頼員かへり忠の事
謀叛人の与党、土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行斎藤太郎左衛門尉利行が女と嫁して、最愛したりけるが、世の中已に乱れて合戦出で来りなば、千に一つも討死せずといふことあるまじと思ひける間、かねて余波や惜しかりけん、或る夜の寝覚めの物語に、「一樹の蔭にやどり、同じ流れを汲むも、皆これ多生の縁浅からず。況んや相馴れ奉つて、已に三年に余れり。等閑ならぬ志のほどをば、気色につけ、折に触ても思ひ知り給ふらん。さても定めなきは人間の習ひ、相逢ふ中の契りなれば、今もし我が身、はかなくなりぬと聞き給ふ事あらば、なからん後までも貞女の心を失はで、我が後世を弔ひたまへ。人間に帰らば再び夫婦の契りを結び、浄土に生まれば、同じ蓮の台に半座を分けて待つべし。」と、その事となくかきくどき、涙を流してぞ申しける。女、つくづくと聞いて、「あやしや。何事の侍るぞや。明日までの契りの程も知らぬ世に、後世までのあらましは、忘れんとての情にてこそ侍らめ。さらでは、かかるべしともおぼえず。」と、泣き恨みて問ひければ、男は心浅うして、「さればよ。われ、不慮の勅命を蒙りて、君に憑まれ奉る間、辞するに道なうして、御謀叛に与しぬる間、千に一つも命の生きんずる事、かたし。あぢきなく存ずる程に、近づく別れの悲しさに、かねてかやうに申すなり。この事あなかしこ人に知らさせ給ふな。」と、よくよく口をぞ堅めける。
かの女性、心の賢き者なりければ、夙におきて、つくづくとこの事を思ふに、「君の御謀叛、事成らずば、憑みたる男、忽ちに誅せらるべし。もし又、武家亡びなば、我が親類、誰かは一人も残るべき。さらば、これを父利行に語つて、左近蔵人をかへり忠の者になし、これをも助け、親類をも助けばや。」と思うて、急ぎ父がもとに行き、忍びやかにこの事をありのままにぞ語りける。斎藤、大きに驚き、やがて左近蔵人を呼び寄せ、「かかる不思議を承る。誠にて候やらん。今の世に、かやうの事思ひ企て給はんは、ひとへに石を抱いて淵に入るものにて候べし。もし他人の口より漏れなば、我等に至るまで皆誅せらるべきにて候へば、利行、急ぎ御辺の告げ知らせたる由を六波羅殿に申して、共にその咎を遁れんと思ふは、如何か計らひ給ふぞ。」と問ひければ、これ程の一大事を女性に知らする程の心にて、なじかは仰天せざるべき。「この事は、同名頼貞、多治見四郎二郎が勧めに依つて、同意仕つて候。唯ともかくも、身の咎を助かる様に御計らひ候へ。」とぞ申しける。
夜未だ明けざるに、斎藤、急ぎ六波羅へ参つて、事の仔細を委しく告げ申しければ、即ち時をかへず鎌倉へ早馬を立て、京中、洛外の武士どもを六波羅へ召し集めて、先づ著到をぞつけられける。その頃、摂津国葛葉といふ処に、地下人、代官を背きて合戦に及ぶ事あり。かの本所の雑掌を、六波羅の沙汰として荘家にしすゑんために、四十八箇所の篝、並びに在京人を催さるる由を披露せらる{*1}。これは、謀叛の輩を落とさじがための謀りごとなり。土岐も多治見も、吾が身の上とは思ひも寄らず、明日は葛葉へ向ふべき用意して、皆己が宿所にぞ居たりける。
