三人の僧徒関東下向の事

 同じき年六月八日、東使三人の僧達を具足し奉つて、関東に下向す。かの忠円僧正と申すは、浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断の登科、一山無双の碩学なり。文観僧正と申すは、元は播磨国法華寺の住侶たりしが、壮年の頃より醍醐寺に移住して、真言の大阿闍梨たりしかば、東寺の長者、醍醐の座主に補せられて、四種三密の棟梁たり。
 円観上人と申すは、元は山徒にておはしけるが、顕密両宗の才、一山に光あるかと疑はれ、智行兼備の誉れ、諸寺に人なきが如し。然れども、「久しく山門澆漓{*1}の風に随はば、上慢の幢高うして、遂に天魔の掌握の中に落ちぬべし。如かじ、公請論場の声誉を捨てて、高祖大師の旧規に帰らんには。」と、一度名利の轡を返して、永く寂寞の苔の扉を閉ぢ給ふ。初めの程は、西塔の黒谷といふ所に居を占めて、三衣を荷葉の秋の霜に重ね、一鉢を松華の朝の風に任せ給ひけるが、徳孤ならず必ず隣あり、大明、光を蔵さざりければ、遂に五代聖主の国師として、三聚浄戒の太祖たり。かかる有智高行の尊宿{*2}たりといへども、時の横災をば遁れ給はぬにや、又、前世の宿業にや依りけん、遠蛮の囚はれとなつて、逆旅の月にさすらひ給ふ。不思議なりし事どもなり。円観上人ばかりこそ、宗印、円照、道勝とて、如影随形の御弟子三人随逐して、輿の前後に供奉しけれ。その外文観僧正、忠円僧正には、相随ふ者一人もなくて、賤しげなる伝馬に乗せられて、見馴れぬ武士に打ち囲まれ、まだ夜深きに鳥がなく、東の旅に出で給ふ、心の中こそ哀れなれ。
 鎌倉までも下し著けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞こえしかば、彼処の宿に著きても、今や限り、この山に休めば、これや限りと、露の命のある程も、心は先に消えつべし。昨日も過ぎ、今日も暮れぬと行く程に、我とは急がぬ道なれど、日数つもれば、六月二十四日に鎌倉にこそ著きにけれ。円観上人をば佐介越前守、文観僧正をば佐介遠江守、忠円僧正をば足利讃岐守{*3}にぞ預けらる。
 両使帰参して、かの僧達の本尊の形、炉壇の様、画図に写して註進す。俗人の見知るべき事ならねば、佐々目の頼禅僧正を請じ奉りて、これを見せらるるに、「仔細なき調伏の法なり。」と申されければ、「さらば、この僧達を嗷問せよ。」とて、侍所に渡して、水火の責めをぞ致しける。文観房、暫しが程は、いかに問はれけれども落ち給はざりけるが、水問重なりければ、身も疲れ心も弱くなりけるにや、「勅定に依つて調伏の法行ひたりし條、仔細なし。」と白状せられけり。その後、忠円房を嗷問せんとす。この僧正、天性臆病の人にて、未だ責めざる先に、主上、山門を御語らひありし事、大塔宮の御振舞、俊基の隠謀なんど、有りもあらぬ事までも、残る所なく白状一巻に載せられたり。「この上は何の疑ひかあるべきなれども、同罪の人なれば、差し置くべきにあらず。円観上人をも明日問ひ奉るべし。」と評定ありける。
 その夜、相模入道の夢に、比叡山の東坂本より、猿ども二、三千群がり来つて、この上人を守護し奉る体にて並み居たりと見給ふ。夢の告げ、只事ならずと思はれければ、未明に預かり人のもとへ使者を遣はし、「上人嗷問の事、暫く差し置くべし。」と下知せらるる処に、預かり人遮つて、相模入道の方に来つて申しけるは、「上人嗷問の事、この暁、既にその沙汰を致し候はんために、上人の御方へ参つて候へば、燭を挑げて観法定座せられて候。その御影、後ろの障子に映つて、不動明王のかたちに見えさせ給ひ候ひつる間、驚き存じて、先づ事の仔細を申し入れんために、参りて候なり。」とぞ申しける。夢想といひ、示現といひ、ただ人にあらずとて、嗷問の沙汰を止められけり。
