俊基誅せらるる事 並{*1} 助光が事

 俊基朝臣は、殊更{*2}謀叛の張本なれば、遠国に流すまでもあるべからず。近日に鎌倉中にて斬り奉るべし、とぞ定められける。この人、多年の所願あつて、法華経を六百部自ら読誦し奉るが、今二百部残りけるを、「六百部に満つるほどの命を相待たれ候ひて、その後、ともかくもなされ候へ。」と、頻りに所望ありければ、「げにも、それ程の大願を果たさせ奉らざらんも、罪なり。」とて、今二百部の終はる程、僅かの日数を待ち暮らす、命の程こそ哀れなれ。
 この朝臣の多年召し使ひける青侍に、後藤左衛門尉助光といふ者あり。主の俊基、召し捕られ給ひし後、北の方に附き参らせ、嵯峨の奥に忍びて候ひけるが、俊基、関東へ召し下され給ふ由を聞き給ひて、北の方は、堪へぬ思ひに伏し沈みて、歎き悲しみ給ひけるを見奉るに、悲しみに堪へずして、北の方の御文を賜はりて、助光、忍びて鎌倉へぞ下りける。今日明日の程と聞こえしかば、今は早斬られもやし給ひつらんと、行き逢ふ人に事のよしを問ひ問ひ、程なく鎌倉にこそ著きにけれ。
 右少弁俊基のおはするあたりに宿を借りて、いかなる便りもがな、事の仔細を申し入れん、と伺ひけれども、叶はずして日を過ごしける処に、「今日こそ京都よりの囚人は、斬はれ給ふべきなれ。あな、哀れや。」なんど沙汰しければ、助光、こは如何せんと肝を消し、ここかしこに立ちて見聞しければ、俊基、已に張輿に乗せられて、粧坂へ出で給ふ。ここにて工藤二郎左衛門尉請け取りて、葛原岡に大幕引いて、敷皮の上に坐し給へり。これを見ける助光が心の中、譬へていはん方もなし。
 目くれ足もなえて、絶え入るばかりに有りけれども、泣く泣く工藤殿が前に進み出でて、「これは、右少弁殿の伺候の者にて候が、最後の様見奉り候はんために、遥々と参り候。然るべくは、御免を蒙りて御前に参り、北の方の御文をも見参に入れ候はん。」と申しもあへず、涙をはらはらと流しければ、工藤も、見るに哀れを催されて、不覚の涙せきあへず。「仔細候まじ。早幕の内へ御参り候へ。」とぞ許しける。助光、幕の内に入つて、御前に跪く。
 俊基は、助光を打ち見て、「いかにや。」とばかり宣ひて、やがて涙に咽び給ふ。助光も、「北の方の御文にて候。」とて、御前に差し置きたるばかりにて、これも涙にくれて、顔をも擡げず泣き居たり。やや暫くあつて、俊基、涙を押し拭ひ、文を見たまへば、「消えかかる露の身の、置き所なきにつけても、如何なる暮にか、なき世の別れと承り候はんずらんと、心を砕く涙のほど、御推し量りも尚浅くなん。」と、詞に余つて思ひの色深く、黒み過ぐるまで書かれたり。俊基、いとど涙にくれて、読みかね給へる気色、見る人、袖をぬらさぬはなかりけり。「硯やある。」と宣へば、矢立を御前にさし置けば、硯の中なる小刀にて、鬢の髪を少し押し切つて、北の方の文に巻きそへ、引き返し一筆書いて、助光が手に渡し給へば、助光、懐に入れて泣き沈みたる有様、理にも過ぎて哀れなり。
 工藤左衛門、幕の内に入つて、「余りに時の移り候。」と勧むれば、俊基、畳紙を取り出だし、頚のまはり押し拭ひ、その紙を押し披いて、辞世の頌を書き給ふ。
  {*k}古来一句  無死無生  万里雲尽  長江水清{*k}
筆を差し置きて、鬢の髪をなで給ふ程こそあれ、太刀かげ後ろに光れば、首は前に落ちけるを、自ら抱へて伏し給ふ。これを見奉る助光が心の中、譬へていはん方もなし。さて、泣く泣く死骸を葬し奉り、空しき遺骨を頚に懸け、形見の御文身に副へて、泣く泣く京へぞ上りける。