さる程に、明くれば元徳元年九月十九日の卯の刻に、軍勢、雲霞の如く六波羅へ馳せ参る。小串三郎左衛門尉範行、山本九郎時綱、御紋の旗をたまはり、討手の大将を承つて、六條河原へうち出で、三千余騎を二手に分けて、多治見が宿所錦小路高倉、土岐十郎が宿所三條堀河へ寄せけるが、時綱、かくてはいかさま、大事の敵をうち漏らしぬと思ひけるにや、大勢をば、わざと三條河原に留めて、時綱只一騎、中間二人に長刀持たせて、忍びやかに土岐が宿所へ馳せて行き、門前に馬をば乗り捨てて、小門より内へつと入つて、中門の方を見れば、宿直しけるものよとおぼえて、物具、太刀、刀、枕に取り散らし、高いびきかきて寝入りたり。廐の後を廻つて、いづくにかぬけちのあると見れば、後ろは皆築地にて、門より外は路もなし。さては心安しと思うて、客殿の奥なる二間を颯と引きあけたれば、土岐十郎、唯今起き上がりたりとおぼえて、鬢の髪を撫であげて結ひけるが、山本九郎を屹と見て、「心得たり。」といふままに、立てたる太刀を取り、側なる障子を一間踏み破り、六間の客殿へ跳り出で、天井に太刀を打ちつけじと、払ひ切りにぞ切つたりける。
時綱は、わざと敵を広庭へおびき出し、透間もあらば生け捕らんと志して、うち払ひては退き、うち流しては飛びのき、人交ぜもせず戦うて、後ろを屹と見たれば、後陣の大勢二千余騎、二の木戸よりこみ入つて、同音に吶喊をつくる。土岐十郎、久しく戦つては、中々生け捕られんとや思ひけん、元の寝所へ走り帰りて、腹十文字にかき切つて、北枕にこそ伏したりけれ。中の間に寝たりける若党どもも、思ひ思ひに討死して、遁るる者一人もなかりけり。首を取つて鋒に貫いて、山本九郎は、これより六波羅へ馳せ参る。
多治見が宿所へは、小串三郎左衛門範行を先として、三千余騎にて押し寄せたり。多治見は、夜もすがらの酒に飲み酔ひて、前後も知らず臥したりけるが、吶喊の声に驚いて、こは何事ぞとあわて騒ぐ。傍に臥したる遊君、物馴れたる女なりければ、枕なる鎧取つてうち著せ、上帯強くしめさせて、猶寝入りたる者どもをぞ起こしける。小笠原孫六、傾城に驚かされて、太刀ばかりを取つて中門に走り出で、目をすりすり四方を屹と見ければ、車の輪の旗一流れ、築地の上より見えたり。孫六、内へ入つて、「六波羅より討手の向つて候ひける。この間の御謀叛、早顕はれたりとおぼえ候。早面々、太刀の目貫の堪へん程は切り合うて、腹を切れ。」と呼ばはりて、腹巻取つて肩になげかけ、二十四差いたる胡簶と繁籘の弓とを提げて、門の上なる櫓へ走り上がり、中差取つて打ちつがひ、狭間の板八文字に開いて、「あら、ことごとしの大勢や。我等が手柄の程こそ顕はれたれ。そもそも討手の大将は、誰と申す人の向はれて候やらん。近づいて箭一つ請けて御覧候へ。」といふままに、十二束三伏忘るるばかり引きしぼりて、切つて放つ。真先に進んだる狩野下野前司が若党に、衣摺助房が兜のまつかう、鉢附の板まで矢先白く射通して、馬よりさかさまに射落とす。これを始めとして、鎧の袖、草摺、兜の鉢ともいはず、指し詰めて思ふやうに射けるに、面に立つたる兵二十四人、矢の下に射て落とす。今一筋胡簶に残りたる矢を抜いて、胡簶をば櫓の下へからりと投げ落とし、「この矢一つをば冥途の旅の用心に持つべし。」といつて腰にさし、「日本一の剛の者、謀叛に与し自害する有様、見置いて人に語れ。」と、高声に呼ばはつて、太刀の鋒を口に呀へて、櫓よりさかさまに飛び落ちて、貫かれてこそ死ににけれ。
この間に、多治見を始めとして、一族若党二十余人、物具ひしひしと堅め、大庭に跳り出で、門の閂さして待ちかけたり。寄せ手、雲霞の如しといへども、思ひ切つたる者どもが、死に狂ひをせんと引き篭つたるがこはさに、内へ切つて入らんとする者もなかりける処に、伊藤彦次郎父子兄弟四人、門の扉の少し破れたる処より、這うて内へぞ入りたりける。志の程は猛けれども、待ちうけたる敵の中へ這うて入つたることなれば、敵に討ち違ふるまでもなくて、皆門の脇にて討たれにけり。寄せ手、これを見て、いよいよ近づく者もなかりける間、内より門の扉を押し開いて、「討手を承る程の人達の、きたなうも見えられ候ものかな。はやこれへ御入り候へ。我等が頚ども、引出物に参らせん。」と、恥ぢしめてこそ立ちたりけれ。
