儲王の御事

 螽斯の化{*1}行はれて、皇后元妃の外、君恩に誇る官女、甚だ多かりければ、宮々、次第に御誕生あつて、十六人までぞおはしける。
 中にも第一宮尊良親王は、御子左大納言為世卿の女、贈従三位為子の御腹にておはせしを、吉田内大臣定房公、養君にし奉りしかば、志学の歳の始めより六義の道に長じさせたまへり。されば富緒河の清き流れを汲み、浅香山の故き跡を踏んで、嘯風弄月に御心を傷ましめ給ふ。第二宮も、同じ御腹にてぞおはしける。総角の御時より妙法院の門跡に御入室あつて、釈氏の教へを受けさせ給ふ。これも、瑜伽三密の間には、歌道数奇の御翫びありしかば、高祖大師{*2}の旧業にも恥ぢず、慈鎮和尚の風雅にも越えたり。
 第三宮は、民部卿三位殿の御腹なり{*3}。御幼稚の時より利根聡明におはせしかば、君、御位をばこの宮にこそと思し召したりしかども、御治世は大覚寺殿と持明院殿と、代はる代はるたもたせ給ふべしと、後嵯峨院の御時より定められしかば、今度の春宮をば持明院殿の御方に立て参らせらる。天下の事、何となく関東の計らひとして、叡慮にも任せられざりしかば、御元服の儀を改められ、梨本の門跡に御入室あつて、承鎮親王の御門弟とならせ給ひて、一を聞いて十を悟る御器量、世に又類もなかりしかば、一実円頓の花の匂ひを荊渓の風に薫じ、三諦即是の月の光を玉泉の流れに浸せり。されば、消えなんとする法灯を挑げ、絶えなんとする恵命を継がんこと、唯この門主の御時なるべしと、一山、掌を合はせて悦び、九院、首を傾けて仰ぎ奉る。第四の宮も、同じ御腹にてぞおはしける。これは、聖護院二品親王の御附弟にておはせしかば、法水を三井の流れに汲み、記別を慈尊の暁に期し給ふ。
 この外、儲君儲王の選び、竹苑椒庭{*4}の備へ、誠に王業再興の運、福祚長久の基、時を得たりとぞ見えたりける。

中宮御産御祈りの事 附 俊基偽つて篭居の事

 元亨二年の春の頃より、中宮御懐妊の御祈りとて、諸寺諸山の貴僧高僧に仰せて、様々の大法秘法を行はせらる。中にも法勝寺の円観上人、小野文観僧正二人は、別勅を承つて、金闕に壇を構へ、玉体に近づき奉つて、肝胆を砕いてぞ祈られける。仏眼、金輪、五壇の法、一字五反孔雀経、七仏薬師、熾盛光、烏芻沙摩変成男子の法、五大虚空蔵、六観音、六字河臨、訶利帝母、八字文殊、普賢延命、金剛童子の法。護摩の煙は内苑に満ち、振鈴の声は掖殿{*5}に響きて、如何なる悪魔怨霊なりとも、障碍を成し難しとぞ見えたりける。かやうに功を積み日を累ねて、御祈りの精誠を尽くされけれども、三年までかつて御産の御事はなかりけり。後に仔細を尋ぬれば、関東調伏のために、事を中宮の御産に寄せて、かやうに秘法を修せられけるとなり。これ程の重事を思し召し立つことなれば、諸臣の異見をも窺ひたく思し召しけれども、事多聞に及ばば、武家に漏れ聞こゆることやあらんと、憚り思し召されける間、深慮智化の老臣、近侍の人々にも仰せ合はせらるることもなし。唯、日野中納言資朝、蔵人右少弁俊基{*6}、四條中納言隆資、尹大納言師賢、平宰相成輔ばかりに、ひそかに仰せ合はせられて、さりぬべき兵を召されけるに、錦織の判官代、足助次郎重成、南都北嶺の衆徒、少々勅定に応じてけり。
 かの俊基は、累葉の儒業を継ぎて、才学優長なりしかば、顕職に召し仕はれて、官、蘭台に至り、職、職事{*7}を司れり。然る間、出仕事繁うして、籌策に隙なかりければ、如何にもして{*8}暫く篭居して、謀叛の計略を巡らさんと思ひける所に、山門横川の衆徒、款状を捧げて禁庭に訴ふる事あり。俊基、かの奏状を披きて読み申されけるが、読み誤りたる体にて、楞厳院を慢厳院とぞ読みたりける。座中の諸卿、これを聞いて、目を合はせて、「相の字をば、篇につけても作りにつけても、もくとこそ読むべかりける。」と、掌を拍つてぞ笑はれける。俊基、大きに恥ぢたる気色にて、面を赤めて退出す。それより、恥辱に逢ひ篭居すと披露して、半年ばかり出仕を止め、山伏の形に身を易へて、大和、河内に行いて、城郭になりぬべき処々を見置きて、東国、西国に下つて、国の風俗、人の分限をぞ窺ひ見られける。