 同じき七月十三日に、三人の僧達、遠流の在所定まつて、文観僧正をば硫黄が島、忠円僧正をば越後国へ流さる。円観上人ばかりをば、遠流一等を宥めて、結城{*4}上野入道に預けられければ、奥州へ具足し奉り、長途の旅にさすらひ給ふ。左遷遠流といはぬばかりなり。遠蛮の外に遷されさせ給へば、これも唯同じ旅程の思ひにて、肇法師が刑戮の中に苦しみ、一行阿闍梨の火羅国に流されし水宿山行の悲しみも、かくやと思ひ知られたり。名取川を過ぎさせ給ふとて、上人、一首の歌を詠みたまふ。
  陸奥のうき名取川ながれ来て沈みやはてむ瀬々のうもれ木
時の天災をば、大権の聖者も遁れ給はざるにや。
 昔、天竺の波羅奈国に、戒定恵の三学を兼備し給へる一人の沙門おはしけり。一朝の国師として四海の依頼たりしかば、天下の人、帰依渇仰せる事、あたかも大聖世尊の出世成道の如くなり。或る時、その国の大王、法会を行ふべき事あつて、説戒の導師にこの沙門をぞ請ぜられける。沙門、即ち勅命に随つて鳳闕に参ぜらる。帝、折節、棋を遊ばされける砌へ、伝奏参つて、沙門参内の由を奏し申しけるを、遊ばしける棋に御心を入れられて、これを聞こし召されず。棋の手に附いて、「截れ。」と仰せられけるを、伝奏、聞き誤りて、この沙門を截れとの勅定ぞと心得て、禁門の外に出だし、則ち沙門の首を刎ねてげり。帝、棋を遊ばしはてて、沙門を御前へ召されければ、典獄の官、「勅定に随つて首を刎ねたり。」と申す。帝、大きに逆鱗ありて、「行死{*5}定まつて後三奏すといへり。然るを、一言の下に誤りを行うて、朕が不徳を重ぬ。罪、大逆に同じ。」とて、則ち伝奏を召し出だして、三族の罪に行はれけり。さて、この沙門、罪なくして死刑に逢ひ給ひぬる事、只事にあらず、前生の宿業にておはすらんと思し召されければ、帝、その故を阿羅漢に問ひ給ふ。阿羅漢、七日が間、定に入つて宿命通を得て過現を見給ふに、沙門の前生は、耕作を業とする田夫なり。帝の前生は、水にすむ蛙にてぞありける。この田夫、鋤を取つて春の山田を耕しける時、誤つて鋤の先にて蛙の頚をぞ切りたりける。この因果に依つて、田夫は沙門と生まれ、蛙は波羅奈国の大王と生まれ、誤つて又死罪を行はれけるこそ哀れなれ。
 されば、この上人{*6}も、如何なる修因感果の理に依るか、かかる不慮の罪に沈みたまひぬらん、と。不思議なりしことどもなり。

俊基朝臣再び関東下向の事

 俊基朝臣は、先年、土岐十郎頼貞が討たれし後、召し捕られて、鎌倉まで下り給ひしかども、様々に陳じ申されし趣、げにもとて、赦免せられたりけるが、又今度の白状どもに、専ら隠謀の企て、かの朝臣にありと載せたりければ、七月十一日に、又六波羅へ召し捕られて、関東へ送られ給ふ。再犯赦さざるは、法令の定むる所なれば、何と陳ずるとも許されじ、路次にて失はるるか、鎌倉にて斬らるるか、二つの間をば離れじと、思ひ儲けてぞ出でられける。
 落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の桜がり、紅葉の錦を著て帰る、嵐の山の秋の暮、一夜を明かすほどだにも、旅宿となれば物憂きに、恩愛のちぎり浅からぬ、わが故郷の妻子をば、行くへも知らず思ひ置き、年久しくも住み馴れし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思はぬ旅に出で給ふ、心の中ぞ哀れなる。憂きをば留めぬ相坂の{*7}、関の清水に袖濡れて、末は山路を打出の浜、沖を遥かに見渡せば、塩ならぬ海にこがれ行く、身を浮舟の浮き沈み、駒もとどろと踏み鳴らす、勢多の長橋打ち渡り、行きかふ人に近江路や、世のうねの野に鳴く鶴も{*8}、子を思ふかと哀れなり。時雨もいたく森山の、木の下露に袖ぬれて、風に露散る篠原や、篠分くる道を過ぎ行けば、鏡の山はありとても、涙に曇りて見えわかず。物を思へば夜の間にも、老蘇の森の下草に、駒を止めて顧みる、古郷を雲や隔つらん。番馬、醒井、柏原、不破の関屋は荒れ果てて、猶もる物は秋の雨の、いつか我が身の尾張なる{*9}、熱田の八剣伏し拝み、潮干に今や鳴海潟、傾く月に道見えて、明けぬ暮れぬと行く道の、末はいづくと遠江、浜名の橋の夕潮に、引く人もなき捨て小舟、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀れと夕暮の、晩鐘鳴れば今はとて、池田の宿に著き給ふ。