 北の方は、助光を待ちつけて、弁殿{*3}の行方を聞かん事の嬉しさに、人目も憚らず、簾より外に出で迎ひ、「いかにや。弁殿は、いつごろに御上りあるべしとの御返事ぞ。」と問ひ給へば、助光、はらはらと涙をこぼして、「はや斬られさせ給ひて候。これこそ今はの際の御返事にて候へ。」とて、鬢の髪と消息とをさしあげて、声も惜しまず泣きければ、北の方は、形見の文と白骨を見給ひて、内へも入り給はず縁に倒れ伏し、消え入り給ひぬと、驚く程に見え給ふ。
 理なるかな、一樹の蔭に宿り、一河の流れを汲む程も、知られず知らぬ人にだに、別れとなれば名残を惜しむ習ひなるに、況んや連理の契り浅からずして、十年余りになりぬるに、夢より外は又も相見ぬこの世の外の別れと聞きて、絶え入り悲しみ給ふぞ理なる。
 四十九日と申すに、形の如くの仏事{*4}営みて、北の方、様をかへ、濃き墨染に身をやつし、柴の扉の明け暮れは、亡夫の菩提をぞ弔ひ給ひける。助光も、髻切つて、永く高野山に閉ぢ篭りて、ひとへに亡君の後生菩提をぞ弔ひ奉りける。夫婦の契り、君臣の義、なきあとまでも留まりて、哀れなりしことどもなり。

天下怪異の事

 嘉暦二年の春の頃、南都大乗院禅師房と六方{*5}の大衆と、確執の事あつて合戦に及び、金堂、講堂、南円堂、西金堂、忽ちに兵火の余煙に焼け失せぬ。又、元弘元年、山門東塔の北谷より兵火出で来て、四王院、延命院、大講堂、法華堂、常行堂、一時に灰燼となりぬ。これ等をこそ、天下の災難をかねて知らする処の前相かと、人皆魂を冷やしけるに、同じき年の七月三日、大地震あつて、紀伊国千里浜の遠干潟、俄に陸地になる事、二十余町なり。又、同じき七日の酉の刻に地震あつて、富士の絶頂崩るること、数百丈なり。卜部の宿祢、大亀を焼いて占ひ、陰陽博士、占文を啓いて見るに、「国王、位を易へ、大臣、災ひに遭ふ。」とあり。「勘文の表、穏やかならず。最も御慎しみ有るべし。」と密奏す。寺々の火災、所々の地震、只事にあらず。今や不思議出で来ると、人々、心を驚かしける処に、果たしてその年の八月二十二日、東使{*6}両人、三千余騎にて上洛すと聞こえしかば、何事とは知らず、京に又、如何なる事やあらんずらんと、近国の軍勢、我も我もと馳せ集まる。京中何となく、以ての外に騒動す。
 両使、已に京著して、未だ文箱をも開かぬ先に、何とかして聞こえけん、「今度東使の上洛は、主上{*7}を遠国へ遷し参らせ、大塔宮を死罪に行ひ奉らんためなり。」と、山門に披露ありければ、八月二十四日の夜に入つて、大塔宮よりひそかに御使を以て、主上へ申させ給ひけるは、「今度東使上洛の事、内々承り候へば、皇居を遠国へ遷し奉り、尊雲{*8}を死罪に行はんためにて候なる。今夜、急ぎ南都の方へ御忍び候べし。城郭未だ整はず、官軍馳せ参ぜざる先に、兇徒、もし皇居に寄せ来らば、御方、防ぎ戦ふに、利を失ひ候はんか。且は、京都の敵を遮り止めんがため、又は、衆徒の心を見んがために、近臣を一人、天子の号を許されて山門へ上せられ、臨幸の由を披露候はば、敵軍、定めて叡山に向つて合戦を致し候はんか。さる程ならば、衆徒、吾が山を思ふ故に、防ぎ戦ふに身命を軽んじ候べし。兇徒、力疲れ、合戦数日に及ばば、伊賀、伊勢、大和、河内の官軍を以て、かへつて京都を攻められんに、兇徒の誅戮、踵を旋らすべからず。国家の安危、唯この一挙にあるべく候なり。」と申されたりける間、主上、只あきれさせ給へるばかりにて、何の御沙汰にも及び給はず。