無礼講の事 附 玄恵文談の事

 こゝに美濃国の住人土岐伯耆十郎頼貞、多治見四郎次郎国長といふ者あり。共に清和源氏の後胤として、武勇の聞こえありければ、資朝卿、様々の縁を尋ねて眤び近づかれ、朋友の交はり已に浅からざりけれども、これ程の一大事を左右なく知らせん事、如何かあるべからんと思はれければ、猶もよくよくその心を窺ひ見んために、無礼講といふ事をぞ始められける。その人数には、尹大納言師賢、四條中納言隆資、洞院左衛門督実世、蔵人右少弁俊基、伊達三位房游雅、聖護院庁の法眼玄基、足助次郎重成、多治見四郎次郎国長等なり。その交会遊宴の体、見聞耳目を驚かせり。献杯の次第、上下をいはず、男は烏帽子を脱いで髻を放ち、法師は衣を著ずして白衣になり、年十七、八なる女の、見目かたち優に、はだへ殊に清らかなるを二十余人、褊の単ばかりを著せて酌を取らせければ、雪のはだへ、すき通りて、大液の芙蓉、新たに水を出でたるに異ならず。山海の珍物を尽くし、旨酒泉の如くに湛へて、遊び戯れ舞ひ歌ふ。その間には、唯東夷を滅ぼすべき企ての外は、他事なし。
 その事となく常に会交せば、人の思ひ咎むる事もやあらんとて、事を文談に寄せんがために、その頃才覚無双の聞こえありける玄恵法印といふ文者を請じて、昌黎文集の談義をぞ行はせける。かの法印、謀叛の企てとは夢にも知らず、会合の日毎にその席に{*9}臨んで、玄を談じ理を開く。かの文集の中に、「昌黎潮州に赴く」といふ長篇あり。この処に至つて談義を聞く人々、「これ皆不吉の書なりけり。呉子、孫子、六韜、三略なんどこそ然るべき当用の文なれ。」とて、昌黎文集の談義を止めてげり。この韓昌黎と申すは、晩唐の末に出でて、文才優長の人なりけり。詩は杜子美、李太白に肩を双べ、文章は漢、魏、晋、宋の間に傑出せり。
 昌黎が猶子韓湘といふ者あり。これは、文字をも嗜まず、詩篇にも携はらず。只道士の術を学んで、無為を業とし無事を事とす。或る時昌黎、韓湘に向つて申しけるは、「汝、天地の中に化生して、仁義の外に逍遥す。これ君子の恥づる処、小人の専らとする処なり。我、常に汝がためにこれを悲しむ事、切なり。」と教訓しければ、韓湘、大きにあざ笑うて、「仁義は大道の廃れたる処に出で、学教は大偽の起こる時に盛んなり。吾、無為の境に優遊して、是非の外に自得す。されば、真宰の臂をさいて壺中に天地を蔵し、造化の工を奪うて橘裡に山川をそばだつ{*10}。かへつて悲しむらくは、公の唯古人の糟粕を甘なつて{*11}、空しく一生を区々の中に誤ることを。」と答へければ、昌黎、重ねて曰く、「汝が言ふ所、我、未だ信ぜず。今則ち造化の工を奪ふ事を得てんや。」と問ふに、韓湘、答ふる事なくして、前に置きたる瑠璃の盆をうつぶせて、やがて又引き仰向けたるを見れば、忽ちに碧玉の牡丹の花の嬋娟たる一枝あり。昌黎、驚いてこれを見るに、花の中に金字に書ける一聯の句あり。
  雲は秦嶺に横たはつて家いづくにか在る  雪は藍関を擁して馬前まず
