君の御前に参りて、「弁慶こそ参りて候へ。」と申しければ、君は、法華経の八の巻を{*10}あそばしておはしましけるが、「いかに。」と宣へば、「軍は、かぎりに成つて候。備前、鷲尾、増尾、鈴木兄弟、伊勢三郎、各、いくさ、思ひの儘に仕り、討死仕りて候。今は、弁慶と片岡ばかりに成つて候。限りにて候程に、君の御目に今一度かゝり候はんずるために、参りて候。君、御先立ち給ひ候はば、死出の山にて御待ち候へ。弁慶、先立ち参らせ候はば、三途の河にて待ち参らせん。」と申せば、判官、「今ひとしほ名残の惜しきぞよ。死なば一所とこそ契りしに、我も、もろともにうち出でんとすれば、不足なる敵なり。弁慶を内に留めんとすれば、御方のおのおの討死する。自害の所へ雑人を入れたらば、弓矢の疵なるべし。今は力およばず。たとひわれ先立ちたりとも、死出の山にて待つべし。先立ちたらば、誠に三途の河にて待ち候へ。御経も、今少しなり。読み果つる程は、死したりとも我を守護せよ。」と仰せられければ、「さん候。」と申して、御簾{*11}をひき上げ、君をつくづくと見参らせて、御名残惜しげに涙に咽びけるが、敵の近づく声を聞き、御暇申して立ち出づるとて、又立ちかへり、かくぞ{*12}申し上げける。
六道のみちのちまたに待てよ君後れさきだつならひありとも
かく忙はしき中にも、未来をかけて申しければ、御返歌に、
後の世もまた後の世もめぐりあへ染むむらさきの雲の上まで
と仰せられければ、声を立ててぞ泣きにける。
さて、片岡とうしろ合はせにさし合はせて、一町を二手に分けて駆けたりけるが、二人にかけ立てられて、寄手の兵ども、むらめかして引き退く。片岡、七騎が中に走り入つて戦ふほどに、肩も腕もこらへずして、疵多く負ひければ、「叶はじ。」とや思ひけん、腹かき切り、失せにけり。
弁慶、今は一人なり。薙刀の柄、一尺ばかりふみ折りて、かばとすて、「あはれ、中々よきものや。えせかた人{*13}の足手にまぎれて、悪かりつるに。」とて、きつと踏んばり立つて、敵いれば、よせあはせて、はたと切り、ふつとは切り、馬の太腹前膝、ばらりばらりと切り付け、馬より落つる所は、長刀の先にて首をはね落とし、背{*14}にて敲きおろしなどして狂ふほどに、一人に切り立てられて、面を向くる者ぞなき。鎧に矢の立つ事、数を知らず。折りかけ折りかけしたりければ、蓑をさかさまに著たるやうにぞ有りける。黒羽、白羽、染羽、いろいろの矢ども、風に吹かれて見えければ、武蔵野の尾花の、秋風に吹き靡かるゝに異ならず。八方を走りまはりて狂ひけるを、寄せ手の者ども、申しけるは、「敵も味方も討死すれども、弁慶ばかり、いかに狂へども、死なぬは。不思議なり。おとに聞こえしにも勝りたり。我らが手にこそかけずとも、鎮守大明神、たちよりて蹴殺し給へ。」と、呪ひけるこそをこがましけれ。
武蔵は、敵を打ち払ひて、薙刀をさかさまに杖につきて、仁王立ちに立ちにけり。ひとへに力士{*15}の如くなり。一口笑ひて立ちたれば、「あれ、見たまへ。あの法師、我らを討たんとて、こなたを守らへ、しれ笑ひ{*16}してあるは。たゞごとならず。近くよりて討たるな。」とて、左右なく近づく者もなし。さる者の申しけるは、「剛の者は、立ちながら死する事あると言ふぞ。殿ばら、当たりて見たまへ。」と申しければ、「我、当たらん。」といふ者もなし。ある武者、馬にてあたりを馳せければ、疾くより死したる者なれば、馬に当たりて倒れけり。長刀を握りすくみてあれば、倒れざまに先へうちこすやうに見えければ、「すは、すは。又狂ふは。」とて、はせのきはせのき控へたり。されども、倒れたるまゝにて動かず。その時、「我も、我も。」とよりけるこそ、をこがましく見えたりけれ{*17}。立ちながらすくみたる事は、「君の御自害のほど、人をよせじとて、守護のためか。」とおぼえて、人々、いよいよ感じけり{*18}。
校訂者注
1:底本は、「十郎権頭(ごんのかみ)」。底本頭注に、「増尾十郎権頭兼房。」とある。
2:底本は、「うちいたの上に立ちける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇うちいた 陣中で敷皮の代りに用ゐる板。」とある。
3:底本は、「御内(みうち)の人々」。底本頭注に、「家臣の人々。」とある。
4:底本は、「寄手(よせて)の陣(ぢん)へ引退(ひきしりぞ)く。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
5:底本は、「いひはてず、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
6:底本は、「血(ち)そばえして、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇血酔ひ 出血におびえて茫然となること。」「〇血そばえ 血を見て戯れ興じること。」とある。
7:底本は、「あけち」。底本頭注に従い改めた。
8:底本は、「母衣(ほろ)かけたるぞ。』と申しける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇母衣 戦陣に矢を防ぐもの。竹を骨とし布で覆ふ。背に負うて装飾ともした。」とある。
9:底本頭注に、「不敵な者。」とある。
10:底本は、「法華経(ほけきやう)の巻(まき)を」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
11:底本は、「簾(みす)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
12:底本は、「かく申し上げける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
13:底本は、「えせかた人(うど)」。底本頭注に、「頼もしげない身方。」とある。
14:底本は、「胸(むね)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
15:底本は、「りきしゆ」。底本頭注に従い改めた。
16:底本頭注に、「〇守らへ ぢつと見つめ。」「〇しれ笑ひ 癡れた笑ひ。」とある。
17:底本は、「見えたりけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
18:底本は、「感じける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
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