 尹大納言師賢、万里小路中納言藤房、同舎弟季房、三、四人上臥したるを御前に召されて、「この事、如何かあるべし。」と仰せ出だされければ、藤房卿、進みて申されけるは、「逆臣、君を犯し奉らんとする時、暫くその難を避けて、還つて国家を保つは、前蹤、皆佳例にて候。所謂、重耳は翟に奔り、大王、豳に行く{*9}。共に王業をなして、子孫、無窮に光を輝かし候ひき。とかくの御思案に及び候はば、夜も更け候ひなん。早御忍び候へ。」とて、御車を差し寄せ、三種の神器を乗せ奉り、下簾より出だし絹を出して、女房車の体に見せ、主上を助け乗せまゐらせて、陽明門より成し奉る。
 御門守護の武士ども、御車を押さへて、「誰にて御渡り候ぞ。」と問ひ申しければ、藤房、季房二人、御車に随つて供奉したりけるが、「これは、中宮の、夜に紛れて北山殿へ行啓ならせ給ふぞ。」と宣ひたりければ、「さては仔細候はじ。」とて、御車をぞ通しける。かねて用意やしたりけん、源中納言具行、按察大納言公敏、六條少将忠顕、三條河原にて追ひつき奉る。ここより御車をば止められ、賤しげなる張輿に召し替へさせ参らせたれども、俄の事にて駕輿丁もなかりければ、大膳大夫重康、楽人豊原兼秋、随身秦久武なんどぞ、御輿をば舁き奉りける。供奉の諸卿、皆衣冠をぬいで、折烏帽子に直垂を著し、七大寺詣する京家の青侍なんどの、女性を具足したる体に見せて、御輿の前後にぞ供奉したりける。
 古津の石地蔵を過ぎさせ給ひける時、夜は早、ほのぼのと明けにけり。此処にて朝餉の供御を進め申して、先づ南都の東南院へ入らせ給ふ。かの僧正、元より弐心なく忠義を存ぜしかば、先づ臨幸なりたるをば披露せで、衆徒の心を伺ひ聞くに、西室顕実僧正は、関東の一族にて、権勢の門主たる間、皆その威にや恐れたりけん、与力する衆徒もなかりけり。かくては南都の皇居叶ふまじとて、翌日二十六日、和束の鷲峯山へ入らせ給ふ。ここは又、あまりに山深く里遠うして、何事の計略も叶ふまじき処なれば、要害に御陣を召さるべしとて、同じき二十七日、潜幸の儀式を引きつくろひ、南都の衆徒少々召し具せられて、笠置の石室へ臨幸なる。

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校訂者注
 1:底本は、「附」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 2:底本は、「殊更(ことさら)に」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。
 3:底本頭注に、「右少弁俊基。」とある。
 4:底本は、「形の如く仏事(ぶつじ)」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 5:底本頭注に、「興福寺の六方の末寺。乾、艮、巽、坤、竜華院、菩提院の六。」とある。
 6:底本頭注に、「鎌倉の使者。」とある。
 7:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
 8:底本頭注に、「大塔宮の御自称。」とある。
 9:底本頭注に、「〇重耳 晋の献公の子で讒言により出奔したが後覇者となる。」「〇大王 周の古公亶父は民を思ひ戦を避けたが後大王となる。」とある。
 k:底本、この間は漢文。