 元暦元年の頃かとよ、重衡{*10}中将の、東夷のために囚はれて、この宿に著き給ひしに、
  東路の丹生の小屋のいぶせきに故郷いかに恋しかるらむ
と、長者の女が詠みたりし、その古の哀れまでも、思ひ残さぬ涙なり。旅館の灯幽かにして、鶏鳴暁を催せば、匹馬風に嘶えて、天竜河を打ち渡り、小夜の中山越え行けば、白雲路を埋み来て、そことも知らぬ夕暮に、家郷の天を望みても、昔、西行法師が、「命なりけり。」と詠じつつ、二度越えし跡までも、羨ましくぞ思はれける。隙行く駒の足はやみ、日已に亭午に昇れば、餉参らする程とて、輿を庭前に舁き止む。
 轅を叩いて警固の武士を近づけ、宿の名を問ひ給ふに、「菊川と申すなり。」と答へければ、承久の合戦の時、院宣書きたりし咎に依つて、光親卿、関東へ召し下されしが、この宿にて誅せられし時、
  昔は南陽県菊の水  下流を汲んで齢を延ぶ
  今は東海道の菊河  西岸に宿つて命を終ふ
と書きたりし、遠き昔の筆の跡、今は我が身の上になり、あはれやいとどまさりけん、一首の歌を詠じて、宿の柱にぞ書かれける。
  いにしへもかかるためしをきく川のおなじ流に身をやしづめむ
 大井河を過ぎ給へば、都にありし名を聞きて、亀山殿の行幸の、嵐の山の花ざかり、竜頭鷁首の船に乗り、詩歌管絃の宴に侍りしことも、今は二度見ぬ夜の夢となりぬと思ひつづけ給ふ。島田、藤枝に懸かりて、岡辺の真葛裏枯れて、物悲しき夕暮に、宇都の山辺を越え行けば、蔦楓いと茂りて道もなし。昔、業平の中将の、住家を求むとて東の方に下るとて、「夢にも人に逢はぬなりけり。」と詠みたりしも、かくやと思ひ知られたり。清見潟を過ぎ給へば、都に帰る夢をさへ、通さぬ波の関守に、いとど涙を催され、向ひはいづこ三穂が崎、奥津、神原打ち過ぎて、富士の高峯を見給へば、雪の中より立つ煙、上なき思ひに比べつつ、明くる霞に松見えて、浮島が原を過ぎ行けば、潮干や浅き船浮きて、おりたつ田子のみづからも、浮世を遶る車返し、竹の下道行きなやむ、足柄山の巓より、大磯小磯みおろして、袖にも波はこゆるぎの、急ぐとしもはなけれども{*11}、日数つもれば七月二十六日の暮程に、鎌倉にこそ著き給ひけれ。
 その日やがて、南條左衛門高直、請け取り奉りて、諏訪左衛門に預けらる。一間なる処に蜘手厳しく結うて、押し篭め奉るありさま、只地獄の罪人の十王の庁に渡されて、頚枷手杻を入れられ、罪の軽重を糺すらんも、かくやと思ひ知られたり。

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校訂者注
 1:底本は、「澆漓(げうり)」。底本頭注に、「末世。」とある。
 2:底本頭注に、「尊い宿徳の僧。」とある。
 3:底本頭注に、「尊氏の父。」とある。
 4:底本頭注に、「宗広。」とある。
 5:底本頭注に、「死罪に処す。」とある。
 6:底本頭注に、「円観。」とある。
 7:底本頭注に、「関は名ばかりで心の憂きことは止まぬ。」とある。
 8:底本頭注に、「〇うねの野 うねの野に憂きを云ひ懸く。」とある。
 9:底本頭注に、「〇もる物 関を守る者と洩る物とを懸く。」「〇我が身云々 身の終りと美濃尾張と言ひ懸く。」とある。
 10:底本頭注に、「平清盛の子。」とある。
 11:底本頭注に、「越ゆる…急ぐを相模国の小余綾の磯に懸く。」とある。