太平記


 {*k}蒙、竊かに古今の変化を採り、安危の来由を察するに、覆ひて外無きは天の徳なり。明君之を体して国家を保つ。載せて棄つること無きは地の道なり。良臣之に則りて社稷を守る。若し夫れ其の徳欠くるときんば位有りと雖も保たず。所謂夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に敗る。其の道違ふときんば威有りと雖も久しからず。曽て聴く、趙高は咸陽に刑せられ禄山は鳳翔に亡ぶ。是を以て前聖慎しんで法を将来に垂るるを得たり。後昆顧みて誡めを既往に取らざらんや。{*k}

巻第一

後醍醐天皇御治世の事 附 武家繁昌の事

 ここに、本朝人皇の始め、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に当たつて、武臣相模守平高時といふ者あり。この時、上、君の徳に背き、下、臣の礼を失ふ。これより四海、大きに乱れて、一日も未だ安からず。狼煙、天をかすめ、鯢波、地を動かす事、今に至るまで四十余年。一人として春秋に富めることを得ず。万民、手足を置く所なし{*1}。
 つらつらその濫觴を尋ぬれば、ただに禍ひ、一朝一夕の故にあらず。元暦年中に、鎌倉の右大将頼朝卿、平家を追討してその功あるの時、後白河院、叡感の余りに、六十六箇国の総追捕使に補せらる。これより武家、始めて諸国に守護を立て、荘園に地頭を置く。かの頼朝の長男左衛門督頼家、次男右大臣実朝公、相続いて皆、征夷将軍の武将に備はる。これを三代将軍と号す。然るを、頼家卿は実朝のために討たれ、実朝は頼家の子悪禅師公暁のために討たれて、父子三代、僅かに四十二年にして尽きぬ。その後、頼朝卿の舅遠江守平時政の子息、前陸奥守義時、自然に天下の権柄を執り、勢ひ、漸く四海を覆はんと欲す。この時の太上天皇は、後鳥羽院なり。武威、下に振るはば、朝憲、上に廃れんことを歎き思し召して、義時を亡ぼさんとし給ひしに、承久の乱出で来て、天下、暫くも静かならず。遂に旌旗、日を掠めて、宇治、勢多にして相戦ふ。その戦ひ、未だ一日も終へざるに、官軍、忽ちに敗北せしかば、後鳥羽院は、隠岐国へ遷されさせ給ひて、義時、いよいよ八荒を掌に握る。それより後、武蔵守泰時、修理亮時氏、武蔵守経時、相模守時頼、左馬権頭時宗、相模守貞時。相続いて七代、政、武家より出でて、徳、窮民を撫するに足り、威、万人の上に被るといへども、位、四品の際を越えず。謙に居て仁恩を施し、己を責めて礼義を正す。これを以て、高しといふとも危からず、盈てりといふとも溢れず。
 承久より以来、儲王、摂家の間に、理世安民の器に相当たり給へる貴族を一人、鎌倉へ申し下し奉りて、征夷将軍と仰いで、武臣、皆拝趨の礼を事とす。同じき三年に、始めて洛中に両人{*2}の一族を据ゑて、両六波羅と号して西国の沙汰をとり行はせ、京都の警衛に備へらる。又、永仁元年より、鎮西に一人の探題を下し、九州の成敗を司らしめ、異賊襲来の守りを堅うす。されば、一天下普ねく、かの下知に随はずといふ処もなく、四海の外も、均しくその権勢に服せずといふ者はなかりけり。朝陽犯さざれども、残星光を奪はるる習ひなれば、必ずしも武家より公家を蔑ろにし奉るとしもは無けれども、所には、地頭強うして領家は弱く、国には、守護重うして国司は軽し。この故に、朝廷は年々に衰へ、武家は日々に盛んなり。これに因つて代々の聖主、遠くは承久の宸襟を休めんがため、近くは朝儀の陵廃を歎き思し召して、東夷を亡ぼさばやと、常に叡慮を巡らされしかども、或いは勢微にして叶はず、或いは時未だ到らずして黙止し給ひける処に、時政九代の後胤、前相模守平高時入道崇鑑が代に至つて、天地、命をあらたむべき危機、ここに顕はれたり。
 つらつら古を引きて今を視るに、行跡、甚だ軽くして、人の嘲りを顧みず、政道、正しからずして、民の弊えを思はず。只日夜に逸遊を事として、前烈{*3}を地下に羞しめ、朝暮に奇物を翫んで、傾廃を生前に致さんとす。衛の懿公が鶴を乗せし楽しみ、早尽き、秦の李斯が犬を牽きし恨み、今に来りなんとす。見る人、眉を顰め、聴く人、唇を翻す。この時の帝後醍醐天皇と申せしは、後宇多院の第二の皇子、談天門院{*4}の御腹にておはせしを、相模守が計らひとして、御年三十一の時、御位に即け奉る。御在位の間、内には三綱五常の儀を正しうして、周公、孔子の道に従ひ、外には万機百司の政を怠り給はず。延喜、天暦の跡を追はれしかば、四海、風を望んで{*5}悦び、万民、徳に帰して楽しむ。およそ諸道の廃れたるを興し、一事の善をも賞せられしかば、寺社禅律の繁昌、ここに時を得、顕密儒道の碩才も、皆望みを達せり。誠に天に受けたる聖主、地に奉ぜる明君なりと、その徳を称し、その化に誇らぬものは、なかりけり。