云々。昌黎、不思議の思ひをなして、これを読んで{*12}一唱三嘆するに、句の優美遠長なる体製のみあつて、その趣向落著の所を知り難し。手に取つてこれを見んとすれば、忽然として消え失せぬ。これよりしてこそ、韓湘、仙術の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。
 その後昌黎、仏法を破つて儒教を貴むべきよし奏状を奉りける咎に依つて、潮州へ流さる。日暮れ、馬泥んで前途程遠し。遥かに故郷の方を顧れば、秦嶺に雲横たはつて、来つらん方もおぼえず。悼んで万仞の嶮しきに登らんとすれば、藍関に雪満ちて、行くべき末の路もなし。進退、歩を失うて頭を回らす処に、いづくより来れるともなく、韓湘、勃然として傍にあり。昌黎、悦んで馬より下り、韓湘が袖を引いて、涙の中に申しけるは、「先年、碧玉の花の中に見えたりし一聯の句は、汝、我に予め左遷の愁へを告げ知らせるなり。今又汝、こゝに来れり。料り知んぬ、我遂に謫居に愁死して、帰ることを得じ、と。再会、期なうして、遠別、今にあり。豈悲しみに堪へんや。」とて、前の一聯に句を継いで、八句一首と成して韓湘に与ふ。
  {*k}一封朝に奏す、九重の天  夕に潮陽に貶せらる、路八千
  聖明のために弊事を除かんと欲す  豈衰朽をもつて残年を惜しまんや
  雲は秦嶺に横たはつて家いづくにか在る  雪は藍関を擁して馬前まず
  知りぬ、汝遠く来る、須らく意有るべし  好し、吾が骨を瘴江の辺に収めよ{*k}
 韓湘、この詩を袖に入れて、泣く泣く東西に別れにけり。誠なるかな、痴人の面前に夢を説かずといふ事。この談義を聞きける人々の忌み思ひけるこそおろかなれ。

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校訂者注
 1:底本は、「螽斯(しうし)の化(くわ)」。底本頭注に、「〇螽斯 いなご。子多き譬へ。詩経の句。」とある。
 2:底本頭注に、「伝教大師。」とある。
 3:底本頭注に、「〇第三宮 護良親王。」「〇三位殿 源師親の女、親子。」とある。
 4:底本頭注に、「〇竹苑 親王。」「〇椒庭 後宮。」とある。
 5:底本頭注に、「後宮。」とある。
 6:底本頭注に、「〇資朝 藤原俊光の子。」「〇俊基 藤原種範の子。」とある。
 7:底本頭注に、「〇蘭台 弁官の唐名。」「〇職事 蔵人の唐名。」とある。
 8:底本は、「如何にしても」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 9:底本は、「日毎に席に」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 10:底本頭注に、「〇真宰の臂 真宰は道士の所謂神で臂は無形の理を云ふ。」「〇壺中云々 漢書に費長房が仙人壺公に従ひて壺中に入りし故事。」「〇橘裡 老人が橘の中で棋を囲める故事。」とある。
 11:底本頭注に、「〇公 昌黎。」「〇甘なつて 甘んじ。」とある。
 12:底本は、「読れで」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 k:底本、この間は漢文。