寄せ手ども、敵にあくまで欺かれて、先陣五百余人、馬を乗り放してかち立ちになり、喚いて庭へこみ入る。たてこもる所の兵ども、とても遁れじと思ひ切つたることなれば、いづくへか一足も引くべき。二十余人の者ども、大勢の中へ乱れ入つて、面もふらず切つてまはる。先駆けの寄せ手五百余人、散々に切り立てられて、門より外へ颯と引く。されども寄せ手は大勢なれば、先陣引けば、二陣喚いてかけ入る。かけ入れば追ひ出し、追ひ出せば駆け入り、辰の刻の始めより午の刻の終りまで、火出づる程こそ戦ひけれ。
かやうに大手の軍強ければ、佐々木判官が手の者千余人、後ろへ廻つて、錦小路より在家を打ち破つて乱れ入る。多治見、今はこれまでとや思ひけん、中門に並み居て、二十二人の者ども、互にさし違へさし違へ、算を散らせる如く伏したりけり。追手の寄せ手どもが門を破りけるその間に、搦手の勢ども乱れ入り、首を取つて六波羅へ馳せかへる。二時ばかりの合戦に、手負ひ死人を数ふるに、二百七十三人なり。
資朝俊基関東下向の事 附 御告文の事
土岐、多治見討たれて後、君の御謀叛、次第に隠れなかりければ、東使{*2}長崎四郎左衛門泰光、南條次郎左衛門宗直二人、上洛して、五月十日、資朝、俊基両人を召し捕り奉る。土岐が討たれし時、生け虜りの者、一人もなかりしかば、白状はよもあらじ、さりとも我等が事は顕はれじと、はかなき頼みに油断して、かつてその用意もなかりければ、妻子、東西に逃げ迷ひて、身を隠さんずるに処なく、財宝は大路に引き散らされて、馬蹄の塵となりにけり。
かの資朝卿は、日野の一門にて、職大理を経、官中納言に至りしかば、君の御おぼえも他に異にして、家の繁昌、時を得たりき。俊基朝臣は、身、儒雅の下より出でて、望み、勲業の上に達せしかば、同官も肥馬の塵を望み、長者も残杯の冷に随ふ。宜なるかな、不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如しといへる事。これ、孔子の善言、魯論に記する処なれば、なじかは違ふべき。夢の中に楽しみ尽きて、眼前の悲しみ、ここに来れり。彼を見、これを聞きける人毎に、盛者必衰の理を知らでも袖をしぼりえず。
同じき二十七日、東使両人、資朝、俊基を具足し奉つて、鎌倉へ下著す。この人々は、殊更謀叛の張本なれば、やがて誅せられぬとおぼえしかども、倶に朝廷の近臣として才学優長の人たりしかば、世の譏り、君の御憤りを憚つて、嗷問の沙汰にも及ばず。唯尋常の放囚人の如くにて、侍所にぞ預け置かれける。
七月七日、今夜は牽牛織女の二星、烏鵲の橋を渡して一年の懐抱を解く夜なれば、宮人の風俗、竹竿に願ひの糸を懸け、庭前に嘉菓を列ねて、乞巧奠{*3}を修する夜なれども、世上騒がしき折節なれば、詩歌を奉る騒人もなく、絃管を調ぶる伶倫もなし。たまたま上臥したる月卿雲客も、何となく世の中の乱れ、又誰が身の上にか来らんずらんと、魂を消し肝を冷やす時分なれば、皆眉を顰め、面を垂れてぞ候ひける。