関所停止の事

 それ、四境七道の関所は、国の大禁を知らしめ、時の非常を誡めんがためなり。然るに今、壟断の利に依つて、商売往来の弊え、年貢運送の煩ひありとて、大津、葛葉の外は、悉く所々の新関を止めらる。又、元亨元年の夏、大旱、地を枯らして、甸服{*6}の外百里の間、空しく赤土のみあつて青苗なし。餓莩、野に満ちて、飢人、地にたふる。この年、銭三百を以て粟一斗を買ふ。君、遥かに天下の飢饉を聞こし召して、「朕、不徳あらば、天、我一人を罪すべし。黎民、何の咎ありてかこの災ひに遭へる。」と、自ら帝徳の天に背ける事を歎き思し召して、朝餉の供御を止められて、飢人窮民の施行に引かれけるこそ有り難けれ。これも猶、万民の飢ゑを助くべきに非ずとて、検非違使の別当に仰せて、当時富裕の輩が、利倍のために蓄へ積める米穀を点検して、二條町に仮屋を建てられ、検使自ら断りて、値を定めて売らせらる。されば、商買共に利を得て、人皆九年の蓄へあるが如し。訴訟の人出来の時、もし下情、上に達せざる事もやあらんとて、記録所へ出御成つて、直に訴へを聞こし召し明らめ、理非を決断せられしかば、虞芮の訴へ忽ちに停まつて、刑鞭も朽ちはて、諌鼓も撃つ人なかりけり。誠に理世安民の政、もし機巧に附いてこれを見れば、命世亜聖の才とも称しつべし。ただ恨むらくは、斉桓、覇を行ひ、楚人、弓をわすれしに、叡慮、少しき似たることを。これ則ち、草創は一天を合はすといへども、守文は三載を越えざる所以なり。

立后の事 附 三位殿御局の事

 文保二年八月三日、後西園寺太政大臣実兼公の御女{*7}、后妃の位に備はつて、弘徽殿に入らせ給ふ。この家に女御を立てられたる事、已に五代。これも承久以後、相模守{*8}、代々西園寺の家を尊崇せしかば、一家の繁昌、あたかも天下の耳目を驚かせり。君も、関東の聞こえ、然るべしと思し召して、とりわけ立后の御沙汰もありけるにや。御齢、已に二八にして、金鶏障の下にかしづかれて、玉楼殿の内に入り給へば、夭桃の春を傷める粧ひ、垂柳の風を含める御形、毛嬙、西施も面を恥ぢ、絳樹、青琴も鏡を掩ふほどなれば、君の御おぼえも定めて類あらじとおぼえしに、君恩、葉よりも薄かりしかば、一生空しく玉顔に近づかせ給はず。深宮の中に向つて春の日の暮れ難き事を歎き、秋の夜の長き恨みに沈ませ給ふ。金屋に人無うして、耿々たる残んの灯の壁に背ける影、薫篭に香消えて、蕭々たる夜の雨の窓を打つ声、物毎に皆、御涙を添ふるなかだちとなれり。「人生まれて、婦人の身となること勿れ。百年の苦楽、他人に因る。」と白楽天が書きたりしも、理なりとおぼえたり。
 その頃、安野中将公廉の女に、三位殿の局{*9}と申しける女房、中宮の御方に候はれけるを、君、一度御覧ぜられて、他に異なる御おぼえあり。三千の寵愛一身にありしかば、六宮の粉黛は顔色なきが如くなり。すべて三夫人、九嬪、二十七の世婦、八十一の女御及び後宮の美人、楽府の妓女といへども、天子顧眄の御心を附けられず。ただに殊艶尤態のひとりよくこれを致すのみにあらず。蓋し善巧便佞、叡旨に先だちて奇を争ひしかば、花の下の春の遊び、月の前の秋の宴にも、駕すれば輦を共にし、幸すれば席をほしいままにし給ふ。これより君王、朝政をし給はず。忽ちに准后の宣旨を下されしかば、人皆、皇后元妃の思ひをなせり。驚き見る、光彩の始めて門戸に生る事を。この時、天下の人、男を生むことを軽んじて、女を生むことを重んぜり。されば、御前の評定、雑訴の御沙汰までも、准后の御口入とだに言ひてげれば、上卿も、忠なきに賞を与へ、奉行も、理あるを非とせり。関雎は楽しんで淫せず、哀しんで傷らず。詩人採つて、后妃の徳とす。いかんかせん、傾城傾国の乱、今にありぬとおぼえて、あさましかりし事どもなり。


校訂者注
 1:底本頭注に、「〇狼煙 のろし。事ある時焚く知らせの火。」「〇鯢波 ときの声。」「〇春秋に富めること 長生きすること。」「〇措く 安んじて置く。」とある。
 2:底本頭注に、「泰時と時房。」とある。
 3:底本は、「前烈(ぜんれつ)」。底本頭注に、「先祖。」とある。
 4:底本は、「談天門院(だつてんもんゐん)」。底本頭注に、「藤原師継の養女。」とある。
 5:底本は、「望んて」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 6:底本は、「甸服(てんぷく)」。底本頭注に、「畿内の意。」とある。
 7:底本は、「御女(おんむすめ)」。底本頭注に、「藤原禧子。」とある。
 8:底本頭注に、「北條高時。」とある。
 9:底本頭注に、「廉子。新待賢門院と号す。」とある。
 k:底本、この間は漢文。