夜いたく更けて、「誰か候。」と召されければ、「吉田中納言冬房候。」とて御前に候す。主上{*4}、席を近づけて仰せ有りけるは、「資朝、俊基が囚はれし後、東風猶未だ静かならず、中夏常に危ふきを踏む。この上に又、如何なる沙汰をか致さんずらんと、叡慮、更に穏やかならず。如何して先づ東夷を静むべき謀りごとあらん{*5}。」と勅問ありければ、冬房、謹しんで申しけるは、「資朝、俊基が白状ありとも承り候はねば、武臣、この上の沙汰には及ばじと存じ候へども、近日東夷の振舞、楚忽の儀多く候へば、御油断あるまじきにて候。先づ告文一紙を下されて、相模入道{*6}が怒りを静め候はばや。」と申されければ、主上、げにもとや思し召されけん、「さらば、やがて冬房書け。」と仰せありければ、則ち御前にして草案をして、これを奏覧す。君、暫く叡覧あつて、御涙の告文にはらはらとかかりけるを、御袖にて押し拭はせ給へば、御前に候ひける老臣、皆悲啼を含まぬはなかりけり。やがて万里小路大納言宣房卿を勅使として、この告文を関東へ下さる。
相模入道、秋田城介を以て告文を請け取つて、則ち披見せんとしけるを、二階堂出羽入道道蘊、堅く諌めて申しけるは、「天子、武臣に対して直に告文を下されたる事、異国にも我が朝にも未だその例を承らず。然るを等閑に披見せられん事、冥見についてその恐れあり。唯文箱を披かずして、勅使に返し参らせらるべきか。」と、再往申しけるを、相模入道、「何か苦しかるべき。」とて、斎藤太郎左衛門利行に読み参らせさせられけるに、「叡心偽らざる処、天の照覧に任ず。」と遊ばされたる処を読みける時に、利行、俄にめくるめき、鼻血垂りければ、読みはてずして退出す。その日より喉の下に悪瘡出でて、七日の中に血を吐いて死にけり。時、澆季に及んで、道、塗炭に落ちぬといへども、君臣上下の礼違ふ時は、さすが仏神の罰もありけりと、これを聞きける人ごとに、懼ぢ恐れぬはなかりけり。
「いかさま、資朝、俊基の隠謀、叡慮より出でし事なれば、たとひ告文を下されたりといふとも、それに依るべからず。主上をば遠国へ遷し奉るべし。」と、初めは評定一決してけれども、勅使宣房卿の申されし趣、実にもとおぼゆる上{*7}、告文読みたりし利行、俄に血を吐いて死にたりけるに、諸人皆舌を巻き、口を閉づ。相模入道も、さすが天慮、その憚りありけるにや、「御治世の御事は、朝議に任せ奉る上は、武家いろひ申べきにあらず。」と、勅答を申して告文を返進せらる。宣房卿、則ち帰洛して、この由奏し申されけるにこそ、宸襟始めて解けて、群臣、色をば直されけれ。
さる程に俊基朝臣は、罪の疑はしきを軽んじて赦免せられ、資朝卿は、死罪一等を宥められて、佐渡国へぞ流されける。
校訂者注
1:底本頭注に、「〇地下人 土著の武士か。」「〇代官 守護の名代。」「〇本所 荘園。」「〇雑掌 支配人。」「〇荘家 荘園事務所。」「〇篝 警護の武士。辻々に屯して篝火を焚いて警戒した事より出づ。」「〇催さるゝ 召集せらるゝ。」とある。
2:底本頭注に、「〇君 後醍醐天皇。」「〇東使 鎌倉の使者。」とある。
3:底本は、「乞巧奠(きこうてん)」。底本頭注に、「七夕祭り。」とある。
4:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
5:底本頭注に、「〇東風 鎌倉の様子。」「〇中夏 帝都。」「〇叡慮 天子の御心。」「〇東夷 東方の蛮人。即ち鎌倉を卑しみていふ。」とある。
6:底本頭注に、「高時。」とある。
7:底本は、「覚ゆる上は、」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。
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